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私はかなり前に洗礼を受けたものですが、今は全く神を信じていません。

天国へ行ったら悲しみもなく、動物と池で戯れ、主を賛美し続ける(それも永遠に)

あちらに行って帰って来られた人の話は聞いたことがないのでわかりませんが。

永遠にそんな状態なら私は無になったほうがよっぽどいい。

だいたい永遠って言葉自体(生きてる人間の妄想にすぎないのでは?)

それは天国と呼ぶより地獄と呼ぶにふさわしいと思う。

まるで、北朝鮮が地上の楽園って事で行った人のようだと思う。

神の許しがなければ何一つ実現しないというなら。

神の精神は崩壊してると私は思います。

小児がんで苦しみながら死んで行く子供たちを見殺しにして。

企業のTOPはのうのうと莫大な報酬をもらい優雅な暮らしをし

庶民は苦しみ毎年3万人以上の自殺者がでても見捨てる。

こんな神をあなたは信じますか?宗教を信じますか?
私は信じませんが、あなたの神にたいする考えをお聞かせください。

A 回答 (19件中1~10件)

神とは、自身の脳内に内在する『もうひとつの意識』の事です。

簡単に説明するなら、メンタル面が強いと云う場合でも判るかも知れません。

メンタル面が強いと云う場合、『意識する自分が出にくい場合です』その意味は『無意識状態を維持出来ている=計らいが消えて、うまくやろうとか、人に良く見せたいとかに自我意識が向かない状態』と云う事も言えています。この場合『自身の心同士が言い争いはしていません。』

この場合自意識は『どちらかと云うと』休んでいる状態です。没我=我を忘れた、と云う状態に近いはずです。オリンピックの優勝に近い演技が出来ている状態や、優勝が掛かった一打を打つ場合等のように、『自我意識が出ないように出来た人が』優勝に近くなるはずです。

練習の成果である『没我=無意識に近い状態』を如何に保つ事が出来るのかが、メンタル面の強化の課題です。自我意識に如何に引っ込んでいてもらうのかという事になります。

或は困難に負けそうな時等の例でも良いかも知れません。自身の心は『二つの考えがぶつかり合っています。』肯定している声と否定している声です。この場合肯定している声を『神』、否定している声を『悪魔』と云う風にすると判りやすいと思います。

人間は脳と身体が成長する段階で『心は二つに分かれてゆきます』片方は顕在意識として『意識する自分』を形成します。もう片方は『無意識の意識として』潜在意識や無意識として働きが隠れてしまいます。この場合に二つの考えが『矛盾したり対立したる、分裂をしたりします。』

この脳の機能が二つに分かれる様を聖書などでは『知恵が付いて、天国から追放された。』と表現しています。二つに分かれた『脳の機能』のお陰で悩ましくなってきた状態をキリスト教では『失楽園』或は『原罪』と表現しています。自我意識が『分らない者』から圧迫を受けると云う意味になります。

仏教でも『生きる事から来る』心に感じる圧迫を『業』と呼んでいます。原罪と業は同じ『心に感じる圧迫の事です』この事から宗教文化の発展が促されてきたわけです。その原因が『脳の機能分化』という事になります。

簡単に説明するなら、自我意識は『左脳に存在する意識』です。計算したり感じたりして言葉で表現できる機能を持った脳の事です。

それに対して『右脳の意識』は無意識界と潜在意識界を統率しています。その機能は『脳梁』を介して生きるための情報を送り続けるところに有ります。意識していなことの情報や、意識出来ていないところの情報です。

例えば高い所に居ると云う情報では、どの位の高さなのかという事を『言葉ではない情報で』知らせています。スピードが出た場合等も同じです。人に会った場合でも、広い所に出た場合や、狭いところには言った場合でも同じです。

心を病むと云う場合や、神経症になった場合は今言った情報を怖がっている事になります。或はこの情報をもたらせている『自身の無意識の意識=右脳の意識』自体を怖がっている事に当たります。つまり『心の矛盾』を恐れている事になります。自分が怖いと云う事になります。

