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仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

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A 回答 (28件中1~10件)

 あけましておめでとうございます。

真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
>>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。
>>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。
 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。
 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 

>>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。
 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。
 まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫)

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ
ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです)

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
(文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう)

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。

 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が

サーティ比丘は
「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」
と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して
「サーティよ、その識とはどんなものですか?」
と問いかけると
「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
と答えたするとお釈迦様は
「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。
と御叱りになった。

というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。
 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。

 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

なるほど。なるほど。

とても深い学識を、分かりやすく解説して下さいまして、ありがとうございました。
とても参考になりました。
私も、もっと深く理解するように、種々、努力したいと思います。

中村元氏の訳した「スッタニパータ」は持っているのですが、なかなか、その文章の真意を理解できずに、途中でストップしていますが、もう一度、熟読玩味したいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:00

 ★(No.25補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~


 bragelonne様からは、No.4のご回答を頂きました。

 (あ) しかし、仰っている内容が私には分かり難くて、なにを仰っているか理解できません。
 (い) しかも、私の質問に対する答えにはなっていないと思われますので、返答の仕様もありません。

 ご理解頂けると幸いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 心を翻して物分りの良い人間にはなるまいと いぢわる回答をつづけましょう。

 つまり (あ)の《なにを仰っているか理解できません》という判断と(い)の《私の質問に対する答えにはなっていないと思われます》という判断とは こまかく言えば相い容れません。

 そこのところをどう考えでしょうか?

 質問者の質疑応答における判断の矛盾?






 たとえば一点。DNAの問題から行けば《輪廻転生(つまり ここでは生まれ変わりということです)》は  すでにあり得ないと分かっているのではないでしょうか? そのように回答しています。

 それでも 主体がいないのに輪廻転生の説が〔部分的にしろ〕説かれているのか? という初めからの問いに固執されますか? つまり おれがこの矛盾を発見し指摘しているのだというご自分の考えに執着しますか? その我執については 輪廻論では煮え切らなかったゴータマでもそれはあかんよとはっきりと説いているようですよ(スッタニパータ)。


 つまり多くの回答者も さぞもっともで正当な疑問であり質問であるという前提を真に受けて見解を述べています。質問者は ぶらじゅろんぬさんからいいことをおそわった この質問はすでに成り立たないと知った ほかのみなさんもそう理解しましょうよ。とでも言えばよいものを。
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この世のものは、全てエネルギー体である。

(宇宙の一部である)
人間とは、肉体を借りただけの存在である。(本来はただのエネルギー)
こんな話をされる方がいます。

もっとシンプルに置き換えて、考えてみます。
全ては「水」である。
海水が宇宙。
そこから蒸発した水分が、霊体。
そこから形を成したもの(仮に雨とします)が人間。
雲から地面に落ちる間が人生。

大きな流れのサイクルの中に人間は存在しており、その中で何度も人生を送っている。
こういうことでしょう。
輪廻転生しているからといって、意思を持って生まれてきているのかどうかは別問題でしょう。
(そういう記述があるのでしたら、認識不足ですので謝罪します)
たまたま同じ「分子」が同じ雨という形を成して、再び降り注いできた。
雨という事象になって現れたのならば、そこには何か意味がある。(植物を育て、生き物に活力を与える)
その意味を考え、成せることをしましょう。
そういう教えなのだと、受け取っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「この世のものは、全てエネルギー体である。(宇宙の一部である)」と言うのは分かる気が致します。

そして、海水の喩えも、少し内容は違っても、私も聞いたことがあり、ある程度納得できます。
つまり、海水があって、そこに波があり、これらの波は、ある一瞬においては、一つ一つ別物と言えば別物と言えないこともない。そこで、一瞬の一つの波が私であり、また別の波が彼である、と認識してしまう。しかし、波もまた海水であり波が消えたら元の海水に戻る。だから、一つ一つの波は、それ自体で永続する実体ではなく、海水の変化した一つの形、一つの現象にすぎない。と言う様なお話だったと理解しています。これは、とても分かりやすい喩え話だと思います。

しかし、だとすると、私という波は消えればそれでお仕舞いであって、私と言う波が消えた後に出来る新たな波は、私とは関係なく新たに起こった、私とは別の波であって、「私の波が再び新たな別の波になるということではない」と思えるのです。

そうすると、「我の実体がない」という説は理解できますが、私であった波が、また別の波として新たに発生したことが明らかでない限り、「輪廻」しているとは言えないという気がするのです。従って、波の喩えが正鵠を得ていると言うのであれば、波の喩えを見る限り、輪廻があるとは思えないのです。

輪廻があると言うなら、輪廻する主体がある筈なのに、ところが「主体はない」というのですから、この二つの概念は、矛盾してると思いませんか?

お礼日時:2015/01/04 11:18

No.24です。



質問者様へ

要約すると、やらないと理解には届きませんよ。
グルグル回っている自分である時、達する事は無いってことを
仏教では教えているってことです。

やって抜けた時に、理解もやってきます。
それが「どのように理解」の答えってことですね。

表面的に理解したいと言う質問かもしれませんが
そこに本来の意味は為さないってことで。

この回答への補足

>要約すると、やらないと理解には届きませんよ。
⇒「やる」と言うのは、何をどのようにやる、のですか?それを教えて欲しいです。
  例えば、スッタニパータ779を実践すると言う事ですか?

「やって抜けた時に、理解もやってきます。」という言葉は、貴方様ご自身の経験に基づく言葉だと拝察致しますので、貴方様はきっと既にやって抜けられたのだろうと思います。
だとしたら、やって抜けた後においては、私の疑問に対する答えは得られた筈だと思いますので、その答えをお教えいただけませんか?
既に、会得されておられるのでしょうから、回答はお出来になると思いますので。
よろしくお願い致します。

P/S
もし、出来ないのなら、貴方様の回答は、少なくとも私の疑問に対する回答にはなっていない、ということだろうと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

補足日時:2015/01/04 10:41
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 こんにちは。



 回答への返答がある場合とない場合とがあります。

 どうしてですか?

