性格いい人が優勝

わが鐘を撞かれたら その度合いや撞き方にしたがって わが鐘の音をそのまま成り響かせるだけ。

 これが さとりなる境地ではないのか?

質問者からの補足コメント

  • ▲ http://www.etymonline.com/index.php?term=silly&a …
     silly (adj.)
     原義は《たのしい》:Old English:gesælig "happy, fortuitous, prosperous
     German :selig "blessed, happy, blissful,"

     語義の変遷:"happy" >"blessed" >"pious," > "innocent" (c. 1200年),
     >"harmless," > "pitiable" (late 13c.), "weak" (c. 1300),
     > "feeble in mind, lacking in reason, foolish" (1570s).

     ☆ 《知らぬが仏》ではなく《至福は無知》になった?

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/16 11:43
  • №11お礼欄で:
     ☆☆ この神論は 自慢して言えば 誰もまだ言っていません。
     ☆ と書きましたが でも 《神は インチキでなければ どんな名の神でも・誰にとっても 同じひとつである》ということは 日本人にはきわめて自然で理屈抜きにふつうに心得ていることだと思います。よね。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/19 22:36
  • 【Q:法螺吹き・・・】のほうは 気づいたら 運営サポートのほうから締め切られていました。

     長い時間――十日ほどでしょうか――やり取りがなかったからなのでしょうか。

     そういう事情です。


     そろそろあたらしい問い求めにすすめればよいなとは思っています。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/10/25 06:21

A 回答 (16件中1~10件)

やっとわかりました。


わかったといっても、感覚的なもので、長い時間と多大な
労力をかけて作り上げたであろう理論を理解したというこ
とでは残念ながらありません。

この世は、無数のいわゆる霊的なものが、電波の存在と同
じように存在し、人々の生き方に影響を及ぼしているもの
だと思っています。
ですから、「お告げがあった」とか「何かが降りてきた」
とかいう人がいますが、その中には本物があると思います。

私自身、正夢がよくありますし、ヒラメキが多いですし、
UFOらしきものを、ついこの間も見ました。

だからといって、私に特別な能力があるなどとは思いませ
ん。こういうことはごく普通にあるものだということです。
ちょうど、氷山の海面下の部分がそれだと言えるのだと思
います。

問題は、その「受け容れる」ものは、全く主観的なもので
あるということです。
分からないわけですから、「神」ではなく何か別のものと
「感応」しているかも知れないと思うんです。

それから、「元気になる」だけじゃ、なんかつまんないな
あ。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


 《主観》―ーの問題。
  
 その内面がゆたかになればよいわけです。
 その確信において《わたしがわたしである》という自己還帰が成ればよいわけです。
 少々脱線しても ふたたび容易に立ち戻ることができるようであればよいはずです。

 しかも それが どこまでも主観的なものにとどまるというわきまえがあれば つまづくこともないと考えます。
 《心の明け》――心は けっして閉じないということ。

 《受け容れたナゾ》は 非知。受け容れる行為は わが意志行為で経験行為である。
 その結果 非思考の庭から ヒラメキという経験的な直観が得られる。

 そこから自分の世界観を すこやかで元気なものに育てて行ければよいのではないでしょうか。

お礼日時:2015/10/24 21:38

私のような素人に、懇切丁寧な解説をいただき


ありがとうございました。
おかげさまで、一応の理解に至りました。

世の中、無認識の評価があまりにも多いと思っ
ています。
それは、傲慢さゆえの「きめつけ」でしかない
と思います。
ですから私はできる限り、相手の心の中を理解
したいと思ってきたのですが、これが結構失敗
が多かったです。

bragelloneさんと渡り合える力をつけたいと思
っていますが、一方ここでの言論の意義も考え
てもいます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

