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今日、大学でEnlightenment of 17, 18th in France and Britin を勉強しました。この学科はFoucault を色濃く勉強するらしいのですが... ここで疑問が生まれました。まずはComteのparadigmとFoucaultの epistemeです。このparadigmとepistemeの違いが不透明です。この二つは同義に考えていいんでしょうか?epistemeは知識の枠組みみたいな物で、時代における知識の集合体と私は認識しております。また、paradigmについては今日のセミナーでレクチャーがこんなことを言ってました。

Paradigm: The dominant model that structures knowledge in a scientific field at a particular tim. It has been applied more broadly in cultural analysis.

これを見る限りFoucualtのepistemeに類似してると思います。またレクチャーはこのParadigmの変化が世界を変え、それと伴い新しいParadigmを生むとも言っていました。Foucault は彼の本(the archaeology of knowledge)の中でdiscourse とstatementについて語っていますが、このepistemeは知識の枠組み、つまり歴史的なstatementの集合体と述べているように思われるのですが、Paradigmとはその時の時代時代でのみ知識ということで、epistemeは歴史的な知識の集合体ということでいいのでしょうか?

またFoucaultとComteは歴史の変化の瞬間、(空間)に興味が合ったみたいですが、(彼らはこれをdiscontinuityと呼んでいます)これはどうしてでしょうか?

A 回答 (3件)

おはようございます。


いやー、メールってお礼しか届かないんですね。
しばらくこっちの方をのぞいてなかったので、補足をくださってるの、気がつきませんでした。遅くなってごめんなさい。
あ、インフルエンザに罹ってたんです。まだちょっーとスッキリしないんですが、まあ概ね、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。

> 僕はパラダイムと共にエピスメーテーが変わったんではなく、パラダイムがエピスメーテーとして保存されアーカイブの一部となったと思ったんです。そして僕らが過去を参照した時、アーカイブの中の保存された幾つものエピステーメーから矛盾が引き起こされるかもしれない....と思ったんです。

ええと。
パラダイムとエピステーメーの関係というのは、包摂ではなく、やっぱりパラダイム≒エピステーメー、ということになるかと思います。
ともかくパラダイムとエピステーメー、時代をすっぽり包む思考の見えない規範がある、という発想は、根本的には同じものですよね。

ただ、中山さんの『思考の用語辞典』(最近、文庫版になって手に入れやすくなった。これとちくま新書から出ている『フーコー入門』はおすすめです。これを読むと『言葉と物』がぐぐっと見通しがよくなる感じがする。amazonだとそちらでも手に入るんじゃないかしら)によると、フーコーはパラダイムのことは知らなかったそうです。

ここからはわたしの大ざっぱな印象なんですが、やっぱりエピステーメーは、アルチュセールのイデオロギーに近い。フーコーは、アルチュセールの「主体がイデオロギーを自発的に生産する」という発想は受け継ぐんですが、それをイデオロギーの最終目標地点である、とした点は拒否してるんですね。つまり、マルクス主義的な歴史観、というか、西洋を貫く「歴史の目的性」を認めない。
目的性を認めないというのはどういうことか、というと、相互のエピステーメーに連続性を認めない、ということでもあります。
その時代にひとつのエピステーメーが存在する。
そうして、つぎの時代には、つぎのエピステーメー。
その非断続性は、やっぱりパラダイムにも共通するもので、そう考えるとますますよく似てる(笑)。

おなじころ、おなじような発想が出てくる、というのは、言葉はともかく、やはりエピステーメー(あるいはパラダイム)がその時代に存在することの証左なのかもしれません。

重要なのは、パラダイムにせよエピステーメーにせよ、「解釈」であるということです。
あたかも歴史年表の底に「真実」が埋まっていて、それを掘り起こす、というのではなしに、いまの時点から、過去を「解釈」する。

現代のエピステーメーは見えません。
これを見ようとすると、すでに理解されたものを元に見ていくしかない。
それが過去の歴史です。
この先行理解をに対して、暫定的な解釈を試みる。

このとき、テクストと個々のものとの関係は単純な包摂関係にあるのではありません。
・個々のものは、テクスト全体との関係のなかで理解できる。
・テクストの全体は、個々のものの適切な解釈によって理解できる。
こういう関係にある。

そうしながら、暫定的な解釈を、ふたたび検討し、修正していくのです。
で、方法的に整備していった『知の考古学』へと続いていくわけですね。で、「アーカイヴ」というのはそこから出てきた概念なんです。

