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Q1: 《神は死んだ》って言うけれど いつ・どのように死んだの?・・・

Q2: ・・・むしろきみたちこそが噂する《全知全能》だと言うのに
 死んぢゃったの?

A1: いやいや。それは われわれがナイフで刺しころした(*1)
 と言うのだけれど それはとうぜん 比喩ですよ。

Q3: ん? 死んではいないの?

A2: いやいや。要するに 昔は 神という概念が――つまり 神は
 ただの概念ですよ―― 人びとの頭や心を 縛っていた。この呪縛
 が溶けたっていうんですよ。神は死んだってことは。

Q4: ん? それは 聞き捨てならない。いくつか疑問が出て来る。

Q5: ただの概念に全知全能といった飾りをつけて 人びとの思いや
 振る舞いを――倫理的によい方向へ(?)――導いていたと言うの?

Q6: 《神が生きていた》時に では 人殺しが起きたとしたら 神
 がその人の心を導き得なかったわけだ。だとしたら 《呪縛》はす
 でに《死んでいた》のではないの?

A3: いや まあ。神をころしたのだから そのあとは われわれは
 一人ひとりが 自分の頭と心と意志で生きて行くって言ってるんで
 すよ。言ってるんですが それでは 心細いとすれば 《超人》と
 かとも言ってるんです。

Q7: 《力への意志》? っていうことは この超人や積極的なニヒ
 リズムなる《概念》が 神に代わってわれわれを導くってわけかい?

A4: いやいや。きみは 気が早りすぎる。ちゃんと説明するから。
 つまり だから 言ってるんだ。

  《ひとは 自然本性なる我れに立ち還る》のが 一番だ。けれど
  も その自己還帰を果たしたと思ったらすぐに 脱線する。
  やがてこの脱線が重なり 積もり積もって来ると 何ものかがそ
  の《われ》におとづれて来る。
  《なんぢ われを見失うなかれ。立ち還るべき心のわれにしたが
  いなさい》と。

 と。つまりこれを永劫回帰と言ってるんだ。人びとは――それは自
 由だが――勝手に解釈している。

Q8: ん? それぢゃあ 神の概念・神の理念とおんなじぢゃないか。
 神を再生させたんだ。(チャンチャン!)

A5: いやいや。いやはや。む? ・・・

Q9: だけど 神は 概念ぢゃないよ。概念なら 人が拾ったり棄て
 たり あるいはさらに活かしたり殺したりすることができる。つま
 り 神は 生きる(生まれる)・死ぬとは 関係ないという話に成
 らなくちゃダメぢゃないの?


  ---------------

*1: ▲ ヰキぺ:神は死んだ ~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF …

Gott ist todt! Gott bleibt todt!
Und wir haben ihn getödtet!
Wie trösten wir uns, die Mörder aller Mörder?


God is dead. God remains dead.
And we have killed him.
How shall we comfort ourselves, the murderers of all murderers?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (7件)

人それぞれでしょう 今でも息づいてる人もいるかも知れないし



全く無縁の人もいるでしょう

神が何時死んだか 徐々に死んでいってるのかもしれません
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NO4さんのいう


シンデレラは死んでれら

ことでは?

ブラさんのいう神がイエスでしょう。

イエスが「はい」

殺したが十字架。

でも足跡が墓

「儚い」は「墓無い」という話あり。

墓は高い。
出せねば作るなを
遺言にする人いた。

だから仏壇飾りのままの人いる。

何年生きても
墓作る金も遺せずに
いる人
いる。

キリストの十字架像
拜む

いるけど
神様なら
別の姿で
拜むべき。

なぜ教会に
十字架像
飾るのかな?

奇跡は手品と
思っています。

偽物多いですね。
別人なりすましね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ~~~
NO4さんのいう
シンデレラは死んでれら

ことでは?
~~~
☆ あっ そうなんですか。分からないから――以前はそう書きましたが―― もう放っておいてあります。



★ ~~~
・・・
でも足跡が墓

「儚い」は「墓無い」という話あり。
~~~
☆ 戸来では だけど 何とか音頭といったような舞曲もあるようです。それはそれで おもしろいんでしょうけど まぁ そこまででしょうね 哲学としては。