わたしもさらに問い求めについて考えてまいります。

 《生命》あるいは《アマラ識》のことなどはっきりさせられればよいかと思います。

 しっかりと尋ねていただいてたのしかったです。

 互いにまたあらたな出発をして行きましょう。

 ご回答をありがとうございました。

 それではまた。

お礼日時:2015/10/26 15:08

まだ締められていなかったのできてみました。



東洋哲学に関連付けて理解しようとしましたが
余計ややこしくなりそうなので、ひとまずこれ
は置いておいて、ごく平易に考えたいと思いま
す。

「ブラジュ神論」は「信仰論」ともいえると思
います。

非経験の場に「神」を受け入れたとき(信じるか
信じないかどちらか)に「非思考の庭」が成る。
特定の宗教があろうがなかろうがそれは関係な
い。それで信仰というものが成り立つ。

私がこの信仰に「帰依」したいと思った時には
どうしたらいいのでしょうか?つまり、「非経
験の場に神を受け入れるとは、具体的にどのよ
うな事なのでしょうか?
また、この信仰による「御利益」はどのような
ものなのでしょうか?
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご利益は 《元気が出る。元気になる》です。もともとこの宇宙にそういう場としてのチカラがあるとしたなら。

 ご回答をありがとうございます。

 イエスは 汲めども尽きない水が泉から湧き出るように 《身と心との自然本性 ぷらすアルファ》としてのチカラが出るというふうに言ったはずです。

 どうすれば信じることになるのか?

 けっきょくすでにそのチカラにつつまれている。あるいはそのチカラがやどっている。――とすれば そのことの自覚が得られたなら それでよいのではないでしょうか。

 気づかなければ 気づかないまま時は過ぎて行くということでしょうね。


 かつては 次のように説明していました。
 すなわち 或る日或る時ナゾの何ものかが わたしの心の窓をノックする。これに気づいて その声なら声をわたしはわが心に受け容れる。――これで(つまり 受け容れたなら) 非思考の庭は成った。すでに潜在していたものが 顕在化したと。

 わたしは アウグスティヌスをつうじてパウロを経て聖書のキリスト・イエスの指し示したそのナゾを知り 或る日或る時受け容れました。

 きっかけは 人さまざまではないかと思います。
 世界のすべての出来事が 言わば神から送られたわれわれへのメールです。ので。

 自分の意志行為として《受け容れる》ことをおこないますが 《帰依》といった概念や指示があってそれに従うというものではないと思います。

 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~

   自然といふは

   《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。
   《然》といふは しからしむといふことばなり。

   しからしむといふは行者のはからひにあらず 
   如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
 
     * 爾(に・じ):しかり。そうである。

 ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~

   自己を運びて万法を修証するを迷とす。

   万法進みて自己を修証するは悟りなり。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/10/24 17:22

雑用に追われ、思索が進まない時があります。



難しくて、理解が進みません。
私が少し知っている、東洋哲学の概念と関連付
けて理解しようとしています。

「非思考の庭」というのは、九識論でいう「阿
摩羅識」のようなものなのですか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

Thanks.
 ☆☆ (【Q:仏性は 生命なのですか? 霊なのでは?】回答№28お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8070926.html

 質問するかたちで確認させてください。

 (あ) アマラ識=九識心王真如の都 これは 一念(念心)として一念三千の諸相をふくむ。ゆえに仏性をも含む。
   ――こういうことだと理解しましたが それでもそのとき 《この一念三千なるけっきょく世界全体と対応するかたちでその世界のあたかも源泉になっているようなアマラ識》は 仏性がある(または仏性である)ゆえにこそ そのような源泉性なるチカラをはたらかすことが出来る。のではないでしょうか?

 (い) 別の言葉で言いかえるなら 《仏性》は 十界のひとつに位置するだけではなく 十界や十界互具や一念三千の全体を成り立たせるチカラ(つまり前項の《源泉》)であるのではないか?

 (う) わが心の《非思考の庭》には仏性がやどる。のですが 仏界のほかの九界は 言わば《思考の緑野および感性の原野》(つまりは 経験領域)と対応している。と見られる。したがって 十界互具や一念三千なる全体世界は 《非思考の庭》と《思考の緑野および感性の原野》とのまとまった全体と対応している。――こう見られないか?

