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仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ

『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある今様(いまよう)の一節です。
NHKの大河ドラマ「平清盛」にも、この今様は何度も登場したので、ご存知の方も多いと思います。

そこで、お伺いします。
わたしたちは、遊びをするために、戯れるために生まれたのでしょうか?
この今様で歌われている《遊び》とは何なのでしょうか?
そして、
子供は遊ぶために生まれてきたとも解釈される、こうした考えの思想・文化的背景は、何なのでしょう?


少なくとも、
産業革命後のイギリスにおいては、子供は労働力。
日本とは、決定的に違っています。
この違いは、何に由来しているのでしょうか?


教えてください。
ヨロシクお願いします(ペコリ)。

A 回答 (13件中1~10件)

 いぢわるぢいさんの出しゃばるところだと思い込みまして。

・・・


 ▽ 仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬ
 ☆ とさとったところで あぁ とか あはぁ とかあるいは
 ▽ あはれ!
 ☆ という自己表出があった。

 この《うつつ》にあっては

  無限なるブッダターと
  有限なるわが生わが思考わが感性とは
  矛盾なり

  しかもこの矛盾をもちこたえるのが
  われらが非思考の庭なるハタラキなり

  矛盾に我慢がならないのは
  おそらくこのウツツのほかに
  ブッダの常寂光土が別にあると思う
  その心なり


 よって

  あはぁ。

 という表出を得た。

 このウツツであそぶというのは おのれを日から日へうんうんと推しつつ 自分のために自分の家族のためにちょっぴり周りの人たちのためにも ちからを尽くすこと。これよりほかにない。とさとることである。(無住処涅槃)。

 この道をあゆむ者にはやがて魚が網に掬われるかのごとく何ものかに拾い上げられ そこにボディサトワなるハタラキもつけくわわり その人はたわぶれの中にもみんなと一緒にすすむという姿へと変えられてゆく。前史から後史へとステージをあらためて そこにあそぶ姿が実現してしまう。

 それはあたかも子どもたちがあそぶ姿に似ているであろうとひらめいたゆえ こう語った。:
 ▽ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ

 すなわち《ゆるがされた》のなら あそぶのは うつつのいま・ここであり――ここが ロードスであり―― あそぶ姿に変えられるのも すでにいま・ここにおいてである。(即身成仏。即得往生)。
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この回答へのお礼

そう、
「わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ」
という言葉にすべてが集約される、収斂するのだ、
と思います。
だ・か・ら、
「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけむ」
に、過去推量の助動詞「けむ」が使われている。
「遊びをするために」、「戯れるために」生まれてきたなんてことが嘘なのは、この歌の作者は分かっているですよ。
ではあるが、揺さぶられてしまう。

この、魂、我が身さへも、私の全存在を自然に揺さぶる「???」は何か、
これが問題なんです。

bragelonneさんの言葉を使いますと、《ブッダター》かもしれない。
ではなく、人間という存在の根源的《無明》のなせる業なのかもしれない。
《汚れちまった(オトナの)悲しみ》なのかもしれない。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/25 14:33

>遊びをせんとや生まれけん



○この言葉の意味を理解されたいのなら、まず、顛倒妄想(てんどうもうそう)という言葉とその意味を学んだほうが良いと思いますね。顛倒妄想とは価値観或いは物事の見方が180度、間違った意味において違っているという意味ですが、この歌は仏教的に正しい価値観に基づく歌ですね。この歌の解釈に「子供は労働力。日本とは、決定的に違っています。」などを持ち出せば顛倒妄想になるわけです。

簡単に言えば、仏の世界の住人の私が現世に生まれている。仏の世界に居る私が本当の私で、現世にいる私は仏の居ない世界で何をせよというのか、これが「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけむ」になっているのですね。
これは、仏の居ない世界では何をしても遊びや戯れでしかないといいたいのですね。
この世での仕事も勉強も全てが遊びでしかない。これは私の存在する本当の世界ではないからだ。という意味の歌ですね。この世こそが人生50年夢幻の世界なり、という詠み人の常識は、現代の非常識ゆえ、理解できなくなるというのが顛倒妄想なんですよ。
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この回答へのお礼

