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特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。)

むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。

解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

A 回答 (46件中1~10件)

背景を見ると、砂漠に潔癖主義のクムラン宗団がいたんですね。


彼らは清めを重要視しており、神の裁きが近いうちにやってくると信じていた。
彼らは独身主義者で、性欲を穢れとしていた。
えっちな事を考えただけでも、一定期間沐浴をして聖所に近づいてはならないという規定があったんですね。
ということで、水による浄化を促進していた集団。

考えてみれば身体を清潔にしていれば、病気にもなりにくいし、病原菌が身体についたとしても、水で洗い流せば、発病しない可能性が高くなり、現実として沐浴は浄化作用があった。

(クムラン集団は油を塗る行為をしなかった。何故なら油を体につけると、ばい菌が取れにくくなるので。従って誰かが自分達に油を塗る行為をすると、それは「なんてことを」ってことになるんですね。「そんなことしても清めにはならない。そんな無駄なことをどうせやるのなら、売ればいいのに」ってね。「まあまあ この人は私達の仕来たりは違う規定に沿って、私を清めようとしているのだから。 私は後に羊の捧げ者となるので、彼女はそのための準備をここの慣習に従ってやってくれているのだから。 とね。 ちなみに女神の花婿となる選ばれた王は生贄の儀式の時に油を塗られていたそうです。)


と、話がそれてしまった。
で、クムランはエッセネ派の中の一集団という見方もあるんですね。
そしてイエスに洗礼を施したヨハネ。
彼もエッセネ派 もしくは クムラン宗団の幹部だったという見方もある。


砂漠のクムラン宗団にこもっていたヨハネが外に出て、人々に洗礼を施した としたら。
聖書の記述通りですよね。


彼は誰でも洗礼をしたのか。
イエスも洗礼を受けていますよね。
ということは、イエスは穢れていたからなのか。


どう思います?


もし、ヨハネの洗礼が穢れを清めるのが目的ではなかったとしたら?


「私の心にかなう」と天から声がしたとあるので、イエスは穢れてなどいないし、穢れを清めるために行われたわけじゃあないわけですよね。
少なくとも著者は穢れを清めることを洗礼と考えていなかったので、イエスも洗礼を受けたと書いたわけです。


「私の心にかなう」 つまり「既に清いと自覚させるため」に洗礼を象徴としてやっていた可能性が高い。

聖書学者のジョン・ドミニク・クロッサンは「ヨハネの洗礼とは罪を取り除く儀式ではなく、外的・肉体的に清めることによって彼の信者たちが既に内的・肉体的・霊的に浄化されていることを象徴するためである」とヨセフスの観点から考えてこう結論づけたんですね。

ある歴史家は「人々がヨハネの弟子になったのは、内的にも外的にも浄化されるための良い方法を学ぶためであった。ヨハネの基準に従って自らの正しさに自信がもてるようになれば。彼らは浸礼にやってくる。全ての人々が彼の弟子になってから浸礼を受けたわけではない。だがひとたび浸礼を受けると、彼らはそれ以前から既にヨハネの教えを受け入れていたことになり、以前から彼の弟子であったことになるのだ」と言っているそうです。


ということでヨハネの洗礼の意味は清いことの象徴としてであって、罪を清めるためということじゃなかったようです。


それがどうして幼児洗礼などになっていったのか。
どうして人は原罪を持って生まれてくるから洗礼をほどこして清めなければならないとなったのか。
どうしてイエスが「原罪を消した 喜べ。良い知らせを世の隅々まで伝えよ」としているのに、実際はイエスは原罪など消していないとして洗礼をさせるのか。

福音など無いと否定しながら、福音を伝えよと矛盾したことを言うのか。


おっしゃるとおり、人間の手によってです。
トマスの福音書にも似たようなことがありますが、もともとはシンボル的なものだった。
ところが、後の神学者たちに歪められてしまった。
アウグスティヌスが原罪に対して固執しすぎましたよね。
ティトゥリアヌスは乳児は生まれたときは悪しき者であるという見解を示した。
キリスト教の世界では女性は悪魔ですから、その悪魔から生まれた乳児は悪魔の子なんですね。
それで清めない限り悪魔のままだとした。


西暦418年、キリスト教の宗教会議は、人間の子は悪魔に取り付かれているので、もし洗礼を受けなければ自動的に地獄意落ちるという決議をした。


というわけで、ここからが元のシンボルとは別の解釈として洗礼が使われるようになったわけです。
今の洗礼の解釈は人間が集まって会議をして決めたことなので、人の手によるものです。
人の手によるものなので、どのような効果が期待できるのでしょう。
というか、本来の意味を含んでいない。

洗礼者ヨハネも人間ですが、人を縛るため、罰するために洗礼を開発したのではなく、清いと自覚を促すための象徴として。
目的じゃなく結果としての象徴。


とまあ、私の得ている情報からすると、以上のような見解になります。


結局ですね、神より現実的な支配者を人は選ぶんですよ。
神より怖いのは・・・・・生きた人間ですよね。

普通の人は、生霊の方が怖いですから。
(実態を持っているので簡単に殺せますし鞭打ちとか脅迫とか現実として実際にやりますから。ペトロは全財産を寄付しなかった夫婦を殺しましたよね。神のせいにしたようですが、現代で考えると、この宗教団体が金目的に夫婦を殺して見せしめにしたと警察は考えこそすれ、この宗教団体の神が本当にいて、金を全額寄付しなったから殺人を行ったという判決にはなりませんよね?)


