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漫画やアニメのスピンオフってあるじゃないですか。
あれは公式という扱いで良いのでしょうか?

例えば賭けグルイで言ったら、「賭けグルイ双」や「妄」は原作と繋がっているのかな、と思いますが、スピンオフ4コマの(仮)は明らかにキャラ崩壊というか、各作家さんがやりたい放題している感じがするんです。

もっとメジャーな所で言うと、黒子のバスケは商業BLが出ていますよね?あれも原作とは切り離されていますが、企業から出版されればそれは公式扱いなのでしょうか?
企業から出ていれば公式というわけではない、となると原作だけが本物の物語の世界であるとするか、同人誌やpixivの二次創作も物語の世界の一部とするかですが、二次創作全てを同じ世界として混入したらわけわからなくなりますよね?

そもそもアニメも、原作に準じているとはいえ派生作品の一つであることに変わりはないはずです。アニメの台詞が原作者の意図するところと違うことがある(ワンピース:キャラには「ありがとう」と言わせるという作者の理念があるのにアニメでは「サンキュー」と言っててあっ…ってなると尾田さんが言及していました)こともあるのだから、漫画(原作)とアニメは違う世界線と言ってもおかしくない場合がほとんどだと思います。

原作でキャラクターが死んだとして、スピンオフで生きていたら生きていると解釈しても良いものなのでしょうか?

長々とした文章になっちゃいましたが、質問したいのは、
公式と公式じゃないを分ける部分ってなんでしょうか?ということです。


朝からこんな面倒な考えが頭から離れないんです…。
作品は受け取り手の脳内補完によって完成されるというのが今のところの結論です。けれど、死亡したキャラを死ななかったことにしたりするのってさすがに無理がありませんか?

どなたか、納得のいく回答をして頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • あれから考えてみたら、公式か公式じゃないか=物語が繋がってるか繋がってないか、ではないってことに気づきました。
    質問したいのは物語の世界線の話でした!派生作品が原作の世界線と一致しているのかどうか、という。

    勿論公式か公式じゃないかも大事な問題なのでそこについても引き続きご回答願いたいです。

    おそ松さんにしても、あれはアニメのサイトが 赤塚不二夫/おそ松さん製作委員会 の名義としていますが、赤塚不二夫が原作を描き続けたとして、あんな感じおそ松くんたちの未来を描くとは思えないんです。キャラクターだけ借りてるってイメージです。公式ではあるけれど原作者の描いていない、ましてや目も通していない作品が原作の世界と繋がってるとは考えられません。

    私も二次創作でイラストを描いて投稿したりしますが、段々とその原作のキャラを描いているというよりもそのキャラという記号を描いているという感覚になります。

      補足日時:2017/08/22 06:46
  • HAPPY

    05051036さん、tapaさん、名無しの匿名希望さん、ご回答ありがとうございました。
    こんなに真摯に回答して下さるとは思っていませんでした!
    我ながら面倒くさい、理屈っぽい、漫画やアニメのエンターテインメント性に水を差すような考えだなあと思っていたので、冷やかしコメントが付くだろうと内心諦めていました。
    でも私なりに真面目な考えなのです。こうして真面目に回答頂けること、本当に嬉しく思います!
    とりあえず、
    ・世界線の一致に関しては作品ごと、各個人の解釈次第。
    ・作品は作り手と受け手のコミュニケーションであり、「好き」が一致する場合は楽しめばよい、そうでなければ観なければ良い。
    もっと色々ありますが総まとめとしてはこんな感じになりました。回答をもとに解釈する時間はすごく楽しかったです。
    全てベストアンサーにしたいですが、もう少し経ってからまた選びたいと思います。
    ありがとうございました!

      補足日時:2017/08/23 18:22

A 回答 (4件)

原作を管理するプロダクションが認めてるなら公式ってことでよいのでは。


ドラえもんの類なら藤子プロ
アトムなどの手塚治虫の作品なら (C)虫プロダクション

>原作でキャラクターが死んだとして、スピンオフで生きていたら生きていると解釈しても良いものなのでしょうか?
それぞれ別の時間軸、パラレルワールドと割り切るべきでしょうね。
おおもとの原作者から離れ多くのものが関わるようになったら、セリフにしても細かい演出にしても原作者が管理しきれるものでもなくなります。
多少の矛盾は大目に見てやらないと作品作りが窮屈になって尻すぼみになってしまうと思います。

原作レイプと言われるような酷いアレンジは勘弁願いたいですがね…。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

プロダクションが公式っていうのは確かに!と思います。プロダクション…プロダクションというのをよく理解していませんが出版元などを指すのですか?