こんにちは。


ご指摘の内容を承知の上での質問です。
ただ、
「仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる」

「仏は常にいませども」という言葉は重要だと考えます。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/25 14:54

ねこさん、ご返事ありがとう。


もう質問の回答ぢゃなくてすっかり余談なんだけど。


あ゛~!!まざこん男!!
恋人にも妻にもなりたくない!!!
たとえば妻に向かって「オレの母親こんなに素敵なんだぜ!」
「オレのかあちゃん料理も掃除も話も上手なんだぜ!」
などと何度もほざく男はかわいそうだけど絶滅してよろしい。
たとえば母親に向かって「オレの嫁ひどいんだぜ!」とか
「かあちゃん嫁のせいでオレかわいそうなんだぜ!」
などとほざく男も絶滅してよろしい。
おいらは面倒くさいのでパンチや蹴りさえ入れてあげません。



でも、まざこん(=母親に執着する人・母親から卒業しない人)
ってのは、じゅうぶん甘えなかったから、とか
甘え方を教わらなくて今も甘えることをしないから、
だから、まざこんなんぢゃないの?
あるいは母親が未熟すぎて子どもが親係をしていた場合とか。
次元が違うけどこういう人もそうかもしれない↓。
>産業革命後のイギリスにおいては、子供は労働力。


イギリスの大人とトルコの大人と
どっちが本当にまざこんなのか見てみたい気もするけど。


錯綜ごっこはあまり愉快ではありません。(-"-)
鬼ごっこの方が楽しいです。


こわい言葉を聞いたので、
おいらも時間になったら子離れできるようにアンテナ張っときます。
遊んでいる子どもがかわいいからといって
いつまでも「目に入れたい!」と言っていたら迷惑だし、
おいらはおいらで遊べるようになっておいたほうがよさそう。

↑あ、こういうのも、毎日何年も「会社」という同じ景色
の中にいる殿方にはなかなか伝わらないみたいですね。
ではでは。


                                         
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この回答へのお礼

マザコン男、嫌いですか・・・。

そんなに強くはないと思いますけれど、
わたしは、たぶんマザコンなんですよ。

高校時代のクラスメイト(女子)からそう指摘されたんで、
たぶん、そうなんでしょう。
女性は、直観的にこうしたことを見抜けるようなので。

でも、
最近の日本のマザコンの若い子たちの一部は、進化していて、
 彼女に対してものすごくやさしい、
 女心がよくわかる、それに気付くことができる、
 女性のお買い物に付き合うことを苦に思わない、
 女性から「これ、私に似合うかしら?」と質問されたとき、適切なアドバイスを与える、
 普通の男からすると、ど~でもいいように思われる、女性の井戸端会議、長話の相手をちゃんとしてくれる、
などの特徴を有しているそうです。


なんか、自分のことを書いているようで、こそばゆい。
高校時代のクラスメイト(女子)の指摘は、正しかった!!


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/25 14:49

ねこさん、何度もすみません、



>車などをとどめて、いだき入れてみまほしくこそあれ
:はい、そうなんですが。
おいらは生後2か月ぐらいのの赤ん坊が布団の上で
自分の手や足を不思議そうに眺めて遊ぶ姿とか
「全身で遊んでる~」って感じがして、
かわいくてしかたがなくて、つい抱きたくなるのですが、
大人の都合で勝手に抱いて、子どもの遊びを中断するのは
0歳児にとって迷惑なのだそうですよ。
                                
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この回答へのお礼

女性・母親ならではの視点ですね。
男には、これが分からない・・・。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/24 22:43

ねこさん、ご返事ありがとう。


おいらも労働してますがちっとも黒字ぢゃありません。苦笑。
移動時間・予習時間・許可費・CD代・衣装代。
けど辞められないんですわ、楽しくてありがたくて。
あ、労働する日は5リットルぐらい水分とってます。