この回答への補足

bragelonne様からは、No.4のご回答を頂きました。
しかし、仰っている内容が私には分かり難くて、なにを仰っているか理解できません。
しかも、私の質問に対する答えにはなっていないと思われますので、返答の仕様もありません。

ご理解頂けると幸いです。

補足日時:2015/01/03 13:11
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明けましておめでとうございます。



baka-hageさんが、いろいろ上げてくれてあるので
私なりに展開してみます。

>779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

思考する思いの方ではなく「想い」である方ですね。
自身の想いを知り尽くしていれば、煩悩も見分けがつきますから
その矢を抜くことが必要だと解ります。

自分と向き合うというのは、人間にとっては非常に苦しみを伴うものですから
抜くに至る行為は誰しもかなりの痛みを伴うのではないかと思います。
抜かないでいれば本物の矢と同じく痛みは増していきますので、抜いたほうが結果として楽になります。

さすれば、この世もかの世も望む必要がありません。
それは、やった人しか理解できない。
人はそこから新たにスタートします。


生きながらにして六道輪廻をさまよい苦しむことから抜け出し
自身の想いを知り無我になることが、生きながらにして六道に生まれ変わる
「変化的生存」つまり六道に転生し続ける必要がない者になります。

自身がそうなった時に、仏教の経典はずっと簡単に読めるようになります。

理解は実際にやってみることだと思います。
見えない人に見せることはできず、聞こえない人に聞かせることもできず
自らで見ること聞くことなどを手にしていく者だけが変化しない存在
つまり周りや事象に悩まされ続けない者となります。


今の日本で、仏教だけを頼りにそこまで到達できるかは
個人的には甚だ疑問ではありますが、西洋哲学や心理学や
他の学問などの情報も、領域に囚われず学ぶことをやっていけば
不可能ではないと思います。


久しぶりに縁起説に触れて、縁によって識は生じるが
そのままを書いてあり、言ってることってそうだったんだと
知ることができました。

以前読んだ時は、全く意味が分からなかったですが。
想いに対応していくと、自身の中で変化が起きますが
それによってしかできない理解っていうのを体験していくしかないようです。
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仏教は哲学もありますが 一応宗教ですから



完全で有り得ないものを「完全だ 悟った」と人々がみなしているので

矛盾するのが当たり前です。

お釈迦様は 悟ることもないと言っています。

我というものが確かでないのも言えています。貴方(の我)は確かですか?

輪廻転生はないです。在り得ません。

物質やエネルギー、精神も一瞬も止まらずに変わり続けています。

お釈迦様はその様な事が言いたかったのではないでしょうか?

輪廻転生って 本当に仏教?
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[生まれ変わる]者に実態がないという意味は、『沸き上がる自分の心』には実態が無いという意味です。

我と思っている自分の感情には実態がないという意味です。

ところが生きている実感を感じている『自分』は現実に今此処で生きています。この矛盾が理解し難いところと思います。

沸き上がる感情や考えに付いて云うなら、その時々の感情なり考えとは、『感じさせている者』が内在しているからです。この感じさせている者は、生まれて来た訳ではなくて、死んだからと言っても無くなる者では在りません。

この者は『不生不滅』の存在です。此処の関係性が大変分り難くなっています。

精神疾患等では、その精神疾患を起させているものの事です。うつなどの症状も同じです。寒い時には『暖かいところを探す事を命じながら、身体的には血管を収縮させている者の事です。


高所恐怖症の人では、高いと教えている者の事です。閉所恐怖症も同じです、広場恐怖症も同じです。

人間の心も行動も何時も二つの意識が交代制を維持する事で、正常な毎日が保たれています。この二つの意識の交代性が、ギクシャクし始める時、精神疾患や自律神経失調症や感情障害等のきっかけが始まっています。

詰まり悩みや障害と感じる場合では、その契機となっています、つまり『自分自身の心に矛盾が生じるきっかけになる。』と言う意味になります。詰まり交替制に齟齬が生じると言う意味になります。

眠れないと言う場合を例に取ります、眠る場合では『意識している自分』の意識が朦朧となって、意識が無くなってゆきます、そうして意識が無くなった時には『無意識の自分』が身体と心の支配権を譲られています。朝が来た時『ぐっすりと眠った、爽快感で目覚めます。』自分の心(自意識や自我意識)は全てを『無意識の自分に預けたために』本当に休んでいたからです。

不眠症と言われる状態では、自我意識が、支配権を『無意識の自分に預ける事が出来なくなっています。』是が不眠症の実態です。無意識の自分との交替制がうまく行かなくなった事を意味するからです。

仏教などで悟りを開く体験が語られる事が在りますが、この自分自身と出会う体験の事を言っています。

この体験は『脳の回路構成の発達』を意味する事から、一回での悟りで『一生涯この回路構成が切れる事がなくなります。』この体験を体得と表現する理由が此処にあります。

自我意識は左脳に存在する意識です。感情や考えを湧き上がらせる機能を持っている脳は右脳の機能です。赤ん坊が生まれながら不安や安心を『教えられなくとも知っている事実が在ります。』この機能が『命そのものの働きです。』この命そのものの働きを仏教では『命の働き=仏性』と言っています。

キリスト教なら『神』と呼んでいます。

神や仏とは『内在する右脳の働き=自分自身の命を働かせている機能』の事です。

出会うと分る事ですが、永遠の命、或は永遠の存在、が実感出来ます。自分自身の中に永遠性の存在を実感出来る体験です。この体験以後では、生まれ変わる自分の肉体とか、お金とか、名誉や見得などの価値が色褪せてしまいます。

こう云った現世的なものの価値が 大事と考えてきて迷いの世界に、悩みや苦しみが展開して来た事を実感します。こう云ったものに価値観を見出せなくなってきます。すなわち、在りもしない期待感や、自分の思い込みから成り立っていた、架空の幸福感、或は虚の世界のベールがすっかりと剥がされてしまいます。

