アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

A 回答 (28件中11~20件)

~~~~~~~~~~~~~~



犢子部(とくしぶ、梵: Vātsīputrīya , ヴァートシープトリーヤ)は、釈迦の没後300年頃に分派した、部派仏教の一派である。上座部系の説一切有部から分派した。

この派は、輪廻の主体としての人格的主体である「補特伽羅」(ほとがら、梵: Pudgala , プドガラ)を、五薀のほかに想定したことが特徴である。その理由は、生命とは五薀の仮和合(けわごう)によって構成された仮の存在で実体を持たない(無我)という説と、人間が死んだ後に輪廻するという、二つの説を説明するためであると考えられる。

「主体が存在しない輪廻」の理解に苦しんだ後代の仏教徒が、無我説と輪廻説をつなぎ合わせるために、苦肉の策として、無自性である五蘊の他に、死後も存続する「補特伽羅」を想定した。この説は、輪廻に主体を想定するため、「補特伽羅」という名称で常住の主体(アートマン)を認めることになる。結果、常住論に陥るため、理論上、輪廻の解脱を語ることができなくなってしまう。

犢子部
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%A2%E5%AD%90% …

~~~~~~~~~~~~~~

ナーガールジュナはプドガラ論者!?
http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-1569.html

~~~~~~~~~~~~~~

アートマンを否定しても輪廻をどうするか
仏教徒はいつも悩んでいたようです。

プドガラとかなんなのという話ですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>「主体が存在しない輪廻」の理解に苦しんだ後代の仏教徒

やはり、昔の人も、すでにこの矛盾に苦しんでいたのですね。
で、プドガラなるものを持ち込んだが、これでもうまく行かなかったということですか!

なかなか、難しいですね。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:07

輪廻する主体は業異熟であると聞いたことがあります。

我は心的機能の内の一つであって、輪廻するものではないのかもしれません。
問題は業異熟が何か、ということですが、私の見解では、(これは推測であり確かでは無い)行為の結果、というものと考えられます。行為の結果としてカルマ、つまり業を生じて、それが別の形で熟して生まれの素因となる、というくらいの意味です。善業を重ねれば善い生まれを持ち、悪行を重ねれば悪いうまれを持ち、悪行をなさず禍福の因を積まなければ生まれの素因を持たない、こんな感じではなかろうかと推測しています。
別の形というのは、つまり別の生命という意味なのか、或いは、別の形態、つまり、なした行為の報いが、なした行為そのままに帰ってくるのでは無く、別の形をとって帰ってくる、という意味なのか。
なんにせよ私には簡単に解釈出来ないです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
一つのヒントとして、よく考えて見ます。

お礼日時:2015/01/03 11:39

まず、舌足らずで無知を代表する文言を引用しよう。



私が知る仏教では「輪廻転生」はありません。あの世も地獄も極楽もありません。釈尊は死後のことは述べていません。物事には原因と結果があるだけです。

こんな事つぶやいた筆者は実に間抜けだ。
釈迦自身は、涅槃にたどりつき、その謎の世界で安住すると言ったのは事実だろう。
しかし彼の弟子たちは、すなわち後世の仏教とは、執着により、死後も生きつずけるのを望んだのだ。
そのかわいい弟子たちの、望みに答えた釈迦は、、私は涅槃に行くが、君達はその望みの通り六道輪廻をめぐり、自らを失ったはるかな後、涅槃にたどりつく。
それまでは苦に溺れ続ける。
このように慈悲心で彼らの望みに答えたのだ。
それをありがたく信じた仏教とだからこそ、生の後、死に至り、涅槃に入滅するまでは、、死を繰り返す。
死を理解できない仏教とは、理解できるまで死にっぱなしで、釈迦の心を知らぬまま生きたつもりでいる。
その姿は、生きる屍、蠢く死体、現代語でゾンビだ。
私に言わせれば、釈迦和無責任で、その借金のつけを完済するのは弥勒菩薩商法を展開する私だ。
釈迦は救ってなどいなかったのだ。
君達に滅びを実感させる死神が私だ。
待ち望んだ入滅だ。
君が滅亡戦争の最前線で戦いたいと言うならば、私がスレッドを立ち上げた時に率先してパンツ脱げ。
その命乞いを、偽物なのだと教えてやろう。
    • good
    • 0

>「輪廻」と「輪廻転生」は違うんですか?



