![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?8acaa2e)
出エジプト記に拠るところの、モーセの享けたこの啓示は「神の固有名詞所有の否定」、「偶像崇拝の禁止」、「唯一絶対神の確立」といった一神教の基本原理の他にも深遠な意味があるような気がします(一神教の解釈が間違っている可能性もあります)。
一神教のみならず、多神教の僧侶、ニューエイジ思考を持つ人々までありとあらゆる人が好んで引用します。これらには牽強附会的な解釈も見受けられますが、全く理がないとも言い切れません。
「有りて在る」はイスラエル固有の風土にこそ活きるのでしょうか?また汎神論には応用できるのでしょうか?それともモーセの取り違えでしょうか?
私にはこの言葉が神とこの世界を読み解く鍵に思えてなりません。さまざまな角度からの考察が必要とされます。できれば理解の助けとなる文献を示していただけたら幸いです。皆さんのお考えをお聞かせ願います。
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
No.6です。
出エジプト記3:14は 七十人訳では こうなっています。
○ 'Εγω ε'ιμι ‘ο 'ων.
( Ego eimi ho on. )
= I am the Being.
☆ ちなみに 次のようなていねいな翻訳を見つけました。全部が この上の一文の訳のようです。
○ I AM WHO I AM and WHAT I AM, and I WILL BE WHAT I WILL BE.
( Amplified Bible= http://bibleresources.bible.com/passagesearchres …(出ない場合には [ update ]をクリックしてみたください)。
これだけです。ほかには もし
○ 遍在
☆ の問題としてでしたら 同じ出エジプト記の次の箇所は 有益であるように思いますが いかがでしょう? 同じく 神がモーセに語っていますから。
見よ 私の傍らに一つの場所がある。
私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つ
であろう。
私はあなたを岩の頂上に置こう。
私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。
私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
私の顔はあなたに現われないであろう。
(出エジプト記33:20-23)
☆ 《背面を見る》というところが 《遍在》とかかわっていないでしょうか?
この回答への補足
訂正します。(『ユダヤ教の人間観‐旧約聖書を読む‐』 エーリッヒ・フロム 河出書房新社)でした。1980年初版オリジナルは2万円以上しますが、1996年には新装改訂版が「河出・現代の名著」のうちの一巻として出ています。現在新刊を入手できるかはわかりませんが、先に述べた図書館にはあるはずです。間違えたうえに勝手に補足質問欄を使ってお願いするのはおこがましいですが、何かよもやま話がありましたらお聞かせ願いますか?
補足日時:2009/03/27 17:28うーん、深い。それにつけても鋭い洞察ですね。ケータイから送っているので今は参照を見られないのですが、引用文を拝読してご考察が核心に迫っていることを確信しました(笑)話は変わりますが以前、(『ユダヤ教の世界観』 エーリッヒ・フロム 絶版)を読みました。正直に申しますと私の手には負えませんでした。しかしあなたなら理解できるような気がします。都道府県の図書館や政令指定都市の中央館の閉架には置いてあると思います(古書の相場は一万円程度でしょう)。すでにお読みかもしれませんが、このご回答のお礼に代えさせていただきます。
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No.18
- 回答日時:
>責任論はこの質問とは無関係なので今後は触れないこととします。
関係なくないでしょ?
貴方が「有りて在る」という因果律を用いて
すべての事象を自己責任に帰着させ解釈しようとようとしているのだから。
現状の一般社会ではたとえば鉄骨が上から落ちてくるというのは、人が安心して生活できるようにその社会に適用されている法に従って建築施工主側に責任があり、その下の歩道を歩いていた人間の責任は問われないでしょう。
不注意による過失もしくは故意を含むかもしれない事象に神というブラックボックスを通した因果律に帰着させてしまうのは世の中を住みよいものにしたいという人の願いと営みから外れると言っているのです。
あなたが因果律を曲解をして悪意に展開しようとしていることを指摘しております。
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No.17
- 回答日時:
言葉については知りません。