ただですね。
古代の人たちは、この実態を持つ悪魔には屈したふりをしていましたが、表面上はキリスト教の改宗しても、内面までは塗り替えられない人もいたようです。


水、 ヘブライ語でメムだったと思います。
マリア、マーヤ、ミリアム、水の概念があります。
ヨナ物語。
3日間 大魚の中に入って復活したという物語です。
この大魚は子宮の比喩だと思うんですね。
tomb 墓で womb 子宮です。
羊水で育ちますよね。
水の洗礼は、生まれ変わるという意味もあることになる。
つまり reborn。
で、なんで3日なのか。
一応調べたんですね。
月でした。

女神の象徴が月。
生命を誕生させる地母神の象徴が月。
だから生まれる 復活する というときは3日3晩 って物語になるのだとか。
で、「ああ 私の心にかなう子」、 女性の声だったのでしょうか・・・・。
それとも女神の地上の体現者とされた女性神官の実際の儀式の時の言葉だったのでしょうか。

この部分の謎はまだ解明はできていません。
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この回答へのお礼

どちらとも分からないとおっしゃっているのでしょうか。

《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない》とイエスが言ったとヨハネは記しています。その他 同じような文句があります。

わたしは このうち水による洗礼は 必要ではないと受け取っています。でも そうではないということになっていると思われもします。そこで ほんとうにそうなのか もしそうなのなら なぜかを教えて欲しいという趣旨の質問です。

追伸:必要不可欠という説もあれば そうではないという説もあるというご趣旨でしょうか。

お礼日時:2007/05/19 22:40

 >特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。

わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

 自称である限り、キリスト者とは言えないと考えてください。洗礼を受けたイエスに、聖霊が鳩のように下ったと言う記述が有ります。神様の目に見えない力が望んだと解釈すべきでしょう。

 ゆえに、>水による洗礼は必要不可欠なことですか ⇒ 貴方は、聖霊の働きをどの様に解釈しますか?
 聖霊様の導きを伴なって、イエス・キリストを信じ、復活の希望に預かって、生まれ変わるとされています。信じる事と告白も必要とする場合は、どうしますか?
 キリスト者と言ってるのは、行動も伴なう信仰を言ってると思います。キリスト者とは、生き方を伴なう行為なのです。人生を通して生涯を貫く選択を意味するとしたら、貴方のキリスト者とはどの様な意味をお持ちですか?

 キリスト者は、結果として洗礼を伴なうものと思います。それは、悔い改めと、復活信仰を意味します。水だけが問題とは思われないのですが?

参考URL:http://homepage2.nifty.com/allstchurch/senrei.htm
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この回答へのお礼

《口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです》(ローマ10:9-10) たとえばこのパウロの文章を参照して 自称しています。

聖霊を議論の中で扱うのは むつかしいものがあります。

《水だけが問題とは思われないのですが?》――ですから《聖霊による洗礼》にて《自称しています》と申し上げているのですが この質問はこうです。

《なぜ 〈水による洗礼によってのみ〉キリスト者となるというのでしょうか》 つまり 《〈水による洗礼によってキリスト者となったあと初めて〉 聖霊による恩恵を受けることができるというのは なぜか》です。

一つの話のきっかけとして たとえば こういう議論があります。 《アブラハムは 水による洗礼を受けていませんが かれは どうなるのでしょうか》

一般のみなさんから見れば 特殊な質問だと思いますが よろしくお願いいたします。

お礼日時:2007/05/20 08:19

これは一カトリック教徒の解釈であり、カトリックの方針そのものではないという前提でお読み下さい。



貴方がキリスト教徒として生きるのであれば、洗礼は必要不可欠なものです。それは意志の表明だからです。
必要か必要でないかは私達が決める事ではありません。
自己解釈で勝手に解釈したら秩序は無用の長物となってしまいます。
解釈には合理性と客観性が無ければなりません。

ただし、最期の時の神の判断はこれとは異なります。
勿論、意思表明した者とそうでない者の差はあるでしょうが、
洗礼を受けた後、規律を破っていれば、教徒以外の者と同じか、それ以上の重い審判が下るでしょう。
逆に教徒でなくても教徒以上に神の意志に従って規律を護って生きていれば教徒と同じように救われるでしょう。

ただし、洗礼は神の庇護の下に入るだけでなく、原罪の罪の許しを乞うための儀式でもあります。
従って、洗礼を受けなければ、例え聖人的人生を送ったとしても、原罪に対しての赦しを得なければ門をくぐる事はできません。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。前のお二人にも お礼を申し上げます。

《教徒でなくても教徒以上に神の意志に従って規律を護って生きていれば教徒と同じように救われるでしょう》とおっしゃるからには キリスト者であることの条件は 《水による洗礼》が絶対条件ではないと受け取れるのですが・・・?

それでしたら アブラハムも まちがいなく水の洗礼にかんする留保条件なしに キリスト者として 生きたと捉えられます。

なお 《キリスト教徒》というのは 《キリスト教――つまり 教えとその文明化した社会慣習です――》のもとに組織的に生きる人を言うのだと思います。それは 聖霊による洗礼を受けてキリスト者となった者とは――重なる側面もあるでしょうが 基本的に言って――別のものだと考えるのですが いかがでしょう?。

論争を想定していなかったのですが――こちらの側で弁護すべき事柄だけは弁護しようと思っていましたが―― 次のことは 論点になるように考えます。

《洗礼は・・・原罪の罪の許しを乞うための儀式でもあります》とのこと。わたしの信仰の中では ちがっています。乞うか乞わないかを問わず イエスの出現それだけによって すべてはゆるされ 人類すべてにわたって和解が成立したのではないでしょうか。エレミヤ31:31以降は そのことを預言していたのでは?

なお細かいことを言えば 《意志の表明》は なにも授洗によらなくても ひとこと公言すれば だれにでも どこででも出来るでしょう。いかがでしょうか?

