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どうして主は蛇を造られたのですか?どうして主は果実を造られたのですか?
そもそもこんなもの造らなければ、私の悩みなど無かったはずなのに・・・

A 回答 (14件中1~10件)

蛇と善悪の果実の木については、あと先考えずに、ついフラフラっと作ったような気がします。




説明します。

聖書に書かれている神はさまざまな性格を見せています。
どうやら神は全知全能を謳っているようですが、長いスパンにおける計画性、実際の力の行使ならびにその結果は、われわれ人間の目からすると疑問のもたれることばかりです。

いろいろなモノ(地上世界とか動物とか人間とか)を創っては、気に入らなくなると手のひらを返すように楽園から追い払い(アダムとエヴァ)、地を這うものとし(へび)、滅ぼしたりします(大洪水、ソドム)。配下としてつくった天使たちのうち、三分の一ほどの人数には叛逆されてますしね。

キリスト者たちは神の遠大な計画の一環と解釈されるのでしょうが、傍から見るとそのような解釈は苦しい後付けとしか思われず、神は先々までのことを考えて行動しているようには見えません。

道徳的な面でも完全な存在かというと、これもまた大いに疑問です。
御存じのエピソードばかりかもしれませんが具体例をいくつか挙げてみます。

神に対して義である人に対しても、神の仕打ちは残酷です。アブラハムには信仰心をためすために息子イサクを殺せと命じます。これは結局殺さずに済みますが、人間社会でそれをやれば命じた者は刑事罰の対象でしょう。
ヨブ記ではサタンとの賭けのために信仰心の篤いヨブの息子を殺したうえに、さらに執拗にヨブを不幸の底へと引きずり込みます。ヨブがその理由を尋ねても、「世界を創造した私に文句など言うな」と一喝してオシマイです。

神に対して義である人に対してすらこのような仕打ちをします。ですから神のことを知る由もない赤ん坊や幼児、それに異民族に対する御業(みわざ)は仮借ないものばかりです。

大洪水のときもソドムも、当然の事ながら罪の何たるかを知らぬ子どもも含めて滅ぼしつくされます。神はファラオ(新共同訳以前の聖書ではファラオではなく「パロ」と記載されています。)の心をわざわざかたくなにさせるのですから、神にかなうわけもないファラオはユダヤの民を解放させる気にはなりません。その結果いくつもの奇跡の業が示され、そのつど善良なエジプトの民は数々の苦しみを味わったうえで、最後には家畜と第一子すべてを殺されてしまいます。みずからの力を誇示するためのこのようなやりかたは、日本の社会ではマッチポンプと言われ軽蔑の対象となりますし、場合によっては犯罪とみなされます。またイスラエル人たちによるカナンの地(の征服戦争ではいくつもの都市で勝利するたびに非戦闘員であるにもかかわらす、捕虜は老若男女を問わず全員殺戮しています。

ミディアン人を攻めたときは珍しく、例外的に捕虜(女性と子供だけ)の中の一部を助けていますが、モーセは捕虜のうち男児と処女以外の女性は神の意向だから全員殺せと兵士たちに命じます(民数記31章)。

以上、有名どころのエピソードばかりですが、これらより次のことが考えられます。

神の道徳的尺度(そんなものがあるとすれば、ですが)を人間が推し量ることなどできません。人間にとってありがたい能力である智恵も、神にとっては人間には与えたくなかったようですので、神と人間とでは善悪を含む価値基準はかなり違っているのでしょう。もともと「ねたむ神である」とみずから公言し、それを恥じ入る素振りもないので、「人間基準での徳」がそう高いわけでもなさそうです。
要するに、神は人間の思量からかなり逸脱した(言い換えれば超越した)存在であり、常識的な人には、「なんでこうなるの」、「無茶苦茶」、「気まぐれ」、「行き当たりばったり」、「神様というより疫病神」としか表現できないときがあります。