しかし聖書に書いてある、神と人間の事を書いてみます。人は最初は、神の世界にいました。しかし蛇に騙されて、知恵の実を食べて、脳の世界に入ってしまいました。天国から地上に落ちてしまいました。つまり、神と脳が合体して、合いの子の神人になりました。アトランチス文明頃までいたみたいです。神人がピラミッドを作りました。その後、人だけになり脳が強くなりました。神との絆が薄くなり、神の事が分からなくなりました。しかし予言では、2012年に、この世界が終わり、人は脳を分離して、神の世界に戻るそうです。『有りて在る』とは「癒し」を標榜する方が神の本質として好んで引用するにつけ、これに触発されて強く意識するに至った次第です。必ずしも一神教にしか適用できない概念ではないとの思いもあります。確かに我々は脳を使いすぎですね。ご回答ありがとうございました。
No.16
- 回答日時:
pokoperopo様
どのようなご返信を書いていいか正直迷うところですが、
今回のpokoperopo様のご返信や質問を読んでみて、ストレートに書いてみようと思います。
「ありてある」の正しい意味は私が先に回答したもの以外にはあり得ません。
この言葉の本質は「私はある」にあるのです。神だけが何事にもよらず「ある」のです。神の本質をこれほどまでにストレートにあらわした言葉を知りません。神は「ある」のです。
古代イスラエルでは名前はその人の運命や本質を表すもので、神が名づけるものとされていました。たとえば、イエスは、シモンの名前を勝手に変えています。「ペテロ」です。これは「岩」をあらわすもので「長くキリスト教会の礎となるもの」という彼の本質を名前としてあらわしたのです。
そこで神を考えるとき、その神は自分の存在を最もよくあらわす最高の名前をモーセに授けたのです「私はある」です。
英語のBe動詞の用例でもわかるように、この場合、「ある」は不変の真理を表します。つまり、時を越えて、場所を越えて、神は「ある」のです。
pokoperopo様は、クリスチャンというわけでもなさそうだし、汎神論や、ニューエイジの宗教にも多少のご興味がありそうですが、一神教に多少胡散臭いものを感じているようですね。
だが、もし本当に新約旧約の聖書の言葉を理解したいと思うなら、だまされたと思って、一度キリスト教福音主義者の著作を読んでみる必要があります。これは、宣教性のある著作ではなく、聖書の信ぴょう性に関してさまざまなものから検証したものがいいと思います。
私が勧めるのは「ナザレのイエスは神の子か?」(いのちのことば社)
です。これは、自分の家内がある日突然クリスチャンになったのを機に、キリスト教の偽善を暴こうとして証拠探しを始めた元法廷ジャーナリストの記録です。
この証拠探しの旅はどのような結論になるのでしょうか?
私はクリスチャンなので、このような場所で人に薦めるのは少し気が引けるのですが、もし、本当に題名の言葉の意味を知りたいのなら、ネットで見つかる様な情報に振り回されては絶対にいけないのです。
おきにいらなければ読み流していただければ幸いです。
真実に出合われんことを!
正直に告白せねばなりません。私は受洗しましたが、しかし幽霊クリスチャンです。私が通っていた教会ではよく「いのちのことば社」の著作を用いています。機会があればじっくり読んでみます。ひとつだけ申し上げます。あなたの神も私の神も同じ神なのです。ある者はそれを「アラー」と呼び、「エホバ」「ヤハウェ」はたまた「天照大神」。何であろうが神は神なのです。だからあなたのお読みになる現代語訳聖書には文語訳とは違う「主」を用いているのです。教典にあるから信じるのではありません。他の教典に書かれた神もまた神なのです。しかしそれは同じ神なのです。同じ人間が神に対して違う捉え方をしているにすぎません。神を感じるから信じるのです。もちろん私の不信仰の謗りは免れません。ご回答ありがとうございました。あなたに主の祝福がありますように。
No.15
- 回答日時:
「あってある者」
これは、
「あらゆる原因によらず自存するもの」
という意味です。
すべての存在には、それを生んだ原因というものがあります。
ここで神は、私がすべての者の原因であり、私が存在し始めたのには
理由は存在しない、自分自身がその理由なのだと言っています。
そして、これが神の聖なる名前なので、この言葉はユダヤ人が発音するのは禁じられました。年に一回だけ、ユダヤのその年の大祭司のみが発音することを許されたのです。それが子音文字で「YHWH」、発音は「ヤハウェ」ではないかと思われています。
しかし、この許されていない発音を、自分の名前として何度も発音した人物がいます。それがイエスです。
たとえば新約聖書で、「アブラハムが生まれる前から私はいたのです」とイエスが言う箇所があります。この箇所は原文でギリシア語ですが、対応するアラム語を探すと「私はある=YHWH」と言っているのです。(ギリシア語で使われている時制からそう判断することができます。)
そして、それを聞いたユダヤ人は怒りのあまりイエスを殺そうとするのです。このような極端な反応が返ってくるとは、いったいこの言葉はどんな意味を持っているのでしょうか?容易に想像ができると思います。
また、イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近寄る場面でも「わたしだ。おそれるな」と言いますが、ここでも原文に即すると「私はある」になります。
「私はあってあるもの」の意味については、確たる証拠があるというわけではありません。