 (え) もしこのように考えてくるなら 見方がふたとおりあると思われる。
 すなわち 仏性を 十界のひとつとしての仏界としてだけ捉えるなら

  ■ アマラ識=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 > 仏性

 が成り立つ。しかも同時に もし仏性をアマラ識と同じように一念三千の全体世界を成り立たせる源泉だと広義に捉えるなら

  ○ アマラ識=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 = 仏性

 がけっきょく成り立つ。のではないか?

 (お) 言いかえると 《生命》についても同じことが言えるはずだ。

  生命:狭義として・・・如来蔵=アマラ識
     中広義として・・・一念三千の世界の内の生物
     広義として・・・・一念三千なる世界の全体

  仏性:狭義として・・・十界の内の仏界
     広義として・・・如来蔵=アマラ識(これは 一念三千の源泉である)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/10/22 14:31

さっき、頭から湯気が出て目が回りそうになりました。


よほど頭が鈍っていたんですね。

「非経験の場」は今はそのように理解しておくよりない
と思いました。

「不可知」が分かれば多分、分かるということですね。
考えてみたら、「不可知」とは随分曖昧な概念に思えま
す。
「認識は不可能」だと、誰がいつ決めるのか?
単なる「未知」かも知れないし、時代によって変わるか
も知れない。
どのように理解すべきでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 不可知について:
 ★ 「認識は不可能」だと、誰がいつ決めるのか?
 ☆ わたしが理系にうといのですが 次のような回答をもらったことがあります。:
 【Q:神について】http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8303587.html
 ◆(回答№6) ~~~~~~~~~~~~~~~
 不可知’の前回のご説明は、私は受け入れられます。

 特に数学ではそうですね。例えば、結晶の成長の法則を記述する数式は、3角や4角では出来ても5重対称性のものは記述できない。自然界には見付かったけど、原理が解らない、アルゴリズムが原理的に書けないのです。それは不可知と言えるでしょう。

 超越数’(円周率や自然対数の底e等)をWikiでみると、超越数かどうか解らないモノが有るそうで、これは「解るか解らないか」も判らないモノでしょうか?まるで非知’みたいです。いつか判明するかも?と言う意味では未知とも言えそう、。私はこれも不可知として良いとは思う。 しかし、数学と哲学は事情が違うようです。

 不可知論’で検索の最初に出てるWikiやコトバンクでは、Agnosticismの訳語であり、人間の経験を越えた問題・事象としてますね。すると不可知’も<経験事象>ではない事になります。〔質問〕主様が仰る「可知か不可知の判断自体は経験事象」という事になる。 

 私自身は「神は非知」とするのには賛成できますが、この御質問で問われてるのは{共通認識}ですので私達の意見が通るかは不明です。拘ってはいけないと思う。もしご不満が御ありでしたら、Wikiの記述をもっと厳密に書き換える事、お勧めします。書き足すのは容易なようですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ヰキぺの説明については 超経験が《知り得ないと知り得た》とすれば 知り得た限りでその対象が経験事象であるはずですから 超経験ではなくなります。
 《原理が分からないけれど 自然界において見つかっている》のは 明らかに不可知でしょう。やがて知られるようになれば それは 未知であったに過ぎないとなります。
 ★ 「不可知」とは随分曖昧な概念に思えます。
 ☆ と同時に 神が《知り得ないと知り得た》すなわち《不可知》だとは言えないということ。これが 大事だと思います。

お礼日時:2015/10/20 23:19

まずは、「経験事象」と「非経験の場」の区別がはっきり


分かりません。
因果関係がつながっているか、いないかがそのラインにな
るのでしょうか?

