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根本的なことですが「愛」ってどう説明したらいいですか?

具体的に、できれば参考になるサイトを教えてください。

お願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

こんばんは。




「あるがままを認める」ということではないでしょうか。


そこから、「評価」が絡むと、大変です。

一説には、「「成長」は好し。だが、「他害」は認められない」とあります。
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一般的にキリスト教で神・天の父といわれている存在の実体


というのは、5・4次元の一時的半実体の存在か、自分を
高次元・神と思い込んだ霊人・霊人達のようで、、

本当の天の父といえる存在は、天界という存在のようで、
(因みに、天界という存在が、現世の人にコンタクトする事は
ないようです)
無限に多重に充満している天界という存在の御体と、天界の
想念・ご意思に拠る表現、、それが全ての存在なのだそうで、、
(丁度、私達・物質というのは、天界というモニター上に映された
映像という存在のようです)

このような事を高次元の存在や人の魂というのは理解している
為に、どのような存在・事象に対しても理解・認識し、親しみ・
慈しみの感情?を抱くのだとか、、つまりこれが愛であり許しの
実体であり、仕組みという事のようです

本来なら、人もこれを探求・確認・理解し、人間心に上乗せする事
による、人間心の変化の道を歩むべきのようで、、これがエジプト
以前からの霊的真理・真実の派生である聖書を遥かに超えた、編纂
された新約聖書には書かれていない、イエス様の直教の1つなのだとか

故に、何も知らずに、ただ許すとか、耐え苦しみながら許すのでは
なく、、何も知らずに全ては愛だとかいう事でもないようです
(実体とは、余りにもかけ離れている、と私は感じますが)

天界の表現によって、人はどのような存在にも成り得る、という事
などを自己探求し、自分なりに理解して行くと、許しや愛という物が
理解出来るだろうと、、ただしそれは、自然な人間心・思考・感情
などを否定し捨てるのではなく、極端な戒めや潔癖、盲目的過剰な
誠実性などに陥る(つまり躓き)のでもなく、という事のようです

その1つの例は「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」と
仰ったイエス様が、注意するか、相手の意識体に働き掛ければそれで
済む所を、神殿内の行商人に激高し、並べられた商品を敷物事引っくり
返した事や、死人が出た家の家族達の酷い悲しみように、貰い泣きを
された事などに表れているかと・・・

このような私の理解や確認を単なる私自身の観念に過ぎない、と断言
される人達がいますが(確認もせずに)、私の理解や確認を勿論ただ
信じるというのではなく、人それぞれが、探求の中で自己確認する為の
1つの参考にすべきだろうと、、如何でしょ?
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対価を求めず、相手を許容する心と私は思っています。

キリスト教なら、それは人間だけでなく、神様も含めて。

しかし、私の言葉ではここまで。

純粋な愛には4つのものがある。第一は罪なくして私たちに何が起ころうとも人は神と一つであるからそのために神に感謝するのである。第2は私たちが身体や魂に持っている賜物を神の秩序に従い用いることである。第3は良き分別であらゆる罪を犯さないで清く生きることである。第4は私たちすべてが徳を身につけることである。(中略)神が、それを私に与え、喜んでそれをしたいとあなたが言うなら次のことを聞きなさい。徳の半分は神の賜物で半分は私たち自身のものである。神が私たちに知識をあたえてくださるなら、徳を用いなければならない。 マグデブルグのメヒティルト

キリスト教に偏見を感じる人なら

「愛は感ずるものであり、言葉ではない。愛は感ずるもので無言である。美は感ずるもので、言葉でない。美は感ずるもので、納得するものでない。美は感ずるもので、無言である。美は感であり、智ではない。」 熊田 千佳慕

愛を言葉にするなら奥深いし、こんな言葉に出来る人は、すごいですね。しかし、言葉ではなく行為を伴わなければ、無意味なものとなってしまうと私は思ってます。

他に回答者様が投稿されることを望みます。
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存在を認めること、行動を認めること。



心と目を開き、許容すること。善悪の判断はその次です。すべてを好きになることはできません。

子供に対しての無償の愛まではわかりますよね。しかし躾も大切だということです。それは民衆でも同じです。

人は皆愛されて存在し、善人になるたゆまない努力をすることで、さらに大きな愛に育てます。

大きな愛を持つと分けたくなります。
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 こんにちは。




 ○ 何を愛するか?

 存在である。
 いのちおよび生きること。

 したがって 一人のひとないしワタシの存在は ほかの人の存在と同じだと見られるからには ともに生きること これが 愛するものである。


 ○ そのためにはどうするのか?