これは『フーコー入門』にわかりやすく書いてあるから、これを引用しましょう(ただし、ここでは「アルシーヴ」と記述されています)。

---p.117-118----
アルシーヴとは現実の文書の総体ではなく、事件としてのエノンセ(エノンセ的行為)の不可視の総体である。これはある文化において保存されたテクストの総体でもないし、ディスクールを記録し、保存することを可能にする制度でもない。…

このアルシーヴという概念は、さまざまなエノンセが実際に歴史において語られた条件を明らかにするものである。あるエノンセが語られるためには、ディスクールの内部、諸ディスクール間、ディスクールの外部において、さまざまな条件が必要であったはずである。…

 エノンセが誕生するための実定的な条件を分析するアルシーヴという概念は、たんにディスクール内部を分析するためのものではない。実際に語られたエノンセを、歴史における一つの事件、ひとつの〈記念物〉として考察しながら、ディスクールの存在の条件を分析し、ディスクールが展開される場の可能性を考察するものである。
------

なるほど、という感じでしょ(笑)。ほんと、わたしにとってはこれはありがたい本でした。「エノンセ」は、以前の回答で引用してますのでそちらを見てみてください。

オーストラリアといえば、昔、三田のオーストラリア大使館のなかにある豪日交流基金の図書館が好きでね。図書館の雰囲気が好きだったんです。わたしはそこで Xavier Herbert の"Poor Fellow My Country" を最後まで読みました。たぶん11巻全部読んだ日本人は、十人ぐらいじゃないかとひそかに思っているんですが(笑)。オーストラリア人でも最後まで読んだ人は少ないんじゃないかと(笑)。オーストラリア関係ではそれが唯一の自慢です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。いいですよね、自分が読みたいものを最後まで読み通す。たとえそれが万人に受け入れられていないような本でも。去年暮れ、彼女(もう彼女ではないけど(涙))はHeideggerを読んでいる私を見ていきなり[hey! wanker....]とカントに引き続きまたしても言われのない中傷を受けました。すきな物を読んでるだけだだと言っても、『あっそ』ていう感じでしたね。そいう彼女もnational securityについての本とかJ.S.Millなどを読んでいました(笑)。これから、まだまだ沢山の本を読んで行くことになると思いますけど、根気よくやっていきます。ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/26 22:42

このところ体調を崩していたので、補足くださったのに遅くなってごめんなさい。



いろいろ書いてくださったんですが、まだ頭がぼけてますから、よくわからない。ともかく少しずつ。回答が外れていたら、そういうことじゃなくて、と訂正を入れてくださいね。

> またTEXTとCONTEXTが一緒になってdiscourse を形成しているのであれば、今このInstitution内で使われるdiscourseが私たちに及ぼす宗教的な影響は避けられないものになるんではないでしょうか?

えーと、わたしにあんまりむずかしいことを聞かないでください、そこらへんのおばちゃん(うう…身も蓋もないな)だし、おまけに病み上がりで頭がぼけている。

これはなんと答えたらいいんだろう…。

まず、『プロ倫』はもちろん必読ですが、Peter Bergerの "The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion" を読んでおくといい。
バーガーは宗教が人間の社会秩序をどのように安定させてきたか、社会のあらゆる諸相をトータルに意味づけていく象徴の機能としての宗教に着目していってます。

そのうえで。
ディスクール、テクスト、ということをまず考えたのはバルトです。
バルトは『神話作用』のなかで、広告に使用される洗練された「記号」が、いかなる文化的価値をあきらかにしているか、が述べられます。たぶんこのなかに、旅行のガイドブックにどうして山や渓谷の風景を「美しい」ものとして謳ってあるのか、という指摘があったように思います。その背景には、ピューリタニズムの道徳がある(あやふやな記憶による不正確な引用)。
だから

> 宗教的な影響

っていうのは、日常的なものが提示される「しかた」を問題にしていけば、当然いくらでも見出されるものであると思います。

それを見えにくくしているのはなにか。それが資本主義のイデオロギーである、とバルトは言うんですね。
これはさらにアルチュセールによって、主体がひとりでに動いてイデオロギーを再生産するようになっていく、というところに、イデオロギーの最終目標地点がある、と受け継がれていきます。そうして、フーコーもそれを引き継いでいくんです(ずいぶん荒っぽい書き方ですが)。
ここらへんは詳しく書くとキリがないのですが、バルト→アルチュセール→フーコーによって深められていく「権力」と「ことば」と「主体」の関係は、「ポスト構造主義」を概観する本でいいから、頭に入れておくといいと思います。

> Marx の言う『surveillance』それとFoucaultの「panaopticon」これは昔のdoctrineが生きている証拠にはなりませんかね?

