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噴火の被災者はまだ増える可能性があるということで、捜索救助を祈るばかりですが、ニュースが出るたびに、「自己責任だ」とか、登った自分が悪いんだから同情できないとか言う人がいて、何だか悲しくなります。
別にニュースで伝えられてるのは、「こんな可哀そうな人たちの生活を支援しましょう」なんてことではなく、ただただ自然の恐ろしさ、非情さであり、何とか、被災者には遺体となっても、近親者に戻してあげて欲しいって気持ちだけであって、誰が悪いという論調でもないでしょうに。これは、社会参画意識とメディアリテラシーが足りないんじゃないか、と危惧します。今後、活火山への登山規制をどうするか、研究予知体制をどうするかは、山国である日本にとって、重要な課題になるかも知れません。
だいたい、同情できないとか言う人は、基本的に山登りが好きなタイプでなく、近くにもいない、どうでもいいと思っている人だと思いますが、では山登りが好きな人が社会に一定数いて、社会を共生し、税金等の負担を分かち合って生きているという意識がないんでしょうか。自分の興味ないことに、無関心なのはまだ仕方がないとして、ただ感情的に敵意を向けるようなことは、あってはならないと思うのです。
個人的なつぶやきすら情報拡散してしまう時代だとしても、ある程度の大人が、子供じみたコメントしていることが悲しいと思います。皆さん、どう思いますか。

A 回答 (13件中1~10件)

山の噴火で亡くなってしまった人について誰が悪いなんて言えない事であるのに、ひどいことを一部では言っているんですね。




今回の事は結果的に自然災害で亡くなったという事になるのだと思いますが、たまたま危険な箇所に行ってしまったという事で自己責任、という言葉が出てきてしまうのでしょう。


しかし噴火の予知が難しいと言われながらも火山の微動が前からあった、その日は硫黄の臭いがかなり強かった、など前兆と思えるものがあったということなので、危険予知できなかったのかと悔やまれます。


今回は亡くなった方が多すぎます。

これからは登山についてもっと危険性を知らせていく事が大事になるかと思います。


亡くなった方たちはこういう運命で亡くなってしまった、というとそれまでになってしまうのですが、誰が悪いというのではなく、タイミングが悪かった、危険性について楽観してしまった、危険についての情報がない、などいろいろな要素があって今回の事態に繋がってしまったのだと思います。


自己責任というコメントについては大人が子供じみたことを言っている、というよりも言っている人は冷たい人なのだな、と思いました。

悲しくなってしまいますね。
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この回答へのお礼

今回、いろいろな方の回答を見て、改めて思いを言葉にする難しさを感じました。私の言っていることも、第三者的に見れば「感情論の1つ」に括られてしまうですね。悲しいと言ってるんですから。
私が本当に言いたかったことは、自責か他責か善悪・白黒つけようということではなくて、他人が運悪く、お亡くなりになったら、まず「お悔み」するような社会がいいのではないか、ということでした。何で、他人の責任だと一言も言っていない遺族の方々も含まれる相手に対して、第一声が「自己責任ですよ」「私は同情しませんよ」などと強調して言う必要があるのでしょうか。
限られたコミュニティでやる分には構いませんが、少し社会としての許容度なり、他者への思いやりに欠けた書き込みを多く目にし、それが「悲しい」と思いました。
ただ、そういった意見表明が一定数の根強いものであることも感じ、それが日本のいいところ、自由に意見表面する場があってガス抜きにもなっている、多様性を少しだけ確保している、ということなんだろうなと思いました。
ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/06 13:14

まあ、自己責任というか、所詮他人事だから



ざまあみろって 思ってる人間が多いんですよ

それを言わないのは、いうと叩かれるから。
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>皆さん、どう思いますか。



そもそも今回の災害に対して「自己責任」という
言葉を使うこと自体に違和感を感じています。

スポーツにおいては「怪我と弁当は自分持ち」という名の
自己責任が発生します。

登山においては、不慮の事故や悪天候などによる
被災までは自己責任の範疇内で、
自己責任とはリスクを把握し、分析したうえで
なおかつそのリスクを自己の責任において負う。
ということですから、

今回の噴火は、専門家さえまったく予期しない前兆のない
ものでしたから、リスクのとりようもありません。
(浅間山など噴煙をあげている山への登山ならともかくです)

これを自己責任と言うのであれば、
富士山が爆発すればその周辺に住んでいるのも自己責任、
関東に直下型地震が起こればそれも自己責任、
そもそも日本に住んでいること自体を自己責任とせねばなりません。
今回の被災はそれよりも予測不能な不幸な災害なのですから。