例えば

タイムスリップした世界を想像した。
UFOに遭遇した。
幽霊を見た。
自分が、ノーベル賞をもらった空想をした。

これらは、「非経験の場」であると思われます。

彼女の裸を想像した。
人の心がわからない。(非可知)
人生の目標を立てる。
自分が結婚することを考えた。

これらは、「経験事象」に含まれると思います。

素人丸出しですが、いかがでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 基本的には 経験世界では ものごとが有るか無いかどちらかで決まるはずです。
 ものごとが原因と結果とで――たとえ分からなくても――つながっていると見られます。

 非経験の場は この有る無いを超えている・または因果関係から自由であると想定した場です。

 したがって 要するに神は 有るとも言えるし無いとも――同じ程度で――言える。人によって・その主観によって・さらには考えを変えることにもよって 《神は有る》と受け留める場合もあれば 《神は無い》と判断したという場合もあります。

 因果関係から自由な場ないしそのチカラだということは 因果関係で成り立っている経験世界に ひょっとしたら介入して来ているかも知れない。と言えます。いやいや そんなことはないだろう。とも言えます。どちらも決定的な根拠はありません。

 経験世界を超えているということは たとえばあたかもニュートリノのごとく神の霊は この経験世界をつらぬき走っているかも知れない。
 あるいは エーテルのごとく経験世界を覆っているかも分からない。
 あるいは 神の霊――非経験の場――は われわれ一人ひとりの心に あたかもあの絵画のごとく指先がそっと触れるかのように近づいて来ているのかも分からない。
 あるいはそして 神とか霊とかという非経験の場は まるでまぼろしであるということかも分からない。

 さらにあるいは 有無を超え因果関係に左右されないということは 誰かが或る時 おれは神を見たと言ったとしても ただちにそのことをインチキであるとは 誰も言えない。しかもそのことは そうそのまま表明してもよいけれど・そしてそれに同調する人が出ても構わないけれど そのように《非経験の場》が経験事象のように《見えた》ということが 普遍的に決まるということはない。わけです。主観の内にとどまる。

 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》なのですから。

 タイムスリップ以下のことは 《未経験》つまり《未知 として可知》なのだと思います。
 幽霊は 遺されている人の心や気持ちに なぜか起こる心理的な現象ではないかと。

 ★ 人の心がわからない。(非可知)
 ☆ これもそのまま ほかの裸や目標・結婚と同じく経験事象なはずです。たぶんこの心については既知の部分と未知の部分とがある。のでは?

お礼日時:2015/10/20 16:07

これ以上できないというくらいの分かりやすい


解説だと思うのですが、分かった気がする、と
いう程度であるのは、そもそも「可知」とか「
不可知」という言葉すら知らなかったど素人な
のでお許しを。

こんな人間が相手では、申し訳ないと思いつつ、
bragelloneさんの、尋常でない思索の深さを感じ
尋常でない知に対する貪欲さに驚き、その創造力
に魅かれている訳です。

「われわれはにんげんの前史を‥」の質問などは
誰が答えられるのだろうと思ってしまいます。私
などには無理です。(でも、入り込むかも知れませ
ん)

本題ですが、色々読んでいたら、頭が一杯になっ
てしまいましたので、小休止です。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 神は いやしくも神であるなら 人間の誰にとっても同じひとつの普遍神であるしかない。
 ただし その名前は自由に人間たるワタシがつけても構わない。
 命名の違いによって 普遍神がどうにかなるといった気遣いはあり得ない。
 (もっと言えば 人間が神をけなそうがののしろうが 神にとっては痛くも痒くもない)。
 しかも 《有る神》の名前が民族の言語ごとに違っていても同じひとつの普遍神のことを言っているのと同じように 《無い神》としてもまったく同じである。
 普遍神は 有る無いを超えている《非経験の場》のことであり 《人間には分かるか分からないかが分からないナゾたる非知》として説明される。

 ――この神論は 自慢して言えば 誰もまだ言っていません。
 わづかに 次のような似た議論に出会っているだけです。:

▲ (山本巍:神とは何か?) ~~~~~~~~~~
 《神は何であるか》 人間はこれを把握できるであろうか。しかしそれは・・・《神が何であるか》という問題そのものが理解しがたいということではなかろうか。

