学校でレポートが出たのですが
いまいちよくわかりません

どなたか、わかりやすく
ソシュールやメルロ・ポンティの言う
恣意性について教えてください!!

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。

私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなってしまうのではないでしょうか。どんな風につらいのか、喘息のような息苦しさなのか、ボーッとした不安が続いてつらいのか、次に、気持ちとは何なのか、こころなのか、意識なのか、心臓のあたりなのか、大脳新新皮質のあたりなのか。
 つまり、私たちは、言語は意味されることがしっかり定着しているから言語を使っている、と考えていますが、<意味>することを語るために使用している風に見えながら、その<意味>自体もあいまいで、<意味>されることまでは当然考えて使用していない、ということなのです。

 これらを象徴する例として、私は「鳥の鳴き声」をあげたい、と思います。鳥は何故鳴くのでしょうか?

 それは、恣意なのです。つまり、意味もなくただ鳴きたいから鳴いているのです。自由勝手気ままに、意味もなく、聞かれることも予想せず、ただ鳴いているのです。これが言語は恣意である、という意味なのではないでしょうか。

 私たちは、言語といえば<意味>の上に成り立っている、と考えがちですが、アとカが重なって<アカ>と言い、これで<赤>という意味が成り立っているわけではないのです。たまたま、アオと発語されていないからアカ、と差別化出来るだけのことで、言語は、こうした音の差違に基づいた分別作用でしかないのです。この分別作用が<意味の根拠>になっていくわけですが、これすらも、鳥の鳴き声と同じで、その根幹では、<意味>なく、自分にとって発語することが楽しいから、遊んで鳴いているだけなのかも知れません。ただ、それが、チュンチュンとキーキーで<意味>が違っているな、と想像するだけのことです。

 こうしたことを、言語の恣意性、と言うのではないか、と記憶します。
    • good
    • 6

 これまでの方の回答で言いつくされちゃってますね。


 蛇足ながら……言語の恣意性の例外と考えられることが一点あります。いわゆる擬声語は実際の音を、言語構造に基づく音声で置き換えたものですから、音声とその音声が指し示すものとの間に恣意ではなく必然の結びつきがあるわけで、「コケコッコー」「ココリコ」「クックアドゥードルドゥー」などが互いに似通うわけです。
 それから信号機の赤青黄は恣意的記号の例としては若干不適当ではないでしょうか。赤は可視光線の中では波長が最も長く、人間の視覚にとって一番目だつ色、認識しやすい色であるといわれています。だから危険回避のために最も重要な「止まれ」の意味を示すのに赤色を用いることは意味があるわけです。
    • good
    • 3

 chikasaさん、こんにちは。


 
 言語を「記号」の一種であると考えれば言語表現とそれが表わす意味内容との結び付きは必然的なものではなく、偶然の結び付きであると考えられます。つまり各言語を使用する社会の中で暗黙に取り決められたルールなのです。

 例えば,どの国、地域でも同じはずの「犬」が、日本語では「イヌ(inu)」、英語では「dog」、フランス語では「chien」、フィンランド語では「koira」、中国語では「gou(狗)」、アイヌ語では「seta」などなどというように、それぞれ違った種類の音声あるいは文字の連続で表わされているのは、この「恣意性」の一例です。

 これを何故、「恣意性」、つまり必然的ではなく偶然の結び付きかであるのかと言えば、日本語を使用する社会において「犬」という動物はただ単に「イヌ(inu)」という記号によって他の事物と区別されているに過ぎず、仮に明日からは「ネコ(neko)」と呼ぶことにしても、「ヌイ(nui)」と呼ぶことにしても、社会がそれを認めてしまえば何の不都合もないからです。言語ではない他の記号の例で言えば、信号機の「赤」は「止まれ」を意味していますが,それを明日から「止まれ」を「青」にしようが「黄色」にしようが、あるいは「紫」にしようが、社会で認知されてしまえばそれはすなわち「止まれ」を意味しているということになってしまうのです。これが「恣意性」です。

