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今26歳の女です。
捻挫後遺症で15歳のときから左足が痛いです。
補助がないと歩けません。

他の理由も重なって、17歳の時に自律神経失調症と鬱になりました。鬱は改善しつつありますが、足は変わらず痛く、自律神経失調症も治っていません。自律神経失調症が治らないのは、おそらく足が痛いからです。足が痛い→足が痛い自分が嫌→自分嫌い→自律神経失調症→自律神経失調症が嫌→悪化というループができています。
足に関しては、治る見込みがない訳ではないですが、治らない可能性もあります。もう26ですし早く治したい、自律神経の薬から解放されたくて焦ってます。
しかし足の治療はうまくいくかわからず、もしかしたらずっと一生痛いかもです。
私は治ると願いつつ治療と運動をしてるのですが、鬱もちだった故か、すごく毎日不安定で憂鬱です。治らなかったらどうしよう、足が痛くて辛い、はやく治したい、不安な日々が続いてます。
これから長い目で治療をしていく過程で、現状の自分を受け入れつつ治療をしないと自律神経失調症は治らない、または治るのが遅れると思ってます。
足が治らないとしても、自律神経失調症は治したいとも思います。

しかし毎日不安で長くかかっているため焦りもあり、なんで私がこんな目に、若ければ若いほど健康であることが多いのに不公平だ。
なんて思いますし、捻挫という原因を作った自分を責めます。
時間が立ちすぎてしまい、病気だった時間を取り戻したくて、今すぐ早く何とかしたいという気持ちが強いです。

足が治る見込みを信じてこの何年間(完治にどれくらいかかるかわわかりません)過ごすとき、鬱な気持ちとどうやって付き合いながら過ごすか、又は治らない場合、どうやってこの身体の不都合と付き合っていけばいいかわかりません。

捻挫ということをわざとではないにしろしてしまった以上、諦めも必要ともいわれることもありますが、痛いのは辛いし、諦めるという作業がとても苦手です。10年以上付き合っているのだから、長い目で見ろとめ言われますか、早く解放されたいのです。
そんな不完全な自分も受け入れて、前だけ見ようと考えらますがうまくいきません。
痛い、治らなかったらどうしようという不安感と焦りに常に襲われます。
足が痛いということに囚われすぎていると言われます。

私はこれからの治療期間、どうすれば努めて穏やかに、楽しく過ごすことができるでしょうか?

自律神経失調症であることによって人に自分をさらけだすのも苦手で、彼氏を作る気持ちも、拒否されたらどうしようと不安で積極的になれません。
病気であることで諦めたことも多々あります。
でももうこんな歳だし、人並みの幸せは掴みたいです。
今年は諦めていたことにもできる範囲で挑戦しようと思うので、できるだけ楽しく過ごしたいのです。

A 回答 (1件)

自律神経失調症という事も、鬱という事も、同じ原因が在ると思います、それは生きる事の不安から起きていると思います。

誰でもが或る不安を抱えて生きていますが、貴方の場合には、その原因を生きる事の不安から抱えていると思えます。

それは自分自身との戦いという風にして、貴方は自分と向き合っていると言う意味です。自分自身の中には現状を諦めの中にも肯定的にしかも明るく見つめている自分が存在しています。貴方の苦しさはその肯定している者を否定している事です。

誰の心も同じに出来ています。肯定する自分と否定する自分が同居していると言う意味です。つまり人間の心は「矛盾」に満ちていると言う意味になります。つまり心の矛盾を貴方は今、自律神経失調症と鬱と言う形で、言い方を替えたなら「生き難いという想いで」受け取っていると言う事になります。

この生き難い想いの解消が「人生における救い」と言う事になります。この事をキリスト教では「神に会って和解せよ」と言っています。仏教では、他力本願であれば「阿弥陀様に救い上げられる」自力本願であれば「生死の問題を解決する」と言う自分自身を知る。つまり見性する事、言い方を替えたなら、悟りを開く、と言う事になります。

