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カナダに留学中の高校一年生です。
学校でカナダの道と日本の道について違いを見つけ、それのプレゼンテーションを行うというプロジェクトをしているのですが、カナダは基盤状の都市が多く、もともと農地だったところを開拓し新しく都市を作ったから基盤状となり、そのブロックを区別するために道(〇〇street)の名前をつけた。もう一方で日本では基盤状の街は多くない、なぜなら戦国時代に各国の大名が相手を敵を侵入させないためにわざと入り組んだ道を作ったからである。また戦国時代に作られた道は改正されることなくそのまま起用されているため日本では道に名前がなくブロックに番号が振り分けられている。という推測を立てたのですが、どう思いますか?

A 回答 (1件)

間違いではないですが、合ってもいないです。



元々碁盤目状の都市計画は方格設計と呼ばれ、紀元前26世紀のモヘンジョダロのあたりにはすでにみられるようになっていました。

方格設計が考え出された背景には「土地区分と所有」の問題があって、特に所有者などを記録しておく紙が無い時代には、碁盤目そのもので管理していたのです。

これらの方式は、ヨーロッパの基礎となる古代ローマにも引き継がれ、ローマが進駐して作ったパリやロンドンなどでも方格設計が行われたのです。
これによりヨーロッパの都市計画には方格設計が基本となり、現在の都市でも非常に多く見られる形式になっているのです。

また、ヨーロッパは城壁都市の伝統もあり、都市の公共概念は古代ローマ時代から発展していました。特に王政時代は「土地は王や貴族のもの」だったので、都市を作るために農民を移動させることは容易であり、また都市そのものの規模や美しさなどが「王国の国力の証明」として競われた時代もありました。これにより、碁盤目の都市や外観を規制する法概念などが発達していったのです。

日本の場合は7世紀の「墾田永年私財法」により「土地所有は個人のもの」になりました。この法律の影響は非常に大きく、のちに武士という「自分の土地に基盤を置く実力者」を輩出し、彼らが政府を担う「幕府」の時代がやってくるのですが、同時に日本では「都市計画」そのものが全く発達しませんでした。

戦国時代になると、有力な城を持ついわゆる城下町は、御堀や道路などを細くしたり、くねらせたりして、街自体を防御に使うようになりましたが、これはむしろ「実力のある少数の大名など」しかできず、多くの都市では「町衆が勝手に増殖していく」方法で発展したのです。

江戸時代の初期の江戸城の作りも、今の霞が関や大手町などの武家屋敷付近はそれなりに御堀や迷路のような道路で構成されていましたが、下町とされる町人街は御堀以外はほとんど町人たちが自主的に街づくりを行ったのです。もちろん幕府も職人を移動させて職人街などを作っていますが、道の太さなどはほとんど規制していなかったのです。

そのため、町人たちは湿地などの「家の建てにくい場所」を避けながら無計画に増殖していき、現在のような都市計画とは程遠い景観になっていきました。

また、住所も「すべてが王や貴族の所有」であるなら道路名をつけて、そこに番号を振れば住居を示すことができましたが、日本の場合最も大事なのは「自分の土地が自分のものである登記」であったため、土地の面積を示す地名や町番地になっていったのです。

ですので、日本とカナダを含めた欧米の都市計画そのものが全く別の方向性を持っていることは事実なのですが、その動機や歴史などはもう少し深いところに違いがあるといえます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
解決しました!

お礼日時:2018/03/02 05:42

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