人間の背後にいながら、その姿が見えない事を、人間は恐れています。その解消を宗教が担って来た事になります。つまり心の矛盾の解消が『宗教の目的』であったことになります。

今は、洋の東西を問わず、世界的に、宗教離れが進んで来て、『心に圧迫を受けた』人達は『原罪や業』と言わないで、心療内科や精神科医の元を訪れています。

メンタル面が弱いと云う場合自我意識が出すぎてしまって、引っ込めなくなってしまう状態です。その場合『無意識的に出来た事が』出来なくなる事を意味しています。眠れなくなる事を訴える場合『眠りの基本が判らなくなった事を意味しています』

普通眠りに入る場合には『自我意識は眠る事はありません。』意識がなくなって『自我意識は無意識の自分と入れ替わって』無意識の自分が深い眠りに入っています。

心を病むと云う場合、無意識の自分と『仲違いしている事を意味しています。』意識地獄になったり、強迫観念や脅迫行為で『心が言い争いをしています』

『無意識の自分に任せている間中は心は休んでいます。』心の矛盾の解消が宗教の目的ですが、心を病む事の解消も『心の矛盾の解消』という事になります。

肯定する心と否定する心が和解する事になります。この事を神と和解するといいます。脅迫観念のストップという事になります。恐怖症の完治という事になります。

自身の心を圧迫していた者の正体がわかると云う意味になります。それ以後心が静まり返って、『幼子のように』心に静寂が戻ってきます。

信じようが、信じまいが、人間の心の中には二つの意識が存在しています。機能が違う脳の働きです。命そのものを働かせています。心臓もです。
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私は、神を信じています。


しかし、質問の中の天国観、楽園観、神の姿は、嘘っぽいです。
おそらく、それは、キリスト本人が言った神ですらなく、キリストの後の人々が、解釈したものではないですか。だから、公会議で異端か正統かを区別する必要があったんじゃないですか。それに、キリストは元々、生命は輪廻する、とおっしゃられたという文献もあります、事実かは判りませんが。
だから、天国とされている場所はキリストの後の人々の理想としたものだったのではないでしょうか。

私は、神はいると考えます。

私の考える神は、人よりも高次元の存在というだけです。
人を創造した存在はいるということです。

地球の生命の始まりは海で、海で生命が作られる確率は天文学的数値と言われています。
さらに太陽と地球が絶妙な位置に来る確率、地球に月がある確率、そもそも、ビッグバンの時に原子が出来る確率、全てが有り得ない偶然だそうです。
何かの意思が働いたと考えます。

人を創造した理由は判らないですが、神がもし人が幸せになるように、ありとあらゆる手を出して来るなら、人には人格も要らないし、寿命も要らない。ただ、幸せを感じるように創るはずです。
実際そうではないのは、やはり、人が自力でどうしていくかが重要ということでしょう。
だから、人間社会にあれこれ手は出しません。それにおそらく、今のキリスト教のように、神に祈られることも望んでいないでしょう。
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zakky74でございます。



明けましておめでとうございます。
china1さんにとって良い一年となる事を願っております。

>詳しくご説明いただき深く感銘いたしました。
>私自身、信仰の創造?と自分の手によってそれを破壊し続けてる経緯があり、キリストより仏教そして、それをうまく繕うかのように量子力学という代替品をと次々に探究という名のもとに彷徨い続けていた事全てはHITOTSUに内包されてる事を知る事が出来非常に感謝しております。
>本当にありがとうございました。感謝致します。

なるほどですね。

キリスト教も仏教も、そして量子力学も、明確な理解の元にケースバイケースでご活用できる時が、そう遠くない未来に来るかと思います。その時に、china1さんの追及は全て生きてこられるかと思いますよ。

ただ、HITOTSUが漠然としたHITOTSUではなくて明確な理解に基づくものである事を付け加えさせてください。

人間と言えば考える存在ですし、意味と価値を追求する存在ですが、中々、何をどの様に考えて良いのか、人間とは何なのか、生きる事は何なのか、自分と自分の宇宙はどうやって生滅するのか、について明々白々には理解できません。意外に人間とは、無明無知の問題を解決していないんですね。その理由とはどこにあるのでしょうか?