子どもは「小さな大人」ではないと当たり前に思っていたので
4番のお礼を見てびつくりしましたが、


そういえばアメリカ在住の友人が
生後数か月の子どもと別の部屋で寝ていると聞いて
やつぱりびつくりしました。
それがアメリカでは当たり前だと言われもつとびつくりしました。
日本でそんなことをしたら虐待と呼ばれそうなので。

その友人の話ではアメリカでは「夫婦を保つ努力」
を大切にしているのだそうです、
子どもは血がつながっているけれど夫婦は他人だからだそうです。


しつけ方もずいぶん違うみたいですよ。
日本では子どもが大人の万年筆で落書きをしたら
「それ、母ちゃんの大事!」と情に訴えて伝えるけれど、
アメリカでは「いけません!」とまず伝えるそうですから。


あまり関係ない話になっちゃいましたね。


もうひとつ関係ないかもしれない話。
スポーツの語源はdeportare、desportで
港から離れる・憂いを持ち去る・気晴らしをする・遊ぶ、
そんな意味だそうです。必死 でやるほど面白い はず。
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この回答へのお礼

ゲルマン系でも、ドイツはアメリカとはちょっと違うみたいですね。
ドイツは、日本と同じで、マザコンの男性が結構多いらしいです。
たぶん、ドイツでは、アメリカよりも、母親は子供を可愛がり、スキンシップも多いんでしょう。
イタリアはもっともっと。
そして、トルコはもっともっと、さらにスゴい。
───たぶん、トルコの男性は、マザコン度世界一・・・───


母親としたら、マザコンの息子は誇らしい息子なのだろうか、
気持ち悪い息子なのだろうか?


回答、ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/24 22:53

7番です。

どうでもいいんだけど追記。
モノクロの世界に色彩、とか書いてたらこんなの思い浮かべました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/98_15 …
列車の窓から弟に食料を放り投げるなんて愉快すぎるぢゃないか。
こういうの、最高の遊びなんぢゃないの?気持ちいい。

明治生まれのおいらのおばあちゃんも15歳から奉公に行ったのだそうで、
この話が書かれたころなんぢゃないかな。
畑仕事が好きで好きで労働していないと落ち着かないみたいだったけど
おいらたち孫ともよく遊んでくれたし曾孫ともよく遊んでくれました。
どうもお邪魔しました。3番、参考になったのでポチしました。

 
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この回答へのお礼

私の母親も、畑や田んぼ仕事に励んでおります。

田んぼは、ハッキリ言って、収支的には大赤字です。
───人件費抜きでです(笑い)───

真夏の炎天下のもと、畑や田んぼの草むしりなどに、毎日のように出かけておるようです。
母の畑仕事・田んぼ仕事は、すでに趣味を越えて、道楽の域に達しています。

私の目には、バカなことをしているように映りますが、
母の趣味や道楽ですから、如何ともし難い(笑い)。
熱中症にならないようにと祈っております。

損得を抜きにしてでも、何か仕事をしないと、
わたしの母は、精神や情緒が不安定になってしまうに違いない。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/24 18:22

こんにちは、起きているねこさん。



梁塵秘抄は今年の全国吹奏楽コンクールの課題曲でしてね、
娘がこういうのを聴き比べては練習しています。



「遊び」は、好奇心にもとづく能動性・積極性の発露すべてと、
そこにある「驚き」「気づき」「発見」すべてと、
そこからの副産物の感情、
喜びとか痛みとか楽しさとか口惜しさとか、すべてだと思います。

人生を初めて間もない人の方が得意なのは当たり前だと思います。
お風呂さんから拝借しますが、
モノを知るほど、モノが分からなくなっちまうんです。
観察や思考を省略してしまうんですね、駱駝から。
おいらは満月を見て「空に穴が開いているかもしれない!」
なんていちいち考えなくなったし、
豆腐はどの面を見ても長方形に見えてしまうのですよ。