が、このように、新約聖書に書かれているテキストを見ると、そして、ユダヤ人の神に対する認識を考えてみると、限りなく冒頭の解釈が重みを持ってくるのです。
この回答への補足
大変わかりやすく説明していただきました。どんな内容でもかまいませんから、もう一度何かお話していただけませんか?よろしくお願いします。
補足日時:2009/03/28 14:31ユダヤ人の神の捉え方ではイエスが死罪に定められるのも無理はありません。故にキリスト教は隆盛を極めたのでしょう。イエスは神と自己との関係を完全に理解していたのだと思います。ありがとうございました。
No.14
- 回答日時:
度々失礼します。
<少数派とはいえイスラエルにもキリスト教徒はいますね。>
すいません、もしかしたら大変誤解をさせてしまったようです。
イスラエル国営放送の『聖書』朗読は、キリスト教徒は関係ないと思います。
『聖書』という言葉が誤解させてしまったのだと思います、、、失礼しました。
<仄聞しただけなのですが「オウムは呼応する言葉で阿吽やアーメンも然り、音が似ていることからして共通性と普遍性を持つ」論者のやや強引な解釈かもしれません。>
はい、強引な解釈ですね。
先ず、オンは、本当の意味が分かっていません。
~~~~~~~~~
インドで、祈祷、賛歌、呪文などの最初に用いられる最初の音。omはaumの3字に分解されさまざまな神秘的解釈がなされる。 密教では多くの真言の最初に用いる。
~~~~~(広辞苑より)~~~~~~~~~~~
アーメンは、
~~~~~~~~~~
(宗)ヘブライ語で「まことに」「たしかに」、後に「かくあれ」の意。
~~~~~広辞苑より~~~~~
そわかは、
~~~~~~~~~~
[仏](梵語svaha 円満、成就などをと訳す)真言陀羅尼の終わりにつける語。 功徳あれ、成就あれなどの意。
~~~~~~広辞苑より~~~~~~~~~
と言うわけで真言(マントラ)でアメーンに一番近いのは「そわか」ですね。
<名を知らなくとも、念ずれば通じるのでしょうか。>
ご存知のだと思いますが、例えばイエスは英語でジーザスです。キリストは、クライストです。 言葉というのは訛っていきますが、もしもこんな事を神様が気にしていたら、、、、
出エジプト記を含め、モーセ5書(トーラー)の編纂が終わったのはバビロン捕囚中・後です。
モーセが書いた原文が保存されているわけではありません。
モーセ5書のおもな資料としては、神の名が「ヤハウェ(YHWH)」として登場する南ユダ王国に伝わる資料、と「エロヒム」として登場する北イスラエル王国の資料に区別されるそうです。
神の名を知らないといけないとすると、、、かなり困難な作業になりそうですね。
しかし、神様が全知全能で、ユダヤ・キリスト教自体知らない人も含めた全ての人類に対して考えているとすると、、、?
そして、手に入るかどうかすら分からない、神の名がどうしても必要だとすると、
神様は「交信拒否」をしている事になります。
尚、現在のヘブライ語旧約聖書では、ベレシード(創世記)の2章4節で初めてYHWHが登場します。
この回答への補足
ではなぜ天皇家に苗字がないように一神教の神に呼び名をつけないでおかないのですか?唯一無二の絶対神ならば、他との区別も不要と思われます。偶像崇拝を禁止する意味においても神はただの「神」とすべきではありませんか?イスラムの神は「アラー」と呼ばれます。何だか矛盾しているような気がします。会派を主張するために便宜上与えているだけなのでしょうか?話は変わりますが、ズバリ『有りて在る』は多神教や汎神論への応用は可能なのでしょうか?もしよろしければお教え願います。
補足日時:2009/03/28 10:09アブラハムはおろか、アダムとエバの時代から神と交信はしていたと思います。詳しい解説をしていただけて理解の助けになります。ありがとうございました。
No.13
- 回答日時:
No.11です。
ユダヤ教ないし旧約聖書について 研究史を研究しているわけではありませんし イスラエルの観点がどうだ 固有の風土がこうだ というところにも 明るくありません。
★ 「唯一絶対神の確立」
☆ が すでに成ったというところから わたしとしましては 出発しているという状態です。
ただし むろん 新約聖書を読むだけでも 旧約聖書も 重要だと捉えています。
★ 『ユダヤ教の人間観‐旧約聖書を読む‐』 エーリッヒ・フロム
☆ は 図書館にあることを 確認しました。いま借りて来ている本の期限に もう少し日にちがありますが いちど 手にとって読んでみようかと思いました。
フロムは 一冊のみ読んだ記憶があります。希望の革命でしたか よく覚えていません。また モーセについて フロイトが書いたのと ヨブにかんして ユングが書いたものとを 読んだ記憶があります。
重厚でしたが 結論から言ってよければ やはり キリスト・イエスの歴史と視点が それ以上に 重要であるという立ち場に わたしとしましては おります。
もし そういう意味では 前回の
▲ 私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
☆ というときの《神の背面》とは やはり――論理の飛躍がないとは言いませんが―― 新約聖書によって 捉えるべきなのではないでしょうか?