この際 よくわかっていただくために もっと述べます。《水の洗礼が絶対条件である》というのは これも そうではないというのと同じように ひとつの解釈にもとづいているように思いますが いかがでしょう?(アブラハムの事例にかんして いっさい解釈しないという一種の解釈にもとづいて 絶対条件であると主張しているのでは?)

《秩序》とおっしゃいますが ユダヤ教とそれにもとづくユダヤ社会のそれまでの《秩序》に対して はたしていったい どう考えどう行動したというべきでしょうか?(だれがの部分を抜きにして述べましたが)。

理屈っぽくなってまいりましたが この教えを乞う巡礼の行方に祝福のありますように。

お礼日時:2007/05/20 13:01

必要かどうかはその人の信仰です。


自称というけどみんな同じでしょう
ただあなたは本当に救われ新しくなりましたか?

地上にありながら罪ある肉から開放されるというのだ。これこそが洗礼の真髄である。
だから儀式的なものより本人が自覚しているのか?と言うこと
後少しだけぬれるのではなく体すべてが水(御言葉)に浸され救いを経験されたかがどうか重要だと思いますが

信じているのではなく神様から呼ばれたものなのか?どうかが問題でしょう。
要するに本当に信じているのか?これがクリスチャンにとって重要なことでしょう。絶えずいつも信じているか・・・
書いている自分でも怖い事を書いていますね
         祈り感謝して・・・・
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

《必要かどうかはその人の信仰です》にもとづけば 絶対必要な条件ではないという帰結になります。

《ただあなたは本当に救われ新しくなりましたか?》という別の条件がつくとすれば この条件は 不可欠のものなのか・そして また元に戻って それは 水の洗礼によってのみ満たされるということなのかというふうに 議論は回りめぐって尽きません。

《だから〔重要なのは〕儀式的なものより本人が自覚しているのか?と言うこと》というとき この《自覚》は やはり 水の洗礼によってこそ与えられるものなのかという問いに帰着します。 

《体すべてが水(御言葉)に浸され救いを経験されたかがどうか》とおっしゃるのは つまり《水》について《(御言葉)》というふうに括弧書きされているのは こうおっしゃっているのでしょうか。すなわち 《水が 不可欠の条件ではなく やはり聖霊による洗礼がすべての始まりなり》と。それなら わたくしの現在思っていることと一致するのですが。

《信じているのではなく神様から呼ばれたものなのか?どうかが問題でしょう》。――そのとおりだと思います。厳密には 《神様から呼ばれた》から《信じている》ということなのだとは思いますが。つまり《呼ばれた》ということは――水の洗礼のときに その内実が伴なわれることもあるでしょうが 一般的に言えば――《霊による洗礼》のことだと受け取っています。

この質問をして回答を受け止めていくに従い 新しい知見を じつは 得ました。それは 《水による洗礼は キリストの権能によって しかるべき人がその手を用いて おこなわれるものだ》ということです。つまり 《キリストの権能によって》が そのとき同時に 核として 伴なわれているということは 取りも直さず 《霊による洗礼》のことなのであると。

ですから このあと問題は 《キリストの権能による=聖霊による洗礼》が 《人の手による水を用いての洗礼》と共にでなければ 与えられないのか こうなるというように考えました。いかがでしょうか。

お礼日時:2007/05/21 04:51

 ANo.2です。



 アブラハムとキリストですが、アブラハムの時代には、キリストは実存していませんから、水でも聖霊でも洗礼を受けてないと言えます。当時は、キリスト教以前の時代です。神と人間、その間に祭司と呼ばれる特別な役割の人がいます。モーセなどもそうでしょう。

 旧約は詳しくは無いのですが、基本的には、キリスト教と言う考えは含んでないと言えます。良く待望の書と言いますから、待っている時代といえます。イエス・キリストの教えにポイントがあります。ですから、新約聖書の教えが『新しい契約』と言えます。エレミヤ31:31以降で言ってることは、その新しい契約(新約聖書の内容)と言えます。

 新約の時代には、イエスの誕生(処女降誕)、イエスの教えや奇跡、十字架の死と復活、聖霊降臨(弟子たちに現れるなど)一連の出来事を信じる事が、キリスト教的信仰の基礎と考えられます。水で洗礼を受ける事も、そうした一連の出来事と言えます。

 参考までに、私は12月の初冬に河川で洗礼を受けました。なぜでしょう?屋内のプールのような条件で受ける方もいますが、特に気にした事はありませんでした。先日、ある牧師に滴礼という事で意見の違いを感じた事がありました。宗派による違いは有るでしょうが、聖霊(神様の見えざる導き、力の存在)を肯定する事は、キリスト者として大切な条件と思います。

 アブラハムは、信仰の父として一般に理解されています。それは、イサクという息子を頂いた物語や、その子を神様に捧げる決心をして認められた出来事があるからです。ご存知かもしれませんが。その時代でも、天使がアブラハムに望んで語ります。天使を霊的な使いと理解する事もできます。私も、勉強中の身なので違っている事もあるかも知れません。日本的には、自称キリスト者は通じるかも知れませんが、本当の意味でのキリスト者は恐らく、もっと意味が深いと思います。神様に従うとは、信じて生きて行く事と言えます。そうした生き方を選んだ人をキリスト者と、私は理解しています。

 奥が深いので、これを機会に皆さんの意見を聞いてみてください。在主。
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この回答へのお礼

箇条書きにします。

(1)《奥が深いので、これを機会に皆さんの意見を聞いてみてください。在主。》とおっしゃっていただき ありがとうございます。この感謝とともにながら 次のようにも さらにうかがいたく思います。