つまり自分の性を見ると言う事になります。自我意識に対して矛盾しているもう一つの意識を、知ると言う事になります。難しく考えないで下さい。分かる時が来たら分かります。今は只私が、書いてゆく事を読み流すくらいで良いと思います。

生きる事を「一切皆苦」と言う事にして、お釈迦様は修行に入ったと言う事です。この一切皆苦という事は、精神疾患のことという風にしてみた場合に貴方は、分かると思います。貴方が意識している間の心の苦しさの事です。心が分からない者から圧迫を受けていると言う苦しさ、或いは生き難い想いの事です。

この生き難い想いからの開放が、仏教の根本をなしています。もっと云うならば「宗教」の根本をなしています。と言っても、貴方に宗教を進める気があるわけではありません。人間と言うものが古今東西「心の矛盾」に苦しんでいると言う事を理解していただきたいと思っただけです。

さて長くなってきましたので、具体的な貴方へのアドバイスをしたいと思います。アドバイスは幾つか在ります。

一つは貴方が嫌っている事を無理に受け入れようとしている態度です。もっと自然に受け入れてゆく事です。それはわきあがる感情を「只受け流す事」を学ぶと言う事になります。湧き上がる感情に一喜一憂しないようにすると言う態度です。気分の浮き沈みを問題としない態度を学ぶと言う事です。良くても喜び過ぎない、悪くても落ち込みすぎない事から始める事が、良いと思います。自分の感情に自分が流されなくなった時に鬱は何処にいったか分からなくなっています。

一つは貴方が「人間は如何して苦しむのか」という事を学ぶ事です。自分を含めて世界中で今苦しんでいる人が沢山存在している事、その訳を学ぶ事です。この中に貴方が求めている答えが存在しているからです。自分の不安も、安心も人から学ぶ事が出来ないからです。

今言ったことを学ぶ中に、貴方の救いは在ります。答えは「全てを受け入れる事です。」言い方を替えたなら、このままで救われていた事が分かる時に。分かります。もっと云うならば「人生に救いは無かった」と知る事が救いと言う事になります。この事が絶対肯定と言う事になります。絶対の安心とは全てを受け入れる中に存在しています。
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この回答へのお礼

お返事が遅れて申し訳ありません。
書き込みありがとうございます。

おっしゃるとうり、毎日がいきていくことに対して不安です。
治る可能性と、治らないかもしれないという不安で揺れ動いています。
私の中にあきらめというか、うけいれなくてはという気持ちは多少あります。でも本音は諦めたくありません。
まさに肯定と否定が混ざり合ってます。

悟りですか。。。難しいですね><
わかるときがきたらわかるとはカウンセラーにも言われました。
時間がかかりそうです。。。

一切皆苦、、私のこの状態も修行の1つということでしょうか。

>一つは貴方が嫌っている事を無理に受け入れようとしている態度です。もっと自然に受け入れてゆく事です。それはわきあがる感情を「只受け流す事」を学ぶと言う事になります。湧き上がる感情に一喜一憂しないようにすると言う態度です。気分の浮き沈みを問題としない態度を学ぶと言う事です。良くても喜び過ぎない、悪くても落ち込みすぎない事から始める事が、良いと思います。自分の感情に自分が流されなくなった時に鬱は何処にいったか分からなくなっています。

無というか、凪で常にいるということでしょうか。感情に引きずられる
わたしには難儀ですね。

>一つは貴方が「人間は如何して苦しむのか」という事を学ぶ事です。自分を含めて世界中で今苦しんでいる人が沢山存在している事、その訳を学ぶ事です。この中に貴方が求めている答えが存在しているからです。自分の不安も、安心も人から学ぶ事が出来ないからです。とい

難しい問いですね。
世界の人々が苦しんでいる理由、、、
なんでしょう。なんでこんなに不公平なのでしょう。。

これは本当に悟りの世界なのですね、要は、、、
絶対肯定、、いつかたどりつきたいです。

仕事をしながら、ずっと考えてました。
世界の人が、私がくるしんでいる理由はなんだろうと、、
難しいです、この問いは、、、
私が今苦労している訳は、世界の人が苦しんでる訳は何だろう。

お礼日時:2010/03/18 00:08

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