派生作品も世界線を別にするにせよ作品の一部ではあるという解釈で合っていますでしょうか。作品という括りでみたらそれもそうですね。
原作を元に、その世界を描く新たな作品の一つとして派生作品が存在するというのが今のところ一番落ち着く解釈です。

その点では、モネの絵と、それを見写しして描いた作品、という関係に似ているかなと思いました。(別にモネじゃなくても良いのですがここでは例として。)

真似して描く人もモネの描いた蓮の情景を想像し、同じものを描けるようしているわけですが、それはモネの作品ではなし、蓮はモネの見た蓮ではない。モネの感じた水面の動きや空気、匂いを完全に取り込むことはできない、つまり、
作品として表出されている部分以外には干渉し得ないのです!

これが原作と派生作品とのギャップに近いのではないかと…なんだかわけがわかりませんね! 
原作者の頭の中の運動は決して派生作品の作り手にはわからないが、同じものを描いている(ようにみえる)わけです。

長々とすみません。とにかく回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/08/22 07:15

「公式」とは、ちゃんとした手続きを踏んだもののことです。

なので「黒子のバスケ」については存じ上げませんが、例えば「公式アンソロジー」は中身が同人であっても公式そのものです。原作者の意図とや世界線がいくら違っても公式は公式なのです。まあ、原作者がアニメ化する際に、忠実に原作を再現せよと契約していれば話は別になりますが。
「世界線の一致」については作品によって違うとしか言えません。例えば「ワンピース」は「ありがとう」の件があろうとも、おおむね原作と同じ物語なので世界線は一致していると言えるでしょうし、「おそ松さん」もジャンルがギャグなので世界線を一致させようと思えばできます。対して世界線が一致していないものとして有名なのは「魔女の宅急便」でしょうか。あれはかなり原作と違うという話です。また「ガンダム」シリーズは、大量にスピンオフが制作されていますが、作品によって世界線が一致していたり、していなかったりですし。……と、数例あげただけでも様々なパターンです。

まあ、あまり難しいことは考えないことをオススメします。なにせ「公式」とか「一致」とか「原作」という話をすると、本当に面倒臭いことになるからです。例えば「風の谷のナウシカ」は漫画版も映画版も宮崎駿によるものですが、世界線が一致しません。また、他の例をあげると、スタン・リーという人は「スパイダーマン」「アイアンマン」「X-メン」などの原作者で、近年は映画版で製作総指揮を担当しているのですが、原作と映画では時代がそもそも異なっているので、「ナウシカ」と同様に世界線は一致していないと言えるでしょう。しかも、この人はコミックの脚本を途中で他の人に任せていますので、原作者とは無関係なところで世界線が一致した公式の物語というのも存在しています。さらに他の例をあげれば、漫画「よつばと」は雑誌掲載時から単行本化する際に大きな加筆修正をしているので、同一作品だと言うのに雑誌と単行本で世界線が違うとも言えます。こうなるとワケが分からなくなってくるでしょう。なので、難しいことは考えないことをオススメします。
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この回答へのお礼

なるほど、色々なパターンがあるわけですね。
原作者が指揮しているにも関わらず世界線が変わることがあろうとは…
やはり各個人の脳内補完に頼るほかないですね。よく考えると、対象が架空のものでなく、現実世界であろうと解釈によりけりな部分は多いですからね。複数作品の世界線を、作品制作に全く関係していない私が完全に解釈するのは、他人の行動から思っていることを完全に解釈するのと同じくらい無謀なのでしょう。あるいは聖書を一筋に解釈するくらい。