(2)《水で洗礼を受ける事も、そうした一連の(つまり イエスの生と死と高挙・復活そして聖霊降臨などの受け容れの)出来事と言えます》というとき その《水の洗礼が 信仰にとって どういう位置づけにあるのか》 これが 問題の焦点です。《一連の出来事にとって 絶対必要な入り口である》というのが 一般の常識であるようですから。

(3)《エレミヤ31:31以降で言ってることは、その新しい契約(新約聖書の内容)と言えます》とおっしゃるなら その内容として《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ということは どういうことなのか 明らかにしていただけるとよいと思います。

(4)《〈アブラハムは神を信じた。それで かれは正しい人とみなされた〉(創世記15:6)とあります》(ローマ4:3)とパウロが述べています。つまり重ねて《しかし この〈かれ(アブラハム)が〔信仰によって〕正しい人とみなされた〉という言葉は アブラハムのためだけではなく わたしたちのためにも記されているのです》(同4:23)とのこと。

――これでも キリスト信仰と関係ないのでしょうか。また 関係があっても かれは水の洗礼を受けていないので キリスト者ではなく 救われていないというべきなのでしょうか。

(5)《神様に従うとは、信じて生きて行く事と言えます。そうした生き方を選んだ人をキリスト者と、私は理解しています。》とわたくしも受け取って 自称しています。

*対立点を浮き上がらせましたが あしからずご了承ください。

お礼日時:2007/05/21 04:24

洗礼を受ける。

受けない。と言う問題より誰から受けるのか?

聖書は次のように書いています
火と聖霊によるバプテスマを授ける。

私は洗礼を受けたとか受けないというのを問題にしていません
イエスを知って自分がどのように歩んだのか?ここが大切で
洗礼を受けたのか?どうかは大切でないと思います。

僕自身は教会で洗礼を受けたのですが、受ける前にイエスに出会った
救いを知った。と言うこと。人生教会に行くだけが目的ではありません
それぞれ召しがありますから

受ける受けないというのはその人とイエスの出会い、それぞれに計画と目的がありそれを行うおが信仰だと思ってます。極端な言い方すれば
水がない場所ではクリスチャンになれないのか?と言う問題にもなりますし、イエスは主であり救い主だと自分の口で告白するなら洗礼を受けているということにもなるはず。前にも書きました洗礼を受けたのかどうかではなく「新しくなった」自覚したのかどうかが問題で教会の洗礼
は関係がないと個人的に思ってます

まあそれぞれの歩みがあり、神様に知られているなら聖霊を持っている
つまり洗礼を受けたと解釈しても差し支えないと思います。
結果を見るのか?スタートを見るのか?かは問題ではないと思います
まあそれぞれの信仰で大切であるとおもうなら大切にしてください
というしかないでしょう
大切なのはイエスをあいするように自分を愛しなさい
「自分を愛するように」とこの戒めが大切なのであり 個人敵には関係ないと思います。(たとえば仏教だけの町で聖書を拾い救い主はイエスであると理解し一人だけで信仰を守った時このひとはクリスチャンでないといいきれるのか?いいえ イエスを信じるものは救われているんですから洗礼は関係ないと思います

まあクリスチャンもそれぞれいますのでこのへんで・・・
神様の愛は広いし大きいですよ
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この回答へのお礼

《神様の愛は広いし大きいですよ》とおっしゃっていただいたので もう気にするほどのこともないのですが 根拠の点では――理屈の上では――気がかりが残ります。

そして それは この議論の問題というよりも じつは 1katyanさんが ちょっと投げやりな調子を見せておられるところがです。

聖霊がひとつ 頭が同じ一人 なら 《まあクリスチャンもそれぞれいますのでこのへんで》 はないでしょう?

せっかく《それぞれ召しがありますから》とおっしゃっているのに それはないでしょう?

《それぞれに計画と目的がありそれを行うのが信仰だと思ってます。極端な言い方すれば》とのことですが これは 極端な言い方ではなく まったく普通の認識だと考えます。そのとおりだと思います。もちろん おおきな《計画と目的》は やはり一つ と言いますか 決まっているということでしょうけれど。

《人生教会に行くだけが目的ではありません》 これもそのとおりだと受け取ります。でも教会で洗礼を受けられたとのこと よかったですね。わたしは 三十歳のころやっと信仰へと――誰にもよってでもなく――連れ去られたのですから 人生がちがっているでしょうね。

《大切なのはイエスをあいするように自分を愛しなさい》 これは 不正確です。きちんと述べてください。――年寄りの繰り言と思って ゆるされたし。

《〔洗礼を〕受ける前にイエスに出会った / 救いを知った。と言うこと》とのこと すごいですねぇ。《行けと言われたから 行った(アブラハム) / ついて来なさいと言われたから ついて行った(ペテロら) / 信じたから語った / ・・・》 シンプルがいいですねぇ。

《火と聖霊によるバプテスマ》については あえて 触れないことにします。大きな主題ですし。

Thank you for your answer ! と言いたくなるような回答をありがとうございました。

お礼日時:2007/05/21 11:15

No.1です。




>どちらとも分からないとおっしゃっているのでしょうか。

文章から焦りが感じられますが、質問の目的は、「水による洗礼を受けなければ天国にいけないのでしょうか?」ということでよろしいんでしょうか?

「どっちか早く知りたい。早く 早く 早く」と決定してもらいたがっているようにお見受けします。

何故、人間に聞かず神に聞かないのか、キリスト教徒ではない私には、その理由がわからない。
神は信じられないのでしょうか?
では、何故信じられないのに信者でいるのでしょうか?