ここにチャレンジする中で非常に多くの人間の試みがありました。

その中で、解く作業は随分と発達している様に思いますが、結ぶ作業はゼロと言っても良い程、進んでおりません。般若心境の、色即是空、空即是色の表現を借りれば、色から空(色即是空)に関しては現代に至るまで色々と進んできております。ですが、完璧に空にまで解ける事が中々ありません(無かった、と言っても良いくらいです)。

一体なぜなのでしょうか?

それは、結ぶ作業である空から色(空即是色)に関して無知な状態だからです。科学、とりわけ物理学(数学)は頑張っておりますね。ですが、物理学の領域からは最終理論にまで到達できておりませんから、宇宙がどうやって出来て、銀河がどうやって出来て、太陽・地球・植物・動物・人間がどうやって出来ているのかを明々白々に語ってはくれません。

語りたくても語れないんですね。空から色が。
これが、無明無知となっている理由でございます。

因みに、僕も量子力学は大学・大学院の時に関心を持ちました。唯物論だった僕、荒み期だった僕、彼女が出来なかった僕、色んな古い僕が解(ほど)けていく一つのキッカケとなったのは量子力学でございました。

ですが、量子力学では宇宙の仕組み・メカニズムの解明には至りませんでしょう?

量子力学では未だ解け足りないんですね。僕はその追及を果たす中で、相対性理論・ひも理論・M理論などとも出会いました。とにかく宇宙の仕組み・構造を知りたくて、ブラックホールの事や宇宙の端っこの事や宇宙の端の向こうの事や、ダークエネルギー・ダークマター・ビッグバン、他にも地球誕生のメカニズムや人間の事、心の事、文化文明歴史の事、色んな事を知りたくて出会いを重ねました。

出会いはある日、突然でした^^

全ての相対世界はキレイサッパリ、絶対世界もキレイサッパリ、相対も絶対も無いHITOTSUから、絶対世界と相対世界の全ての仕組みを明々白々に理解出来る世界と出会いました。

物理学に言う最終理論は既に完成しております。
般若心境に言う色即是空、空即是色は、とことんまで理解できます。

全ての情報・知識の、疎通・交流ができる時はもうすぐそこにまで来ておりますよ。

それを論理とイメージによって明々白々に案内するのがHITOTSUの世界でございまして、単に「空!」「神!」「一つ!」「エネルギー!」と名前を貼り付けたものや、「全ては一つから出来ている」「この世の中は夢である」などの抽象的表現、抽象的理解では決してない事を、強くしたためておきたいと思いました。

宇宙自然の生滅メカニズム、全ての存在の誕生メカニズムを共有でき、新しい日本、新しい文明、新しい世界観を共に創り上げる日を楽しみにしております。

本年もどうぞ宜しくお願い致します。
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No.7です。

補足質問、恐縮に存じます。

世の中には、大金持ちで大邸宅に住み、自家用ジェット機だの高級外車だのと、一般庶民には無縁の贅沢ができる境涯の人がいます。ところが、物にあふれているはずなのに、家庭が不和であるとか、病弱であるとかで、それに幸福を感じることができずに不幸を感じていることがある。一方、経済的には恵まれていなくても、家庭円満で幸福を感じ、日々を楽しく過ごしている人がいるのもまた事実です。

社会的地位や経済的な充足があっても、必ずしも幸福ではない。幸福とは心が感じるものだからです。ここに、単に社会的・経済的充足という「相対的幸福」の限界があります。

真に幸福になるというのは、物質ではなく、心を充足させることです。すなわち「どこにいても、どういう状況にあっても、生きていることそれ自体に喜びを感じる」という境涯を自分の中に築くことです。やせ我慢などではなく、本当に心の底からそのように感じられる。このような幸福を「絶対的幸福」といいます。「南無妙法蓮華経と唱えれば幸福な境涯になるのです」というのは、このことを指しているのです。つまりは、心の変革ということです。