嘘で出来ていた世界観のお陰で、悩みや苦しみが始まっていた事が分かる様になります。真実の世界と虚の世界を見分ける第三の目が開けてくる事が分ります。

世の中は真実の世界と虚の世界が同じ空間上に置いて交差しています、こう云った実態が見える時、もう一人の自分が関与しています。

もう一人の自分との対話が、悩みや心の闇や希望となっています、付き合い方の違いです。先程上げた不眠症の例で云うなら、交替制が崩れた事を意味します。

簡潔な書き方をするなら、不眠症とは『無意識の自分』に交替出来なくなった事を意味します。不眠症が治った例え話をするなら、『自分ではもう解決出来なくなってしまったから、全てを諦めて、全てをもう一人の自分に預けてしまおう』という事です。

意識する自分(左脳に存在する自我意識)には出来ない事が分かったから、無意識の自分(右脳の意識=無意識の自分=仏性)に任せよう。となっています。

キリスト教における『神の僕になる』と言う意味です。不眠症の時は、『神をそっちのけにして自分で全てをやろうとしています。』詰まり交替制を拒んでいた事を意味します。

分り難い話になりましたので、或る動画を紹介します。この中で全て語られています。


もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

永遠の生命が私たち一人ひとりの内にあって、それが自分と言うものを感じさせているだけだから、永遠の生命とは別の自分があるわけではない、と仰りたいと理解しましたが、それで正しいですか?

ジルボルト・テイラー氏の「奇跡の脳」は読んだことがあります。
不思議な世界ですね。

お礼日時:2015/01/03 12:54

toto77japa さん こんばんは。

あけましておめでとうございます。

私は、お経は読めず、仏教の知識はほとんどない門外漢ですが、情報提供として、回答します。情報提供といっても、私が図書館の書庫をあさり、膨大な時間をかけた情報ということを簡単にネットで手に入れるということをお忘れなく。

仏教に無知とは言え、哲学者の西田幾多郎の理解や趣味の茶の湯のため、仏教の禅宗の考えには興味を持ってます。

さて、情報ですが、明治26年にヘーゲルの「歴史哲学の講義」が日本に入ってきて、邦訳として「歴史研究法」という名前で歴史研究者の指南車として紹介されたそうです。

この明治26年、論理学第二期前期において、面白いことに、ヘーゲルの論理学が仏教僧侶から宗教哲学的な意味で採用されたそうです。

これは仏教再組織の気運(おそらく廃仏毀釈)によるものでなく、「哲学的」もしくは「宗教的」要求から論理学が問題にされ、形式論理学は、その際は不問に付けられていることを語っているものと解すべきと思う。と横浜市立大学を創設した、三枝博音という哲学者は見解を述べてます。

余談ですが論理学第二期後期には、日清戦争の戦勝と日露戦争の戦勝をその半ばに持っている時期で、日本人は、世界5大強国に列するという国民意識の旺盛な時代であって、学者もまた、この意識の上に立ち、日本における哲学的諸学科を樹立しようという志向を持っていたそうです。

現在は哲学など、もうやり尽して目新しさはないと、この哲学カテでは回答されていますが、日本の明治時代はそうではなく、私からすれば、うらやましいくらい盛んであったようです。
この時代を生きた田辺元や西田幾多郎も仏教の思想が基盤ですが、西洋哲学の影響を受け、自身の哲学に取り込もうとしたことは推察できます。

書庫で、昭和初期に発刊された、田辺元の本を読みましたが、膨大な時間がかかりました。なにしろ、旧字体なので、漢和辞典(小学校のとき画数をちゃんと習って覚えていて良かった)や旧仮名遣い辞典を引き引き。

さらに、「これは、まさに廬山煙雨浙江潮である。」などと、あたりまえのように書いている。調べたら、蘇東坡の詩で、禅の「悟了同未悟」という悟りの世界に繋がるとやっとわかりました。昔の人は漢文が必須で、解説など要らないのでしょう。

さて、仏教素人の私の見解を書くのは、おこがましいですが、禅宗には、

不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずにして、涅槃を得)
「本当に心のそこから仏心に近づこうと信心するならば、罪のままの身にも、仏の深い加護によって、涅槃の世界に生まれかわる事が許されるのだ。」

という言葉があります。キリスト教の思想にも繋がる考えかと私は思います。

また涅槃ですが、有余涅槃・無余涅槃という言葉があります。つまりこの世で「我」を捨てて悟りを開き「無」や「空」の境地に達し、あの世でも「無」や「空」でいるための修行?

少なくとも「無」とは「形が無い」訳ではないので、輪廻転生という「形(五蘊の色か?)が、あるのかもしれませんが、あの世にいかなければ分かりません。

生きている現世において不断煩悩得涅槃を目指すのが大事と私は思いますが、仏教の素人なので、お礼にて間違った解釈をしていたら、指摘してください。
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この回答へのお礼

大変勉強をされているのですね。敬服致します。
今後色々考えて行く上で参考にさせて頂きます。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:22

~~~~~~~~~~~~~




<経量部の「単層の」識の流れ>という
概念への疑問(V) 原田和宗

http://www.jits-ryukoku.net/data/05/ick05_harada …

~~~~~~~~~~~~~
因果論[編集]

また、仏教においては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっている。

輪廻の主体を立てず、心を構成する認識機能が生前と別の場所に発生し、物理的距離に関係なく、この生前と転生後の意識が因果関係を保ち連続しているとし、この心の連続体(心相続,चित्त संतान citta-saṃtāna)によって、断滅でもなく、常住でもない中道の輪廻転生を説く。

仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

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Mindstream (citta-santāna) in Buddhist philosophy is the moment-to-moment continuum (Sanskrit: saṃtāna) of awareness which provides a continuity from one life to another. The concept developed in later Yogacara, to avoid reification of the ālaya-vijñāna.

