ギリギリ行けるお一人様のライン

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

A 回答 (28件中21~28件)

私の受け止め方。



 仏教で云う“無い”或いは“無”と云うのは有る、無い、の事ではなく変化してしまう事を指しているんです。
 この世に存在する物は変化そのものであると。
 変わらずにあり続ける物など何もない事を“無”或いは実体がない、と表現したんです。

 実体とは変化せずにあり続けるものの事。それはこの宇宙。
 この宇宙の存在には、始まりと云う事はなく終りと云うこともない、と云ったのが彼の悟り人、釈尊です。

 釈尊は心身共に修行を通して悟りの世界(宇宙的精神)に没入し、そして宇宙の本体(精神)を実感・体感してこの事を知ったんでしょう。

 いわゆるビックバンとかも、この宇宙内の現象に過ぎないのです。

 また霊魂とは、例えれば芝生の根のようなものではないでしょうか。
 芝生は暖かになれば地上に芽を出し生い茂り、寒くなれば枯れてしまいますが、地下の根は生き続けます。

 地球に生命が誕生する前に霊魂と云うものはなかったと想像しています。
 生命の誕生と共に霊魂も現れ、高等動物にあってはそれが顕著となり、人間によって個性さえ現れるようになったようです。

 でも霊魂は“私”ではないんです。
 いわば芝生の根っこ、命の種。

 人間がこの世に生まれると云う事は、命の種が芽を出すと云う事。
 この育つ芽が“私”となるんです。

 “私”は心身共に成長し、そして衰退し、消えて無くなりますがその種は消えずに宇宙の精神に漂うのでしょう。衆生、凡人、の種は皆こうして成仏する事無く「輪廻転生」するんです。

 たぶん、霊魂の正体は“業”。
 業の強弱が霊魂の存在にメリハリを付けます。
 
 釈尊はその“業”を消したので、成仏しました。
 

 
 

この回答への補足

とても深いご解説、ありがとうございます。
ただ、もう少し、私なりに、十分に考えて、もし、質問させていただきたいことがあれば、お礼の欄を使って質問させていただこうと思いますので、お礼の投稿は、いま少し、お待ち下さい。

補足日時:2014/12/31 11:02
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一口に仏教と言っても多数の宗派があり、その宗派ごとで考えは全く違います。


輪廻転生はほんとにあると考えている宗派、輪廻転生は実際はないと思ってるけど一般大衆に教えを解く時に分かりやすくするためにあえて輪廻転生があるよと言ってる宗派、輪廻転生を全く考慮していない宗派、などなどです。

質問者さんはそれを理解せずにいっしょくたに考えているから矛盾しているように感じるのではないでしょうか。

この回答への補足

では、輪廻転生はほんとにあると考えている宗派では、我はあると言っているのでしょうか、それとも我はないと言っているのでしょうか?

もし、輪廻転生はほんとにあると考えている宗派で「我はない」と言うなら、私の質問は立派に成立するのではないでしょうか?

補足日時:2014/12/30 12:39
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私が以前、



仏教で心の場所はいつから脳になった?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8842931.html

で質問したことがあったのですが、
すっかり、脳の話になっているようですから
仏典がどうとか語義解釈がどうとかより
脳の問題のようです。

それからその質問の中で頂いた回答で
説一切有部の「無間滅の意」とかは

私は「心相続」で覚えていましたので
なんですが、

非連続の連続とかいう話になるようです。
ようするに点滅しているらしい。
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まず、仏教と言ってますがどれ?


その本から教えてください。
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 こんにちは。



 《われ》は 漠然とした表現では ふつうに《いま・ここなるわたし》をも言いますが 基本としては 《霊魂としてのわれ》です。

 すなわち アートマン(霊我)のことです。




 そもそもブラフマ二ズムが社会の通念として持たれていましたから ゴータマ氏は このシュウキョウに異をとなえました。

 おそらくそのブラフマ二ズムによる身分制に反対したからだと思われます。人間は 生まれによって決まるのではなくおこない(カルマ・業)によってだと言おうとしたのでしょう。

 それにつれて 世界の主宰神であるブラフマンを否定します。つまり 何ものにも依存せずひとり満ち足りている存在(実体)・すなわち神なる霊(霊なる神) これは無いのだと唱えます。

 ブラフマ二ズムでは 梵我一如として ブラフマン神は ひとの内なる霊としてのアートマンと一体であるというわけですから このアートマンをも否定します。すなわち アン‐アートマン(無‐我)説です。



 その自分の説く・人のあり方としての境地(ブッダ)に到れば もはや転生することはないとも言ったようです。

 もっとも 輪廻転生は もし DNA が同じ人間は自分よりほかにいないとすれば あり得ません。

 そんな感じでしょうか。
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仏教では霊ということについては述べていないと思います。



さて、本件ですが、「我れ」は実体がないとして、それがために「輪廻転生」もないといえるのでしょうか?

次元を下げて、たとえば自分とその影というモデルでは、自分は現にここにいるが影は実体がないという2次元と3次元の関係では、影が実体がないから自分もないといえるでしょうか?

つまり、「(我れの)輪廻転生」というのは事象でしかなく、「(実体のない)影が動く」というのと次元違いであっても同じことだと思うのです。
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仏教にかぎらずどんな宗教にも矛盾はあると思う



ただどんなに矛盾した内容であっても、仏の教え・神の啓示は絶対であるという前提の前では矛盾は矛盾でなくなる

>私の理解が不十分なのだろうとも思います。

理解が不十分なのではなく、信心が足りていない?

そもそも輪廻転生など立証されていない内容を論理的に考察すること自体に矛盾が
全世界に自称クレオパトラの生まれ変わりが一体何人居るのだろうか
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その前後が判らないから詳細は判らないが この場合の「我れ」とは自分を含めとかと同じに感じる



つまり「我々」となるって事

「私」と書いてる部分は 文字通り自身・・

この回答への補足

「我れ、私」は、いずれも第一人称のつもりで書きました。
つまり、我れ=我=私 です。

それと、私の質問は、仏教の本を何冊か読んできての総括的な印象で書いていますので、具体的な文章からこのような質問をしたのではないので、別に何らかの前後関係があるわけではありません。

補足日時:2014/12/30 10:58
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