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今更ながらに「スウィートヒアアフター」をビデオで借りて見ました。
雪深い田舎町で起こったバス事件に関わる土地の人々の話ですが、分かるような分からないような。
結局私の理解力のせいか、いまいち結末の意味がわかりませんでした。どなたかこの映画を見た方、ご自分なりの解釈で良いので教えていただけませんか?

A 回答 (3件)

 雪景色にスクールバスの黄色というコントラストがとても詩的な印象を残し、作り手の息遣いが聴こえてくるような、絶妙のリズムを持った作品だ。

ここでは時制はほぼ三つに分かれている。冒頭のタイトルに登場する午睡をとる裸の親子三人の映像は、オレンジがかった色合いを使い、原初的な人間の姿を想起させる。これは、後になって、弁護士スティーブンス、別れた妻、娘ゾーイの3歳の時の姿と判る。これは現在から20年以上は遡った時点の話になり、三つの主な時制には入らない。その頃の出来事を現す映像は、この午睡のシーンとゾーイの体が急に腫れて、60キロ離れた病院まで必死の思いで車で移送する際のゾーイの顔の描写しか出てこないからである。しかし、このほとんど静止している画像のシーンは、スティーブンスの精神的原点を示しており、大変重要である。現在のゾーイは麻薬中毒で、たびたび父に電話をしては、金をせびる。ついにはエイズに感染していることまで父は知らされる。3歳の頃のゾーイの映像を忘れることができない父はやりきれない。愛憎半ばする思いだ。そういう閉塞状況にある父の心理が、冒頭の洗車機内の車からゾーイと携帯電話で話すスティーブンスの描写から痛いように判る。これが1995年12月のことだ。彼は、スクールバスが川に落ちて、21人の子供が死んだ事故について、バス会社と学校を訴えるよう遺族である保護者たちを動かそうとその村に向う。モーテルに泊り、経営者のウォーカー夫妻の話を聞くが、保護者たちの多くは問題を抱えており、品行方正な夫妻としてインディアンの養子をこの事故で亡くした芸術家のオットー夫妻を紹介される〔もっとも、ウォーカー氏の妻は、やもめのビリーと不倫関係にあったのだと後で判る〕。悲しみにくれるオットー夫妻を説得して、訴訟に持ち込もうとするスティーブンスは、正義感にあふれる弁護士という印象が強く、最後のニコール〔彼女はビリーの子供である双子のベビーシッターをしており、運転手のドロレスと二人だけ一命を取り留めたが、車椅子での生活を余儀なくされた〕の証言による大逆転が何か話の流れにそぐわないような気がするが、作者たちの視点は、大人によって犠牲になるのはいつも子供だという観念によって貫かれていたようである。過去に遡る時制、事故の日の朝からの描写は、雪景色にスクールバスである。そのバスを毎朝追いかけるビリーの車は、数年前癌で妻を亡くし、双子しかない彼のせつなさを示しているが、喪失感はウォーカー氏の妻リサとの不倫という形になって現れもする。まだ少女の面影を残すニコールに亡き妻の着ていた服をプレゼントするという場面もある。とても優しいことが父親としての関係を履き違えることにもつながって行くニコールの父サム。結局、ニコールは、訴訟に踏み切ろうとするサムを切り捨てて、訴訟をやめてほしいと主張するビリーの側に立つ。最後の時制、それは1997年11月29日の飛行機の中だ。スティーブンスは疲れた顔で、ファースト・クラスの座席にいる。隣の麗しき女性が彼に話しかける。ゾーイの友達だと言うが、久しく会っておらず、麻薬中毒のことは知らない。ワインを傾けるうちに、スティーブンスは、娘ゾーイへのせん方もない思いを隣に座るアリソンにぶつけることになる。アリソンは真っ当で、実に素晴らしい非のうちどころのない女性に見える。アリソンとスティーブンスはとてもうまく行くように思われる。これが親子だったら理想的だ。ところが、実の親子となるとうまく行かない。ニコールとビリーはうまく行くのに、サムとは駄目なように。バスの事故で死んでしまった子供たちは、大人の犠牲になったと言える一方、成長を止められたことで、それ以降大人からの圧力の犠牲になる必要はもはやなくなった。さらに成長を続けて、破綻した例は、先に挙げた通りだ。ここでは主に三つの時制が、交互にほとんど予告なく、連鎖的に繋げられて行く。このぶっきらぼうで、静かなフィルムは、ニコールが双子にお休みを言って、窓に近付いて行くと、通り過ぎる車のライトで鮮やかにシルエットが浮び上がるラストで、意外にくっきりと締めくくられる。何か宗教的な祈りを感じさせる終末である。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございます。説明して頂いたことを頭に入れてもう一度今夜見てみることにします。
そうですね、複雑に3つの時世が絡み合っていましたよね。この映画は何度もご覧になられたのでしょうか?
好きな雰囲気の映画だけにちゃんと理解して納得したいと思います。

お礼日時:2004/06/23 19:55

わたしもこれは劇場で観たのですが、かなり解釈に苦しみました。



わたしにとって一番のネックは、なぜニコールが最後に嘘をついたか、でした。

思うに、彼女はこの映画のモチーフとして使われている「ハメルンの笛吹き」の最後にひとりだけ取り残された少年の“役割”を果たしたのではないかと。
(バス事故でひとりだけ助かったニコールは、あの物語の少年の位置にいると考えられます)

つまりあの弁護士さんが笛吹きの役で、町中の人を喚起させて訴訟を起こそうとする。(=子供を連れて行く笛吹き)

でも町の静寂と安定をニコールが嘘をつくことで、取り戻した。

子供を失った人々のかなしみはなくなりはしないけれど、最後のニコールのモノローグに
「その町には独特のしきたりと法があり、人々はおだやかな日々を生きている」
とあるのが、すべてを語っているように思われます。

それぞれの複雑な父娘関係、不倫など織り交ぜながらも、その町は静かに息づいていくんだろうな…と、ちょっとある意味怖い映画でしたね。

結局あの弁護士は異邦人の笛吹きだったのでしょう。

と、自分なりの解釈でした^^
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この回答へのお礼

分かりやすくご説明ありがとうございます。
何となく不思議な雰囲気の映画ですよね、ぎゃあぎゃあと人を驚かすサスペンスより、恐い気がしました。

>「その町には独特のしきたりと法があり、人々はおだやかな日々を生きている」、、ニコールはこれを望んだってことですよね。

お礼日時:2004/06/23 20:04

回答ではありません



いくらなんでも1さんの文章読みにくすぎますぅ。
改行・1行あけよろしくお願いします。
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