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全知全能であるとされるキリスト教の神はなぜ悪魔を野放しにしたままでいるのでしょうか?

また、イエスキリスト(神)は自らに対する悪行を許し、我々人間にも悪行に対して許しを勧めるにもかかわらず、なぜ悪魔(堕天使ルシファー)とは許し(和解)をしないのでしょうか?もしくは上述のように野放しにせず、消滅させないのでしょうか?

正義、義、哀れみをなんらかの形で堕天使に示すことはできないのでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

 おおきい問題ですので おおまかな説明になると思います。

(一辺の分量としてはです)。

 ことは この世界 特には人間の世界の問題です。この世界の中で 人間という存在には 自由意志が備えられています。そのゆえです。早くいえば われわれ人間に この世のことは すべて任せられているという解釈です。

   わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、
  暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
   (伝パウロ著:エペソ書簡6:12)

というように――最大の課題がこうであるのですから―― キリスト・イエスのあとでは 一切のことが われわれの行ない営む歴史に属します。
 もっとも 矛盾するようですが 同じくやはり任せられたという内容として すでに悪魔は イエスの死と復活と高挙とによって 征服されています。そのことの現実化が わたしたち人間の手にゆだねられているとも考えられます。

 そして 次は 厳格に信仰の立ち場ですが あえて 引用してみます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  標題:神は 悪が起こることを許したまう場合でも 正しい

  どんな悪事であれ それが起こることを許すことによってさえ 神が善をなしたまうことを疑うべきではない。
  というのは 神が正しい審判によって許したまうのでなければ そのことは起こらないからであり また正しいことはすべて確実に善であるからである。したがって悪であるものは それらが悪である限りにおいては 善ではないが 神が善いものだけでなく 悪いもの〔にも存在すること〕を許したまうということは善である。
 なぜなら 悪いものも存在するということが善でないならば 悪いものが存在することを 善い全能者はお許しにならなかったであろうから。神にとっては 欲することをなすことが容易であるように 欲しないことを許したまわないことも容易であることに疑いの余地はない。
  もしわたしたちがこのことを信じなければ 《我れらの全能の父なる神を信ず》と告白しているわたしたちの信仰告白の冒頭の言葉が危うくなる。というのは 神が本当に全能と呼ばれるのは 神がその欲したまうことをすべてなすことができ また どんな被造物の意志によっても 全能者の作用が妨げられないということ以外の理由によるものではないからである。
  (アウグスティヌス:信仰・希望・愛 赤木善光訳 第六部 神の経綸 第一章 神の審判とその正しさ )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは 第三段落の理由を述べたところの《神にとっては 欲することをなすことが容易であるように 欲しないことを許したまわないことも容易であることに疑いの余地はない》 この文句に 何も言えなくなりました。
 いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

回答していただいてありがとうございます。

正直ここまで難解で詳細(私にとって)な答えをいただけるとは・・・。

「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」とありますが、ここでの支配、権威とは死を意味し、それからの解放策がイエスキリストにより提示されているので悪魔の支配、権威はすでに失墜、無力化されていると考えられるということでしょうか?
つまり、野放しにはしていないと?

それから、全知全能である神が存在するとするならば、この世の状況はその神がよしとしているので、なにが起ころうともその神の意のままであり、悪もへったくれもないということでしょうか?

・・・あれ、信仰の立場だと終わっちゃいました。ありがとうございます。

とりあえず悪魔だなんだ言わず死を恐れないで戦って生きてみろってことですか。私は神が悪魔をなぜ徹底的に矯正してあげないんだろうと思っていましたが、我々がその役目を担わされているということですか?

代理戦争か・・・。複雑怪奇なりです。
これはとりあえず、死んでみないと確認できそうもありませんね・・・。

お礼日時:2008/01/24 00:56

和解というより悔い改めよ!と悪魔にも言ってるはずです。

そして黙示録の書いてあるようなストーリーになると考えてます
最後に勝つのは・・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

聖書に書いてあることを最終的に信じるか、否か。
自分が選択するか、しないか、どちらかということになる。
というわけですね。

信じた場合は、もちろん勝つのはイエス・キリストにつくもので、それ以外は即地獄行きなんですよね。
信じているならこういう質問は死後に分かることだし、四の五の議論の余地はないんでしょうね。