 話し合うことである。

 しっかりと・どこまでも・必ず・徹底的に・なお・まだ・それでも・しかしながら・まだまだ・それしかしないと決めて 話し合うことである。

 途中では 《見解の相違を互いに認め合って 合意をしておく》こともある。


 ○ 相手が話し合う姿勢を示さないなら どうするか?

 話し合いの姿勢で俟つ。

 全体の情況にとって差し支えることがなければ こちらも話し合わないというかたちで俟つことである。

 ときが満ちて来ると思われる。


 
 ○ ときが満ちると どうなるのか?

 分からない。
 どんでん返しが成るか。それとも どうなるか。分からない。

 ただし それでも 話し合っている。その姿勢にある。
 ともに生きることを問い求め続ける。

 

 
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愛とひと言で言っても、異性への愛情から、母性愛、愛社精神、


郷土愛、愛国心、博愛など色々あり、一概に語るのは難しい
ように思える。
しかし、そのあやふやな「愛」の反対は、自己中心的・短絡的な
利己として、統一される。
その対照として、愛をまとめようとすると、以下のようになる。

愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。

主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。

しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。

そこに於て、真の愛は、完全なる科学(原理認識)である。
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「愛」など「執着」だと、拘束仮説したのが仏教ですね。



ならば愛の対義語は「いい加減にして」とか
「忘れた」とか「もう飽きた」とか「どうでもいい」とか「関係ない」
になるので自由度が増す。が、自由なだけも退屈だという。

自由と自然が好きな動物の本能があるのに。
自立や結婚を諦めてまで親の面倒を看たりする
のは理性の備わった人間臭さ、
親や自分への愛だったり、自由でもあるはずです。

この愛と自由を共存させたくて皆悩みます。
祈ったり、応援や救済などの愛の手段が多々あるにせよ
愛としての真の解決になるのかどうか。

条件や結果ではなく愛を「前提」にしようか?

人間は宇宙の法則、神の実力(?)に飽き足らず
お金とか装飾品、権利とか義務を自分で拵えたに留まらず
何でなんだか神様も知らないし教えてないのに目的と手段を入れ替えて解決。
そういう本能も備わってしまったみたいです。
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>「「愛」など「執着」だと、拘束仮説したのが仏教ですね。




とらわれるのは、愚である(理屈)
しかし、金は美しい(人間の弱さ?)
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私も同じ疑問と悩みを持って、いろいろ勉強して来ました。



現段階での、拙い私の考えを述べさせて戴きたいと思います。

「愛」という言葉は、あまりにも、いろんな意味に、とても便利に使われているために、本当は全く違う、別の意味の物までも一緒に包含してしまっている様に思います。

そこで、それらを分解してみると、一番分かり易いのが、男女の恋愛感情と、マザー・テレサさんなどが示す他人への思いやりの心・奉仕の心、だと思います。

西洋では、愛を「アガペー」と「エロス」に分けており、男女の恋愛感情をエロス、マザー・テレサさん等の他人への奉仕の心をアガペーと言っているようです。

仏教では、男女の恋愛感情の様な愛を「渇愛(かつあい)」と言い、他者への憐れみや思いやり・奉仕の心を「慈悲」と呼んでいるようです。

エロスや渇愛は「利己」であり、アガペーは「利他」と言えるかと思います。

キリスト教で言う、「汝の敵を愛せよ」という時の愛は、「利他」の愛であり、アガペーの愛であり、仏教で言う「慈悲」なのでしょう。

このように全く違った概念を同一の言葉で表現しているので、紛らわしかったり、自分の都合の良いように使われたりと、あまり良くないと思いますが、現実はそうなっているので、困りますね。

ですから、同じ「愛」という言葉でも、全く違った概念を表しているように思いますので、どちらを指しているかを識別する必要があると思います。

勿論、本来、「愛」の名に値するのは、「利他」の愛であり、「慈悲」であり、アガペーの愛なのだろうと思います。
なので、私的には、男女の恋愛感情を、簡単に「愛」と言って、あたかも素晴らしい崇高な物の様に言うのは止めてもらいたいと、常々思うところです。

カトリックで言う「愛」とは何か、というご質問とは少し離れたかも知れませんね。
失礼致しました。
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プロテスタントのクリスチャンです。



「愛」とは聖書の中心的な課題だと思います。いくつが聖書の個所を掲載させていただきます。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)。

聖書では極めて明快に「愛とはその友のために命を捨てること」と述べています。つまりあなたの希望や願いは別にして、愛する者のためにご自分の命を、あるいは人生を与えてしまうことが、愛だと述べています。上の聖書の個所は私どものあらゆる言い訳を拒否している様に見えます。いわゆる無条件に相手を生かすために自分を犠牲にするというのが、究極の愛だと書かれています。

イエスの様にありたいと願っていますが、難しいというのも実感でございます。
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