神を信じているのなら、神に聞けばいいわけですよね。
それとも、信じているのにもかかわらず、全く聞えないのでしょうか?
それで洗礼を受けないから聞えないとお考えなのでしょうか?


でしたら消去法として、洗礼を受ければ神の声が聞えるかどうか実際に受けてみればいいだけのことではないのでしょうか。


洗礼後も聞えなければ、洗礼をやったとしても天国になどいけないと身をもって立証できるわけです。

逆に洗礼を受けたことで神の声が聞えるようになったのであれば、もう質問を取り下げてもいいでしょう。
後は神があなたを天国に導くために話しかけてくるわけなので。




>《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない》とイエスが言ったとヨハネは記しています。その他 同じような文句があります。

一番の問題は、「その言葉はヘブル語に戻すと、どういう意味か」ですね。
「はっきり言っておく」は英語ならand、ヘブル語ならアメンじゃないかと思います。
(i'll tell you じゃない。)
たとえ話をしたあと、出てくる接続語ですよね。
慣習で、たとえ話をしたあと、アメンと言って、その前と同じ内容を言う。


で、水とはなにか、聖霊とは本来ヘブライ語では何を意味していたのか、なのですが、、、、

聖書作家は、何を言いたかったのでしょう。


私が知っていることの一つに、水は女性、霊は男性を意味していた
とある。
で、イメージするのが性交です。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない」
確かに、、、人は性交なしには誕生しませんので。

ではイエスはセックスについての教えを説いていたのか?
これは洗礼が不可欠だと言っていたのではなく、セックスが不可欠で、セックスによって快楽を得る つまり天国に行くってことで、これが練成になるってことで、これが後に立川流真言宗などにも現れているわけで、カバラでもあるわけですよね。


水に沈めれば、天国に行けるなどイエスは言ってはいない。


それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?
縛るためですよね。
人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。
人々を統率するための手段として用いた。


イエスは弟子たちの足を洗いましたよね。
「足を洗う」は、日本語にもありますよね。
「ヤクザから足を洗う」など悪いことをやめる決意をしたとき、そういいます。
ではヤクザから足を洗った人は天国にみんな行けるのか?
日本にはキリスト教のような天国って概念が無い。

足だけじゃなく、他の部分も とせがみましたが、、、、
足はセックス(ペニス)の比喩でも用いられた。

難解ですねぇ・・・・
イエスが弟子のチンコを洗ったってなってしまいます。

が、古代では聖王はチンコに油を塗って聖婚に望んだので、その前段階としてチンコを清める儀式をしたというのはありえそうです。

こうして神との結婚の儀式においてチンコに油を塗って、神の地上の体現者である巫女と交わるという風習というか儀式というか秘儀があった。
(ダ・ビンチ・コードでも祖父が儀式に参加していえるところを、ヒロインが覗きみてしまって、それ以降 祖父と絶縁したとして描かれていますよね。現代の概念では祖父たちの儀式の意味を理解できない。)



このように背景を知ると、一筋縄じゃいかないので、明確に「洗礼を受けると、天国に行ける。いけない。」といえないわけです。
だってそもそのも古代の概念が今とは違っているのだから。


現代の概念を持って古代の仕来たり・風習・儀式・秘儀の正当性を理解しようとしても、無理があると思うんです。


で、最後に、イエスが言ったとされる天の国とは一体なんなのか。
私の推理では空に上にあるのではない。
地上にあった。
死海のほとりの砂漠の中にあった。
クムラン宗団の拠点。 これが天の国のこと。

そこには天使の添え名を持つ人もいたし、アブラハムの添え名を持つ人もいた。

彼らは滑らかなる者、口当たりの良い言葉を追い求めるもの、口先は立派で壇上に担がれてのぼり偉そうに説教はするが実践しないもの、つまり足の萎えた祭祀を批判していた。
滑らかなる者とはクムラン宗団の隠語で、パリサイ派のこと。

(神殿では政治的支配をめぐって、サドカイ派とパリサイ派が権力争いをしていたわけですね。)

そして二人のメシアを立た。
一人はアロンの血筋を引くヨハネだと思われます。
彼が外に出た。
砂漠でクムランの思想を語りだしたわけです。
彼の説教により、クムラン つまり天国に入ろうとする人たちが入信したと思えます。
規定がありました。
多数者 つまり12人の幹部がいた。
この幹部は全員レビ人。 
ママドトのツァドクの血を引く(つまり霊を受け継ぐ)直系の子孫たち。

つまり霊とはツァドクの血統ってことじゃないかと。


では、水は?
マリアの身元が不明なんです。
従姉妹のエリザベスがアロン家の血筋なので、マリアもアロン家の血筋か?
私の分析ではアロン家しか水の血筋とされないと思えます。母ヨハネにも天使の添え名を持つガブリエルだったか忘れましたが、現れていますので、この血統はツァドクで、マリアがアロン家だとすると、ツァドク家の者とアロン家の者との間に生まれた子が、天国 つまりクムランで育てられ、地上に降りてきて、人々に天使や神の言葉を授けるって考えだったんじゃないかと。

クムランの祭祀たちは、エルサレムの神殿に巣くう政治的な見解によってなめらかなる者ではなく、とことん神学を究めようとしていた集団なので。


どうでしょう?
私の分析による天の国、水、霊。

このほうが現実的だと思えません?