ただ、見ずに、理不尽さに疑問を感じずに信じることって難しいことですね。納得がいくまで疑い続けていってみようと思っています。

さまざまな意見をいただいたみなさんありがとうございます。
この場を借りてお礼を言わせていただきたいとおもいます。

お礼日時:2008/01/29 22:56

3と14です。

もう少し補足します。

被造物は、相対的であり、絶対的ではありません。
被造物は、善と悪、真と偽、といった二元的な発想で表現でき、相対的な関係にあるので、唯一・絶対の創造主とは全然違いますから、神と悪魔というように並置した時点で、神が被造物になってしまっていると認めざるをえません。
逆に言うと、創造主は、善も悪も両方とも創造し、どちらも存続させてきたので、どちらか一方が滅びて消え去ることはなく、被造物の神と悪魔を普遍的に共存させ続けると思われます。
悪魔だけ消え去って欲しいという人間の願望は理解できますが、世界(宇宙)は、人間にとってそうそう都合よくはできていないのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

創造主(神)が創造物の神(天使)と悪魔を共存させてきた。
ということでしょうか。

お礼日時:2008/01/29 23:40

No.4.10です。



読んでいて、私とあなたとでは、かなりの数において、同じ語彙に関して別々な認識をそれぞれしていると思えました。

まあ リグ・ベーダでは最初の人間とされたものが、日本に伝わったとき閻魔に変わったし、、、 まあ なんといいますか。


>トーラーも旧約中で創世記より後だから、後づけ?

トーラ 別名モーセ五書。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E6%B3%95
『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』この五書をトーラっていうんですね。


<創世記>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96% …
『P資料(祭司資料) バビロン捕囚時に書かれたと思われる資料。天地創造の記述の一部など。』

<天地創造>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0% …


<バビロン神話の天地創造>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8C% …

ね? 
聖書の天地創造が、何故バビロニア捕囚以降にできたと言われるかわかったでしょ?

じゃあ トーラ全部はバビロニア捕囚以降に書かれたのか?
違うと思います。
今までの口伝を文書化する必要に迫られて、羊皮紙に書くようになり、いくつも伝承がある中で、どれを正典とするかを決めて、聖書を作ったのが1世紀だそうです。


>罪を規定したトーラーを放棄するのは相当危険で容認し難いものでしょうね。

私が思うには、トーラはイスラエル人の形だと思うんですね。
モーセがエジプトから民を連れて、エジプトの植民地だったシオンに移動したわけですが、まだ自分のアイデンティティーってものがなく、これがイスラエルって形ができてもらず、徐々に決めていったと思うんですね。

それにトーラは法律というより、歴史の共有とか、何故自分達がこうなのかっのを形作る上で必要だったものだと思うんですね。

5書にそれぞれ特徴があるんです。
祭司の規定、民の規定、リーダーの規定 みたいな。

今のように印刷技術は無かったので、口伝で伝えられていったわけですが、一般庶民が読んで歴史を知るってものじゃなく、、、、
その伝承を次の世代に正確に伝えていくために、それなりの人を育て、認めたらその人に伝承していくって感じ。
律法学者も出てきて、トーラの意味を研究したりとかして、さらに詳細に規定していったみたいだし。


>当時のユダヤ教の聖職者はサタン役のイエス・キリストに徹底的に論破されて、ついに「ベルゼバブ」呼ばわりした訳ですか。

この意味わからないんですが、、、、
イエスは一般庶民じゃないと思うんですね。
今のようにイスラエル人誰もが聖書となるものに精通していたわけじゃなく、専門職の人の間で継承していったと思うんですね。
私が思うには、もし、仮にイエスと12使徒が本当にいたとしても、彼らは漁師とかじゃなく、祭司だったと思うんです。
12支族に派遣されていた祭司たち。

ややこしいのですが、祭司職はある種族しかできなかったんですね。
それはトーラにそう規定がある。
神がそう決めたとなっているんです。
だから聖職者は他の種族じゃできなかったんです。
でも、確かユダ族の人も祭司になったり、イスラエル人じゃない人が王になって、その人の血が祭司の中に入っていったりして、権力争いみたいなものがあり、大混乱してた時代があった。
それで神殿の祭司たちは腐敗しているとか、そういったイザコザがあったようなんです。

ベルゼバブって要するに元はバアルでしょ?
バアルって。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC% …
『エール (エルとも音写)はセム語派に於いて最も普通に用いられる神を指す言葉。一般には、王権を象徴する角のついた冠を頂き玉座に座った男性の姿で表される。