Mindstream
http://en.wikipedia.org/wiki/Mindstream

~~~~~~~~~~~~~~~


とりあえず、心相続のパーリ語での表記がわかったので
追加です。


心相続
citta santāna


サンスクリットだと
citta saṃtāna


ウィキペディアの仏教の項目で心相続が説明されていたのに気がつきませんでした。
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この回答へのお礼

いろいろ教えて頂きありがとうございました。

お礼日時:2015/01/03 12:16

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Q仏教の矛盾

最近仏教の入門編のような本を読みました

そこにはブッダがひらいた悟りの内容は「これあれば、かれあり」、「これ滅すれば、かれ滅す」等の「因縁」、つまり「結果には必ず原因がある」というコトだったと書いてありました

しかし結婚や出家には説明できる理由はなく、あるのは「縁」だけだとも書いてありました

「ご縁があったから」で済まされるのであれば他のことも「運命だったから」で済まされてしまいます

これは過去からのご縁「袖触れ合うも他生の縁」などのように死後の世界から続くものもこの世に影響しているから、「原因はあるけど説明はしきれないんだよ」と、いうことなのでしょうか?

でもそれだとしたら「結果には原因がある」と分かった所でどうせ抗えないのなら、心も軽くならないし意味がないのではないのか?と思ってしまいます


仏教はとても素晴らしい教えで屁理屈を言いたいわけではないのでご理解ください

もっと理解を深めたい、との心から出た質問です

宜しくおねがいします

Aベストアンサー

仏教は自分の思う通りにならない人生を受け入れることの重要性を説いていると思います。

諸法無我。

わたくしたちが何を考えようと、何を望もうと、それとは関係なく諸法が機能している現実です。

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望みどおりでないことも「受け入れる」ことの大切さを説いているのではないかと思います。

Qパニック発作を引き起こした原因について

パニック障害になる前に
人と話すのが得意ではないのに、がんばって話して脳が停止するような感覚が何日かあったのですが
ストレスになってたんですかね?

Aベストアンサー

パニック障害の経験者で完治した経験があります。』ので、生半可な専門家よりも詳しく説明出来ます。


パニック障害の原因は、その障害を感じている人が、本人の頭の中に作り出している『幻』を、あたかも存在するものと思い込んでしまって、避けようともがいて返って身近なものにして、実感してしまう現象です。

自分で、”自分” から危機回避とか危険回避をしようとしていると言うものです。

もう一つの方面から説明します。それは、花粉症のメカニズムを使っての説明です。花粉症とは『自分の免疫機能が自分の身体を攻撃する現象』ですが、このメカニズムと同じメカニズムが働いています。

花粉症の場合では、免疫機能が『アレルゲンと認められたものが、(実際にはアレルゲンではないものに対してまで)体内に存在すると感知した場合に発動します。』そのアレルゲンを体内から排出するための防衛機構が働く事を意味します。又この間違ったアレルギーにならないものにまで過剰反応して暴走してしまうものが花粉症のメカニズムです。

『心や行動や感情』に対しても人間には『危険回避』と言った花粉症に対する身体の反応と同じ様に反応する、防衛機能が存在しています。パニック障害とは今書いた『自己防衛機能』が暴走をしてしまう現象です。

始めに暴走する原因を書いて、後で暴走しない方法とか考え方を書いてみますので参考にして下さい。

パニック障害が起きる背景を始めに説明をして置きます。分り難い事を書きますので分らなくとも良いですので、兎に角読んで置いて下さい。私の云う事が腑に落ちた時貴方はパニック障害から抜け出していると思います。只理解するには時間が掛かるかも知れません。

身体にはアレルゲンと判断する機能が存在するように、心にもそう云った判断する機能が存在しています。是を説明する為には脳の構造を説明する必要が在ります、或いは脳の機能と言ったほうが分りやすいかも知れません。

是は誰にでも備わっている機能ですが、簡単に説明します。生まれたばかりの赤ん坊を想像して下さい、生まれたばかりで何も教え込まれていない『白紙状態の脳』を想像して下さい。学問を学ぶと言う意味では『赤ん坊の脳は白紙』の状態であって、何も知らないでいると考えられますが、実際では『全てを知っています。』

その証拠は、見たものに対して安心出来るものか?、恐怖に値するものか?は教えてもらう必要がない事で証明出来ると思います。又自身の生命維持をする機能という意味に置いても、自分の生命を維持する機能を働かせる事は既に知っています。

此処で問題にしたいのは、『見たものに対して安心出来るのか?、恐怖に値するものか?』という問題です。是は母親の懐にいる時には『”安心して”すやすやと眠っている状態』を言いますが、『”安心”させている者が存在しているからです。』

言い換えるなら『自分の心=自我意識』に『外界からの情報を安心出来るのか?、恐怖に値するのか?』を教える機能が存在している事を意味します。

この教えられた情報によって『赤ん坊が安心したり、恐怖に陥ったりしています。』是がパニック障害に於けるストレスになります。心地良いものは当然ストレス源にはなりません。心地悪いものが問題になってストレス源になります。

此処まで書いて貴方の問題に触れて置きたいと思います、貴方の嗜好に対する問題点です。貴方は好き嫌いが激しい部分があるという問題です。人として生きて行く場合では、良い事も悪い事も誰にでも大体は、等しく襲ってくると考えられます。良い事ばかりに恵まれる人などいないという意味です。

処が貴方の願いは、良い事ばかりを願っていて、厭な事を嫌い過ぎている点が問題になっています。

自分が感じた『五感から得た情報をストレスとして感じるのか如何か?』が問題になっています。

話を変えて”ストレス”の意味を考察します、誰でも同じ環境の中で生きていますが、パニック障害になる人と平然としている人に大別されます、その違いは『同じ環境』の中にストレス源を作り出している人がパニック障害で苦しんでいる事実があります。