こんなことを言うと世界中の親と子どもから叱られそうですが、
何歳であれ子どもにとってさほど親は必要ないけれど
(大人が少しと仲間が少しいれば子どもは生きていきます)、
親が子どもを必要としている、のぢゃないでしょうか。

うちには12歳と10歳の子どもがいますが、
遊んで笑っている姿を1日1回は見ないと病気か?
と心配になります。
言葉遊びでもいいし、おいらの服に洗濯ばさみをくっつけるなど
いたずら遊びでも何でもいいんですけれど。
そういえば娘も息子もティッシュペーパーを延々と引っ張って
部屋中を雪景色にしたりはしなくなりました。
ティシュペーパーの使い方を教えられたし、
ついでにそういうことをするとオカンが怒ることも分かったし。

あらつい余計な話までしちゃいましたけど、
子どもが笑っていることを喜ぶという親の勝手な期待、ですかね。
こんな期待をぶつけられた子どもはたまったもんぢゃない。
親は独り言としてうたにでもしちゃった方がよろしいでしょう。


子どもたちが「ゴミを拾って売る」という労働をして
生計を立てている国がありますが、
遊びを見つけて人間の生活になったそうですよ。
モノクロの世界に色彩が溢れ出したような。
https://www.youtube.com/watch?v=OeK1mCvRvRM
 
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この回答へのお礼

お久しぶりでございます。

いい曲ですね~、《梁塵秘抄》という曲。
やっぱ、わたしは、日本人ですね~、
すんなりとこの楽曲の世界に入り込んでしまいます。


「遊び」は好奇心(の発露)ですか。
なるほど、なるほど、
そうなのかもしれませんね。


最近、回答で『枕草子』を引用したりするのですが、
「ちごは、あやしき弓、しもとだちたる物などささげてあそびたる、いと美(うつく)し。車などをとどめて、いだき入れてみまほしくこそあれ」
「こころときめきするもの、雀の子飼。ちごあそばする所の前わたる」
こうした感性など如何にも日本的だなと思ったりします。
neutralさんも、清少納言と同じく子供の母親ですから、私以上に共感なされるんだろうな、と思います。

小さな子供(たって歩けるようになったくらいの子供)がよちよちと歩き、床に落ちているゴミか何かを見つけて、「何だろうか?」とそれを拾い上げ、興味深そうにしげしげと見つめる。

こうした光景を目にしたら、清少納言でなくても、
「か・わ・い・い(うつくし)」
と、すべての日本人は思ってしまうに違いない。
これこそ、日本人が古来から大切に守り伝えてきた《萌え》です(ニコニコ)。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/24 18:10

哲学的な回答は私には無理ですし、日本語も少し怪しいので、割り引いてお読みください。



私はこの歌を聞くと、平清盛よりも、彼のお父さんと強いご縁のあった後白河法皇を思い出します。彼の場合の”遊び”は、まつりごと全般だったでしょう。

仏は、おられる、とは聞いているが、現世(うつしよ)では、みたことも聞いたことも、気配を感じたこともない。それならば、一か八か、子供たちが戯れているように、生きてみようではないか。

という風に、読んでおりました

独断と偏見です。

階級制度のあった時代には、どこの国でも被支配者階級の子供たちは、徒弟制度などのお世話になりながら、十歳になるかならずで、親の仕事を手伝うか、”手に職をつけるために”親方に弟子入りするか。。。日本でも第二次世界大戦前はそんな風だったと思います。階級制度のせいでしょう。

アメリカ在住ですが、私と同年代の男性でも、小学生のときから親の牧場の手伝いで、忙しかった、と聞いています。”牛のお産の時には、崖にお尻を向けたまま、陣痛が始まったことがあって、大変だった。。。”なんていう話は、何十年経っても、生々しいです。

ご質問の意図が汲めていないようにも感じます。サッカーの見すぎで、目も少し怪しいので、この辺で失礼します。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。