イエスというひとは ふつうの人間であって 《顔と顔とを合わせて 見ることができる》わけですが 神の子であり 自身が神であるという想定におけるそのキリストについては このキリストが 《神の背面》であるということではないでしょうか? 見えませんから。
肉の目では見えませんし こころの目でも おそらく 代理のもの(つまりは 《背面》)をのみ 表象しうるということに限られるでしょうから。
★ 神とこの世界を読み解く鍵
☆ のそのまた《鍵》は キリスト・イエスというおおきな虚構にあるのではないでしょうか?
ちょっと ぎこちないお話になりました。ゆるされたし。
あなたが格段にユダヤに関心があるわけではないことは承知していますが、ご覧になっている皆さんにもフロムがユダヤ教について著していることを紹介したかったので挙げました。私も浅学の身でこうして考えると袋小路に迷い込んでしまいますが、皆さんのご回答によって緒に就けるかもしれません。旧約聖書にはキリスト降臨の預言がいくつもあるといわれています。我々は神の背面を見てこの生を終えるのでしょうか。一神教には多くの虚構があります。少しでも見極める眼力が備わればいいのですが。ありがとうございました。
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No.10
- 回答日時:
ユダヤ教の神に全幅の信頼を寄せ”有りて在る”に何か本来的意味があると想いそれを知りたいと思うならユダヤ教の律法を守るということが必要になるのではないでしょうか。
現状の一般社会ではたとえば鉄骨が上から落ちてくるというのは、人が安心して生活できるようにその社会に適用されている法に従って建築施工主側に責任があり、その下の歩道を歩いていた人間の責任は問われないでしょう。
不注意による過失もしくは故意を含むかもしれない事象に神というブラックボックスを通した因果律に帰着させてしまうのは世の中を住みよいものにしたいという人の願いと営みから外れる考え方であると思います。
私はユダヤの神と契約していないのでユダヤの律法を守る必要もありません。しかしユダヤの神に思いを馳せても些かの問題もないはずです。鋼材の落下事故の責任は施工側にあります。現実に被害者に過失がない以上は何ら責任を問われませんが、関係者すべてのあらゆる責任を問いだすといつまでたっても決着を見ないので不問に付すのだと思います。仮に過失のない被害者にいくばくかの結果責任を認めても、法的に免責されるのなら実質的な問題とはならないでしょう。責任論はこの質問とは無関係なので今後は触れないこととします。ありがとうございました。
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No.9
- 回答日時:
意味を深く勘ぐりすぎなんでないでしょうかね。
言葉はそのまま受け取ってみてはいかがでしょうか。
有て
はたとえば親が有て今の私が
在る
彼が彼女が有るから私が在ることができる。
今温かいご飯が食べられるのはお百姓さんが米や野菜を作ってくれたから、漁師さんが魚をとってくれたから、母さんが作ってくれたから
時空におこる因果律のことを言うのではないでしょうか。
はじめに言葉があった。
これを悪意の宗教の因果律にしてしまえば
鉄骨が落ちてきて死んだのは下を歩いていた人も悪いんだとなったり
車が歩道に突っ込んできて人が死んだのはそこを歩いていた人間も悪いんだ。
と殺人さえ肯定してしまうような解釈してしまうようなことにもなるかもしれない。そういう邪宗教があったとしてそれが支配する世界は暗黒世界だな。
もしその言葉に隠された特有の意味を期待しているのだとしたら
それを受取るべき人のところに
むこうから訪れるだろう
その時期が来れば
悪意であれば悪意とともに
善意であれば善意とともに
昔の人は言う
人を呪わば穴二つ
民はこうも言う
ああ苦しい。あんな王様に支配されるのはもうたくさんだ。
たとえこの身が滅んでもあんな王様に仕えるのはもう嫌だ。
と思われるようになったらその王国も長くはないと。
おっしゃるとおり、勘繰りすぎの感は否めません。『有りて在る』は神の実在を示す言葉、ご指摘と同じかはわかりませんが、言いかえれば『神有りて、我在る』とも思います。鉄骨が落ちて死ぬとは別の質問で私が例示したのをご存じなのでしょう。神への全幅の信頼があれば「これも神の思し召し」とあの世へ行く最中に納得するかもしれません。もちろん加害者は律法によって裁かれるでしょう。ですから神意の曲解や因果律に強く論拠さえしなければ、悪魔的な宗教は生まれないでしょう。話が逸れました。「人を呪わば穴二つ」、私も善意において神を待ち望みますが、その報いがいかにして善であるかはそれこそ「神のみぞ知る」ではないでしょうか。ありがとうございました。
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