まとめますと、神とは単に意志し、力を行使するだけです。
神自身の道徳心は人間には推し量れませんし、計画性についてもはなはだ疑問です。したがって善悪の木と蛇については、あとさきあまり考えずに、その場の思いつきでつくりたくなったからつくっちゃった、というのが真相でしょう。きっと創造に忙しくて、なんの気なしについ出来心で作っちゃったのではないでしょうか。最後の日に休まずに、五日目あたりで中休みとったら、神様ももう少し気力が充実していて、少しはましな世の中を造っていたのかもしれませんね。
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 No.11です。

おぎないます。


 ◆ 《へび》の問題


 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味

 次の文献によって わたしなりの分類をします。

  ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM …

   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~

    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂

    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
           あらぶる者:悪魔::荒魂

    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。

    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。

    (ε) ゆえに エロスを象徴。

    ~~~~~~~~~~~~~~    


 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。

 この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。


 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。


 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。


 § 5 ムイシキの逆襲(?)

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。

 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。


 § 6 ムイシキとは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。
 その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。


 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。

 いちおう理屈をつければ こうです。

 悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。

 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
 ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
 ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。


 § 8 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この部分すなわち

  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  ~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。


 § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~


 § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 ~~~~~~~~~~~~

 まとめ:
 《へび》は ひとの自由意志が持つその――よきにつけ・あしきにつけの――自由度としてのウソ・イツワリの能力にかかわるようです。色をつければ 大きくエロスにもかかわると。

 けれども それは 自由度からも自由な意志自由が ひとにはかがやける自然本性としてそなわっている。この理論にもとづくなら 《へび》の民俗は まぼろしであり それとして認識すればただちに消え去るただの心理作用であるに過ぎない。こう考えられます。
 大海にあっても 表面の波風は たとえさざ波としてでも起こり得るわけではあります。そのような心理作用が へびだと見ます。
 神が造ったものではありません。人間の自由意志によるおあそびです。
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「蛇は野のあらゆる獣の中で、最も賢かった」。

と記されているように、手も足も無いのに泳ぐ、潜る、走る、木に登る、と、とてつもない能力を持っています。
それを観察していたアダムとエバは、その蛇が語るなら、その言葉に非常に興味を持って聞き入った事と思います。
勿論実際に語ったのは霊の被造物の1人で後に悪魔、サタン、龍、赤い竜、などと呼ばれている者です。

何故、神YHWH(主)は、エデンに「生命の木と善悪の知識の木」を生えさせたか。ですが、先ずは、創造の流れを考えて下さい。
神は、6日目までに「万象を完成させ」、創造の第7日目を聖なる日、安息日としました。
この創造の第7日目は新しい天と新しい地の創造が成される日(イザヤ65:17.)で、イエス・キリストが王として支配する神の王国の事です。
ご存知の事と思いますが、神は万物を創造した方で万物には、見えるものも見えないもの、善も悪も含まれいますが、平和な神は平和に寄与しない悪は絶対に用い方で、真の神の子供とする全被造物に善と平和を愛し、神と同じく聖なる者となるのか悪と破壊を愛し穢れた者となるのかの選択の目的で7日目の始めに木を生やしたのです。
残念ながら、天の被造物の一部の者と最初の人間アダムとエバは邪悪な心を育てて穢れた者である事を行動に表したのです。
キリスト・イエスの贖は、アダムから受け継いだ罪を取り除き、罪を犯す前のアダムと同じような条件で聖なる道か邪悪で穢れた道かを選択出来る立場に置かれたのです。
人間イエスが、苦しんだ事柄から従順を学んで完成された者となったのと同じように、罪を贖なわれた人間も信仰の模範者イエスに倣って信仰によって歩む事が出来ると思います。
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 ★(No.4補足欄) どうして主は善悪の果実を造られたのですか?