哲学は非現実的なことを空想していたら、そりゃ 哲学じゃなくなり夢想文学になっちゃいます。
あくまで実際に起こった背景を参考にしながら紐解かないと。


尚、新約聖書は4世紀より前の写本は見つかっていない。
それまでに何度も書き換えられたと思えるんですね。
もともと無かった話を追加してさもあったかのようにしているフシがある。
もともとあった話か、教会が加筆したか考えるには、外典やその他の歴史的資料を参考にしてみるといいらしいです。


ピラトなど新約聖書のような人物じゃなかったので、イエスの裁判のくだりは、後の人がもともとあったものに追加したと思えます。



「だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない」がもし 洗礼を教会の独占業務だとしたいためにたくみに挿入した架空のものだとしたら、、、。
その行為によりどれだけ多くの信者が彷徨うことになったか。
迷惑な霊(ロゴス)です。

この回答への補足

《何故、人間に聞かず神に聞かないのか》という意味のことを そうではないと主張する人びとに向けて 質問しています。

人間のあいだで《水による洗礼を通らなければ キリスト者ではない》と決められているようなので 尋ねてみたいと思っています。

ですから 《質問の目的は、「水による洗礼を受けなければ天国にいけないのでしょうか?」ということでよろしいんでしょうか?》というのとは 微妙にちがいます。わたし自身は すでに 神の子らの中に入るように導かれました。ただ そのような自称だけではいけないという考えが 圧倒的に強くありますので 訊いています。そして ひょっとすると わたしの信仰の受け取りがまちがっているかも分かりません。

イエスは おっしゃるとおり 《弟子たちの――チンコではなく――足を洗いました》。それは 相手に尋ねつつ 相手のこころを推し測りつつ 相手の言おうとするところをていねいに聞き取ろうという意味が含まれています。

迷惑なロゴスは無用に願います。

《それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?――縛るためですよね。》とお考えなら 《水の洗礼は必要不可欠ではない》という結論です。そのことをおしえてください。

ただ この《人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。》というのは 根拠が弱いと思われます。そのように解釈しただけのものです。イエスが自身 洗礼を受けていますから。

ANo4へのお礼の欄にも述べましたが 《水を用いての洗礼は キリストの神の権能によって 人の手でおこなわれる》のだと捉えられます。すなわち《聖霊による洗礼》です。むろんそれは 神秘であり 要するに 経験合理性では わけの分からないことがらです。いづれにしても その霊による洗いが 核となって含まれます。――それでは 水による洗礼をつねに伴なわなければ いけないものか これが いまの問いの中味です。いかがでしょうか。

《水は女性、霊は男性を意味していた》《霊とはツァドクの血統ってことじゃないか》というように 《霊》を 人間の理性でわかるように解釈するのは 自由ですが キリスト信仰とは 似ても似つかない哲学ですと申し上げておきます。

人間にはわけの分からないゆえにそのように《霊》という言葉を用いるというだけのものなのです。そのようにして いわば《神》を代理して表わします。 

むろん《神》と言っても それも代理表現です。《神》という文字が神でもなければ 《 kami 》という発音が神でもない。ですから 《無神》と言っても それが 代理表現であると認め合われれば それでよいわけです。アッラーと言っても ブッダと言っても 空なり無なりと言っても すべては代理表現に過ぎません。

ただ このような《神 あるいは 絶対者》の代理表現にすぎないものを わざわざこの経験領域におけるものごとに当てはめるというのは 哲学として自由ですが それは わたしたちのキリスト信仰もしくは信仰一般とも 似ても似つかないしろものです。いかがでしょうか。

もっとも たしかに あたかも指の先か何かでそうっと触れられたといったような出来事として 我れは神を見たりという体験を持つという人もいるかも知れません。すべては 主観としての出来事です。霊とはそういう意味です。しかも 《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》(マタイ5:8)と聞いているので この単なる主観的な体験が 無下に 棄て去られるとは思われないといったところです。

わたしは kigurumi さんに 説教をし 宣教をしているみたいですね。くれぐれも あしからず。

補足日時:2007/05/21 10:18
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私は小児洗礼を受けた身です。

以下はキリスト教徒向けの内容になります。

愛があれば結婚なんてしなくたって幸せになれる・・・確かに結婚という形式にこだわらなくても、愛を全うする事はできるでしょう。
しかし、結婚という社会的に認められた形式を採択しなかった場合、様々な不利益を甘受せねばなりません。
産まれた子は婚外子(非嫡出)となりますし、世間的にも同棲と見られ、親戚からも受け入れられません・・・

洗礼を受けなくても信仰を全うする事はできるでしょう。しかし、信仰に生きる上での不利益を我慢せねばなりません。その内で最たるものは聖餐式に参加する資格が得られない事です。
キリストを信じていると公言するならば、キリストが「あなた」のために設けて下さった儀式をどうして蔑ろにできましょうか?

では、洗礼とは何でしょうか?
一言で言えば恵みです、神が救いの約束を与えて下さる、という恵みです。
イエスを主と信じるのであれば、この恵みはもらう、この恵みはいらない、と選り好みする事は正しいことだとは思えません。それとも、人の考えは神より優れているのでしょうか?違いますよね^^

神は一つであるならば、洗礼も一つです。
だから、人から来る洗礼などは無く「イエス=キリストの名による洗礼」であれば全て神から来るのですよ。
あなたは、幸いにして信仰を持った、キリストを聖書を通じて知る事ができた、しかし・・・不安だからここで質問した。違いますか?

他の方へのお礼を拝見すれば、あなたが真っ当な人である事は分かります。だから、「不安に思い、迷うくらいなら洗礼を受けましょう」と言いたいのです。そうすれば、キリストが代わりにあなたの重荷を背負って下さるのですからね。

P.S.エキセントリックな回答者がいますが、その人に対して「私も」常々苦々しく思っていました。デタラメばっかり書きやがって・・・ってね。しかし「主よ、彼をお許しください。彼は何を書いているのか分かっていないのですから」と祈ることにしております。

来週の日曜日はペンテコステです。あなたが、主にあって兄弟姉妹となり、新しい信仰生活を始めるのに相応しい日だと思いますが如何?