言い換えるなら、他の人がストレスにしないものをストレスとして感じている、という意味です。強い言い方をするなら『本人が頭の中にストレスを作り出している部分がある。』という意味です。

もう一つ付け加えるなら、ストレスの意味ですが、それは『受容れたくないもの全般』をストレスと表現します。ですので貴方にパニック障害の症状が出る場面では『受容れたくない情報』が貴方の心に送られている事が原因で貴方はパニック障害としての症状が出ています。

此処が大事なところです、この情報が貴方にとってのパニック障害の原因です。貴方が『受け取りたくない』と感じてしまう情報が、花粉症における『免疫機能を発動させるきっかけになっている事です。』

この情報で、貴方は防衛機制を自分の心に掛けています。つまり『逃げ出したいとか、危険回避をしよう』がパニック障害の原因と結果になっている事です。

したがって貴方がパニック障害から解放されるという意味は、『今までストレスとして受け入れる事が出来なかった事柄を、ストレスにしない、人間性への変貌が求められている事を意味します。』

難しい事を書いていますが、決して難しい事ではありません。今までのように『好き嫌い』の激しかった部分に少し、学びの部分を積み上げるだけで良いのです。

私の云う事を実践して下さい、それは『良い事に遇った場合では”喜び過ぎないでいる事、厭な事に遭った場合では落ち込み過ぎないでいる事』たった是だけです。

今の貴方とパニック障害から抜け出した貴方の違いとは、感じた事柄に対して『向きになって感情に走ってしまっているのか?或いは感情的にならずに冷静でいられるのか?』たった是だけの違いで、パニックになるかならないのかに分かれているからです。

貴方が完全にパニック障害から抜け出した暁には、『湧き上る感情(雑念)に右往左往するのか?或いは”雑念は雑念”としてそのままにして置けるのか?』の違いをマスターしています。

パニック障害とは、『只の雑念に右往左往しているに過ぎないからです。』

パニックになるような事が起きたとしても『泰然自若』としていられる事を学ぶ場として貴方に『パニック障害』という学びの場が与えられています。

パニック障害の経験者で完治した経験があります。』ので、生半可な専門家よりも詳しく説明出来ます。


パニック障害の原因は、その障害を感じている人が、本人の頭の中に作り出している『幻』を、あたかも存在するものと思い込んでしまって、避けようともがいて返って身近なものにして、実感してしまう現象です。

自分で、”自分” から危機回避とか危険回避をしようとしていると言うものです。

もう一つの方面から説明します。それは、花粉症のメカニズムを使っての説明です。花粉症とは『自分の免疫機能が自分...続きを読む

Qブッダ以外で悟りを開いた人はいますか?

もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください)
大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか?

いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

Aベストアンサー

悟りを開くと云う事が、如何いうものかを書いてそれから、説明してみます。悟りを開く事を他の言葉で言うなら『見性』です。自分の性を見るという意味ですが、その意味を科学的な文献から解き明かしたいと思います。

人間には二つの人格が備わっていますので、科学的な文献を載せてから説明します。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”


この研究はその後余り進んでいないように見えますので、残念と思います。

右脳の人格は左脳に存在する『自我意識』にはかなり分かり難くなっています。全く判らない場合に『健常者』と言う風に呼んでいます。

右脳の人格は『命そのものを働かせている者』です。人間の命の働きは、ある程度細分化出来ますので、もし細分化をするなら、概略三つに区分けする事が出来ます。

それは人間の、『身体に対する命の働きと、行動に対する命の働きと、心に対する命の働き』と言う風にですが、本当の意味ではそれらの三つには境目が在りませんから、全ての大元では共通点が在ります。

その共通点とは『心の矛盾』です、心が騒がしく争っていると言う意味です。具体的な言い方をするなら『生き難い想い』或は『一切皆苦』或は『漠然とした不安や、何処から押し寄せているのか分らない正体不明の心的な圧迫感』です。

人間の命は命として芽生えた瞬間から『働き始めています。』初めての働き始めが細胞分裂ですが、この働きを働き始める事を知っている働きが『命そのものの働き』です。

生まれてからは、誰も教えなくとも、安心する事も、不安になる事も、更に云うならば恐怖する事さえ知っている働きです。心臓の打つ数も、呼吸する数もホルモンや消化系等や排便する事も全て承知している働きです。

暑い時には汗が出る仕組みそのものや、心的には涼しい所や、水の在りかを探すように『自我意識に』指示さえ出している働きです。ですが健常者の場合では、今書いたシステムに何の疑いも持つ事が在りません、この疑いがない姿を聖書では『天国に住んでいる』と形容しています。

人間の脳の機能が大人になる頃から『人間は全てを疑う場合があります。』この現象を『失楽園』と形容しています。

二つの脳の機能が上手く同調出来ている場合の事です。天国に一番近い存在は『幼子』と言われる由縁は、脳の機能分化が進んでいないために、未だ一つのものとして働いているからです。

脳の機能分化の完成を待って始めて『人間は天国から追放される事』を意味します。この意味は『心が二つの機能になることで、争いがはじまるという意味です。』

つまり知恵が付いたために天国から追放されると言う意味は、『心が分裂をしたり矛盾を起したり、対立する事』を意味します。おもに思春期頃の事です。

人生がなんであるのか?や、自分は何者か?と言う疑問が湧き始めるころの事です。この疑問を抱き始める事によって『失楽園』と言う表現方法を取っています。

この疑問の解消方法が『悟り』を意味します。それは自分自身に疑問を抱かせていた者の正体を知る、と言う意味になります。つまり自分自身の感情を湧きあがらせていた者の正体が『自分自身であった事を知る』と言う意味です。

もっと具体的な表現方法を取るなら『死に対する恐怖感』と言う書き方をすると分かり易いと思いますので、この線で書いてみます。

