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1. おそらく 大前提は――絶対と相対とであるからには―― 互いに
絶対のへだたりがある。はずだ。

2. その上で――なぜなら 絶対は相対を離れているかどうかは 分か
らない・つまり 超えているからには 外にあるのではなく むしろ覆い
包んでいるとさえ推し測られる と見た上で―― 絶対なる神と相対なる
人間とは 連続しているか?




3. ニュートリノのごとく神の霊が 降って来るようにして連続してい
る。かも知れない。

4. いやいや 断絶のままである。ということかも知れない。不連続説。



5. だけれども 連続していても不連続であっても 相対存在なる人間
にも その絶対性は おそらく指の先どうしが触れようかというほどに
接しているかも知れない。つまり その上で 不連続だという見方である。



6. つまり大前提のあとの《絶対が相対を覆い包む》という仮説の上に 
不連続説は 《神は無い》派である。



7. ところが 連続説においても――それは確かに《神は有る》派を形
成するようであるが―― じつは ほんとうには 神の霊が迫って来てい
るとか われらが心にやどっているとかという事態は 分からないのであ
る。

8. とすると どうなるか? どうなりますか?

A 回答 (3件)

そこまでわかっているらっしゃるなら、


あとはあなたが、どこまで信じられるか、次第でしゃう。

信じる神を描き、オユキナサイ..!

ゴスペル 祝福を!
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

たぶん その内容での方向性は――つまり 信じるかどうかや
どう信じるか という時に伴われる志向のあり方は―― この
場合の問うべき問題とは 別ではないか? とは思うのですが。



★ ゴスペル 祝福を!
☆ と言っていただいたからには がんばってみますと そう
ですね。:

○ 神とわれ(人間)との間については 連続説と不連続説と
の両方を 同時に認めるとともに 認識としてはやはり両方を
われが持ち合わせている恰好にてあゆむ。

☆ というような感じになりましょうか。ううーん。


信仰の形態としては どちらかひとつになるのではないかと。

お礼日時:2017/11/21 20:41

海岸線の砂粒と水のように、わたしたちが思っている以上に深く広く接していて、しかも、砂のほうにも水のほうにも神がいるのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

ううーむ。そうでしょうかねぇ。


ご回答をありがとうございます。


そうですね。いま そのように・おっしゃるように 神と人(ないし
経験世界)とが連続していると捉えてみましょう。

そうしますと:
★ 海岸線の砂粒と水のように 深く広く接している
☆ というとき このタトへが どこまで――神と人との間のカカハ
リにかんして――適切であるか。なのだと思います。


砂と水。そして 神と人。です。

たしかに この二者間の類似にただよう違和感をやわらげるために:
★ しかも、砂のほうにも水のほうにも神がいる
☆ といった想定を打ち出しています。

ということは げんみつには こうなります。:

 砂と水(または その逆) ∽ 神と人

というような相似形(類似性)には 違和感があるが 水と砂との
どちらにも 神の霊が浸透しているという見方で 妥当性を持たせ
ている。

そういうことですよね。連続説のための理論づけは。




ひとつの結論として:

神は霊として どこにも・何にも浸透している。遍在である。その
ように連続説が 妥当だと考えられる。

――と言えると同時に この場合の《霊》は やはり超経験である。
つまりは 無限なる絶対性なのである。

つまりは 霊と人間存在とは 大前提としての絶対のへだたりがあ
る。・・・となると思います。



すなわち 連続説と不連続説とは 互いに同等の用を成している。

両者をまとめて 《非連続》なる説を ひとつの理論とすべきかも
知れない。
・・・

お礼日時:2017/11/21 22:16

人間を構成している組織、器官と水、のほうが良かったでしょうか



人間を構成している組織は生物です。水は非生物と考えられています。

人間の 9 割がた水で構成されていますが、人間は生物です。

しかし、この大部分の水を抜き去ってしまうと、人間は死んでしまいます。

この、生物と非生物の界面はわたしたちが思っているよりも深く広く接していないでしょうか。

そして、神はこのどちらにも染み渡っていて、両者をうまくはたらかせていないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

要は 経験事象と超経験とを 明確に分けることではないでしょうか。

超経験は 経験事象に対して――絶対性が相対性に対して 覆い包む
かのようにカカハリを持つと見られるからには―― 極端に言えば
如何ようにも 接することがあり得る。

というふうにまとめ得ると思います。




今回は 経験事象として 生物とその身体組織 あるいは 非生物と
いった事物が例に取り上げられています。

それらに 神の霊が やどっている(一切衆生 悉有仏性)。という
連続説と 同時に その霊は あくまで 超経験であるのだから や
はり 大前提としての《絶対のへだたり》を見なければならないとい
う不連続説もが あり得る。・・・となるのではないか?


言いかえると 連続説と不連続説とは ともに大きく《非連続説》に
ふくまれる。ように思われる。

こういう理論を 設問のときから いまに到って持つようになりまし
た。

お礼日時:2017/11/21 23:05

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