繰り返します、洗礼を受けずとも救われる人は救われるでしょう。
しかし、信じて洗礼を受けるものは救われます、と聖書にありますよ。
そこには他の条件は何も書いてありません、献金を何円以上した者とか殉教した者とか、生涯愛に満ちた技しかしなかった者とか、ではないのです。ただ、「信じて」「洗礼を受ける」事が書かれているだけです。
だから、信じているならば、洗礼を受ける事は神の意思に適う事だと思います。

願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように、
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen
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この回答へのお礼

誰かが言っていたと思いますが 《もぐり》で《無免許運転》をしているわたしですが それでも キリスト者であると認めていただけるのでしたら キリスト者どうしとして frisk_blue_loveさんとお話しすることができるかも分かりません。

と言っても たしかにおっしゃるとおり 一番のことは キリストとその神の声に耳を傾けることになるわけですから 論理的な議論にしても この質問の場をとおしての少しでもの感覚的な接触にしても 問題は 腑に落ちるような感受性のあり方なり その後の決断のありかだと思われます。

ほんとうは 人間としての経験的な歴史も それとして絡んでいると思われ そのことをお伝えしようと一たんは思いましたが そうとう長くなりそうなので 今回は そうではなく けっきょく 議論を中心とした対話のかたちで お応えをお返しします。

一点にしぼりました。
まづ引用です。《ペテロは言った。〈・・・イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》(使徒行伝2:38-39)

このとき もし《すでに 〈罪が赦されている〉また〈恩恵も与えられている〉》としたら どうなるのでしょう?いかがでしょう?

お礼日時:2007/05/21 14:14

ヘルマン・ベックやルドルフ・シュタイナーが設立にかかわった「ディ・クリステンゲマインシャフト」のもつ独特の概念が、「キリスト者」でしょうね。



キリスト者、とご自分を呼んでいらっしゃるので、このあたりを思い浮かべるわけですが。

この思想は、キリスト教の解釈を現代神秘思想によって強化したもので、非常に自由な、学究的な傾向がありますが、
それでも、聖別されることは重要なファクターであるとおもわれます。
祝福されたか否か、というのは根源的な資格審査のように見受けられます。
聖水によって聖別されることをはしょるというのは、私の知る限りでは考えられません。

神学には、人間の自由意志についての問いが含まれます。
自由意志はほとんど無いものでありながら、問うことの中に、わずかにあります。じつにせつないものです。

これこれは神の意志で、これこれは人の意志、という区分けは、出来ないはずですが、どのようにその区別にいたったか、もう一度ご自分の中で原因を突き止めてみてはいかがでしょうか。

人の解釈、人の口伝、人の説教と、人を介してあなたが導かれているのは確かですが、
人のすることの中にしか、神の意志は形にならないことも確かでしょう。

問題は、いつも自分の意志と、神の意志という二極であって、
人一般の意志と自分とのすりあわせではないですね。
人がやることの過ちや、人の行いへの疑問は、蚊帳の外にあるものです。
あなたがキリスト者であろうとするなら、
そこに神の意志がないと思うときは、それは人のせいではなく、あなたの自由な意志がそう決定している、ということです。

念のため付け加えますと、私は特定の宗教は持っていません。思想史は専門ですが、聖書の解釈は専門ではありません。
キリスト教の立場からのアドヴァイスはできませんが、神学的には私は上記のように考えます。

この回答への補足

神学を神学として学んだことなく ただアウグスティヌスの《三位一体論》を中沢宣夫訳にて読んだのみといったところのわたしが amaguappaさんのこの回答に対して お礼を述べることすら 躊躇されますが 質問とその主題ははっきりしていますので その主旨のもとに お応えしてまいります。

§1 キリスト者というのは キリスト・イエスが指し示した神を信じる者という意味で用いています。クリスチャンのことですが それだと 幅広い通常の意味あいがあって わたし自身のあり方と違うように感じるので あまり使いません。ただそれだけです。ほかに理由はありません。

§2 《聖別されることは重要なファクターである》という命題ですが この問題からして 出発点のあり方がちがっていると申し上げざるを得ません。

エレミヤ書31:31以降では 《わたし(=主)はかれら(=人びと)の悪を赦し ふたたびかれらの罪に心を留めることはない》とあります。もしこの文句にもとづくなら もはや――イエスの出現以降は――《聖別》はそもそも要らないというのが わたしの立ち場なのです。

ですから《祝福されたか否か というの〔も〕根源的な資格審査》ではなくなっています。ですから《聖水によって聖別されることを端折る》ことは 当然のこととして帰結します。

§3 自由意志の問題については 通りすがりに議論して済んだということには出来ないと考えます。

箇条書きのごとくに 問題点や課題を記します。

§3-1 自由意志の存在をどのように捉えることができるか。

《そのとき人びとは〈主を知れ〉と言って教えることはない》(エレミヤ)ということが そのように《人のすることの中に 神の意志が形になる》ことだと もし捉えるとした場合 その場合には 仮りに人が《主を知れ》と言って教えたとすれば その行為は おそらく神の意志に反していて 人間の自由意志をはたらかせたものである と認識するというものです。けれども 神の意志に従う場合も 自由意志のはたらきはあると わたしは考えています。

§3-2 《自分の意志と 神の意志という二極》とおっしゃるようには わたしは捉えていません。

《わたしは自分の意志ではなく わたしを遣わした方の意志をおこなおうとする》(ヨハネ5:30)と言うのは キリスト(神の貌)としてのイエス(人間)です。

わたしたち人間は このキリスト・イエスに倣って生きるのみです。しかも 人間としての自分の意志の自由な選択があるところから出発しているはづです。この《倣う》というとき 神の意志(聖霊)がはたらきたまうならば わたしたちも なにがしか イエスに似る者となるでしょう。