日本にはもともとこの手の冒険だとか、自己責任の伴う
行為自体に経験が未熟で、レベルの高い識者でさえも、
自己責任という言葉の使い方を間違えているような
節が見受けられます。

前にイラクでジャーナリストが人質になった際の
「自己責任」の使い方にも大いに違和感を持ったものです。
マスメディアでさえもよくわかっていない。
といったところなのでしょうか。

他人の不幸に同情できないような程度の低い人については
コメントのしようもありません。
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義務でも仕事でも無くて個人の趣味で登山した人が


自己責任なのは疑問の余地無く当然至極。
責任は無いと否定するのは何でも人や国のせいにする

無責任論者。個人の趣味まで国のせいにして亜歩だよね。
そんな者がサンダルにスカートで山に登るんだよ・・・
午後の3時に山頂目指して登る亜歩は多いんだ。

山登り人間から見ても亜歩が多すぎるのが近年の登山界。
死亡した人達が誰かに悪い事をした訳で無いのは確実。
ただし死亡を他人のせいにするのは不適当。

悪人では無いけれど誰かに補償や責任を求めるのは不可。
それを自己責任と表現しているのだろうね。

自己責任という単語を悪口としか理解できないのは幼子だよ。
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自己責任論の是非は何とも言い難いですが、確実に言えることは多くの登山者が、御嶽山が7年前に噴火したばかりの活火山であるということを知っていなかった、あるいは知りながらも楽観視して登山してしまった、ということだと思います。



活火山の周知不足は、気象庁や管理者や自治体の責任の他に、地元観光業への配慮という重要な背景があります。
御嶽の麓の王滝村や木曽町、下呂は、観光業、飲食業で成り立っていると言っても過言ではないです。
当然、山小屋や山荘も数多くあります。

気象庁やメディアが御嶽が活火山であることを徹底的に周知すれば、当然客足は落ちるでしょう。
冬場は本格的な登山者しか来ませんから、夏休みや秋の紅葉シーズンが勝負どころです。
そこで入山規制や噴火危険レベルを上げるようなことがあれば、地元の観光業は深刻なダメージを受けます。
気象庁は、「規制をかけたが噴火しない」→「地元の怒りを買い責任問題に発展する」というシナリオを避ける為に、あえてレベル1のままにした可能性もあります。
京都大の教授も「観光シーズンでなければ危険レベルを(2以上に)上げた」と言っているくらいですから。

個人的には、今回の御嶽の登山者や犠牲者に、自己責任というものは当てはまらないとは思います。
しかし、遺族の何人かは「登山好きなのでいつかこうなるのではと思っていた」と話す方もいるように、ある程度は身の危険を覚悟しなければいけない趣味なのかもしれません。
私もたまに家族を連れて近くの低い山などにピクニック感覚で行きますが、標高が高い山や火山系は避けていました。
なぜかといえば、たとえ事が起きても、家族全員が必ず助かる保証が低くなると思っているからです。
噴火は想定していませんでしたが、落石や天候急変の遭難や滑落など、レベルが上がる程危険も高くなります。

とはいえ、やはりレベルを上げることのできなかった気象庁には大きな過失があると思います。
ただ、今回の登山者の方々にも、前述の地元観光業への配慮といった第三者的な視点から登山を考え、慎重な決断を下せていれば…という思いもあります。
メディアは事後しきりにどこかに責任を負わせる論調を取っていますが、噴火前まではしきりに登山番組や山ガールなどといった宣伝ばかり取り上げ、陰の部分を隠し通していたわけですからね。

結局、自然を相手に経済と安全の2つは両立できないのかもしれません。
と同時に、我々登山者も、自身の欲望と安全を両立させることは難しいのでしょう。
「二兎を追う者は一兎も得ず」ということわざもあります。
欲と安全を天秤にかけて判断してみる、または欲を出しつつも、いかに安全を頭に入れて安全な判断ができるかということが、登山者たちに突き付けられているのかもしれませんね。
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冬山登山、高標高山岳登山や波浪時での高波の波乗り。


これらも含め
すべてのレジャーには「自己責任」が付いてくるのは
間違いないと感じます。
また、それらをどう感じているかは、個々の感覚では。

登山を否定する意見に、
過敏な反応をするべきでもないとも感じますよ。

あなたが感じる悲しい気持ちに、同じ感覚を持つ方も居れば
登山を否定する感覚に、同じ感覚を持つ方も居るのが
現状なのですから・・・。
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不運にして亡くなられた方々に同情し、お悔やみの気持ちを持つのは、人間として当然のことです。