★ ~~~
なぜ教会に
十字架像
飾るのかな?
~~~
☆ マーケティングとしては 簡潔なかたちであり よいかも知れません。



★ 奇跡は手品と
思っています。
☆ 文学です。レトリックです。そういう物語です。

お礼日時:2021/06/22 09:53

だからイエスはどこかに生きていると


思い込み、
亡命伝説作るのでしょう。

英雄不死伝説多い
でも
嘘かも
本当かも

イエスが生まれた年が西暦でしたよね。
でもずれていると分かっているのに今でも使うのはなぜかです。
決めたことを
勝手に替えると
ほかに
影響来るでしょう。

化けても
分かる人
いますよね。

あなたもここに
書いて
いた
痕跡
遺しますか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


このあいだテレビで イエスの没した土地を紹介していました。

戸来(へらい)というのですね。あたかもヘブライのごとく。

(いえ。伝説じたいは 知っていました)。

――でも・しかし・けれども こういう話は愛嬌です。ひとえに。


曖昧の美学を前提にしてよい文学の問題です。民俗学。





質問の趣旨から逸れたと思います。

お礼日時:2021/06/22 08:39

・・

「《神は死んだ》って言うけれど いつ・どの」の回答画像4
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端的にいうと「神は死んでいません」


神を信じていれば神が死ぬということがないのは自明で
神を信じていないなら、いないものが死ぬこともないわけです。
鼻行類が絶滅したというのと同じレベルの賑やかしにすぎません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2021/06/21 14:29

文章を


勝手に区切って
浅はかな持論を
挟み込まずに
最初から最後まで
続けて読んでみたら
如何ですか
全体を読む
・・というかw
短い文章なんだし・・・・
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この回答へのお礼

苦悩〔なる体験〕を絶対視するなかれ。という意味です。

お礼日時:2021/06/21 02:36

「苦悩」のなかにさえ価値は実現する



ヴィクトール・E・フランクルはかねがね、人間が「生きる意味」を人生のなかで探究する際、どのような状況であろうとも、おおよそ「創造価値」「体験価値」「態度価値」に分類された三つの価値群のいずれかに該当すると考えている。
「創造価値」は行動によって実現化され、「体験価値」は自然や芸術の受動的な受容によって自我のなかに現実化される。
それに対して「態度価値」は、ある変化しえないものが、そのまま受け入れられねばならないような場合に実現化されるという。
さらに「態度価値」にあっては創造や人生の喜びのなかに価値が求められるばかりでなく、「苦悩」のなかにさえ価値が実現するという視点は、フランクル独自の思想として注目に値しよう。
この点について、フランクルは『それでも人生にイエスという』のなかで、「人間はあらゆることにもかかわらず 困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても ー 人生にイエスと言うことができる」と彼の信条を吐露している。
これを換言すれば、人間は仕事(創造価値)や素晴らしい体験(体験価値)という方向で人生を価値あるものにする可能性がない場合でさえ、目の前の困難に対して「態度価値」を選択することによって、意味ある人生を実現しうるということである。
このような実存的な「決断」というきわめて人間の裁量に委ねられた価値領域がフランクルのいう「態度価値」である。
「態度価値の実現」には、「苦悩する力」が必要であると確信するフランクルはさらに続けて言う。
「苦悩はまず一つの業績たりうる。しかし苦悩 つまり正しい、毅然たる苦悩 ー は実行することだけでなく、成長することをも意味している。わたしが苦難をみずからに引き受け、みずからのうちに受け容れるとともにわたしは成長し、道徳的力の強化を経験する。(中略)苦悩しているひとは、もはや運命を外面的に形づくることはできないが、苦悩はまさに運命を内的に克服するように苦悩するひとを整える。そこでかれは運命を事実の次元から実存的なものの次元へと移すことになる。」と。
「死」や「病」といった避けられない現実のなかで「苦悩する人」は、その運命を変えることはできないが、苦悩を直視しそれらを自ら引き受けることによってその苦悩の運命を内面的に克服するように自らを整えることが可能となる。
そして人はそのプロセスを経て、その苦悩から出で立ち、実存的な次元へと開かれてゆく。
そこでフランクルは言う。
「人間存在はその最も深いところでは、また究極的には受難であるということであり、またそれが人間の本質であること、つまり苦悩する者、ホモ・パティエンスである」。
換言すれば、人間とは本来的に「苦悩する存在」であり、その苦悩に対してその人がどのような態度をとるかによって、その苦悩に満ちた人生を意味あるものに変えることができ、そのことを通してのみ人間の成長があるということである。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 「苦悩」のなかにさえ価値は実現する
☆ のっけから異論を差し挟みます。

《価値》は 人為的カザリです。(文化=非自然 でもありますが)。

生活の糧の生産・再生産は 自然本性たるわれ〔われ〕の――価値以前の――・意志行為をおのづと含む社会的な自然史過程でしょう。

つまり 価値以前の存在(われ)の持続には 苦悩は――あってもよいが――要らない。文化的経済的なカザリとしての価値創造は その過程じたいが苦楽の綯い交ぜであるに他ならない。



★ 人間が「生きる意味」を人生のなかで探究する際、
☆ 存在理由〔の探究〕は 存在じたいに先行しません。クリスマスツリーのカザリと本体(樅の木)とに相当します。


★ 「創造価値」「体験価値」「態度価値」に分類された三つの価値群
☆ 価値以前の価値 人為文化的価値に先行する価値以上の価値たる存在に注意を払わねばいけません。つづく議論ではその趣旨に合わせて 《存在価値》と呼びましょうか。


★ 「態度価値」は、ある変化しえないものが、そのまま受け入れられねばならないような場合に実現化されるという。
☆ 《存在価値》に近いように見えます。

★ さらに「態度価値」にあっては創造や人生の喜びのなかに価値が求められるばかりでなく、「苦悩」のなかにさえ価値が実現するという視点
☆ 「態度価値」が《存在価値》であるならばそれは 《苦悩ないし苦楽》を言わば〔受け留めつつ〕超えているのです。

苦悩を経験しようがしまいが――また存在理由を考えようが考えまいが―― 存在は生きつづけます。

▲ 「人間はあらゆることにもかかわらず 困窮と死にもかかわらず、・・・人生にイエスと言うことができる」
☆ 《生と死》は 自然史過程として初めから〔というふうに後天的に考え自覚した結果〕受け容れます。

《困窮》は 具体的な実存の過程における負のカザリとして受け留めます。

《人生》は《われ〔なる存在〕》のことだとしたら いちいち《イエスと言う》こともない。すでに生き〔つづけ〕ているのだから。

《それでも生きる》と宣言せずにはいられない時というのは わが心が折れたときである。わが心と意志が踏みにじられたとき。好き嫌いまた愛憎から離れて人びとがわれに接してきた(つまり 無関係をつらぬきとおした)とき。

・・・

お礼日時:2021/06/21 02:01

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