《極》は 神の一極です。それと同じ意味での極にはなれないと知っていて その神の極に甘え続けているのが わたしです。人生は それだけです。ちゃちな自由意志が そこにあるようです。

§3-3 他者との関係においては どうか。

《人一般の意志と自分とのすりあわせ》が むしろ 起こります。

前記の《ちゃちな自由意志》が それでも 批判を受けるとき――つまりたとえば 水の洗礼を受けていないから おまえはキリスト者ではないというふうな批判です そのときには―― 他者との関係が 具体的に特定されて・しかもこのとき既に 一般的な問題ともなって=さらにつまりは あたかも神の意志とかかわるかのようにして 起きて来ます。

この事態を分析してみましょう。他者は 言葉の上だけとしても 明らかに《神の意志》のありかを問題としています。わたしはこのとき むしろ わがままから 神なる一極に固着し得ないで ちゃちな自由意志を振り回そうとする状態にあったわけです。そういう場合があります。

上に挙げた具体的な例に即しては こうです。《水の洗礼など いまは何も考えていない・分からない だからその点で 他者がどう批判しようとかまわない》と思い勝ちになったとき 批判がくれば 《すりあわせ》に入ろうとします。良いか良くないかを別にしてです。

要は 他者が言う言葉のなかに 神の意志――それは わたしにとっての唯一の極です――にかかわる〔と思われる〕ことがらがある場合に 反応するということのようです。

《人の行ないへの疑問》は 明らかに《蚊帳の外》にではなく 内にあると捉えるようです。《人がやることの過ち》に対しては はっきりしません。決まっていません。外か内かがです。

いかがでしょうか。謹んで述べました。一区切り打ちます。

補足日時:2007/05/21 22:28
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No8です。

お礼拝見しました。まずお絞りになられた一点につき私の考えを書きます。
洗礼は二度受けても永遠の命を二つ得る訳ではありません。ですから、既に罪が赦されており、聖霊をいただいている人が洗礼を受けても実質何も変わらないでしょう。(もし、あなたがそれだ、と言うのであればあなたの内に既に答えがあるのですから、私の意見は無駄ですが)

以下は洗礼は不要か、についての考えです
No7氏への補足で、イエスもヨハネから洗礼を受けた事をご存知だとお書きですね。神の子であるキリストすら洗礼をお受けになったのに、どうしてあなたには洗礼の必要が無いのでしょうか?

前回も書きましたが、洗礼は恵みです。神のためにあるのではなく、人のために用意されているのです。
「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)とのイエスの約束があるのですから、私はその約束を信じます。が「信じた者は洗礼を受けなくても良い」との言葉は私には見つけられませんでした。
ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って全てを受け入れました。
あなたの前には神の救いと恵みの約束があるのに、自分の解釈で一つは受け、一つは受けない、とえり好みしていますが・・・恵みですら選ぶのであれば、災いの時にはどうなさるのでしょうか。

私からの答えは、「あなたが信じているならば、洗礼を受ける事が神の御心に適うことだ」です。
マタイ7:21「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」
この一節は、多くのキリスト者にとって重い警句だとは思いませんか?
もう一度、祈ります。
願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように。
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen

この回答への補足

#9amaguappaさんへのお応えにかかりきりで 遅くなりました。

そこでも述べることになったのですが つまりエレミヤ書31:31以降の新しい契約のことに関してですが この情況は イエスの出現によって 成就したとわたしは捉えています。その点は frisk_blue_loveさんは いかがお考えなのでしょう?

《わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれを記す》とあります。すでに 洗礼も救いも恵みも 石の板にではなく 心に記されてあるのではないでしょうか。

《既に罪が赦されており、聖霊をいただいている人が洗礼を受けても実質何も変わらないでしょう。》という事態は すべての人に成就しているというのが わたしの信仰の立ち場なのです。

いまも ちょっぴりは 勇み足ではないかとの恐れが感じられますが この勇み足の感覚が大きかったので この質問をしてみようと考えたのだと思います。いま述べた立ち場じたいは 前からありました。

たとえば 別のかたちで表現するなら 《人は 一人ひとりが キリスト( a christ )である》と言えると思います。これからは 言っていくべきだと思っています。
**
マルコ16:16は これまで 心に留めていなかったことに気づきました。《信じて しかも 洗礼を受けない者》についても 明示して欲しかったと言うのは 茶化すことになります。

ただ そのあとの《信じない者は滅びの宣告を受ける》という文句は わたしには 抵抗があります。組織の伸張のために 威勢のいい言葉を並べているように感じます。
***
洗礼者ヨハネが 旧約の文句にもとづくかたちで イエスへの橋渡しをしました。かれは 洗礼を施すということをしていました。この継承の筋において 洗礼は ひとつの制度として 用いられたのだと考えます。

イエスの弟子からの授洗の系譜が肝要であるというとき おそらく ローマ教会の腐敗は その継承の正統性をも滅ぼすまでの事態に至ったのではないかと考えます。魔女や十字軍は 人の意志を無視して殺すという行為を正当化しており そこでは イエスからの系譜が途絶えたと思われます。

洗礼の儀式が 秘蹟ではなくなったように思われます。

謹んで申し述べました。この述懐が frisk_blue_loveさんにとって 躓きの石に むしろ なったほうが よいと言うべきでしょうか・・・よくわかりませんが ヨブをも思っておられるので 心配はしておりません。

補足日時:2007/05/21 23:13
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