それにしても、どんな作品でも、どんな形でも、登場人物が第一なんだなっていうのがよくわかります。
キャラクターさえ一致していれば同様の作品として見ても良いという傾向があるように思えます。
私としては登場人物と同じくらいに物語そのものの空間が大切(ピクサーが同じ世界観で成り立っているという説はすごく好きです!)なので、その世界がどこに帰しているのかすらはっきりとしないのは、なんだかモヤモヤするんです。
小説一本、漫画一本で終わってくれれば自分の中で確固たる世界を一つ想像できるのですが、派生作品ができた時点でその空間にノイズが入ったような感じがしてしまいます。勿論メディア化されたりは喜ぶべきところなのですが、やはり別世界と認識しないではいられません。声優がキャラの声を「演じている」時点で…やはり面倒くさいですね!
源氏物語の擬作や補作も、当時物議を醸したのでしょうか…。
回答ありがとうございましたm(__)m

お礼日時:2017/08/22 22:01

お礼と補足拝見…。


例として質問者様が挙げられた作品は知らないのですが、原作で語られた設定や歴史に矛盾していなければ繋がっていると言ってよいのでは。

例えばガンダムは色々と派生作品がありますが、その中でも一年戦争(元祖のガンダムで描かれた戦争)を主軸とした作品の場合、原作で描かれたアムロ・レイの戦いとは異なる戦場を題材にしていたりします。
『ポケットの中の戦争』『第08MS小隊』など。
中には、作中で登場する人型兵器、MSが本格的に運用される前の黎明期を舞台にした技術者の物語もありました。
いずれも、作品の設定や歴史とは(あまり)矛盾しない内容でした。

それとは別に、一年戦争の時間軸とは全く異なる歴史をたどった人類がそれでも性懲りもなくMSを作って戦ってる作品もあります。
『ガンダムW』など。
コチラはどうしてもガンダムの名前使わないとダメなのかと首をひねりますが…。

あとは現実世界(?)でガンダムのプラモデルを作って戦う作品もありますね。
これはスピンオフと言えるかも。


スピンオフと言えば劇中劇が一つの作品として独立するものもありますね。


今アベマTVでドラえもんの劇場版をたくさん放映しています。
原作者である藤子・F・不二雄の手を離れた作品は果たしてどうなのか…。
私はあまりこだわらず楽しんで見ているのですが、人によってはかなり抵抗あるようです。
こんなのドラえもんじゃない! というファンも少なくないようです。

派生作品の中には時代に合わせたリメイクという側面もありますね。
差別的な表現や暴力エログロなどの規制に合わせたり、子供がついてこれないようなネタを改変したり。


いずれにせよ、作り手だって人間です。
あまりにも作品数が多くなったら原作者本人ですら設定や歴史を把握しきれなくなってポカやらかすことがあるんですから、関わる人が増えたらなおさらです。
多少の矛盾や破たんは大目に見ないと業界が尻すぼみになっていくと思いますよ。

多少でないからこそファンは怒るのですがね…。
「スピンオフやアニメを公式と認めますか?」の回答画像3
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この回答へのお礼

なるほど、原作にかなり忠実な作品もあるのですね。
黎明期を描く、ということは原作と同じ時間軸であることを前提に作られていると。
そうなるとやはり同じ世界線となりましょうか。
「ガンダムという作品がある現実世界」という世界線も原作に矛盾するところはありませんね。これは別の作品でもなく、スピンオフと断言して良いでしょう。
同じ時間軸でも別の時代・人物であると大抵は矛盾無く作られるので、すんなりと受け入れられます。
問題は、同じ時代・人物だった場合なんですね。

ドラえもんの劇場版が物議を醸すことがあるんですね!私は完全にアニメ世代なので気付きませんでした。ドラえもんはSFチックな要素があるので別世界とも同世界とも解釈できそうです。(ジャイアンがやけに親切になるのは原作と矛盾しますかね?笑)
ですがこれがクレヨンしんちゃんだと、確かに人物も時代も一致していると思うのですが、劇場版では異世界に飛ばされます。となると漫画版にいるしんちゃんが異世界に飛ばされたしんちゃんと同じだとまず考えるわけですが、そもそも原作のコンセプトと異なってくるわけで、同じ世界線とは考えにくい。(私の頭が固いのかもしれませんが…)
「原作を元にした作品」という所を離れられない別作品になるか、原作を含めて違和感ある一つの「クレヨンしんちゃん」となるのか…。原作を好きであるほど前者になりがちなものですが、そうなると受け取り手の主観が決定打になりますね。

05051036さんのご回答頂いた直後、NO.2さんへのお礼で「最終的には完全に個人の脳内補完」という風に結論付けました。でもガンダムみたいにほぼ同じ世界線と考えても良いものもあるんですね。