彼はまた神々の会議を招集し議長を務め、また神々の王を指名しまた自由に罷免する権限を持つ。 しかし年老いた神ともされ、事実上の主神はむしろバアルである。旧約聖書にもエール・エルヨーン(いと高き者)、エール・オーラーム(永遠の神)などの名が現れるが、実際にはほとんどヤハウェの異名として用いられている。』


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB% …
『ベルゼブブ (Beelzebub)は旧約聖書『列王紀』などに登場する異教神。本来はバアル・ゼブブ、即ち「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれていた。これは恐らく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる』


>でも、そういう人も悔い改めて許しを乞えば許してくれるんですよね?
>そうすると結局悔い改める可能性がそんな人にあるかどうかの問題ですね。

どうなんでしょうね。
コヘレトの言葉が書かれた頃は、かなりヘレニズムの文化 すなわちギリシャ哲学がイスラエル文化に伝わっていたらしいですね。
それで「神を盲目的に崇めていりゃあ それでいいんだ」ってことに疑問を呈するようになり、「トーラをなにがなんでも守っていりゃあ 幸せになるんだ」ということに疑問を呈するようになり、「トーラを守るもなにも 義人でいたとしても、不幸三昧になることだってある」という現実をもって、「じゃあ 一体どうすればいいんだ」ってなり、コヘレトの言葉の作者は悩んで悩んで、最終的に「義人すぎるな 悪人すぎるな。自分のやった労苦に満足することが、能力の限界を持つ人間に神から与えられたほうびだ」という悟りを開いたわけですよね。

だからサタンと言われようと、労苦し神殿の祭司や、滑らかなるものと皮肉を言われようと、どうしてそう解釈するのか懸命に説明する労苦を認め、たとえそれが実らなくても自分が労苦したことに満足するに至る心境になることが、幸福だってことじゃないかと。

労苦したが結局駄目だったから失敗だった じゃあない。
駄目だったけど懸命にやったということに満足するに至る境地になったとき、それが労苦した人を救うということじゃないかと。

ヨブ記の作者だって懸命に考えて考えて、出した結論ですよね。
ヨブ記って、全くの義人なのに不幸にあってしまうって内容でしょ?
ヨブには何も落ち度は無い。 にもかかわらず不幸三昧になる。
理由などなく、災いはどんな人にもふりかかる。 
その情況において神をうらむのか。信仰を捨てるのか。
神をうらんでも、信仰を捨てても解決しないわけですよ。
悟らなければ。

ヨブ記って結構面白いですよ。
一度読んでみてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
知識が浅く、客観的でないにもかかわらず、いろいろコメントしてしまい申し訳ありません。また、いろいろ情報を提示していただきありがとうございます。

>理由などなく、災いはどんな人にもふりかかる。 
その情況において神をうらむのか。信仰を捨てるのか。
神をうらんでも、信仰を捨てても解決しないわけですよ。
悟らなければ。

この言葉が非常に印象にのこりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/29 23:06

3です。

私はキリスト教徒ではないので、私が想定している神の概念を少し書きます。

神は、全宇宙(時空)を創造した存在で、唯一・絶対・完全・普遍・公平・平等な創造主と考えています。
それに対して、一切の被造物は、多種多様で、相対的で、不完全で、個物で、不公平で、差別的であると考えています。

聖書において、キリスト教の神は、善とか義の方に偏っていて、その神に対立するものとして悪魔などを想定しているようですが、私が思うに、どちらも被造物の特徴を有するように思います。唯一・絶対とか、全知全能とか言ってはいるけれども、そうではないと考えています。

だから、聖書は物語であって、フィクションだと思っています。ノンフィクションではないということです。よって、事実でなく、証明もできないことを前提にした議論は暇つぶしでしかないと思います。被造物のことをいくら書いても、真の唯一絶対な創造主のことを理解したことになりません。そこで、結論だけ書きます。

創造主は、公平・平等ですから、被造物の悪魔に対して特別扱いせず、
優遇もなく、罰もなく、許すこともなく、直接的な接触もなく、見守るだけであると私は考えています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