「輪廻」と「輪廻転生」は違うんですよ。

輪廻転生には転生が含まれますが、輪廻には転生が含まれません。

Wikipediaの記述にも色いろいろな解釈がある様で、一部だけを取り上げるのは良くないと気付きました。
しかし、前回の回答で私が引用したので、引用した場所だけをお知らせしておきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93


P.S.
貴方は、もし、仏教の教えに輪廻転生があったとして、そのようなバカげた教えを尊重しますか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございました。

ご指摘のくだりは「六道」のページだったのですね。
私は、「輪廻転生」、「輪廻」などでWikipediaを見たので、ご指摘の文章を発見できずに、失礼致しました。

「六道」は、死後に赴く場所ではなく心の状態を言う、のですか、・・・。なるほど。

>P.S.
貴方は、もし、仏教の教えに輪廻転生があったとして、そのようなバカげた教えを尊重しますか?
⇒尊重する訳ではありませんが、そう言われると、本当かなあと、少し心配にはなります。
それよりも、輪廻を説きながら、輪廻の主体となるべき「我」がない、ということが矛盾しているように感じるので、そこの所を知りたかったわけです。

お礼日時:2015/01/01 09:06

>仏教の解説書や仏教サイトなどを読んでいると、輪廻転生の考えが出てきていたように思うのですが、・・・。



ひょっとして「輪廻」と「輪廻転生」を混同されているかもしれません。

輪廻転生は仏教にはありませんが、輪廻は仏教の教えに出てきますよ。

====以下、Wikipediaからの引用です。====
仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。
=====

仏教では、心の持ちようで、生きている間に
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
という六つの世界を感じることができるとされています(六道)

この回答への補足

「輪廻」と「輪廻転生」は違うんですか?

Wikipedia「輪廻転生」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB% …
には、「輪廻転生(りんねてんせい、りんねてんしょう)」とは、
1.輪廻のこと。
2.転生のこと。
3.1と2をあわせた言い方。」とあり、同じと考える考え方もあるようですよ。

また、Wikipedia「輪廻」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB# …
を見たのですが、ご指摘の文章は見つかりませんでした。
どこに貴方のご指摘の文章はあるのでしょうか?

補足日時:2014/12/31 16:40
    • good
    • 0

まあ、いいじゃないか。


もう疑問に思っても死刑にされたりしない時代だ。
それだけを喜んで、もんもんしたまえ。
    • good
    • 0

私が知る仏教では「輪廻転生」はありません。

あの世も地獄も極楽もありません。釈尊は死後のことは述べていません。物事には原因と結果があるだけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>私が知る仏教では「輪廻転生」はありません。あの世も地獄も極楽もありません。釈尊は死後のことは述べていません。

立て続けに、仏教には「輪廻転生」はないとの回答を戴いたので、これまでの私の勉強が間違っていたのかと思って、とりあえず、手元にある仏教研究の第一人者である中村元氏の著書「老いと死を語る」を読み返してみました。

その64頁に、「仏教では、輪廻ということを説きます。」とあり、仏教が「輪廻転生」を説いていることを認めています。
しかし、続けて「仏教がなぜ、輪廻--生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。」とあります。

また、続けて「つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。」とあり、正に私の疑問と同じことを述べておられました。

しかし、その後を、注意して読み返してみると、「ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。」とありました。

以上を要約すると、仏教では、輪廻転生を説いているのは事実のようですが、しかし、それは一種の方便としてのことであり、本当のところは「輪廻転生」も「死後の霊魂」も、あるかないか分からない、ということの様でした。仏教研究の第一人者が仰るのですから、間違いはないのでしょう。

どうやら、私の理解が少し正確性を欠いていたようです。

ご指摘戴き、改めて中村氏の本を読み返す機会を与えていただき、ありがとうございました。
もっと、正確に理解するよう、努めたいと思います。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/31 12:21

>「輪廻転生」があると言っているように見えます。



それはなにかの間違えです。
輪廻転生があるという宗教はヒンズー教ですね。

仏教では輪廻転生は無いので、この点において矛盾する命題はありません。

仏教では、人生は短く、また必ず終わりがあるので、この人生を大切にしようと言っています。
御釈迦様も死後の世界に関しては語らなかったと言い伝えられますが、分からないものを語らないというのも仏教の特徴です。

この特徴がキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などが神様だとか奇跡だとか、分からないものをよく語る宗教と異なる点です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>仏教では輪廻転生は無い・・・。

えっ?