うーんと、わたしはマルクスを読んでません。読まなきゃいけないなー、と思いだしてからずいぶん日が過ぎたんですが(笑)、まだ読んでないです。だから質問がよくわからない。ごめんなさい。

> text内でエピステーメーの知識の枠組みがparadoxを生み出したりってありますかね?

うーんと。これもいったいどういうことなのかよくわからない、おそらくイメージしておられる点があるのだろうと思うのですが、そこがわかんないです。
そのうえで留意していただきたいのは、つまり、エピステーメーというのは、あくまでも現代の「知」の意味を、歴史的な背景から問おうとするもののわけなんです。だから「絶対的な知」の到達を目的としていないし、そういうものがあるとも考えない。あくまで現在の視点からの「解釈」である、ということです。「世界観」ではないんです。
だから「パラドックスを生みだす」っていうのがもうひとつよくわからないのですが、そこらへんを踏まえておくと、「パラドックス」みたいな言葉はでてこないかなあ、と思ったりします。

この「回答」が少しでも整理の手助けになると良いのですが。


「カント」英語圏で発音できないってわかります(笑)。
わたし、"Fax me the document."って言えないもん。いつも"facsimile" を使う。もちろん発音がちがうって知ってるけど、つい、不安でね(笑)。
オーストラリア、おもしろいですね。
ピーター・ケアリーとかその昔のパトリック・ホワイトとか、おもしろい作家も何人かいるんですが、自分の国や文化に向ける視点というのが、独特のものを感じます。微妙に屈折しているというか。つねに英米と比較しつつ自分の足場を探っている、というか。
気候もいいし、気楽に遊べそうな国で一生懸命勉強するのは大変でしょうが、がんばってね。

この回答への補足

自分の質問の補足です。僕はエピステーメーは幾つも存在すると考えているんです。僕らが参照する歴史的背景、それがエピステーメーなら、歴史的知の枠組みがアーカイブ化されいるような気がします。先日レクチャーがこんなことを言ってました。

when paradigm changes, episteme changes....

この意見には補足が必要な気がしますが.... ghostbusterさんが前の回答欄でLeeuwenhoekについて書かれていたと思います。ちょうどその週のreadingが彼についてだったんです。そして自分なりにリサーチしてみたんですけど、彼はCalvinistだったらしいです。彼はreligious paradigm(自然発生spontaneous generation of life)を否定せず、そのparadigm-知識の枠組みの中で研究していたみたいですね。その後、バクテリアは自然発生しないということが判明し、一時代のパラダイムが変わったと思いますが.... 僕はパラダイムと共にエピスメーテーが変わったんではなく、パラダイムがエピスメーテーとして保存されアーカイブの一部となったと思ったんです。そして僕らが過去を参照した時、アーカイブの中の保存された幾つものエピステーメーから矛盾が引き起こされるかもしれない....と思ったんです。だからこそFoucaultは歴史と歴史の繋ぎ目に興味があったのかなと考えたんですけどね。うーん.... どうもこれは私の悪い癖で本を(良いように解釈すれば)部分的に読み(悪く言えば中途半端)自分のアイディアを証明しようとするんですね。よくレクチャーに君の論文は乱暴だとか、もっと広い視野で物を見ろとか言われていますよ.... ほっとけ!(笑)って言いたい所ですけど、近頃確かにそうかもと思っています。一つのテーマを決めて論文を書いたりdiscussionを展開するのはとても難しいですよね。がんばります!そうだ体は全快しましたか?

補足日時:2007/03/22 22:26
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。そうですか、英発音で苦労されている方だったんですね。先日、大学の友人と茶店でカントについて話していた時のことです、隣に座っていた2人の女性達に言われのない視線を数度にわたり浴びせられました。発音は大事ですけど、日本人にはとても難しいですよね。それとピーター・ケアリーとパトリック・ホワイト、面白そうですね、今度図書館で探してみます。

ghostbusterさんの言う通り、オーストラリア人はどうも英米に対して、とても強い対抗意識のようなものがあるように思えます。この間も家のおっちゃんと話していた時のこと、アメリカ人は糞の匂いがしない!(i cant smell Amerikans' shit)なんて言ってました。これはアメリカが多人種の国だからみたいですけど.... ってオーストラリアもそうなんですけどね。彼のアメリカに対してのコメントはいつもツッコミどころ満載なんですよね(笑)。