私を含めてそう思わない人はいないでしょう。
そのことと行為に対する自己責任は別問題です。私は登山が趣味ですが、山に登るのは危険なことだという意識を常に持っています。もし遭難したら誰の責任でもなくすべて自分の責任だと思っています。そう思わない人は山に登るべきでないとも考えています。
噴火を含めて山の遭難は、他に加害者や責任者がいる交通事故や航空機事故とは違います。そのことを分けて議論しないと、今回のような大量遭難は避けられません。今回の大量遭難は、噴火という異常事態が原因でもありますが、行きすぎた登山ブームが招いた悲劇であることは否定できません。3千メートルの頂上付近に数百人もの登山者がいたことがそもそもおかしいのです。そのために大量の遭難者を出しました。3千メートルの頂上に数百人もいるなんて。日本以外の山ではあり得ないことです。そう言う意識を持たないでただ同情だけしていたら、今回のような大量遭難が再び起きるでしょう。もっとも心配なのは富士山です。毎日一万人もの登山者が登っているのは異常を通り越しています。この状態を放置していると、噴火がなくてもそのうち間違いが起きるでしょう。
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まあ、一般に考えると自己責任だから被害にあったなら、被害後は既にその罰を受けた結果であるという考え方になりますので、最悪の結果(死亡)では自己責任論は失われるのですけど。

自己責任は、死んだ人には適用できませんから。
そもそも、亡くなっていようが生きていようが、被害を受けると言うことは、何らかの形で責任を受けたことになります。後は、それを社会または個人が相応と見るか、過剰と見るか、少ないと見るかになるかと思います。そして、それは人によって考え方が違って当然ですので、敵意を持ってなのか、警告として戒めるつもりなのか、いろいろ考えて相手を見るべきかとおもいます。

私は、全ての責任論者が被害に遭われた方に敵意をもって述べているとは思えませんが・・・。
統計を出しているわけではないので、どの程度のものかは分かりませんけど。

本題です。

これは、噴火に限らず人の考え方の違いを如実に示しているわけで果たしてリテラシーが機能していないほど悪い状況と言えるかは分かりません。Webの場合は、自分が好んで見る情報によって集まる人は違いますから・・・。Webサイトはそういう意味では、とても判断が難しいのです。自分で情報を検索しますから・・・。(エボラ 問題ないと検索するのと、エボラ 人類滅びる で検索するのでは違う結果が出てくるはずです。)

たとえば、質問者様はアメリカで子供が親の拳銃を誤って暴発させ人を殺害したら、それは親の管理責任と思うか、それとも子供の責任と思うか・・・それ以外の責任か・・・どれでしょうか?
それに対して、どう思いどう述べたいか・・・。

同様にして、アニメや漫画好きなひとが、人を殺したという報道があり、それに対してアニメ漫画を見る人は危険だという意見は、どうでしょうか?危険ではないひとくくりにするなという意見はどうですか?

状況批判というのは、比較的誰でもできます。私でも質問者様でも・・・。誰かがあれが悪い。ここが悪いと言ってそれを信じれば良いわけです。また、自分のこれまでの経験上、切り捨てることも、信じることもあるでしょう。要はその時々でしっかり吟味することは多くの場合はありません。あくまで自分の主観の中でどう考えるかだけなのです。だから、自分とは違う批判をする人が出るのはある程度の量で発生するのです。後は、自分たちから見て、少数か多数かという違いになります。

と、私は思っています。まあ、これに対して言論の自由を制限したいといったことがあるなら、別です。そうでなければある程度はあって然りです。むしろ、全くなければ怖いことになります。私は、これについては被害にあった人が悪いとは思いませんけど。それを理由に、周りからの責任論を批判するのも必ずしも、的を射ているとは思いません。

要は、責任の所在云々ではなく、自分がその立場になる可能性が他の分野であったときに、それは自分の責任だから必ず自分で切り抜ける仕方ないと思うか、それとも多くの人に救助されて良かったねと言われたいかという考え方の問題とも言えるかも知れません。


Q/社会参画意識とメディアリテラシーが足りないんじゃないか?