 つまり、「犬」を必ずしも「イヌ(inu)」という音声、あるいは文字で表わさなければならないということではないのです。これを言語における「恣意性(arbitrariness)」と呼び、言語及びその他の記号の恣意的性格を最初にはっきりと指摘したのがフェルディナン・ド・ソシュールです。

 では、失礼いたします。
    • good
    • 4

私は原則として、学生のレポート課題への手助けはいたしません。


なぜなら、判らないなら判らないなりに自分でいろいろ調べ、悩み、あがくことが勉強だからです。どこかにある答えを、誰かに教えてもらって、答えるのでは意味がありません。最低でも自分で検索してみるべきですし、多分、授業で使う教科書あるいは参考書として指定された本を見てみるべきでしよう。

まして、ソシュールの「恣意性」というのは彼の基本概念の1つです。レポートの課題としては初級でしかありません。まあ、もっとも、この題で100枚程度書けというなら別ですけれどね。

ヒントだけ寓話として書きましょう。
言語学者から「言葉とそれが指し示す物はかならずしも一定しない」ということを聞いた小学生が、一生懸命に考えて「どう考えても僕には「象」は象を指しているとしか思えない」と答えたそうです。どこが食い違っているか判りますね。
    • good
    • 1

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q恣意性の意味

本を読んでて、恣意性って言葉がでてきて、意味を調べているのですが
検索しても言語学がどうたら・・・と、

もっと簡単に一言でいうとなんなのか、知っている方いましたらぜひ教えて下さい。
よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

言語学について述べている文脈なら、「恣意性」は「必然性はなく、偶然そうなっていること」といった意味で使われていると思われます。
具体的には、「ある単語の発音はそれが指し示している物事に似ている必要はない」ということ。逆に言えば「ある物事を指し示す言葉は、必然的にその発音になっているわけではなく、偶然そうなっているだけだ。」ということ。
たとえば、ワンワン鳴くあの動物を、「イヌ」と発音する言葉で名付けるか、「ドッグ」と発音する言葉で名付けるか、それは偶然に決まるのであって、その発音でなければならない理由はなにもないということです。

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

Q恣意性と分節性

この二つの意味がわかりません。それぞれの意味とその関係性などあれば教えてください。高校生にもわかるように説明していただければと思います。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 それはどんなとこで聞いた話しなんでしょうか?
自分は大学の日本語の学科の授業で聞いたような気がします。一般教養か、基本的なレベルの広義だった気がします。(語学の講義です)
 なので、調べてみると自分の勉強にもなってよかったです(笑


 日本語学の講義で、「言語の構造、言葉の定義」のような箇所で習ったようなきがします。

 
 ・恣意性:自由勝手さ、必然性のなさ、理由のなさ。とか訳されると思います。

  以下は言語の講義で習った例なのです。
 犬という動物の存在と、それが“いぬ”と我々が呼んでいることの繋がりにはなんも必然がないこと。
 つまり“いぬ”と呼んでいるのはそう思っている(共通の観念)であって“いぬ”と呼ばないといけないわけではないこと。“dog”など他の呼び方もあること。


 ・分節性:分解でき、個々も意味を持ち、個々が全体と関連がある。
 「いぬが早く走った」との文を、
犬が/早く/走った。
と、分けることができ、それぞれは個別で意味を持ち、それと同時に全体と関わりがあること。


 言葉の定義に於いて、これらの言葉が出てきます。

 それはどんなとこで聞いた話しなんでしょうか?
自分は大学の日本語の学科の授業で聞いたような気がします。一般教養か、基本的なレベルの広義だった気がします。(語学の講義です)
 なので、調べてみると自分の勉強にもなってよかったです(笑


 日本語学の講義で、「言語の構造、言葉の定義」のような箇所で習ったようなきがします。

 
 ・恣意性:自由勝手さ、必然性のなさ、理由のなさ。とか訳されると思います。

  以下は言語の講義で習った例なのです。
 犬という動物の存在と、それ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qオースティンの発語内行為