聖書がフィクションだとすると、
>事実でなく、証明もできないことを前提にした議論は暇つぶしでしかないと思います。

本当にそうですね。

お礼日時:2008/01/29 23:17

 No.11のつづきです。

救われるかどうかについて とてもきびしい見解があることを知るようになられたのだと思います。
 でも ところが こういう底抜けの救いをあらわす文章もあります。ご紹介しておきます。
 パウロが 《神は「新しいもの(契約)」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです》と説明するその新しい契約にかんして 述べています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
     新しい契約を結ぶ時が来る。
   と、主は言われる。
     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
     エジプトの地から導き出した日に、
     彼らと結んだ契約のようなものではない。
     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
     わたしも彼らを顧みなかった。
   と、主は言われる。
     それらの日の後、わたしが
     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである。
   と、主は言われる。
     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
     彼らの心にそれを書きつけよう。
     わたしは彼らの神となり、
     彼らはわたしの民となる。
     彼らはそれぞれ自分の同胞に、
     それぞれ自分の兄弟に、
     「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。   
     小さな者から大きな者に至るまで
     彼らはすべて、わたしを知るようになり、
     わたしは、彼らの不義を赦し、
     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
    (エレミア書31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
   (パウロ:へブル書8:8-13)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すなわち イエス・キリストの出現のあとでは 誰も罪に問われないのだし 誰も 誰かに向かって《主を知れ》とは もう 言わないと知られます。これをも加味して 救いの理論は なお新しく打ち建てていけばよいのではないでしょうか。
 ようやく二日(=二千年 cf.ペテロ第二書間3:8)経ったところです。その間に 《宣教という愚かな手段》(コリント前書1:21)によって キリスト・イエスの名は 世界中に知られました。世の中は 曲がりなりにも 民主主義です。新たな一日へ向かって すすんでまいりましょう。と思いますが いかがでしょう。
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この回答へのお礼

聖書は自分達の歴史を包みかくさず書いてあって、私たちの人生に訓戒を与えたり、励ましを与えたり、さらには信仰を持つことができれば心に平安をもたらす。新しい概念を与えてくれる書物だと思います。

よい部分にもっと目を向けて常に前向きに考えていければいいですね。
また、このように皆さんから回答をいただけるところを見るとかなりの方が興味を持たれて、持論があり、悩まれたり、真剣に取り組まれたりした時期があったんだなと思いました。

お礼日時:2008/01/29 23:26

質問:福音の本質ってそもそも何でしたっけ?すいません。

イエス・キリストの十字架刑によって流された血、つまり死刑によって人類全体の過去、現在の罪に対して落とし前をつけた。そして復活したことによって死を超越し、あの世(天国)があることと同時に神の存在を証明した。これを信じ、自分に罪(原罪以外もいろいろ)があることを認め、悔い改めて生きていくことで救われる。

 福音の本質といいますか、あなたの言われるのはどちらかといえば「救いの本質」でしょうか。ちなみに福音の原義は「よきおとずれ」だそうで。
 それはともかく、救いということもまたこれまで論争にさらされてきました。

 一番よく知られているのは、ルターとカルヴァンの論争。ざっくり言えば、ルターは救いは信仰に基づくといい、カルヴァンはいや救いは生きている間はわからんのだ(でも勤勉な生活をする者はその可能性が高い)といった予定説を強調。つまり、カルヴァンは前にいったエペソ1・4のような予見を最大に強調し、ルターは人間の選択可能性、主観的な選択を最大限に強調するわけです。

 ここでの私の考えは、といいますか、今となってはおそらく主流だと思うのですが、救いは信仰に基づくというルターの考えが正しいと考えます。パウロがローマ人への手紙4章で義認についてアブラハムまで持ち出して、詳しく話しています。つまり、人はどのようにして救われるのか?ということですね。

 ここでパウロはアブラハムの「信仰」(信仰ということだけです)だけを強調し、他のいかなる要因も救いと関係なかったということを証明しようとしています。こんなことをいちいちしゃべらないといけなかったのは、おそらくユダヤ教による物質的割礼こそ救いだという一般の観念がローマ人に強くあったからでしょう。それは無理ないことです。

 パウロに一貫していた救いの思想、それは神の救いは律法や行いによるいのではなく、つまり人が道徳的とか善であるとかいう問題ではなく、また単に悔い改めによるのでさえなく、また洗礼にさえ基づかず、ただ「信仰」こそが最大に重要なのだということ。

