人生のプチ美学を教えてください!!

学校でレポートが出たのですが
いまいちよくわかりません

どなたか、わかりやすく
ソシュールやメルロ・ポンティの言う
恣意性について教えてください!!

A 回答 (4件)

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。

私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなってしまうのではないでしょうか。どんな風につらいのか、喘息のような息苦しさなのか、ボーッとした不安が続いてつらいのか、次に、気持ちとは何なのか、こころなのか、意識なのか、心臓のあたりなのか、大脳新新皮質のあたりなのか。
 つまり、私たちは、言語は意味されることがしっかり定着しているから言語を使っている、と考えていますが、<意味>することを語るために使用している風に見えながら、その<意味>自体もあいまいで、<意味>されることまでは当然考えて使用していない、ということなのです。

 これらを象徴する例として、私は「鳥の鳴き声」をあげたい、と思います。鳥は何故鳴くのでしょうか?

 それは、恣意なのです。つまり、意味もなくただ鳴きたいから鳴いているのです。自由勝手気ままに、意味もなく、聞かれることも予想せず、ただ鳴いているのです。これが言語は恣意である、という意味なのではないでしょうか。

 私たちは、言語といえば<意味>の上に成り立っている、と考えがちですが、アとカが重なって<アカ>と言い、これで<赤>という意味が成り立っているわけではないのです。たまたま、アオと発語されていないからアカ、と差別化出来るだけのことで、言語は、こうした音の差違に基づいた分別作用でしかないのです。この分別作用が<意味の根拠>になっていくわけですが、これすらも、鳥の鳴き声と同じで、その根幹では、<意味>なく、自分にとって発語することが楽しいから、遊んで鳴いているだけなのかも知れません。ただ、それが、チュンチュンとキーキーで<意味>が違っているな、と想像するだけのことです。

 こうしたことを、言語の恣意性、と言うのではないか、と記憶します。
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 これまでの方の回答で言いつくされちゃってますね。


 蛇足ながら……言語の恣意性の例外と考えられることが一点あります。いわゆる擬声語は実際の音を、言語構造に基づく音声で置き換えたものですから、音声とその音声が指し示すものとの間に恣意ではなく必然の結びつきがあるわけで、「コケコッコー」「ココリコ」「クックアドゥードルドゥー」などが互いに似通うわけです。
 それから信号機の赤青黄は恣意的記号の例としては若干不適当ではないでしょうか。赤は可視光線の中では波長が最も長く、人間の視覚にとって一番目だつ色、認識しやすい色であるといわれています。だから危険回避のために最も重要な「止まれ」の意味を示すのに赤色を用いることは意味があるわけです。
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 chikasaさん、こんにちは。


 
 言語を「記号」の一種であると考えれば言語表現とそれが表わす意味内容との結び付きは必然的なものではなく、偶然の結び付きであると考えられます。つまり各言語を使用する社会の中で暗黙に取り決められたルールなのです。

 例えば,どの国、地域でも同じはずの「犬」が、日本語では「イヌ(inu)」、英語では「dog」、フランス語では「chien」、フィンランド語では「koira」、中国語では「gou(狗)」、アイヌ語では「seta」などなどというように、それぞれ違った種類の音声あるいは文字の連続で表わされているのは、この「恣意性」の一例です。

 これを何故、「恣意性」、つまり必然的ではなく偶然の結び付きかであるのかと言えば、日本語を使用する社会において「犬」という動物はただ単に「イヌ(inu)」という記号によって他の事物と区別されているに過ぎず、仮に明日からは「ネコ(neko)」と呼ぶことにしても、「ヌイ(nui)」と呼ぶことにしても、社会がそれを認めてしまえば何の不都合もないからです。言語ではない他の記号の例で言えば、信号機の「赤」は「止まれ」を意味していますが,それを明日から「止まれ」を「青」にしようが「黄色」にしようが、あるいは「紫」にしようが、社会で認知されてしまえばそれはすなわち「止まれ」を意味しているということになってしまうのです。これが「恣意性」です。

 つまり、「犬」を必ずしも「イヌ(inu)」という音声、あるいは文字で表わさなければならないということではないのです。これを言語における「恣意性(arbitrariness)」と呼び、言語及びその他の記号の恣意的性格を最初にはっきりと指摘したのがフェルディナン・ド・ソシュールです。

 では、失礼いたします。
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私は原則として、学生のレポート課題への手助けはいたしません。


なぜなら、判らないなら判らないなりに自分でいろいろ調べ、悩み、あがくことが勉強だからです。どこかにある答えを、誰かに教えてもらって、答えるのでは意味がありません。最低でも自分で検索してみるべきですし、多分、授業で使う教科書あるいは参考書として指定された本を見てみるべきでしよう。

まして、ソシュールの「恣意性」というのは彼の基本概念の1つです。レポートの課題としては初級でしかありません。まあ、もっとも、この題で100枚程度書けというなら別ですけれどね。

ヒントだけ寓話として書きましょう。
言語学者から「言葉とそれが指し示す物はかならずしも一定しない」ということを聞いた小学生が、一生懸命に考えて「どう考えても僕には「象」は象を指しているとしか思えない」と答えたそうです。どこが食い違っているか判りますね。
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