オースティンの発語内行為の意味をネットで調べているんですが、いろいろな説明が混ざり合っていて正直よくわかりません。そこで、オースティンの発語内行為を分かりやすく説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

人間は気持ちを伝えようとするとき、話をします。
その「話」を、もう少し厳密に定義すると、「話」とは、単語を文法構造によって配列し、音声を伴って表出されたものです。これを「発話」といいます。

人は話をするとき、単に発話を産出するだけでなく、なんらかの行為を遂行します。

「君はクビだ」とワンマン社長が言うのは、この発話をすることによって、雇用を打ち切るという行為を遂行しているのです。
「いま、授業中」と教壇から先生が言うのは、この発話をすることによって、教室内の秩序を維持しよう(おしゃべりや居眠りをやめさせよう)という行為を遂行しているのです。
こうした発話を媒介にして遂行される行為は「言語行為」と呼ばれます。

言語行為を、オースティンは三つの次元に分類していきます。
(1)発語行為:これは発話の基本的な行為です。
「今日はいいお天気だ」
「Aさんは来月結婚するんだって」
など、意味を伝達することを目的としたものです。
オースティンはさらにその発語行為を三つに分けていきます。
・音声行為:ある一定の音声を発する行為
・用語行為:ある文法に従って語を発する行為
・意味行為:ある一定の意味と指示対象を伴って語を発する行為
こうした基本的な行為が発語行為です。

ところが、発話は多くの場合、なんらかの目的が込められています。
たとえば
「いま、コーヒーをいれたところです」
という発話には、暗に(ひとやすみしませんか)、(あなたもいかがですか)などの思惑が込められているわけです。これが言語行為の第二の次元、「発語内行為」です。
それを簡単にまとめてみると、
(2)発語内行為:発語行為を遂行しながら、同時に質問したり、答えたり、約束したりすること。

発語行為において発語内行為が遂行されるのは、つまり、発話によって、なにかを主張したり、勧めたり、説明したりすることができるのは、発話には伝達する力が含まれているからです。その力を、「発語内的力」といいます。

さらに、この発語内行為が聞き手の行動や思考、信念などに影響を及ぼすことがあります。こうした説得したり、納得させたり、あるいは怖がらせたり、警戒させたり、励ましたり、自覚させたり、といった、何らかの形で、結果を伴うような発語行為を、言語行為の第三の次元として「発語媒介行為」を考えます。

(3)発語媒介行為…発語行為、発語内行為をなすことによって、他の種類の行為を遂行しうるもの。

上の例でいけば、「これはコーヒーです」が発語行為、「いま、コーヒーをいれたところです」が発語内行為であるのに対し、「コーヒーを一緒に飲みませんか?」というと、発語媒介行為になります。

「発語内行為」だけ取り出すよりも、オースティンの三つの次元を比較しながら見ていった方が理解しやすいかと思います。
わかりにくいところがあれば、補足要求してください。

人間は気持ちを伝えようとするとき、話をします。
その「話」を、もう少し厳密に定義すると、「話」とは、単語を文法構造によって配列し、音声を伴って表出されたものです。これを「発話」といいます。

人は話をするとき、単に発話を産出するだけでなく、なんらかの行為を遂行します。

「君はクビだ」とワンマン社長が言うのは、この発話をすることによって、雇用を打ち切るという行為を遂行しているのです。
「いま、授業中」と教壇から先生が言うのは、この発話をすることによって、教室内の秩序を維持...続きを読む

Qエクセルでセル内に斜線を引くには

Excel97です。表を作成し、いくつかのセル内で斜線を引きたいのですが、どういう操作をしたらいいですか、ご教示ください。

Aベストアンサー

下記のURLを参照してください。
写真いりでわかりやすくなっています。

参考URL:http://www.excel-jiten.net/cell_format/ruled_line_change_slash.html

Q通時的・共時的という言葉について

 とある論文を読んでいたのですが、「通時的」「共時的」という言葉が出てきました。これらを広辞苑で調べたのですが、載っていませんでした。2000年~2005年、1月~12月のような流れを通時的、春夏秋冬のような流れを共時的としているのですが。。。
 この言葉は造語なのでしょうか?一般的な会話やビジネスメールのやり取りとして使っても通じるものなのでしょうか?