 もちろん悔い改め、バプテスマはいらん、というわけではありません。ただそれがあっても、口先で儀礼的で「信仰」がなければ救いが来るとはいえないということです。でも多くのキリスト教信者は、このあたりをごちゃごちゃにしてしまっています。

 聖書は堕落と混乱の歴史であるといっても過言ではありません。より正しくいえば、混乱とその回復の歴史です。混乱が起こり、神が来る。神が来れば混乱がまた引き起こされる。でもまた神が来て元に戻す。そういう歴史です。
 黙示録には宗教の堕落、実はキリスト教自体の堕落が予言されています。神学に精通していないと、ほとんどの人は分からないと思います。でも黙示録2章から書かれたアジアの7つの召会は、ただの歴史的史実ではなく、キリスト教自体がどれほど堕落するかということがまさに書かれており、その方法が狡猾であることもまた示されています。

 たとえば良く一般人から批判されるクリスマス。これは聖書にはないし、ルーツもまた聖書とは無関係な宗教・呪術的な儀礼からきていることが知られています。これは、ほぼ確実で間違いない研究成果です。これはキリスト教の堕落慣例の1つと私は思っています。

 最後には神と悪い人たちの戦争があるというよりも、強大な宗教戦争が起こるということが予言されています。ですからクリスチャンの敵は、最後には犯罪者とかではなく、むしろ仲間・同僚なのです。広くいえばすべての宗教ですが、それに加えて堕落したキリスト教(偽信者)が含まれています。そしてこのわかりにくさのゆえに判断がつかず、かなりの人が騙されるということも予言されています。

 でも最終的に淘汰されるというのが聖書のストーリーです。
 
 ですから私はこの今の腐敗した一部のキリスト教、実際大多数だと思います。とくにアメリカの福音主義者らは腐っています。あれこそ将来、聖書に書かれた「偽信者」となりうる存在ではなかろうかと思います(でもなかにはまともな人がいると信じますが)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

イスラエルやアラブ諸国との対立やそれに対するイギリス、アメリカの介入などを考えるとき、宗教を中心に考えると「宗教戦争」かなと感じますね。でも、国家間の利害関係が表出しているだけのような気もしますね。

お礼日時:2008/01/29 22:44

 No.1&8です。


 大きな問題と言ったように 大問題に突き当たったようです。

 (A) 《神は すべての人が救われることを欲したまう》
   (テモテ第一書 2:4)

 (B) 《神はそのあわれもうと思う者をあわれみ かたくなにしようと思
   う者を かたくなになさる》 (ローマ書 9:18)

 わたしの導き手は アウグスティヌスですので まづかれを引きます。きびしいことを言っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・たとえすべての人が救われるのではないことがわたしたちにとって確かであっても その理由で神の全能の意志を少しでも限定してはならない。むしろ《神は すべての人が救われることを欲したまう》と書いてあることを 神が救おうと欲したまうた人のほかは どんな人も救われないことを言っているのだ と理解しなければならない。
  それは 神が救おうと欲したまわないような人間はひとりもいないということではなくて 神が欲したまわない人は どんな人も救われないということである。だから わたしたちは 神が〔救おうと〕欲したまうように 乞い求めなければならない。なぜなら 神が欲したまうならば 必ずそのとおりになるからである。
 ・・・
  さらに 全能の神が或ることを欲して そのことが起こらなかったと考えざるを得ないようなことにならない限り 〔《神は すべての人が救われることを欲したまう》という言葉は〕他のどんな意味に解釈しても差し支えない。
(アウグスティヌス:信仰・希望・愛 6・2 赤木善光訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後の箇所について 訳者=解説者は 次のように注釈をほどこしています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 I テモテ2:4は 予定論の視点からアウグスティヌスにとって困難な課題となった。
 ここで彼は次の二つの解釈を試みている。そのひとつは 《すべての人》というのは 全人類を意味するのではなく 神が救おうと欲したまうすべての人を意味するという解釈であり いまひとつは 性別・年齢・社会的身分・人種・国籍等のすべての種類にわたる人を意味するという解釈である。
 後年彼は 『譴責と恩恵』15:47において 問題の聖句を 神がわたしたちをして すべての人が救われることを欲するようにし向けたまうことを意味する という解釈を試みている。いづれにせよこの聖句は彼にとって容易に解決できない問題となったので 全能の神の意志は不変であるという条件を付して 他の解釈の可能性を許容したのである。
(赤木善光)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 けっきょく たとえばわたしたちが 新しい解釈を出すのもよいとおもわれます。長くなるので まづは ゆだねたいと存じます。
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この回答へのお礼