普通の状態で『死』を意識した場合に、恐怖感が湧き上がります。この恐怖感の正体が何であったかを知る事が『見性』と言う意味です。

人間の心に不安や恐怖感が湧き上がる場合では『二つの意識が戦っていたり、矛盾を起しています』この意味は、『意識の根底で二つの意識は、脳梁を介して情報交換をしています』この情報交換に、ある場面で『自我意識が、感情が湧き上がる情報の受取りを拒否する場合です。』

もっと平たく言うなら『死に対する不安や恐怖心が芽生える場合では』人間の心は『永遠の命を希求しています』この事実が、心の矛盾です。

自我意識は有限の身ですが、右脳の人格は永遠の存在だからです。有限の身である自我意識は『永遠の存在である右脳の意識=仏性や神としての存在によって、』永遠を希求させられています。

右脳の働きは分り難いので、実際に右脳の人格を体感している動画が在りますので、載せてみます、その後でもう一度説明します。


URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM


この動画から汲取っていただきたい事は、『自我意識が全てではない事』です。もう一つの意識によって、自我意識は支えられている事です。

貴方が質問している事にお答えしたいと思います。


『いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。』


禅宗の記録を読んでください、禅宗では、悟りを開く事がその修行の全てに近い事を示しているからです。死の恐怖に怯える事からの開放を示しているからです。

禅宗では、見性した場合では『生死の問題が解決した』と言う表現方法を取っています。その意味は『死に怯えていた自我意識は、永遠の存在である右脳の働き、命そのものの働きに出会う事によって、有限のこの身の存在が、朽ち果てたとしても、自分は元々永遠の存在であった事を身を持って知る事を意味します。』

この永遠の存在との出会いを見性=悟りを開くと表現しています。そうして自我意識が二度と、右脳の人格の前にでしゃばらなくなると言う意味です。

キリスト教であっても同じ事を違う表現で言っています。『神と和解して、神の僕となる』と言う表現です。

釈迦の悟りは禅宗では、連綿と伝えられています。そのテキストの価値を書いて終わりにします。

右脳の意識は『言葉を持っていない事が特徴です。』右脳の意識を引き出す事が出来れば『見性』出来ることを意味します。

そのためのテキストとは『禅問答』です。禅問答は左脳の自我意識では、歯が立ちません、これは脳の機能的な問題です。

その理由は禅問答は右脳の人格としての機能が出て来ないと解けないように仕組まれているからです。

鬱と言う場合でも、神経症としての強迫行為も恐怖症も、自律神経失調症としての症状も、『心の矛盾』を症状として感じています。正に意識地獄の状態です。一切皆苦になっていますので、その症状を起こしている意識との出会いで『完治する事』を意味します。


それは『意識が発生する丁度、正にその時の事です。』その体験以後では『心の矛盾が解消しますので』もう二度と心同士が争う事がなくなりますので、寛解ではなくて、完治した事を意味します。

言葉にするなら、右脳と左脳の間にホットラインが開通する事によって、いつも心が静まり返っている事を意味します。仏教的な表現方法では『涅槃』です。

悟りを開くと云う事が、如何いうものかを書いてそれから、説明してみます。悟りを開く事を他の言葉で言うなら『見性』です。自分の性を見るという意味ですが、その意味を科学的な文献から解き明かしたいと思います。

人間には二つの人格が備わっていますので、科学的な文献を載せてから説明します。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん...続きを読む

Q人生何歳からでもやり直せるという風潮が死ぬほど嫌い

薬剤師になりたいのですが
40歳から薬学部に進学したら卒業するのは46歳ですよね。
現実的にいく意味があるのでしょうか?(就職とか)
薬学や人体に興味があり、やりがいもありそうだと思ったので
進学したいのですが・・あと給料もボチボチ良さそう・・
(お金よりはやりがいや興味が優先)
無事に卒業しても50前のじじいを雇ってくれる病院や薬局はあるのでしょうか?
あと働きながら昼間の大学に通ってるのは新聞奨学生くらいですよね?
現実と照らし合わせると難しいか・・
もうじき38歳になる独身おっさんで貯金0の日雇い労働者の質問です。

Aベストアンサー

意味があるかどうかは、自分が決めること…

現実はどんな年齢でも目の前にある…

やり直せるかどうかとはあんまり関係ない。
やる人はやる。その事実があるんだからしょうがない。

Q精神疾患の、真の原因は?

神経症というものは、どうして、発症するのですか。
どうすれば、解決するのですか?
解決するための、根本を、教えて下さい。

鬱についても、原因は、何ですか。
どうすれば、解決するのですか?
解決するための、根本を、教えて下さい。

Aベストアンサー

私が知る限りでは、神経症と鬱病などの精神病は、発症もそれに起因する原因も違うと思います。
神経症は、過度のストレスが大きな要因になる心の病だと思うのですが、精神病は、色々な要因が重なっての発病で、脳の神経伝達物質の異常の病気だと思います。ですから、神経症は、薬に頼らなくても治る場合がありますし、カウンセリングなども有効でしょうが、鬱病の場合は、薬の治療は、欠かせないと思います。

Q西田の純粋経験について

西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。

私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。
雨が降れば傘を差し、日々の勤めに精をだし、飯も食い、そして一日一日また歳をとっていく。

頭の中の悩みを消し去ったというのは一つの功績として立派ですし、静かな思索が可能になったというのも大きなことです。

風邪を引くとか、怪我をするとか、そういったことは回避できませんが、心は軽くなったように思います。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。

リンゴは自分の中にあるという認識の世界において
誰しもが別の世界に生きているのは、ご存知のことかと思います。

その認識で観察し得たものである訳ですから