もちろん、相対的幸福もないよりはあったほうがいいでしょうし、実際、信心の功徳で裕福になるなどの実証も出るのが、「南無妙法蓮華経」の力です。しかし、それはあくまでも“副産物”の功徳なのであり、真の功徳はこの心の変革=「絶対的幸福」なのです。

お解りいただければ、幸いに存じます。
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zakky74でございます。



>再度の回答大変ありがとうございます。zakky74様の回答により自分がいかに固定観念にとらわれていたかという事がわかり感謝しております。全ての現象、非現象にかかわらずHITOTSUに帰着?するとの理解でよろしいでしょうか。

大方は仰る通りで宜しいかと思います。

加えますならば、全ての複雑がシンプルになる事と、シンプルから全ての複雑となる事がHITOTSUでございます。HITOTSUに帰着しますし、HITOTSUから始まりますね。というよりもHITOTSUしか無い!と言い切りたいくらいです。

ですが、HITOTSUしかないとは思えないくらい複雑でございましょ?

ですから、HITOTSUだけでは物足りなくて、HITOTSUによって複雑とシンプルをどうやって行ったり来たりしているのか?のメカニズム・仕組みについて理解する段階が必要かと思います。

少し補足させてくださいませ。

人間は、考える存在ですね。動物と違って人間は考えますし、生きる意味と価値を追求する様になっています。そんな中で、人間が不安・恐怖に思う事があれば、やはり考えますし疑問を感じる様になります。

自分と自分の宇宙自然を一体どの様に理解すれば良いのか?

人間から観ます時に、自分の事も宇宙自然の事も分からない事はそれはもう沢山あります。

人間が誕生して間もない頃、人間は動物との闘いや自然との闘いがございました。この動物や自然との闘いの中で、人間はとても非力ですよね?人間は、他のどんな存在よりも非力に見えます。

生まれた瞬間から、人間は一人では食べる事も出来ず、歩く事も出来ず、一人で生きていく事は出来ません。人間と違い、他の動物も植物も自然も、たくましく生きていく事に対して人間は余りにも非力です。

ですから、動物や自然を大きく揺り動かしている自分よりも大きな何かについて、「スゴイなぁ」「敵わないなぁ」と思う様になります。人間は、意味・価値を見出す存在ですから、不安・恐怖をそのままにしておかず理解したいと思う様になりますね。

「スゴイなぁ」
「敵わないなぁ」

そんな非力な自分たちよりも圧倒的な何か、偉大な何か、をどう理解すればよいのでしょうか?

人間は、考える存在です。

疑問も沢山あります。そうした疑問に答を見付けていく事で人間は進化してきました。そんな中で、開発されたのが神でございます。圧倒的な何か、偉大な何か、一つひとつの部分的な何かに対する答ではなく、初めて一気にドーンと答を返してくれたのが神でございます。

人間が生きる意味と価値を見出す中で、自分と宇宙自然をどう理解すればよいのか、の答を全体論的な観点から始めて見出す事に成功しました。自分と宇宙自然を理解する為に人間が開発したのが、神でございます。

ですが、これは大ヒットしました。

相当数の事が、神によって整理されていきます。ですが、ずっとその状態が続きますと、また生きる意味と価値の追求において分からない事が出てきます。星を毎日観察していると、どうも神が創った地球と宇宙では、説明のつかない回り方をしている星があります。

他にも、神から来るものが供給過剰になって、人々は内心では嫌気がさしてきます。なぜ、嫌気がさすかと申しますと神では説明のつかない事がたくさん起こってきたからです。だけど信じなさい・・・と来る。生きる意味と価値を追求する上では、とても理解できない事がたくさん起こりました。