Peter Bergerは昨日のセミナーでレクチャーが少しだけ触れていました。興味深いですね、これは読まさせていただきます。AlthusserとBarthesは一応部分的には読んだことはあります。(Death of the Author, Mythology, The Humanist Controversy and Other Textsなど)今度はもう少し深くつっこんで読んでみたいと思います。今ちょっと時間がないので、後で質問補足を書きたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/22 11:22

まず、少し言葉の整理をしておきます。



「パラダイム」というのはアメリカの科学史の学者であるトマス・クーン(Thomas Samuel Kuhn)が提唱した概念で、1962年の『科学革命の構造』のなかに出てくるものです。

で、コントはご存じのとおり、19世紀の人でしょ、だから、「Comte の paradigm」とは言えないんじゃないか、っていうのがわたしの感想です。ただし、クーンが提唱した「パラダイム」はコントの始めた実証主義の系譜に属するもので、そういう意味では十分につながりはあります。だけど、なんでその先生が "Comte's paradigm" という言い方をしたのかは、わたしにはわかりません。

ここでは「パラダイム」と「エピステーメー」のちがいについて、簡単に書きます。
わたしが「パラダイム」と呼ぶのは、クーンのそれです。

もともとクーンは科学史の畑の人です。だから、彼の問題意識は「科学者」にあります。

科学者というのは、その時代のその共同体の思考の枠組みの中で自然の研究をおこなう。
こうしたその時代の思考の枠組みをクーンは「パラダイム」と呼ぶのです。

たとえばヨーロッパでは、パスツールやコッホが登場するまで、レーウェンフックが細菌を最初に発見してから、約二百年間、細菌は自然発生すると考えられていたわけです。
そのあいだの科学者はみんな、「細菌の自然発生」という思考を受け入れ、その思考の枠組みのなかで研究していたわけです。

ところがパスツールが1860年に発酵や感染症が細菌によって引き起こされることを発見して、分析手段を確立していった。その結果、発想そのものが根本的にひっくり返った。
こういう状態をクーンは「科学革命」と呼びます。

> The dominant model that structures knowledge in a scientific field at a particular tim. It has been applied more broadly in cultural analysis.

これは、そういう実例に当てはめて考えるとよくわかりますね。
ここで重要なのは、パラダイムとは
1.信念・価値の体系
であるばかりでなく
2.未解決の問題を解くルールを支えている枠組み
でもあるということです。

さて、これはまるっとエピステーメーじゃん、と思うかもしれませんが、けっこうでかいちがいがあります。

たとえば『言葉と物 ―人文科学の考古学』(渡辺一民・佐々木明訳 新潮社)(英語版のタイトルは"The Order of Tings")の第二章は、こんな言葉で始まります。

---(p.42 からの引用)---
 十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向づけていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見える物、目に見えぬ物の認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である。
-----

ここでフーコーは中世のエピステーメーを〈類似〉である、としているんです。
ね、パラダイムとエピステーメーのちがい、なんとなくわかってきたでしょ。

「パラダイム」は、その当時の科学者たちが、自然研究をおこなう前に、教科書や研究書、先生によって、その共同体の「パラダイム」として学習しなければならないものです。
つまり、ここではその時代・その共同体に認識され、受け入れられているということが前提になります。

いっぽう、エピステーメーは、目に見えないものです。
中世のエピステーメーが〈類似〉であるとは、当時の人ももちろん、いまに生きるわたしたちだって、簡単には気づかない。
目に見えないエピステーメーを、どうやったら見ることができるのか。
現在の視点から、過去をふりかえる。そうすることによって、逆に、現在のわたしたちの視点そのものが明らかになってくるのではないか。

ここで『言葉と物』の序文だけ、英訳されたのが読めるのですが、
http://serendip.brynmawr.edu/sci_cult/evolit/s05 …

このなかにあの有名なボルヘスの分類が出てきます。

> This passage quotes a ‘certain Chinese encyclopedia’ in which it is written that ‘animals are divided into: (a) belonging to the Emperor, (b) embalmed, (c) tame, (d) sucking pigs, (e) sirens, (f) fabulous, (g) stray dogs, (h) included in the present classification, (i) frenzied, (j) innumerable, (k) drawn with a very fine camelhair brush, (1) et cetera, (m) having just broken the water pitcher, (n) that from a long way off look like flies’.

こんな動物の分類が果たしてありうるのか。
フーコーも

> The monstrous quality that runs through Borges’s enumeration con- sists, on the contrary, in the fact that the common ground on which such meetings are possible has itself been destroyed. (p.3 の終わり近く)

こうした出会いを可能にする共通の土台そのものが崩壊している、と言います。
つづけて

> What is impossible is not the propinquity of the things listed, but the very site on which their propinquity would be possible.