 それは理解不可能性自体が把握できないことである。

 人は《神が何であるか》を掴めない。しかしその掴み不可能性自体が掴めない( incomprehensibilis incomprehensibilitas )。

 (山本巍:第一章 聖書の言語宇宙――ソクラテスとイエス in 宮本久雄・大貫隆・山本巍共著:『聖書の言語を超えて―ソクラテス・イエス・グノーシス』1997  pp.105-106 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾ》と似ています。《つかめるか掴めないかが掴めない》という意味ですから。
 残念ながら その本には出典が書いてありませんでした。西欧の人間が書いたものだと思われますが。

 OKヱーヴないしgooで 十年ほどこの神論をやっています。
 わたしには肩書きがありませんから 中身で勝負です。

 ぼちぼちしかも着実にまいりましょうか。

お礼日時:2015/10/19 22:05

極めて難しい問題です。

今の私にとってはこれを理解する
ということは、富士山を持ち上げるようなものです。
しかし、「持ち上げてみたい」と思うところが、私がド阿
呆と呼ばれる所以でもあります。

「非知」という概念は未だ理解できません。
「仏性」「仏界」というものは、一般の人にとっては永久
に分からないだろうとは思います。しかし、「非知」のも
のとしてしまうということが、分からないのです。

「非思考の庭」とは「信ずること」、「真理」というもの
は所詮は信ずる以外にないという意味では、理解できます。
その「信ずること」が即ち「信仰」であると。そして、人
は「信仰」を持つべきであると。

分からないのは、以前の私の質問の回答で仰っていた、「
真理を信ずることと、信じないことは同じである」という
点です。また、これの対極の存在は「関心がない人」とい
うことになるのでしょうか?

「宗教」を否定されているのではなく、宗教の教義を信ず
るということは間違いであり、その奥にある「非知たる真
理」を信ずるべきだということなのでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 末尾のご判断は そのとおりだと思います。
 オシへ(人間の言葉による表現)としての宗教は 人間の考える対象として経験思想であり 無条件に心に受け容れるという意味での信じるものではない。です。

 《不可知》が明確になれば 全部はっきりすると考えます。数学などでくわしい議論があるのでしょうが まづは哲学での定義です。:

 ▲ (goo 辞書:不可知) ~~~~
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/191172/m0u/

 人知では知ることができないこと。また、そのさま。

 ○  ふかちろん【不可知論】《agnosticism》 
 哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。
~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 世界のものごとは 《分かるか分からないかが分かる(経験現象)》と《分かるか分からないかが分からない(非経験の場)》とのふたつに分かれるはずです。
 後者は ただし《そう想定する》ものですから 通常は 《世界 = 経験世界》だけです。

 でも 《経験事象として有るか無いかを超えている あるいは 原因と結果との関係から自由であるという世界》を人間は想像し得ます。二で割っても三で割ってもその商は やはりもとのままであるという《無限 あるいは 絶対》ということをも想像します。

 つまりこの想像を活かして――経験存在でしかない人間にとっての非現実なる現実として世界に含めて捉えるなら―― いまの《非経験の場:それは 分かるか分からないかが分からない非知として説明されるナゾ》を 昔から人びとが言って来た《かみ》に当てる。というものです。

 辞書には《存在は認めるが認識は不可能とする》とありますが そうではなく 《認識が可能か不可能かは人間には分からない》としてわれわれは定義します。《不可能だと分かったもの》は 不可知でありそれは 経験事象です。知り得ないと認識し得たのですから。

 言いかえると 《かみ》の存在は 人間が《認めるか否か》の問題を超えて それとして想定されてしまいます。よってその想定の成った非知を かみは有るか無いかのどちらかで人間は受け取ります。