確かに、私も、ヒンズー教は輪廻転生を説いているということと、御釈迦様は死後の世界に関しては語らなかったということは、聞いていますが、仏教の解説書や仏教サイトなどを読んでいると、輪廻転生の考えが出てきていたように思うのですが、・・・。

原始仏教では輪廻転生は言われていなくても、その後の仏教の変化の中で、輪廻転生の考え方が、仏教にも取り入れられたということはありませんか?

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/12/31 11:42

「空の表象としての色が現実の世界を移り変わっていく。


 それはビッグバン以後の自然界の法則の表象としての現実ということで
 最先端の科学とも矛盾しない。
 輪廻転生というのはその色同士の関連に論及するもので
 そこまでの論及は現代においてもフィクションの世界。
 あるともないとも言えない。
 一つの思索の枝分かれの果て。
 ただし無意味ではない。
 その可能性に目を向けることが大切な場合もある。」
 
 私はこんな風に解釈しています。
    • good
    • 0

以下のとおりお答えします。



(1)「輪廻転生」は、古代(ウパニシャッド時代)からインドに伝わる思想ですね。すなわち、輪廻はインドの中心的・普遍的な思想で、従って、それは仏教にも取り込まれています。一方、「色即是空」は仏教の中心的思想ですが、必ずしもあまねくインド全体に共通する思想の中核とは言えないでしょう。
(2)そういう観点から言えば、「輪廻転生」と「色即是空」(=「実体はない」)が矛盾していてもおかしくはないかも知れませんね。しかし実は、私見では、この両者はぴったり同じとまでいかなくとも、「かなり近い」内容を深層に持っていると思います。
(3)輪廻転生とは、「衆生が三界六道に生死を繰り返しながら、永劫に苦悩を受ける。これを断絶した境地が涅槃である」というものですね。これに対し、色即是空という時の意味は何か。「実体はない」の真意は、「(一つの形に留まった)実体はない」という枕詞がつくのである。ここで、専門化の言を引用させていただくことにします。“「すべては実体がなく変化しているのだ」というと、必ず「それなら何をやってもしょせんは無駄なんだ」と短絡し、虚無感にとらわれる人がいる。これは「空の病」として厳しく戒められている。…すべては変化し、常なるものはないからこそ、今、この時、この場所で咲く、この花の生命は何ものにもかえがたく、またこの花と出会っている私の時間は、かけがえのない重い手ごたえのある時間となるのである。”(池田魯参『般若心経』)
(4)上に述べたことをまとめると、「輪廻転生」=「人は、生れては死に、生れては死ぬ」であり、「色即是空」=「すべては変化し、常なるものはない」となります。この両者に両者に共通する内包、または通底する意味を抽出すれば、「生成流転・有為転変・諸行無常」…ということではないでしょうか。

以上から、「輪廻転生」と「色即是空」とは、上記「生成流転・有為転変・諸行無常」…などの概念を介して、似たような意味を表す面を認めることができるので、「輪廻転生≒色即是空」という図式が描けるのではないか、と私は考えますがいかがでしょうか。

以上、私的な見方による、ご回答まで。

この回答への補足

とても深いご解説、ありがとうございます。
ただ、もう少し、私なりに、十分に考えて、もし、質問させていただきたいことがあれば、お礼の欄を使って質問させていただこうと思いますので、お礼の投稿は、いま少し、お待ち下さい。

補足日時:2014/12/31 11:02
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!