そこで登場したのが、天動説から地動説への推移でございます。天が地球の周りを回るのではなく、地球が回っているというものでした。これによって、神の創った宇宙(人間が創った物語)が破壊されていきます。

神によって、自分と宇宙自然を理解していたのですが、神という説明道具が破壊された事によって何がどの様に変化していったのでしょうか?ちょうどその頃、新しい理解方式が登場しだします。

ニュートン・デカルトの直交座標系(x軸・y軸・z軸)です。

自分と宇宙自然を、この直交座標を使って全てを説明する。これが大ヒットしました。今まで、神の供給過剰で飽き飽きしていたところに、神以外の道具を用いて自分と宇宙自然を理解できると言う。天と地の動きを観察しながら、その仕組みを明らかにしていったのが物理・数学でしたら、その動きから人間生活の観察に取り入れる事によって仕組みを明らかにしていったのがアダムスミスであり、後の経済学に発展していきます。

神という説明方式から、科学・数学・実験という説明方式へと移り変わります。

字数制限がそろそろ来ました。

今、科学・数学・実験も供給過剰となり、説明出来ない多くの事がございます。

そして次に発見されたのが、HITOTSUです。
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この回答へのお礼

再度の回答本当にありがとうございました。

詳しくご説明いただき深く感銘いたしました。
私自身、信仰の創造?と自分の手によってそれを破壊し続けてる経緯が
あり、キリストより仏教そして、それをうまく繕うかのように量子力学という
代替品をと次々に探究という名のもとに彷徨い続けていた事全てはHITOTSUに内包されてる
事を知る事が出来非常に感謝しております。

本当にありがとうございました。感謝致します。

お礼日時:2011/01/01 20:23

zakky74でございます。



>>全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ますし確信しております。

>明確にイメージ出来るとの事ですが、それであれば全ては有限な人間が無限で未知な事、神の聖域までも明確に把握できると解釈してよろしいのでしょうか?

有限も無限もHITOTSUから出来ていると解釈下さいませ。

そして、人間も神もHITOTSUから出来ています。

もう一度、お伝え致しますと、全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ているという事でございます。

如何でございましょうか?
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この回答へのお礼

再度の回答大変ありがとうございます。
zakky74様の回答により自分がいかに固定観念にとらわれて
いたかという事がわかり感謝しております。
全ての現象、非現象にかかわらずHITOTSUに帰着?するとの理解でよろしいでしょうか。

再度の回答本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/12/31 09:38

僕の言っていることは高度でもなんでもありません。



質問者さんの頭の中にある神のイメージが、あまりにもキリスト教の神のイメージそのままであるということを指摘しただけです。

神とは本来キリスト教にしかない概念ではありません。
様々な神のイメージ、概念があります。
人間に関心のある神、関心のない神。
世界は創造したが、全知全能ではない神。
世界そのものが神であるという説。

いろいろな神のかたちが考えられるのに、人間は自分達にとって都合のいい存在を思い浮かべる。


神が超越的存在であるなら、人間の世界の価値観なども超越していて、人が不幸になろうが世界が何人自殺しようがどうでもいいのです。
仮に神が存在しようが、それが人間にとって都合のいい存在であるという保証はどこにもないということを言いたかったんです。
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この回答へのお礼

再度の回答本当にありがとうございました。
JoyWorld様のおっしゃる事が明確にわかりました。
感謝いたします。とともに、私自身が聖書さえまともに
読んで無かった事を指摘していただいたように思います。
聖書にも、神々と言う記述、豊穣の神(聖書では異端の神としていますが)
など記述があった事を再確認させられました。

本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/12/30 09:23

神とはどこにでもいる、人間のことです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
神は遍在しており、人間には神が内在しているとの解釈でよろしいでしょうか。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/12/29 09:40

僕は、全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ますし確信しております。



神も天国も地獄もございません。HITOTSUから出来ていて、神にもなったり天国にもなったり地獄にもなったりする神秘な動きだけがあると思っております。

全てはHITOTSU。
HITOSTUは全て。
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この回答へのお礼

zakky74様回答ありがとうございます。
>全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ますし確信しております。

明確にイメージ出来るとの事ですが、それであれば全ては有限な人間が
無限で未知な事、神の聖域までも明確に把握できると解釈してよろしいのでしょうか?
しかしながら、私には理解しかねますのでお教え願えれば幸いです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/12/29 09:32

このような複雑な世界を作り出した創造主が「人間の考え得るレベル」の考えで世界を動かしていると思いますか?