日本では、江戸時代の中期くらいには、庶民階級の子供は寺子屋に行って勉強をするような社会になっていた。年齢的には、5才~12才くらいでしょうか。
月謝もかなり格安で、誰でも通うことができた。
村落では、お坊さんや村の庄屋さんが、先生役を努めることもあったそうです。
江戸時代の時代劇などで、町人の子供が寺子屋に行っていますが、これは歴史的な事実なんですよ。ウソじゃなくて、本当の話。

丁稚奉公先などでは、
仕事が終わってから、
番頭さんなどが先生の役割をし、読み書きソロバンの他に商人としての心得や道徳などを教えていたそうです。


☆アメリカ在住ですが、私と同年代の男性でも、小学生のときから親の牧場の手伝いで、忙しかった、と聞いています。”牛のお産の時には、崖にお尻を向けたまま、陣痛が始まったことがあって、大変だった。。。”なんていう話は、何十年経っても、生々しいです。
◇地域によっても違いがあるのでしょうが、アメリカはそうらしいですね。
子供にも、小さい時から、家事などの分担を与え、それを行わせるようですね。

ただ、インディアン社会の子供は、日本の子供に近いようですが。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/24 17:53

 お早うございます。



 ◇ わたしたちは、遊びをするために、戯れるために生まれたのでしょうか?
 この今様で歌われている《遊び》とは何なのでしょうか?
 ☆ そりゃあ――と言って 大人げない振る舞いに及びますが・・・おっと 《子どもげない》振る舞いでしょうか つまりいぢわるぢぢいの登場ですが――
 ▽ 仏は・・・ほのかに夢に見えたまふ
 ☆ ゆえなる遊びなのでしょうね。そうとしか考えられないようです。


 ということは 思考の領域だけでは味わえない仕組みになっているかと。





 このところ こんなものを引っ張り出しました。

 ▲ (《バガワ゛ッド・ギーター》 2・46)~~~

 あたり一面が洪水に見舞われた。
 そこに池もおおわれた。

 ならば ブラフマンにとって 
 あらゆる知識(ヱ゛ーダ)は
 この池のようなものである。

 〔紀元前五世紀ごろ〕(辻直四郎訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どう見るか?

 ブラフマン(ないし ブッダ)にとっては 《あらゆる知識としての池》が洪水に遭っているような状態であり なおその外にも水は満ち溢れている。

 池も洪水も 水が共通である。池の水たる知識について 池の外つまり知識を得ていないところ つまり無知(未知)の領域にもその水たる知識があたかもおよんでいる。ということなのだろうか。

 もしそうだとしたら それは 飛躍をもともなって広く《あそび》なのであろうと思われます。無知も既知もいっしょであると。


 




 は消えましたが 根拠のない隠れた身分制は のこっています。
 子どもはこれを どう見ましょうか?

 【Q:およその身分は平民の七分の一に相当】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6070243.html

 【Q:えた・は 天皇の子どもが その地位に落とされ 制度としても成ったのではないか?】 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6023047.html

 【Q:民・在日朝鮮韓国人・暴力団についてのもんだい】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5995036.html

 この人たちの《労働》をも合わせて考えないと 日本人としてのかんばせが失せるでしょうね。
 つまりまだわたしたちは あそぶ資格は得ていません。
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この回答へのお礼

こんにちはです。

わたしにとって、哲学は《あそび》です。
数学も、物理も《あそび》です。

これといった理由などなく、ただただ楽しいからやっていま~す。

そりゃ~時に、「何で、オレはこんなに頭が悪いんだ!!」とみずからの能力、才能の欠如を嘆き、それに絶望もします。
二度とこんな苦しい世界には戻らない、と、正直、投げ出したくなることもある。
何度も投げ出した。
でも、好きだから、楽しいから、ヒョコヒョコとすぐに舞い戻ってしまう。

禁断の《あそび》の味を知ったせいなのでしょうか。


回答、ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/24 17:34

かういふ質問の仕方をするのが、大人なのでせう。

そして、かういふのが、ほんとうの「遊び」なのかもしれません。

思つたことをすぐに口にだすのは、
子供、いや、

「子供なんですよ」というと、子供さんに失礼なのかもしれないので、
未だ人間以前の状態なのではないでしょうか。

>>産業革命後のイギリスにおいては、子供は労働力。

このあたりは、一時代的なものではないでせうか。ビクトリア朝時代の子供を神聖化する風潮がそれにつづきます。

>>子供は遊ぶために生まれてきたとも解釈される、
>>こうした考えの思想・文化的背景は、何なのでしょう?