A/たとえば、男女共同参画社会の定義は、男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会を意味しますが、ここには共にとあるように、即ち責任は当人にも周りにもあるのです。

だとすれば、批判する人にもされる側にもあるのです。ただし、される側が既に病気や事件事故で失墜しているなら、既に責任の問題からは外れている可能性があります。それでも、批判する人がいるのは、それでは不足であると思う人がそうするのです。これが社会における抑止力や政治力に影響するSocial Action(社会行為/ソーシャルアクション)になります。これは、意見の形骸化や画一化の抑止という意味で機能しますので、ある程度は発生する因子です。今回が多いかどうかは分かりませんが、近年は報道そのものがワイドショーになっていますので、コメンテーターの意見に偏りが生じやすいのは確かでしょう。

メディアリテラシーは、本来は情報媒体から情報を判断する力を意味しますが、リテラシーという観点で考えると、感情的に敵意を向ける人に、感情的な反対論(哀しい、悔しい、腹が立つなど全て感情です)を言う人は、その人もリテラシーが問われる恐れがあります。

リテラシーの前提は、情報の真偽を見極める力を持っているかどうかですから、感情論とは別の者であると考えた方が良いでしょう。


Q/同情できないとか言う人は、基本的に山登りが好きなタイプでなく、近くにもいない、どうでもいいと思っている人では?

A/これが質問において、とても残念な部分かと思います。まあ、メディアリテラシーという記載がなければ、これでもOKですけど。

そうとは限らなかったとしたらどうでしょうか?もし、山登りが好きな人が、私はこうやってきた。安全性はこうやって確認している。でも、山はよく登りますという人がそういうやはり自分の責任を持っていないと発言をしていたらどうなりますか?メディアリテラシーとして言えば、思っている人が確実に多いと断言できるだけの情報を入手し、それを証明したときにリテラシーを判断できていると言えるかも知れませんが、その率が明確でなければ・・・リテラシーの操作を目指した行動です。
悲しさや同情という感情を元に、未確認のリテラシーを振りかざしたと言われるかも知れません。


Q/自分の興味ないことに、無関心なのはまだ仕方がないとして、ただ感情的に敵意を向けるようなことは、あってはならない。

A/その通りです。
自分の正しさに使う時には、本当に綿密に情報を集めて最終的な結論を提示しないといけません。即ち、正しさを振りかざすには必ず、真偽を明確に示せる情報がないとリテラシーがないことを意味するのです。下手をすると、反対の意見を持つ人の感情を逆撫でする恐れもあります。

という考え方もできます。
感情としてそれを出すのは決して悪いとは思いません。それが意見であるなら・・・ただ、リテラシーという観点で見るなら、感情論に対して感情論でリテラシーを説いても難しいように思います。あくまで、理屈として、これは責任にはならないのではないかという、自分なりの理論を提唱した方が良いとおもいます。

私の場合は、死んでもそこに埋まったままでもOKなんで放置してくれというなら、かまわないと思いますし、また絶対に自分は行かないからという人が、そういうのは仕方がないと思います。ただ、意見を正当化するだけの理由もなく、何となく周りに同調するなら、意見を持って行動すべきかと思います。
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「自己責任だ」との主張自体は、客観的には当を得ていると思います。


問題は、どんな立場の人が、何を意図しての発言なのかという点にあると思います。
どんな山でも、落石とか転落、足を滑らせての骨折などの危険は、常に心掛けておく必要があり、天候急変などもよく有ることです。
「自己責任」論は、時と場合、場所と立場を弁えて使うべきです。かって、朝日新聞記者が右翼的暴力団に射殺されるなどの事件がありましたが、「不用意な記事を書くからやられた。自己責任だ」などと公安関係者が発言したら、一大政治問題、内閣が吹き飛ぶかも知れません。
反面、今は秋の行楽シーズン、観光業者や観光地の商店、宿泊業者にとってはかき入れ時。それだけに、入山規制や避難指示の多発は避けて欲しい所です。
国も地方も、防災関係者はその事にも配慮せざるを得ません。かといって、『危険性はあるが自己責任で』などとも云えないわけです。
天候悪化が予報されていても軽装で登山する人、強風注意報下でボートで釣りをする人、波浪注意報を知りながら磯釣りする人、雷注意報下で海水浴客が落雷で死んだ、等等、命知らずとしか言えない人も少なく有りません。
救助の人達にも危険が及ぶ行為は十分に謹んで貰いたいし、防災機関も人命最優先で対処して欲しいし、マスコミには命を守る上での知識の普及にもっと勢力をさいて貰いたいと・・・・。
報道に接する度に、深く考えさせられます。

民主党の「仕分け」で火山観測が打ち切られた・・・は、根も葉もないウソです。
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むしろ批判するのが正論では?


そもそも山なんかに登る意味が理解できません
まして火山ですよ?
むざむざ自殺しに行くようなものです


街に暮らしていて火山の噴火に巻き込まれて死んだなら同情は出来ます
しかし山に登りに行って噴火に巻き込まれて死んだ人は正直言って自業自得だしかわいそうだとも思いません
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