 言葉の意味がわかる方いらっしゃいましたら、教えていただけますか。
 自分の解釈では、「通時的」は実際的な時間の流れ、「共時的」は繰り返されるもの(通時に対して水平軸?)と考えたのですが・・・。
 

Aベストアンサー

言語学や歴史学の専門用語と言っていいと思います。
一般の人には意味はわからないでしょう。

「通時的」とは、あるひとつの対象に関して、
その変化を時間軸に沿って眺めていく視点のことを言います。
「共時的」とは、時間軸上の一点において、
複数の対象が互いにどのように異なっているか(もしくは似ているか)を
眺める視点のことを言います。

以上を踏まえて、その論文をもう一度読み直してみてください。
うまく意味があわなかったら、また追加質問してください。

Q言語の思考(世界観)に対する影響力 (サピア・ウォーフの仮説)

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在しない考え方はありえないということです。
よく例に出されるのが、「色」についての捉え方で、言語によって世界観が支配されているので、その言語に無い色は認識ができないという考え方です。

他に例にあげられるのは、「数の数え方」で、ある言語では、4以上の数字は、「たくさん」という言い方しかないと聞いたことがあります。つまりこの言語を話す人は、自分の話す言語によって、「4以上はたくさん」であるという世界観に捕らわれている、ということになります。

最後に、質問の内容ですが、私は個人的にこの仮説を3、4年前に始めて聞いた時は、疑問に思いましたが、最近はなんとなく理解できるようになりました。全く信じているわけではありませんが、まあ一理はあるかな、といったところです。

もし皆様の中で、この仮説に関して賛成、又は反対の意見があるならば、お聞かせ願いたいと思い、質問してみました。どうして賛成又は反対なのかの理由も聞かせていただければと思います。

(参照URL)
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k020527.htm

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在...続きを読む

Aベストアンサー

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあります。
また、日本語には擬声語・擬音語が非常に多くありますが、これが日本人の思考のしかたに影響していることは大いにありえるでしょう。

例にあげられている、「色」や「数」の話は、こう考えます。
日本語で、「赤」にあたる色は、実際には無限にあるわけですが、そのような「赤」の中で、色の濃淡を識別する事はできるわけです。
でも、その濃淡のある「赤」それぞれについて、日本語では単語が与えられていません。このことが、どう影響するかというと、その濃淡のある「赤」それぞれについて、議論する(考える)ことが難しくなります。
「数」でいうと、4以上の数は数えることができないので、4以上の数はわかるが、議論はしづらい(=考えることが難しい)ということになると思います。

「言語のない思想など存在しない」ことについては、まだ、色々と考えている最中ですが、こう考えます。
「人間は言葉によって考える」のは、確かに事実です。
けれど、物事をオブジェクトとして扱う方法は、言語化だけではないと思います。
もちろん、最終的には、言語化することによって、思考や議論を助けることになるでしょうが。

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあり...続きを読む

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q日本語の音素の数

英語の音素は44あるそうです。日本語はいくつありますか? 「か」は k と a に分けて考えるとしてください。

Aベストアンサー

母音

/a/ /i/ /u/ /e/ /o/


子音

/k/ /s/ /t/ /c/ /n/ /h/ /m/ /r/ /g/ /z/ /d/ /b/ /p/


半母音

/j/ /w/


特殊モーラ

/n/ /q/ /h/


全部で23個です。単純に母音、子音だけ足すものではありません。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング