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1. 質問者は 主観として:

 ( a ) ひとの生まれつきそなわった自然本性には 
    《死の欲動:death drive;Todestrieb 》などはない。

 ( a-1 ) 破れかぶれ(または 宗教的な強度の思い込み)があり得て
    一般に何かへの攻撃を衝動的におこなうとき 死につながってい
    ることが しばしば見られる。というのみ。

と見るものですが 現在の時点でどういうふうに捉えられているのか で
きましたら 解説をお願いしたいと思うのですが。そのねらいは:

 ( a-2 ) もしこの《死の欲動》が あたかも本能としての如くそなわ
     っているとするのなら 《人を殺してはいけない》と唱えても
     あやふやなものになってしまう。ゆえ。
 
 ( a-3 ) あるいは 戦争という大義名分のもとにおいてなら 死地に
     向かうのは 自然の振る舞いだと見なされてしまう。

 ( a-4 ) つまり 敵なら殺してもよいと見なされ そういう攻撃性の
     かたちで死の欲動の現われが避けがたく つまりは戦争が 人
     間の世界では 必然的な行動だとなる。ゆえ。



2. 資料(1)――フロイトの説――

▲(ヰキぺ:デストルドー) ~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B9% …

§ フロイトの説

(あ) 精神分析の臨床では死の欲動を確認する術は少ないとフロイト自
身言っている。

(い) 事実この概念を想定するのはマゾヒズムやサディズムの発生機序
や、陰性治癒反応、それに外傷神経症という夢の願望充足の例外を捉える
ためである。

(う) しかし この概念は超自我の破壊性を説明するものとして考えら
れており(エディプスコンプレックスを通して父親からの去勢不安や父親
自身への子供の怒りが超自我という分裂した自我に引き継がれて、死の欲
動は子供の中心的な自我から分裂して存在するという理論)、それ故にフ
ロイトにおいては重要なものとして後年まで考えられた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり: 

 ( b ) フロイトの説じたいも あやふやなのでしょうか?

 ( b-1 ) (う)の《超自我》が分かりにくいです。どうなのか?



3. 資料(2)――フロイト以後――

▲(同上) ~~~~~~~~~~~
§ 後継者の発展

(え) ポール・フェダーンは最重度のメランコリーに「死の欲動」が観
察されるとし、同様の指摘はしばしばなされる。

(お) フロイトの弟子にも受け入れた者はいたが、しかし大勢ではフロ
イトの「死の欲動」概念は批判が多く、フロイト死後になってから、死の
欲動の考えを取り入れた学者達により新たな展開がなされてゆく。

(か) 現代では「死の欲動」という概念は精神分析の臨床では用いられ
にくく、むしろ「攻撃性」それ自体が本質的なものとして考えられている。
  
  ☆ この《攻撃性》は ( a-1 )の《破れかぶれ》に似るか?

(き) それは臨床において現れるのは「死の欲動」という概念ではなく、
むしろ医師への攻撃的な反応や怒りだからである。また自傷行為や自罰行
為も見られ、このことから「攻撃的なもの」としての死の欲動の概念が深
く考えられるようになった。

(く) 対象関係論においてはリビドーと攻撃性が非常に重要である。特
にメラニー・クラインやその後継者においては不安や迫害妄想に焦点が当
てられている。精神病の患者自身を破壊する幻聴などの源泉として死の欲
動が援用される。死の欲動や分裂した悪い自我部分は投影性同一視として、
幻覚や幻聴を通して患者に帰ってくるという考え方などが言われている。

(け) それに対して自我心理学では死の欲動を広範囲の攻撃性として捉
えている。これはハインツ・ハルトマンやエルンスト・クリスによって主
張されたもので、そもそもフロイトにおいて死の欲動に相当する攻撃性が
適切に把握されていなかったので([・・・])、それを自我との関連で統
合的に捉えた結果、死の欲動はそれ自体は確認されず、むしろ自我の攻撃
性や支配性向などとして活用されるとしている。

(こ) また「死の欲動」を攻撃性と捉えると、「攻撃的な」という概念
は何にでも当てはまるので(例えば友達との競争や何かに勝ちたいという
気持ち、それに所有する欲求など)、そもそもの概念に疑問符が付された
りもした。

(さ) そして自己心理学においては、死の欲動はあくまでも自己の崩壊
産物であり、その本質は自己主張的な性質として、人間の正常な活力とし
て考えられている。

  ☆ 《自己の崩壊産物》とは 何らかのかたちで自己が崩壊した結果 
   死の欲動と見られるような振る舞いが起き得るということか?

(し) 攻撃性は本来適切な欲求や感情なのである。しかし患者〔☆ 医
師のことか〕や他人が適切に反応してくれないと、患者は自己がばらばら
になり、その欲求不満を憤怒として表す。これが典型的な攻撃性によって
現れる自己愛憤怒である。

(す) これに付随して抑うつや自傷行為やサディズム・マゾヒズムが生
じる。

(せ) このようにそもそも自己心理学では本質的な攻撃性と、二次的な
自己の破壊産物である攻撃性を分ける。そしてフロイトの想定した「死の
欲動」は心理的な活力という概念に置き換えられて把握されている。
~~~~~~~~~
☆ 理解する限りで 次のようか? 

( c ) たとえば広義のエロスなる生の欲動は おそらく生物としての生
まれつきのチカラとそのハタラキだと考えられるが タナトスなる《死の
欲動》は もしそれがあるとしたら あったとしても飽くまで後天的なク
セとして形成されたものである。しかも 反抗における攻撃性の中で現わ
れ出る 派生的・第二次的な性癖であるか?



4. 資料(3)――現代への影響――

( d ) ただし 現代における次のような見方は フロイトの元に戻るよ
うに見られないか? すなわちひょっとして 生来の欲動ではないかと見
られているのか?

▲ (同上) ~~~~~~~~~~
§ 現代への影響

(そ) フロイトに先立ちフリードリヒ・ニーチェが「神の死」を言明し、
当時楽観主義は知識人の間では既に力を失っていた。

 ☆ これはただの阿呆であるので 論外でしょう。生まれたり死んだり
  するのならそれは 神ではない。

(た) フロイトの思考の変遷も悲観的な世界情勢と無縁ではなかったで
あろう。彼は第二次世界大戦の戦禍を見ずに亡くなったが、はからずもそ
の後ヒロシマ・ナガサキへの核爆弾の投下、ホロコーストなどが起こって
破壊衝動を「予言」したような形になり、水爆開発などで現在では計算上
は人類を複数回滅ぼせるほどの大量破壊兵器を所持していることが明らか
になっている。
――後世多くの精神分析家が「死の欲動」論を援用してこのような人間の
暗黒面の解明に切り込んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ おまけです。

( e ) この《死の欲動》を――もしそうだとしたら―― 人間なる存在
そのものの中に組み込む見方は まわり回って例のユングの《神の四位一
体》説と軌を一にしていると思われるのですが その点どうなのでしょう?

( e-1 ) すなわち 神の三位一体に それと同等の位格を持つ悪なる神
を加える見方です。この第四の位格の悪魔なる神が――それは 死の製造
者として・そして罪は 死の棘と見られてその罪へと誘い―― けっきょ
くタナトスなる死の欲動と類型的に同じ内容と見られ得る?

☆ よろしくどうぞ。



( f ) ヨーロッパ人は 気がくるっているのか? われわれは かれらに
お付き合いをしているのか?

質問者からの補足コメント

  • 国連を安易に信用するわけではないのですが。《イザヤの壁》です。

    「フロイトのタナトスは いまどう扱われてい」の補足画像1
    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/16 08:52

A 回答 (1件)

あちらの質問に回答して、お礼をいただいてびっくりしました。



死んでしまっても、大勢に全く影響のない一個人が、どうして、自分の命をそんなに過大評価できるのか、私には理解できませんでした。再回答しても、不毛なやり取りになると考えましたので、代わりに、こちらに回答してみます。

前提として、恐れを捨て、”死”に平常心をもって、向かい合ったことがあるほうが、良く生きられる、ということだと思います。これについては、長くなるので、今回は割愛します。

米国在住で、しかも、キリスト教徒でもあり、その点、幾重にも大切に保護されている日本に住む人々とは、考え方が違っていてもしょうがないですね。

それは承知の上で。。。キリスト教徒であるから、命は神に与えられ、自分にはこの世で与えられた使命があり、その使命が、人を助けるために命を投げ出すものならば、それに従うのだ、という信念があります。この考え方の根本には、やはり、米国に住んでいるということが、大きく影響しています。一般市民を助けるために命を投げ出す、兵隊・警官・消防士は、無条件に尊敬されるお国柄なのです。

軍隊を、汚れものとして、忌む、日本の拒否反応とは、対極のところにあります。なぜかと考えると、七十年ほど前までは、特攻隊というものもあり、そのあまりの悲惨さに、”お国のために命をささげる職業”への拒否反応が、育ってしまったのかもしれません。

おっしゃる通り、西欧と日本では、考え方の根本が違っているように、(特に哲学カテゴリーで、回答をして、お礼をいただいているうちに)感じるようになりました。いったい、世紀末に生きた、倦怠感に満ちた、キリスト教の教義に飽いた、ニーチェの叫びは、清新なものを尊び続ける日本人の心に届くものでしょうか。キリスト教の神を否定する、言い訳に使われていないでしょうか。彼にとって、神を否定することは、自己を否定することだったというのに。

タナトスについては、自動車でハイウェイを走っているとき、あるいは、湾上の橋を渡っているとき、ふっと、魔が差したように、ハンドルを大きく切ってしまいたいような魅惑的な衝動が、あります。これは、誰にでもある現象かと思っていましたが、そうではないんでしょうか。

もう一つのエピソードとして、”サン・フランシスコのゴールデンゲートブリッジから、飛び降りると、絶対に助からない”と聞いて、私は、心がスッと軽くなるように思いました。死にたいときにいつでも死ねる、と思うと、もう恐れるものがなく、現実から逃げずに、毎日を力強く生きていこう、と思えました。これも、私だけなんでしょうか。

自分は、平凡な人間だと思って、粛々と生きてきましたが。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

細かく考えてみる必要があるかとは思い こういった質問をかかげ
ました。

字数制限もあって このご回答へは断片的な・または屁理屈を駆使
したようなお応えになるかも知れません。

★ ニーチェ[・・・]にとって、神を否定することは、自己を否定
することだった
☆ この受け取り方のあることについて同意します。つまり 殊に
すでに第一次世界大戦を経験したあと 西欧人は 哲学の展開や科
学・技術の発達についての自信を失くしたと言われることにからめ
てです。

問題は 楽観主義は 悲観を含み包みますが 悲観主義は 楽観を
拒む思想です。

楽観を拒否するかたちで楽観とかかわっているように見えます。

★ タナトス〔への〕魅惑的な衝動
☆ をめぐっても そういった想像力とその展開については 大い
に好しとして おっしゃるように 生きる糧・生きる力とするのは
むしろ楽観思想のほうだと思うのですが。

★ 一般市民を助けるために命を投げ出す、兵隊・警官・消防士は、
無条件に尊敬されるお国柄なのです。
☆ 日本でも 医師や教師などは 親と同じように24時間体制で
相手の人格や健康と向かい合います。聖職と呼ばれる所以です。そ
して――建て前としてでも―― 無条件に尊敬されています。

警官の場合に顕著なことは 犯人を殺さないことを日本では基本原
則としていることだと思います。

戦争については ヒロシマ・ナガサキのあと 《剣を鋤に 槍を鎌
に》(イザヤ書 2:4~ )という考え方に即して 未来社会を思い 
日本人は――バカみたいに――世界を先取りしてしまっています。
そういう違いではないかと。

先の世界大戦で 日系人でつくる米兵たちは 最強の部隊のひとつ
だったと言われています。最後の突破口は 《 Go for broke.》と
いう合い言葉だったと聞きます。

つまり ほかの国からの移民の血筋から成るアメリカ兵の中で日系
兵がきわだっていたとすれば それは この《いのちを持って民主
制を守る》という心だったのではないでしょうか。

(英雄と讃えられたとしても 日系人だから最前線へ送られたに過
ぎないとも言われますが)。

日本人も捨てたものではないと思うのですが。タナトス体験は 地
震・ツナミ・台風において積んでいるのかも。

お礼日時:2017/04/11 07:57

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