その世界で体験した者しか、その世界は存在しないと考えています。

現象は、起きる条件が揃わないと起きることがないので
それは、人によって違いというものがあるかと思います。

観察からでも、観察し得るのは自分の事のみです。

それを「環世界」と言う、つまりネーミングがある事を
つい先日知りました。

それぞれの言動の違いは、「間違いではなく違いにある」と言うのは
そこから来るのかなと思います。


ここで大切なのは、a_honaさんの純粋経験によって
誰もデメリットを負わないと言うことであり
何一つ新たな問題が起きる訳ではないという言うこと。

a_honaさんが、少し軽くなり少しでも気分良く過ごせて
少しでも笑顔が増えれば、a_honaさんの周りの人も
少しだけハッピーになれると言うことだと思います。

徐々にでも自由を広げられたらと願います。

Qトラウマなのか?どうしたら改善はできるのか?

私は、彼になった人にいつも同じ過ちをして相手に不快な思いをさせてしまいます。

簡単に言うと、原因は、(1)幼少時の寂しさが無意識に露出するのか。(2)単たる私の弱さか
と分析しています。

いつも無意識にしてしまうため、どのようにしたら自分を変えることがでしょうか?
もちろん、相手をを愛そうとすることが大事だとわかっています。しかし、愛の受け取り方や愛し方がわからず、愛しているつもりがいつも追いかけてばかりで、うんざりされてしまいます。

学生時代に、父親くらいの年の離れた男性と長く付き合い、同棲し、結婚も考えた経験もあります。とても癒され、一度治ったと思っていましたが、それから15年くらい経ちました。彼も心が寛大で包容力のある方で、私に優しく対応してくれますが、やはり、無意識に同じ過ちをしてしまいます・・・。

どなたかアドバイスをいただけるとうれしいです。

■彼にしてしまう過ちとは
 (1) 仕事、学歴、趣味等の達成度を、彼に評価してもらい、自分の存在をさらに認めてもらおうとすること。
 (2) 自分がストーカーや変質者に嫌な目に会うと、彼に被害者意識で相談し、彼の気を引こうとすること。

■生い立ち=原因なのか??
 (1) 中学を卒業して、家を出るまで、アルコール中毒の父親が、自宅の壁にビール瓶やガラスのコップを投げつけ、恐ろしくて、男性恐怖症になっていました。女子高に入りました。(→彼が大好きで安心するのに、彼と室内にいると何を話してよいのかわからなくなる)

 (2) 父親から安心して抱擁された経験がなく、いつも愛されたいと思って育つ。(→彼にもっと愛されたいと努力してしまう)

 (3) どのようにしたら父親が振り向いてくれるのか、父の顔色ばかり伺って考え言動してきた。(→彼の顔色ばかり伺って考え言動してしまう)

 (4) 父や機嫌の良い時に、テレビと会話している内容から、高学歴のタレントが好きだと知りました。
   父と会話が成立した記憶はありません。
   勉強して、よい大学に入ったり、資格をとれば、私を認めてもらえて、愛してくれると思って生きてきた。(→彼に学歴、趣味等の達成度を、認めてもうらおうする)

 (5) それとも、上記(1)~(4)のような育った環境と関連性はなく、私の単たる弱さでしょうか・・・?

私は、彼になった人にいつも同じ過ちをして相手に不快な思いをさせてしまいます。

簡単に言うと、原因は、(1)幼少時の寂しさが無意識に露出するのか。(2)単たる私の弱さか
と分析しています。

いつも無意識にしてしまうため、どのようにしたら自分を変えることがでしょうか?
もちろん、相手をを愛そうとすることが大事だとわかっています。しかし、愛の受け取り方や愛し方がわからず、愛しているつもりがいつも追いかけてばかりで、うんざりされてしまいます。

学生時代に、父親くらいの年の離れた男性と長く...続きを読む

Aベストアンサー

> やってみました。

お疲れ様です。

> 1)自分には価値がある
> 2)自分は幸せでいていい
> 3)親にも自分にも罪はないと思います。

ではそれを父親に面と向かって言うのがよいです。頭の中で。


あとは、彼氏と会う時も頭の中でそう言ったらいいと思います。

言っているうちに慣れてくる。

価値があるのですから、彼に対して何かを証明する必要はないし、
彼の前で幸せでいればいいです。

もちろん、仕事で成功して嬉しければ一緒に喜んでもらえばいいですし、
嫌なことがあったら話を聞いてもらってスッキリすればいいです。

自然体ですよ。
自然体の自分になじむまで、誰の前でも、彼の前でも

> 1)自分には価値がある
> 2)自分は幸せでいていい
> 3)親にも自分にも罪はないと思います。

と思ったらいいです。

Q乗り越えられる試練

神様は乗り越えられる試練しか与えないとは言いますが…手をつくした結果どうにも乗り越えられそうにない場合は、どうしたらいいんでしょうか

もう諦めるか、それとも数年越しに頑張るしか無いのでしょうか

Aベストアンサー

乗り越えられる試練と言うと、響きは良いかも知れませんが、諦める事も『乗り越えられる試練』の内に入ると思います。

ただそう云った問題の前に立った時如何考えるのかで結果は違うと思います。出来なかった言い訳を考えるのか?或はどうやったら出来たのか?の違いです。

出来なかった言い訳だけを考えたり、出来なかった理由はいくらでも見付ける事は出来ると思いますが、それだけでは進歩が無いと思います。

出来た可能性を探す事の方が良いと思いますが、それが出来なかったとするなら諦める事も選択肢の一つと思います。全てを諦めると言う言い方は言い過ぎかも知れませんが、『万策尽きるほど』考え尽くしたのかを考えたらさっぱりすると思います。

針の穴にらくだを通す事さえ出来る考え方もこの世の中にはある事も知って下さい。不可能を可能にする智慧を学ぶ試練を貴方は、今、体験しています。

Q大人になってから自己肯定感を高めるには

自己肯定感が低く、引きこもりになりそうです。
小さい頃から自殺願望があり、騙し騙し生きて来ましたが、20代にして限界がきました。
大人になってから、自己肯定感を高めるにはどうしたらいいでしょうか?

ちなみに、理解者はいません。
友人には相談できなく、家族は精神的なものは全て甘えと考えています。
恋人は、自己肯定感の低さと、結婚への拒否感から、作っていません。
精神科に行くことも、当面はできません。

克服された方、克服方法をご存知の方、アドバイスをお願い致します。

Aベストアンサー

No.5の者です。
お返事を拝読しまして、補足です。