>神が救おうと欲したまわないような人間はひとりもいないということではなくて 神が欲したまわない人は どんな人も救われないということである。だから わたしたちは 神が〔救おうと〕欲したまうように 乞い求めなければならない。なぜなら 神が欲したまうならば 必ずそのとおりになるからである。

求めないで疑念や反感を呈してばかりいては救われようもないということでしょうか。自分は病気じゃないので必要ないと言って病院に行かない人みたいに。

こういったことに関する疑念、議論に対して昔から取り組み、真正面から向き合ってきたという歴史があるということをアウグスティヌスの言葉から、みなさんの回答から理解することができました。そして、最後に「長くなる」。ということ・・・。

パウロの言葉でしたか、「無益な論争を避ける」方向で行ったほうが教会内部は安泰でしょうね。

でも、神の支配であるとか、主権については非常に知識が深まったと思います。私が(もしいるとしたら)神にたてついて意見を言う立場にはないということが分かりました。神とはそういう方であると・・・。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/25 16:38

No.4です。



>イエス・キリストを神として勝手に立てたから悪魔崇拝というかカルトという考え方ですか。

ユダヤ教からすれば、キリスト教は異端です。
何故ならユダヤ教の骨格であるトーラを捨てたのだから。
異端は同じ宗教間で言うのであり、トーラを捨てたってことは異端ですらなく、別宗教になりますね。


ユダヤ教は原罪にこだわりません。
キリスト教は原罪のこだわることが、キリスト教の骨格です。

何故ユダヤ教は原罪にこだわらないのか、考えたんですが、律法によればこだわる必要が無いから と思われます。

律法には父親が犯した罪を、息子が背負わない というものがある。
偽証も関係あるのかもしれませんが、父親が罪を犯したのに、息子が私が罪を犯したと言ったり、私が代わりイ罪を償いますって言っても駄目なんです。

本人が発生させた罪は本人のみで罪は完結し、本人が罪を犯せば本人のみがそれによって不利益をこうむり、つまり巻いた種は本人で刈り取らなければならない ってなるわけです。

掟でそうなっている。
だからユダヤ教はトーラを守っているので、原罪にこだわっていないわけです。


ユダヤ教でサタンという意味は敵対者という意味です。
自分がAだと思っているのに「Aじゃない Bが正しい」というとき、自分からして相手はサタンになるわけです。

イエスの荒れ野での修行。
サタンに誘惑されたとありますが、恐らくですが、教師との問答だと思います。

ユダヤ教には神学校みたいなものがあり、その系統の子女はその学校で修行していたそうです。
入学するレベルにあるか、進級するレベルに到達したか、卒業するレベルに到達したか、 それを量る側が、生徒にとってサタンとなり、難問をふっかける。
問答で「うむ 合格」とサタン役の師匠を納得させなければ、卒業して聖職者として町に下りていけない。

そういうユダヤ教の英才教育があったと知れば、イエスとサタンの問答は、進級 あるいは 卒業試験だったってことになりますよね。


ヨブ記の場合は、恐らくギリシャ哲学が影響を与えたんだと思います。
<義人が義であるのは、それによって得をするから義をやっているのか、それともその人自身が義であるからやっているのか。 どうすれば見極められるのか>
とギリシャの哲人は考えたそうです。

それを見極めるには、その人から一切の善(得)を取り去ってしまえばわかるってわけです。
その人の家族、財産、地位、友人、人からの信用、ありとあらゆるものを取り去っても尚義人であリ続けたなら、その人は義人だったことになる ってわけです。

たとえ、権威の象徴である紫の衣を剥ぎ取られ、鞭打たれ、天と地の間に吊るされ、槍で刺されようと、義人でありつづけた場合、その人は義人だったと照明できる。
これがギリシャ人の義の証明の理論。

実際そんなことで義の証明を哲学者たちがやったら、とっつかまってしまいますから、あくまで文学というか哲学上の話で、理論のみで全くの義人はありえるかって説明していたわけで。
これが古ギリシャ人の義の存在証明。