お礼日時:2015/10/19 10:30

「仏性」ですか。

さあ大変だ。

「一念三千論」は一応知っています。
「十界論」は一応納得できます。
「ああ、確かにそのようだ、と」
しかし、十番目の「仏界」が=「仏性」
と理解していますが、分かるような気が
するのですが、宙に浮いたような理解し
かできないのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《宙に浮いたような》図式で説明してみます。

 ○ われわれ人間の認識する対象についての区分

   経験事象(あなたの質問にある因果関係の世界)
     可知 
       既知
       未知
     不可知 (知り得ないと知った数学の定理のようなもの)
   非経験の場(有無を超え因果関係から自由な場の想定)
     非知 (知り得るか知り得ないかがひとには知り得ないナゾ)

 ○ 非知なる非経験の場――霊と呼べる――を心に受け容れると非思考の庭が成る

   信じる:非思考の庭:ヒラメキ(直観)
   -------------------
   考える:思考の緑野:コギト(精神のハタラキ)
   感じる:感性の原野:直感・知覚

 ☆ この《非思考の庭》に ブッダター(仏性)なり神の霊なりあるいはアートマン(霊我)なりがやどる。または その霊そのものだという想定です。

 十界論や一念三千論では 《経験事象と非経験の場》との区別が はっきりしない嫌いがあるように思います。
 つまりは 両方をふくむということなのでしょう。

 あるいはつまり ボディサトワ(菩薩界)は微妙なようですが いちおう九界は やはり《経験事象》の世界に対応しているはずです。
 つまりは 《思考の緑野 および 感性の原野》なる領域に 九界は対応していると捉えます。

 非思考の庭は 経験世界を超えている〔と想定する〕からには 感じるや考えるではなく 無条件に心に受け容れるという意味での信じるという事態に当たっている。こう考えます。
 つまり 信仰という意味ですが。

 ただし シュウキョウは オシへですから――人間の言葉で表現された思想内容なのですから―― あくまで《考える》問題です。
 シュウキョウを信じるというのは 表現として自己矛盾だと思います。

お礼日時:2015/10/17 22:25

「気がついたら時代が変わっていた」というのが、


私の実感でした。

お人好しのおっちゃんが、イヤミジジイになっちま
っている。優しいと思っていたおばちゃんが、なん
か偉そうだ。
皆、傷付け合っている。私も私が生きている世界で
傷付いている。
自分の身を守ろうとしてばかりいるから、冷たい社
会になってしまったと思います。

30年も前に、人類は「道徳的危機」に陥るだろう、
と言った人がいましたが、その通りになっていると
思います。


余談から入ってしまいましたが、「鐘」ということ
について。

「誰もが自然本性において大きい」
「生まれたときにそなわっている」
ということは、人格とか自我ということよりも、東
洋哲学で説く、「仏性」というような事を仰ってい
るように思うのですが、いかがなものでしょうか?

この哲学カテでも、「自分の中にすべてがある」と
言った人がいましたが、同様のことを言っていると
思っています。

尚、「無作」についてはもう少し思索してみます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 《心が傷つく》問題は 次のように考えています。

 ☆☆ 【Q:他人の言葉で 自分の心が傷つくか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9047457.html
 

 《鐘》の十全な大きさについては おっしゃるとおり《ブッダター(仏性)》のことです。
 あるいは 《自然本性にやどると想定される神の霊》のことです。

 あるいは 信仰論にまで入らないとすれば 人間の潜在的なチカラがあまねくそなわっていると想定した場合です。


 《無作》は 《自然法爾》につうじるかと思っています。
 《絶対他力》とは いったいどういう人間の状態であるのか?

 それには 身と心なる自然本性に さらにプラス・アルファがそなわっているとも見ています。
 感性の原野(=身)や思考の緑野(=心・精神)のほかにさらに 《ナゾの霊》として《非思考の庭》がそなわっていて そこにおいてわれわれはヒラメキ(直感ないし直観)を得る。

 ヒラメキは 人間の《自力》によるとは思えない。うんぬんです。


 昼ごろ戻ります。取り急ぎしたためました。

お礼日時:2015/10/17 09:09

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!