“何をやっても出来ない” というのは、客観的な感想などではなく、あなた自身が勝手に決めたことだと思います。
自分の中で決定してしまったことは、絶対に覆りません。
まず、出来るとか出来ないとか、なぜ決める必要があるのでしょうか。
人も、案外何も出来てませんよ。
出来ているように見えるだけです。
いい加減だし、好きなように生きて、勝手です。
つまり、上手いことやるのも、下手でも好きだったり、ヘマをして迷惑をかけるのも、自由です。

優しい性格と言われるのですよね。
それも、あなたの優しさに周りが甘えているのです。
そして、自分は優しい人間であることを期待されているのだ、と、あなたが無意識に真面目に取り組もうとした結果、あなたは限界を迎えようとしているわけですよね。

あなたのご家族は、いわゆる過干渉なのでしょう。
自分の知っている環境が常識のように思いがちですが(私もそうでした)、蓋を開けてみたら、意外と世間と大きくかけ離れていたりするものです。
親やきょうだいは、愛情があるがゆえに期待もし、激励もしたいでしょう。
でも、裏を返せば、あなたを自分の思い通りに操作したい、ということです。
勝手な欲です。
長い時間をかけて、あなたが出来ない人間だと決めつけて刷込んできたのは、誰でもない、あなたのご家族とあなた自身でしょう。
それに早く気付くべきです。
ありのままのあなたでなぜいけないのか、私には解りません。
あなたの場合、自信を持って持ちすぎることはないと思います。

それから、長期間悩んでじっとうつむいたりしていると、体の機能は低下しますし、結果、脳の血流が悪くなります。
鬱病などのほとんどは、ストレスからくる単なる血流障害ではないかと私は思います。
運動はいいですよ。
好きな音楽を聴きながらとか、外の空気を吸うためだけでもいいので、ちょっと散歩にでも出かけてみてはいかがでしょうか。
体調不良は、心の悩みのせいだと思いこみがちですが、運動で体調がよくなると、心が後からついてくることも多いです。

失礼な事を長々と書きましたが、他人とは思えないので・・
もちろん、少ない情報からなので、事実とは全く違うこともあるかもしれません。
ごめんなさいね。
でも、応援しています。

No.5の者です。
お返事を拝読しまして、補足です。

“何をやっても出来ない” というのは、客観的な感想などではなく、あなた自身が勝手に決めたことだと思います。
自分の中で決定してしまったことは、絶対に覆りません。
まず、出来るとか出来ないとか、なぜ決める必要があるのでしょうか。
人も、案外何も出来てませんよ。
出来ているように見えるだけです。
いい加減だし、好きなように生きて、勝手です。
つまり、上手いことやるのも、下手でも好きだったり、ヘマをして迷惑をかけるのも、自由です。

優しい...続きを読む

Qキリスト教は矛盾していませんか

私は無宗教に近い、葬式仏教の日本人としてイスラム教とかキリスト教とかの宗教にも関心がないのですが、キリスト教が分かりません。
特別な神の子であるイエスが磔で死ぬのはおかしいし、処女懐妊もおかしい。 天地創造の神ヤーウェの力があれは 一瞬にキリストを創造し、無敵の生命力も持たすことができるだろうに、矛盾しています。精霊と神とキリストは一体だと三位一体説もあります。
普通に考えれば、ユダに裏切られたのも、他の弟子に3度知らないと言われたのも、信頼できない指導者であったとするのが自然です。 地域住民がローマ総督に訴えたのもアサハラのような人間であったと考えられます。 奇跡を行ったというのも、詐欺臭い。 復活したというのも騒乱罪で磔になったイエスが失神していて、4日後に意識が戻ったとするのが自然です。
なぜ大宗教になっているのでしょうか。

Aベストアンサー

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思います。
キリスト教が国教になる前、ローマ帝国は「ソル・インウィクトゥス」(不滅の太陽)という太陽神への信仰を広めようとしたことがあるそうです。太陽は1つしかありませんし、どこでも拝むことができますから、国をまとめる宗教として適当だと思われたのでしょう。ローマ帝国にとって重要なのは、政治に役立つかどうかであって、教義などの中身は二の次です。

ともあれ、それなりに信者が多くないと、ローマ帝国もキリスト教を選ばないでしょう。1~4世紀のローマ帝国で、キリスト教が普及したことには、いくつかの理由があるようです。

1.キリスト教は本来、いわゆる社会的弱者に対して共感的でした。これはどうやら、イエス本人の生前の教えによるものです。「貧しい人こそが救われる」など、社会の底辺で苦しい生活をしている人々に、受け入れられやすい教義をもっていました。そういう人ほど、一度信者になれば熱心に信仰しますから、布教には有利な特徴です。

2.キリスト教には、ややこしい戒律などはなく、簡単に信者になれました。大雑把に言えば、「あなたはイエスがいったん死ぬことで、人類の罪をあがなったことを信じますか?」「はい、信じます」だけでOKです(イエスの死後、パウロという人がつくった教義です)。日本でも鎌倉時代に、「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」といった宗教が流行したことがありますが、あれと似たような感じですね。この手軽さも、広く受け入れられた理由でしょう。

3.これはやや否定的な側面ですが、キリスト教の教義では、「イエスの死と復活を信じない者は救われず、永遠に地獄で苦しむ」とされています。救われる(天国に行ける)方法を1つに限定することで、信者を脅している面があるわけです。いまでもカルト宗教などが同じ手を使うことからわかるように、藁にもすがるような心境の人を入信させるには、非常に有効な方法です。

4.ローマ帝国は特に2世紀から、キリスト教を弾圧していました。が、当時のキリスト教徒の多くは、もともと苦しい生活を強いられていたので、この世にあまり未練がありません。「殉教すれば天国に行ける」と信じていますから、なおさらです。苛酷な弾圧にも耐える人々の姿は感動的なので、「これは何か、すごい教えなのかもしれない」と思う人も出てきます。つまり皮肉なことに、弾圧がかえって信者を増やすというケースもありました。

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思い...続きを読む


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