その義人の証明の哲学が、ユダヤ人に影響を与え、ヨブ記ができたようなんですね。

ルシファーは夜明けの明星という添え名を持ち、イエスも夜明けの明星という添え名を持っていたと思います。

バビロンだったかそこらの神話から、ルシファーという概念がイスラエル人の思想の中に入ってくるわけですが、イスラエル人はルシファーの天からの墜落を同情的に聖書の中で描いています。

ルシファーは義人だったのですが、奢ってしまい、自分はもはや天の中央の座につけると思い、それを欲したため中央の座にある神との性交を望んで、それで落とされたとなっています。

ルシファーを民のリーダーだと考えればいいと思います。
絶対的な力を持ち、もう神と同一であるかのように自分を過信し、それで天の中央の座を与えてもらうには、女神に認められその証として女神と性交をするってものだったんです。
ですが、女神は性交を拒否、つまり彼を聖別されたものと認めなかったんです。

で、「あれほどの私達の期待の星、暗い世界から明るい世界への希望である夜明けの明星のルシファーですら認めれなかった」という人々の嘆きと同情。


7つの大罪の中で 傲慢 という言葉に訳されているものは、性欲が正しい翻訳らしいです。
つまり神の座を欲することが 7つの大罪のうちの一つ。

というわけで、世間ではサタンとルシファーって同一視しますが、違うんですね。

同一視されることになったのは、翻訳が原因じゃないかと。


>正義、義、哀れみをなんらかの形で堕天使に示すことはできないのでしょうか?

欲によって得ようとしたものは、その罪ゆえに堕ちる。

憐れみは、、、、イエスは天の国は来たって言いましたよね。

これまたギリシャ悲劇だったと思いますが、女性を取られた人が、悪魔によりそそのかされたからやってしまったと、取った相手に訴えるんですね。
すると、相手は「俺も魔が差すってことは確かにある」となんと自分の恋人だったか妻だったか忘れましたが、それを寝取った相手を許すわけです。
で、許したので、許された相手にはもう罪はないんです。
許したことで罪が消えるんですね。

で、ユダヤ教では、故意じゃなく過失により罪を犯して相手に損害を与えてしまったら、誠心誠意相手に説明して許してもらうように努力しなさいって教えがあるんです。
そしてその誠意が認められたら、相手は「あなたにはもう罪が無い」ってなり、訴えが取り消されるわけです。
罪が無いので訴えも取り下げるわけですよね。

で、イエスの場合、相手を許しなさいって言ったとされますよね。
自分が誠心誠意謝罪したら許してもらえるように、被害をこうむった時
相手が誠心誠意謝罪したら理解し許しなさい。
こういうことで、何がなんでもどんなことされても、「けっ 悪いかよ なんでも許すんだろ とっとと俺を許しやがれ さもないと地獄行きだぞ ごらぁ」って言う人まで許せって、イエスは言ったわけじゃない。
もしイエスが厳格で純粋はユダヤ教徒ならね。
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この回答へのお礼

>ユダヤ教は原罪にこだわりません。
キリスト教は原罪のこだわることが、キリスト教の骨格です。

そうなんですか。でも創世記は旧約聖書にありますよね。
トーラーも旧約中で創世記より後だから、後づけ?
でも、代々罪は受け継がれないので、罪をその代で償って掟に基づいた平和な社会を構築する人々にとっては罪を規定したトーラーを放棄するのは相当危険で容認し難いものでしょうね。

>サタン役の師匠を納得させなければ、卒業して聖職者として町に下りていけない。

なるほど、そういう訳で、当時のユダヤ教の聖職者はサタン役のイエス・キリストに徹底的に論破されて、ついに「ベルゼバブ」呼ばわりした訳ですか。プライドを傷つけられた挙句、商売上がったりになるので、殺したんですね。

>義人が義であるのは、それによって得をするから義をやっているのか、それともその人自身が義であるからやっているのか。 どうすれば見極められるのか

ヨブもイエスも合格ですね。
「とっつかまってしまう」見極め方をしている教会が今はあるらしいですね。

プライド、失恋、性欲、同情・・・。そういうわけで泥沼化してるのか、世の中は。

>こういうことで、何がなんでもどんなことされても、「けっ 悪いかよ なんでも許すんだろ とっとと俺を許しやがれ さもないと地獄行きだぞ ごらぁ」って言う人まで許せって、イエスは言ったわけじゃない。

でも、7度といわずその7乗(倍?)までと言っているような・・・。
でも、そういう人も悔い改めて許しを乞えば許してくれるんですよね?
そうすると結局悔い改める可能性がそんな人にあるかどうかの問題ですね。と勝手に解釈してしまいました。回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/25 17:17