 ☆ ひとは 生まれつきの自然本性において 自分は 自分の心のおもむくところにさからって何かを成すということを知ります。つまり ウソをつきイツワリをもおこない得ます。
 いちおうこの心にさからわないことを 善と言い そうでなくさからってウソ・イツワリをおこなうことを 負の善と捉えました。善を損傷しようとすること これが 負の善であり またの名を悪と呼びました。

 そこから もともとの自然本性のあり方について考え それはどういうふうであったかと考え尽くした結果 エワとアダムの物語を創作し得ました。

 もともとの自然本性のままの園には 善と悪を知る木があったという前提のもとに この木から採って食べるのは けっきょくウソ・イツワリをえらぶことに通じる。こう考えたわけです。
 だから 《かみ》という言葉を用いまたそれを人格化して 神がひとと会話をしたりするという設定にもしました。だから 善悪を知る木から採って食べてはいけないという戒めを 神がひとに告げるというお話にしたわけです。

 要するに 悪をも選択しそれをおこなうことがあり得るというその自然本性の自由度ないし柔軟性について アダムのエワの物語に織り込んだ。こういう話です。

 
 善悪を知る木だとか 生命の木だとかが じっさいにエデンの園に生えていたとお思いですか? それらを神が造ったとお考えになりますか?
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蛇=もののあはれなるもの?自由とか合理とか気にない奴。



聖書と関連はないかもしれません。蛇の語源から蛇ちゃんの弁明をします。

蛇の偏を人偏にすると侘びになり、侘び人は
「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(宗二記)
として貧相でありながら性質の良い様子となります。

侘は他や彼の異型ともなってます。
起点や折り目など変化のないこと無事というなら、新しさや目標を見出す有事でもあります。

「巳(み)」は糸がぐるぐる丸まってる様子を現したとされ理解し難きもの。
「己(おのれ)」は相手をののしる時の呼び名であったりします。

それだと「他人」と「自己」も陀なんでしょう。

明暗構わずくねくね進み、
善悪、要不要取り分けず丸呑みして咀嚼するような
神はそのような不気味な態の蛇に罪までなすりつけたと思います。


人間の無明を知らせるために、果実(ロゴス、言葉、観念、概念、誠ではなく)を用意し
その実体の哀れさ知らせるハマリ役が蛇で!
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>どうして主は善悪の果実を造られたのですか?



良く言われるのは「ふさわしいときに食べさせるため」
食べるのが早すぎたのでしょう。

>どうして主は蛇を造られたのですか?

神は陶芸職人にたとえられます。
失敗作を作ってしまうこともありますし、
失敗作が文句を言えば壊します。
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考えられる答え。



その1
テストだった。
テストしなければ解らない全能の神てのもおかしな話。

その2
神は人間を嫌っているから。
これが一番しっくりくると思います。
神は、人間が嫌いだから、色々と苦しみを与えているので
しょう。
神は人間を愛しているはずだ、と思うから、色々と説明が
つかない事象が出てくるのです。
憎悪している、とすれば、簡単明瞭ではないですか。
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この回答へのお礼

非常に面白い答えですね。

憎悪しているならば、自分そっくりに造った理由を考えると、主は自身も憎悪していたのでしょうね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/30 19:38

 そんなことを言ったら ヒトの言葉を話すヘビを 神が造ったということになるんでないかえ?





 問題にゃあ。人間の創作になる物語ですよ。
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この回答へのお礼

そりゃそうでしょう。
蛇は主が造ったとそう書いてあります。

ご回答頂きありがとうございます。

お礼日時:2012/06/30 19:40

当時人間には楽園に住めるような場所がなかったのではないでしょうか。

知恵を与えられることによって楽園の外に住むことができるようになった。また知恵によって容易に楽園のものをむさぼり始めることができるようになった。
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そらそうでしょ。


最初から苦しむように創造した、私が苦しみを与えた
なんて言うと恨まれるだけで尊敬されないでしょう。

貴方達が裏切って食べたから苦しむのですよ。
貴方がたが悪いのです。原罪がありますって。
私の言うようにすれば罪は許されますと言った方が
敬われるでしょう。
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