人間が動かす世界情勢・政治や経済の世界を見るだけでも、学校やニュースの解説で知る以上に複雑なやりとり・計画・計算が存在します。

神は人間に考える力と能力をおあたえになりました。
しかし、人間の知能は神と同レベルではありません。
人間に神のご計画の深さが100%理解できるわけありません。

神の計画を見て「何て酷いことを神はお望みなんだ」と感じたとしても、それは神のご意図を100%理解できないから仕方がないことだと思います。それは質問者様が、というのではなく人間は、と言う意味で。

幼い子が目の前のキラキラ光る魅力的なもの(=ナイフ)を見つけて手にとって遊びたいと思う。
母親は危ないから、と子供から遠ざける。
何故あんなキラキラ素敵なものを私から奪うの?いじわる!!、と子供は思うでしょう。欲しくてわんわん泣くかもしれません。
それでも「可哀想だから」と鋭いナイフをよちよち歩きもできないような幼い子供に渡す親がいますか?

予防接種でお医者さんが注射をする。
暴れるからと母親と看護婦さんが子供をあやしつつ抑える。
何でこんな痛い目に遭わなくちゃならないの?
お母さんは私を助けるどころか痛いことをする人(医者)の手伝いをしている。
こんな痛いことをする酷い人(医者)、大嫌い!!、と子供は思っているのではないでしょうか。
でも幼い子に「この痛い注射で病気にならないで済むのよ」などと言っても幼い子はどこまで理解できるでしょう?

私はキリスト教徒ではありませんが、神を信じます。
財産を失い、子供を失い酷い病気(皮膚病)に罹ったヨブはそれでも神のことを受け入れ続けましたよね。

質問者様への回答は、ヨブ記の中にあると思います。
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この回答へのお礼

masazai様わかりやすい回答ありがとうございます。
おっしゃられるようにαでありΩである創造主の考えを
全て理解出来る人間はこの世に存在しえない事は
承知しております。ヨブ記につきましては若干
masazai様と見解の相違があるかと思います。
冒頭に悪魔が神と今風に言えば密約を交わし
ヨブがあれほど信仰心があるのは、恵まれた環境に
あるからではないのか?と神に呼びかけ
神がその呼びかけに応じ、あらゆる災厄をヨブに課す訳ですが
全編を通じ神を受け入れ続けた訳ではなく途中で自分の生さえ呪い
最後には神を賛美し、以前にも増して豊かで幸せに暮らした。
(あまりにも強引に簡略化した事をお許し下さい)
私が危惧するのは、ヨブ記を読む事によって、例えば病気の方、
もしくは貧しい方が語弊を恐れずに言えば即自分にあてはめてしまい
結果が得られなければ信仰を失う可能性もありうると言う事と
幸せに対する認識が、いかにも資本主義の頂点にあり的な
最後が多くの信者に妄想を抱きさせかねないと言う事です。
この現象の最たる国は米国、韓国等ではないかと思われます。
聖書の書かれた時代の過ち?が現代にも踏襲?され
現世的に地位の高い者が教会内でも優遇されてる場合が多々あるのは
否めない事実です。極論ですが教会は聖域であり外界とは次元の違う所であると
私は認識しております。イエスも神聖な場所で商売をしていた者達を
蹴散らしたように。同じ地上でありながらも聖域は存在すると考えております。
丁寧な回答本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/12/29 09:22

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