)>残念ながら未信者はすべて裁かれて滅ぶというのが聖書の記述です。


がその裁きです。とおっしゃられていますが、福音が知らされていない場合なんかはどうなるんでしょう。brageloneさんの引用から全知全能の神にそのような疑問をさしはさむ余地はないと思われますが、どうかんがえても、理不尽に感じます。この思いが不信感を募らせます。不透明さというか・・・。もちろん私など関知できないのが神の心なのでしょうが・・・。
>イエスが人の悪行を許すとはいいますが、厳密には許していません。それを悔い改める存在、神を信じる存在には彼は救いを与えますが、罪人は後にすべて裁かれることがイエスには分かっているので、あまり明確な懲罰はしないのです。とおっしゃられていますが、我々には主の祈りでもあるように、一方的にゆするように勧告しているように感じます。悪への対処法としての戦術レベルでの指示のようなものと考えるべきでしょうか?炭火を頭に積むとかいった。


 これの回答は、2つの方面からの説明が必要です。第1に救いは神の大いなる予見に基づくというものです。
 エペソ人への手紙1・4で、創造の前から救いの選びがあったということが書かれております。つまりすべてが創造される前に、残念ながら救われる人と救われない人が決まっているということです。これはいろいろな論争を生んでいます。

 なぜなら、もう一つ。クリスチャンにはこれを簡単には受け入れられない理由があるからです。それがもう一つの面であなたの疑問にもつながるところです。聖徒たちは福音をするように奨励されていますが、誰が救われるかは分かりません。でも予見により選ばれているのだとすれば、私たちの行動もまた制限されているということになります。つまり、救われないという人にはどれだけ福音しても救われないのだということになってしまうが、それは正しいのかという最もな疑問。

 これがかつて大きな論争となりました。ガイオン婦人という有名なクリスチャンがこれに一つの決着をつける発言を残しました。

 ある人が救いの門を渡るかどうかは自由、でもそこを通って、ふと後ろに振り返ると「あなたは選ばれていた」という文字がそこにある。
 つまり、私たちは主観的にそのことを知るすべはないのですが、実際に神に選ばれていたことを後で知るわけです。

 ただ重要なのは神が救わないというより、敵が狡猾に邪魔をしているといったほうがよいでしょう。神が全知全能であるように、敵もまた相当な
能力の持ち主です。そうでなければ、堕天使を引き連れ、ここまで世界を支配するほどの力を行使しえないでしょう。

 でも私個人は敵の手段は神の手のなかでうまく使われていると考えます。たとえば文明社会は欲望のかたまりといても過言ではありません。しかしテレビにネット、移動手段の発達など、文明社会の成功により、神の福音もまた全世界に波及することを容易にするというおもしろいことになっています。全世界からクリスチャンが集うことも決して難しいことではなくなりました。

 今はアフリカの奥地にまで伝道者は行き渡っており、ほとんどキリストという存在を知らずに終わるという人はいないといってもいいかもしれません。
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この回答へのお礼

なるほど・・・。それにしても聖書はつっこみどころ満載ですね。

福音の本質ってそもそも何でしたっけ?すいません。

イエス・キリストの十字架刑によって流された血、つまり死刑によって人類全体の過去、現在の罪に対して落とし前をつけた。そして復活したことによって死を超越し、あの世(天国)があることと同時に神の存在を証明した。これを信じ、自分に罪(原罪以外もいろいろ)があることを認め、悔い改めて生きていくことで救われる。

以上でよかったんでしょうか?
これって相当複雑ではないですか。
キリストの存在は教科書で知っているが救いの本質を知っている人は何人いるのか相当疑問です。

しかし考えようによっては、インターネットの普及はこれらの救いを全ての人に正確に伝えるためにあるのかもしれないですね。

イエス・キリストの隣人愛や許しなどそっちのけで、ねずみ講みたいに信者を煽り、駆り立ててお金を集めつつグッドニュースを伝える教会が基盤になっている国が他国を情報戦で圧倒し、戦争を繰り返す世の中と思うのは私だけでしょうか。

「闇が濃くなるのは、夜が明ける直前であればこそというからな。」ヤン・ウェンリー
という感じでしょうか。

お礼日時:2008/01/25 17:58

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