遊女についての歌だとする解釈もあるやうですが、やはり、子供とするのが素直な見方です。

子供はおそろしい、とおもひます。

Richard Hughes, A High Wind In Jamaica, 1929
リチャード・ヒューズ『ジャマイカの烈風』小野寺健訳

私の愛読書です。女の子が船旅の途中で、海賊に襲われます。その海賊によつて、虐待を受け、悲惨な目にあふ、といふ話ではありません。海賊はみなやさしく、海賊船での平穏な生活がつづきます。あるとき、なりゆきで、この女の子は、捕虜を殺してしまひます。もちろん故意ではなく、ほぼ無意識のままに。

その後、海賊は海軍に拿捕され、裁判にかけられます。無邪気な女の子は、証言台に立ちます。まつたく嘘をつきませんでした。子供は素直に事実を語りました。私の下手な文章はうまく書けません、実際に殺人を犯したのは女の子ですが、海賊は死刑になりました。裁判官は海賊が殺人犯だと認定したのです。すべて真実が語られたにもかかはらず。

無邪気な子供にはそんな力があります。迷惑なものです。

私は「未だ人間以前の状態」ですが、だれにも自分の真似をしてほしくないと、思つてゐます。これまで何度も書いてきたとほりです。そして、私以外にももうひとり、推測ですが、自分の真似をしてほしくないと考へてゐる人がゐるのではないかと、おもひました。
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この回答へのお礼

☆未だ人間以前の状態なのではないでしょうか。
◇わたしはネムネコ、そして、サナダムシです。
ヒトじゃ~、ありませんよ(ニコニコ)。


☆このあたりは、一時代的なものではないでせうか。ビクトリア朝時代の子供を神聖化する風潮がそれにつづきます。
◇海外(欧米)で暮らしたことがないので、本当か嘘か、確かめようがないのですが、
欧米は、
 子供 = 小さな大人 or 未成熟、未完成な大人
らしいです。
日本のように子供を特別な存在とは考えない、らしいです。
ですから、
欧米(アングロサクソン系の白人ですよ)の子供は、行儀がいい。
小さい頃から、ビシバシ躾けられるんで。
日本人の子供のように、電車やバスの中ではしゃいだりしない。

日本は、小さな子供は、神さまですんで。
人よりは神様に近い存在と考えられていたので、基本的に何をやっても許される(笑い)。
周囲の大人は、その元気な姿を見て、「よしよし、いい子だ」と目を細める。

お祭りなんかで、稚児さんがお祭りの重要な役割を与えられ、役割を果たしますよね。
小さい子供は、神様に近い存在だからなんだそうです。

小さな子供は、我が子でありながら、同時に、神様からの預かりものなんですよ。
ですから、
猫が我が子を可愛がるように、猫かわいがりする。
そして、周囲もこれを是とする。
たぶん、こうした文化的な背景が、日本の子供王国を作っている一因になっているんであろうと・・・。


☆子供はおそろしい、とおもひます。
◇子供は(日本の)神さまですから。
日本の神様には、《荒魂》(あらたま・あらみたま)と《和魂》(にきたま・にぎみたま)の二つがあるんですよ。
神様も、時には、荒ぶることもあるんでしょう。
その《荒魂》が現われたものなのではなかろうかと・・・(ニコニコ)。


☆無邪気な子供にはそんな力があります。迷惑なものです。
◇《荒魂》を有していますから。
でも、他人に迷惑をかけよういう悪意は欠如していると思います。
「まぁまぁ、子供のやることですから」
と如何にも日本的論理を使う(ポリポリ)。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/24 17:24

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