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日本のアニメは独特な魅力があると思います。アニメを見ることが好きです。日本のアニメをもっと多くの友達に紹介するため、アニメの歴史や発展段階や名作などについて詳しく知りたいので、教えていただけませんか?そして、アニメは日本で持続的なブームを起こしたことに対して、どうお思いになりますか?

A 回答 (2件)

日本のアニメを語る上でどうしても外せない人がいます。


それが、漫画家「手塚治虫」氏です。彼は天才漫画家でしたが、熱心なディズニーのファンで、趣味でアニメーション制作をはじめました。
それが日本最初の連続アニメ番組「鉄腕アトム」です。
ただ、それが日本アニメの不幸でもありました。彼はアニメをとても愛していたため、それを制作するにあたって「儲けよう」「利益をあげよう」とは思わなかったのです。彼が最初に安い制作費を設定したがために、現在に至るまで、アニメーターが安い賃金で働かなければならなくなりました。それは現代にまで続いています。
彼のアニメ制作会社「虫プロ」はやがて倒産しますが、そこから優秀な人材も生まれています。「出崎統」氏です。
彼の代表作は「宝島」「エースをねらえ」「あしたのジョー2」「ベルサイユのばら」など多数あります。彼の作品は「止め絵」という、劇的なワンショットが印象的で、「すばらしい演出である」という高い評価がありますが、もともとは、制作費を削るために虫プロの推進していた「セル画枚数を抑える」という作業から生まれたことです。
その後、アニメ番組は採算があわなくてテレビ放送としては縮小していきましたが「宇宙戦艦ヤマト」のヒットで、「おたく」と呼ばれる新しいファン層を生みました。「機動戦士ガンダム」で、子どもむけではなく、大人をターゲットにすれば関連商品が売れて採算がとれるようにもなりました。それが「オリジナルビデオ」という新しいジャンルも生みました。テレビのスポンサー収入ではなく、作品そのものをビデオにして商品にするというものです。
そして、海外の、チャンネルがたくさんあって、放送する番組が不足している地域への輸出もはじまりました。「キャンディキャンディ」や「グレンダイザー」がフランスで「ボルテスV」がシンガポールでヒットしたことは有名です。
やがて、テレビゲームが普及して、ゲームシナリオからのアニメ化なども行われるようになりました。特に有名なのが「ポケットモンスター」です。
また、最近ではオリジナルストーリーのアニメよりも、漫画や小説などの「原作付き」のアニメが主流であることを忘れてはなりません。外国のアニメファンの方は、同じようにアニメの好きな「有志」がアニメを翻訳して字幕をつくり視聴している場合が多いようですが、そのアニメには優れた「原作」が存在しているのです。アニメを通じて、その原作である「漫画」や「日本語で書かれた小説」にまで興味を持ってくだされば、それに勝るよろこびはありません。
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この回答へのお礼

どうも、ありがとうございました。非常に勉強になりました。

お礼日時:2004/11/02 01:44

日本におけるアニメーション映画のはじまりはエミール・コールの短編アニメーションの上映で、これに影響を受けた興行主たちと契約し、アニメーション映画の制作を最初の試みたのは大正時代の新聞漫画家、下川凹天でした。



初期のアニメーションは切り紙を動かすというものでしたが、この手法は大藤信郎という実験的アニメーションの先駆者を生み出しました。自宅にスタジオを設置し、まったくの個人制作でしたが、戦前、戦後を通し素晴らしい作品を作り、日本でもっとも権威のあるアニメーションの映画賞に彼の名前が残されています。

大正末期から昭和初期、日本が長期の戦争に突入する前後にはセルアニメーションの普及期に入り、山本早苗、村田安司、政岡憲三が登場し、アニメーション専門のプロダクションを運営します。映画スタジオのセクションにもアニメーション部門が置かれ、円谷英二などの日本映画史上に特記される人材もアニメーション分野から初期のキャリアをスタートさせています。

昭和初期のアニメーションはPR映画やプロパガンダ映画が多く、戦後言われるような漫画映画が中心ではありませんした。瀬尾光世が演出した日本で最初の長編アニメーション、「桃太郎の海鷲」はそういった情勢下で制作されたものです。この時期は日本のアニメーションの発展期のひとつで、プレスコやマルチプレーン、人形アニメーションが試みられました。

終戦後のアニメーション制作は教育映画の制作会社のなかからスタートしています。特記すべきは持永只仁で、中国・上海にて人形アニメーションを制作し、現在の日本での人形アニメーションの基礎を作りました。後に人形アニメーションによるPR映画手がけ、アニメーション作家・川本喜八郎は持永只仁のもとで人形美術としてアニメーションの制作をはじめます。

1952年にはTV放送の本放送がはじまり、CMを制作するプロダクションとしてアニメーションの制作会社が立ち上がり始めます。

1956年には山本早苗、藪下泰次などの戦前を支えた人材と、後に多数のアニメーションに参加する森康二らスタッフごとプロダクションを東映が買収する形で東映動画(現、東映アニメーション)が設立されます。

東映動画はディズニーの影響を受け、新設のスタジオ、マルチプレーン撮影台の開発を行い、長編アニメーションの制作を開始します。最初の作品は藪下泰次と森康二を中心に制作された「こねこのらくがき」で、13分の短編ながら作画枚数3万9千枚という現在のTVアニメーションには比較にならないクオリティで作られました。長編と平行してCM制作も行われ、アニメーション作家として知られる月岡貞夫もそういった分野から登場しました。東映動画はカラー作品の制作などはじめての試みを多数行い、大塚康生、宮崎駿なども東映動画からアニメーションの世界に入りました。

1960年以降はTVアニメーションが本格化し、TCJ(エイケン)のほか、虫プロ、竜の子プロなど現在でも知られるプロダクションが多数設立されますが、作品の中心はリミテッドアニメーションで、東映動画も含め、日本のアニメーションの主流がディズニーのような傾向に戻ることはありませんでした。日本のアニメーションを批評家がしぶしぶ評価するようになるのは日本映画のスタジオシステムが崩壊し、映画が興行的に後退する1970年以降です。

山口且訓・渡辺泰「日本アニメーション映画史」
伴野孝司・望月信夫共「世界アニメーション映画史」

参考URL:http://www.ntv.co.jp/mangaeiga/05.html
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この回答へのお礼

どうも、ありがとうございました。非常に勉強になりました。

お礼日時:2004/11/02 01:44

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