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カテ違いでしたらすみません。
僕は高校3年生の男子です。
小学校5~6年のころから吃音症があります。
原因はわからず、努力しましたが改善もできていません。
最近、姜尚中(カンサンジュン)氏の「悩む力」という本を読んでいると
次のような記述がありました。
 「私は、自分がどんな存在として生まれてきたのかを詮索するようになっていたのです。
しかしそうすると、自分の人生は重いものにならざるをえないように思えて、暗い気持ちになってしまいました。
そして、『吃音』という状態に陥ってしまいました。
母音で始まることばが出なくなり、朗読などをさせられると、立ち往生してしまい、途方に暮れてしまったのです。そのときの気分を、いまでもときどき思い出す事があります。ちょうど水に潜って、水面が上のほうに見えているような感じです。水面が見えているのにどうしても浮かび上がっていけず、息が苦しくてしかたがない、そんな息が詰まる感じです。
 「自我に目覚めてからは内省的で人見知りをする人間になってしまいました。」
下から一行目の文の「自我」という言葉ですが、辞書で調べてみても釈然としません。自我とはアイデンティティのようなものでしょうか?
僕は自分が他人からどう見られているのかが非常に気になります。
また、他人に否定されたりして、自分が傷つくのをいつも恐れているような気がします。もしかすると、このような気持ちの持ち方が吃音の原因ではないかと思い始めました。(小学校5~6年になる前は自分がどう見られているかなど意識したこともなかったと思います)
僕の知っている人は、誰かに理不尽な批判をされても軽く聞き流しています。全く気にしていないようです。どうしてそんなに寛容になれるのでしょうか。皆さんのアドバイスをお待ちしています。

A 回答 (5件)

 こんにちは。



 《自我》について述べます。
 基本的に言って 《わたし》の人間としての存在の全体を言っているとは思えません。
 ひとつに 《いま・ここなる〈わたし〉》を一たん離れて 当然のことでしょうが その人間の存在のあり方を概念化しています。
 もうひとつに 全体としての《わたし》の内の理性の部分に焦点を当てて言っています。もしくは この理性の積極的な部分であり これを悪くいえば攻撃的な部分です。
 要するに 人びとのあいだで あいつとおれとは違うようだなと思えば それは《自我》ですし。さらには 人が自分のことをちょっとしたことで嘲笑ったというように感じたとするとき 何を!という気持ちが起こるとしたなら その気持ちを理性にも含めて 自我と言っています。

 このように《自我》としておのれの存在を捉えた《わたし》は おそらくわたしの人格のすべてではないでしょう。平静な気持ちもあれば 人との間に友好の心つもりも持ち合わせているからです。
 つまり その限りでは 《わたし》は 《わたし》なのです。人間と言うのは それぞれ《わたし》なのです。これが 一応 全体を表わす言葉であるでしょう。その中に感性もあれば理性もあります。怒りをあらわにするときもあれば やわらいだ心でいるときもあります。

 ですから 自我を持ち出すときには この自我のゆがみや行き過ぎに対しては 別に《超自我》というはたらきが《わたし》の中にあって――それも 理性なのでしょうが―― その自我を諫めたり抑制したりすると説かれます。

 結論に飛びますが もしこのような部分的なわたしとしての自我で このわたしの存在を表わすとするのならば それは 当然のごとく その自我による反応や相手への応答は 片寄ったものになるのではないでしょうか?
 いやいや そのときには 超自我によって自我を抑え おとなしく振る舞うと言っても・そのように反論が返ってきたとしても こんどはその超自我も わたしの一部分であるに過ぎません。自我と超自我とでそのような使い分けを繰り返すなら やはり当然のごとく 《わたし》は分割され分裂さえしてしまいかねません。

 でも この資本主義の社会にあっては 利潤を上げなければ生きていけない部分もありますから 人びとは その観念が強ければ強いほど 自我や超自我という部分要素によって《わたし》の自己表現に代えてしまいがちです。

 かくて この《自我と超自我》をうまく使い分けする場合が 一般に現代社会の勝ち組となります。そんな《わたし》の分断による行動はおかしいぢゃないかと考える場合には 負けないとしても置いてけぼりにされるでしょうね。
 そのときには――わたしは専門的に言えるのではないですが―― 吃音なり何なりの差しさわりを みづからに 殊勝にも引き受ける場合も出て来ます。それは ちょうど 《自我と超自我の使い分け》が社会からすっ飛んでいるぶんだけ 内向的になるというものではないでしょうか? いわば 後者の場合は 前者の《わたし》の振る舞いに対して《アース役》になっている。こういうことではないでしょうか?

 こう解釈したときに いちばんよく理解できると思うのですが さてどうでしょう?
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鈍感力。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/02/26 16:14

 


他のサイトを紹介するのは、どうかと思いますが、
ここのサイトは、神経症を体験して、克服した人が運営しているサイトです。
良いアドバイスがもらえると思います。
一度、質問してはいかがですか?

http://www.jinseimondainokaiketsu.com/
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/02/26 16:13

「自我」というのを、「自意識」に換言すれば、


「自意識過剰」といういい言葉があります。
子供の反射的・衝動的に行動する状態から、
自意識が発生する段階で、過度に他人の評価に
依存すると、真の「自己の客観視」ができず、
他人の評価が気になり過ぎ、コミュニケーション
において過緊張を起こしてしまう、ていう。

もっと世界を広くするのが一番なんですけどね、
身の回りのものなど些細なことだという意識が。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/02/26 16:13

「正しい日本語かどうか」より「伝えやすい言葉かどうか」



のほうが~はるかに重要ゆえに~伝えやすく創っちゃえば
イイんです☆発音をッ オレも自作の単語よく使ってますし
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/02/26 16:11

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