不可能なのは、リストにあげられたもの同士の隣接関係ではなく、それらを隣り合わせることを可能にする「場」そのものである。

ただし、それはあくまでも西洋人の目から見て、ということです。
こういう分類があるということは、それを可能にする「秩序」を設けることのできる文化があるということに他ならない。

もうちょっと先にいってみましょう。

> Order is, at one and the same time, that which is given in things as their inner law, the hidden network that determines the way they confront one another, and also that which has no existence except in the grid created by a glance, an examination, a language; and it is only in the blank spaces of this grid that order manifests itself in depth as though already there, waiting in silence for the moment of its expression.(p.7)

秩序とは、物のなかに内部的法則として与えられるものであり、隠れたネットワークである、そうしてそのネットワークが物がたがいに向き合うやり方を決定する。同時に、まなざし、注意、言語によって作られた格子(grid)を通してしか、秩序は実在しない。だから秩序が、すでにそこにあったものとして、表現される瞬間を沈黙のうちに待ちながら、深層に姿を現わすのは、この格子の空白部分からでしかない。

秩序を認識するためには、物の認識に先立って、ひとつの知の枠組みが必要である、と。
フーコーはそれをエピステーメーと呼ぶんです。

なーんとなくわかってきましたかしらん。
どうも風邪ひいちゃったみたいで、書いているうちに頭がどんどん朦朧としてきました。
読み返しても、自分が何を書いているかわからない(笑)。
わかりにくいところがあれば、聞いてください。
ただ、コントはあんまり知らないし、クーンもこれ以上はほとんど知らない。

あ、そだそだ、アメリカ人、Foucaultってどんなふうに発音します?
これが聞いてみたかったんだよね。
「フーコー」だなんて、ほとんど日本人しかそんなふうに発音しないんじゃないかって気がしてしょうがない。

この回答への補足

またまた補足ではなく、質問になってしまいますけど... どうかご勘弁を。私は記号学(Semiotics, R. BarthesはSemiologyなんて科学的にしていますけど )に執着しております。今クラスでon-line discussionをやっているんですけど、ここでのお題が「religion」です。私はFoucault的、記号学的アプローチで挑みたいと思っております。そこでエピステーメーとtextまた、discourseを話したいんですけど。まずTEXTとはラテン語で『Texere』英語で「to weave」になります。ここに注目して、17、18c当時の宗教的知識の枠組みであるエピステーメーがこの今のtextの一部として編み込まれているように思います。またTEXTとCONTEXTが一緒になってdiscourse を形成しているのであれば、今このInstitution内で使われるdiscourseが私たちに及ぼす宗教的な影響は避けられないものになるんではないでしょうか?もちろん、文脈による所は大きいと思いますが、私は宗教にはそれほど詳しくはありませんし... でもMax Weberって人が『The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism』なんて本を書いています。これから読むつもりですけど。Marx の言う『surveillance』それとFoucaultの「panaopticon」これは昔のdoctrineが生きている証拠にはなりませんかね?

また、text内でエピステーメーの知識の枠組みがparadoxを生み出したりってありますかね?

補足日時:2007/03/17 13:08
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この回答へのお礼

ghostbusterさん、カントに引き続きありがとうございます。今、大学の方が忙しくなってきていまして、なかなかカントに集中できない状態になっております(汗)。論文も途中までと言った所です。まだ大学も2年あるのでゆっくりとカントは勉強して行きます...おそらくたった2年じゃカントを勉強するには足りないでしょうけど,,, パラダイムについてはレクチャーもこのThomas Samuel Kuhnについて、今思い返せば切々と語っていたように思います。コントについてはsocial scienceとenlightenmentについて説明をしていた時に、パラダイムについても触れていたと思います。分りやすい説明ありがとうございました。もう一度、テキストを読み返してみたいと思います。

ちなみにFoucault の発音についてですけどフーコーって皆、発音しています。これはフランス語の発音らしいですけど、一度古本屋に彼の本を探しに行った時に店員さんに「フーコー」の何とかの本ありますかって、訪ねたんですけど...その店員に大きな声で『Sorry!!』と言われました(笑)。何度挑戦しても通じず、結局紙にFoucaultって書いて渡しました。僕はアメリカにではなく、オーストラリアに住んでいます。おそらくアメリカならこの日本語的な発音でも通じたかも知れませんね。それとこの哲学者たちの名前の発音には結構苦労させられています。最近ではあきらめ気味で、名前を紙にあらかじめ書いています(笑)。Kantなんて発音を間違えて日には目も当てられません!

お礼日時:2007/03/17 13:07

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