それにしてもガンダムのプラモデルを使って戦う等と、原作の世界とは次元すら違う作品よりも、原作と同じ登場人物にした結果、より原作から離れる、原作レイプしてしまうというのが面白いです。近いからこそ矛盾ができ易いということですね。
原作で破綻しているのもたまにありますよね。あれはもう完全にエラーがで脳内補完の余地もなくなってしまいます。それはそれで楽しめますが。
作品世界を大切にするのも一つの愛ですが、とりあえず作品を楽しむ姿勢こそが製作者に対する純粋な態度なのでしょう。(二次創作やメディア化に批判的な原作者もいますが‥)

回答ありがとうございました!

お礼日時:2017/08/22 23:09

公式か公式でないか、という企業の都合に左右されずに楽しめるものが良いという結論はご自分の中でも出ているようですね。



「蟲師」はアニメ制作にあたって、原作が面白いんだから、余計な改変はせずにそのまま作れば良い、というコンセプトで制作されて、実際に原作と比べても、セリフの一文一句までほぼ同じ、漫画に色が付いて音楽とともに動き出したかのような素晴らしい出来でした。
原作の漆原友紀さんも絶賛しているくらいなので、まず間違いない作品の一つでしょう。

漫画でも小説でも、ここでこのキャラがやられるはずななのに、とか、
このキャラのやられ方が違ってる、みたいな感じのものは、いっぱいありますね。

例えばもう一つあげると「寄生獣」ですが、あのアニメ化は失敗作だという人と、面白いという人に別れると思います。
私は面白いと感じました。
原作連載当時に登場していなかったスマホやタブレットが登場して、ミギーがスマホやPCで情報収集していたり、お父さんが朝の新聞でなくタブレットでニュースを読んでいたり。
今の時代にうまく標準を合わせていると思いました。
不良達をはじめとする脇役の役目が少々変わっていたりしている部分もありますが、あまり気にならない程度でした。
重要なポジションを与えられたキャラ達は、ほぼ役目を果たしていると思います。

お粗末さん笑は赤塚さんの記念として作られたようなもので、あれが公式だと言われたからと、嫌なものを無理に受け入れる必要はないと思います。
自分が漫画原作なり小説原作なりで一番フィットしたならば、面白くないと感じる派生作品は無視すれば良いんです。

一番大事なのは、自分が面白いかどうかで、勝手に変な派生作品で埋もれておかしな方向に行ったものは、ご自分も勝手に切ってしまえば良いんです。
私たちにはその権利があるのですから。
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この回答へのお礼

蟲師はそういう意図があって原作のままだったのですね!漫画もアニメもみましたが、あれは素晴らしい作品だったと思います。そんな原作愛の溢れる裏話があったとは。

寄生獣、私は観ていませんが、その現代風アレンジも製作者が原作を楽しんでいる一読者であるからこそのアレンジなのでしょう。原作をどのように楽しんでいたかによって賛否両論はあるかもしれませんが、それもまた受け取り手両者の原作愛を感じます。

権利とはまさにその通りですね。切るも観るも権利です。どんな作品でも一定需要があればその作品は存在意義がありますから、自分の判断だけで一概に否定することはできません。好みはひとそれぞれだから、各自の責任で楽しめば良いのですね。
逆に、いわゆる「地雷」が多い人に合わせていたら、どんどん作品は画一化してしまいますね。まるで迫害しているかのようです。嫌だから個人的に見ない、という選択がいかに大切なことか。妖怪が苦手な人に合わせてたらゲゲゲの鬼太郎はできませんからね。

漫画やアニメの本質は、作り手の「好き」と受け取り手の「好き」を一致させる活動なのかもしれません。一つのコミュニケーションであると。
例えアニメ化が失敗だった、あの設定が好きじゃない、となればすれ違いが生じたということで、関わらなければ良いのですね。
受け取り手は作られた作品を鑑賞するといういかにも受動的な態度を取っているかのように見えますが、いかに作品にとって我々の存在が大きいのかを実感します(勿論、「お客様は神様」みたいな傲慢な意味ではなく)。
自分の態度一つで作品世界が大きく変わってくるわけです。
ということはやはり原作と派生作品の世界線に関しても、自分の態度次第、「個人の解釈」という結論が固まります。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/08/23 18:07

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