電子書籍の厳選無料作品が豊富!

なんだか訳のわからない題ですが、これは何かといえば、私が「善は公(みんな)の為にある」と言えば、公とは一体誰のことを指しているのだとよく質問があります。そこで私は「公は問題により決まります」と説明しますが、皆さんには、なかなか理解してもらえませんので、それを今回は詳しく説明してみましょう。

「善とは公の為である」とは何を言っているのか。善、つまり正しいとは問題があるから必要になります。何も問題がないなら正しい、正しくないなんて全く必要はありません。ゆえに善悪(正しい、正しくない)は問題に対してのものだと分かります。ですから「善とは公の為である」は「ある問題に対しての善、正しい答えとは公の為になる答えである」と言っているのです。簡単に言えば「(問題に対して)正しいとは公(みんな)の為になる答えだよ」と言っているわけです。

そもそも問題とは何か、それは解決しなければならない課題です。一般的に言って問題とは困った問題が多い。そして、もしその問題をうまく解かなければ大きな不利益を蒙ることがあります。公とはその問題を共有している人たちを言います。もし問題をうまく解決できなかったならば不利益を蒙る人たちが公(みんな、仲間)なのです。

問題は世界の問題、日本の問題、家族の問題などいろんな問題がありますが、その問題は誰の為にあるかと言えば、世界の問題は世界の人たち(公)の為にあります。日本の問題は日本国民(公)の為にあります。そして家族の問題なら家族(公)の為にあります。このように公は問題により変化し、公は問題により自然と決まってしまいます。誰かが公はこれだ!と決めることはできません。
もっと詳しく言えば、地球温暖化問題を失敗すれば大きな不利益を蒙るのは誰でしょうか、もちろん世界の人々です。そうであれば地球温暖化問題の公は世界の人々になります。また日本の消費増税問題を失敗すれば大きな不利益を蒙るのは誰でしょうか、もちろん日本国民みんなです。ゆえに消費増税問題の公は日本国民になります。またお父さんが失業したという家族の問題はどうでしょうか、この問題をうまく解決しなければ大きな不利益を蒙るのは家族みんなです。ゆえにこの問題では家族みんなが公になります。このようにある問題をうまく解決できなければ不利益を負い、責任を取らねばならない人達が公となるのです。責任を取らない人たちは公には含まれません。もし問題をうまく解決できなければみんなで責任を取るのです、それが公であり仲間です。

このように公は問題により決まります。公を固定されたものと考える人もいますが、それは間違いなのです。公は問題により変化するからこそ小さな問題から大きな問題にまでいろんな問題に対応できるのです。それで基本的に「善は公(みんな)の為にある」などと表現しているわけです。公とは小さい集団から大きな集団まで広く表せる便利な言葉なのです。この言葉を使わずに多くの問題を一つで表現することはなかなか難しいのです。しかし「公」を使えば世界の問題から家族の問題まですべての問題を一つのフレーズで表せるのです「善とは公の為である」と。

そしてまた、公とは仲間を言います。ある問題が発生したときには問題をうまく解かなければ皆さんに大きな不利益が生ずるのですから、どうしても正しい答えを出さねばなりません。ですからみんなが協力して仲間となり一致団結して問題に当たらなければなりません。その時、最も優れた方法(絶対善)が「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」なのです。これこそが絶対的なのです、これ以上に正しい方法は在りません。
皆さんが誤解していることは、ある一つの問題に対して「いくつもの公」が生じると考えていることです。ある問題に対しては公は一つです。例えば沖縄からグアムに米軍が撤退する問題を考えてみます。この時米軍が日本から撤退する問題は沖縄だけの問題ではなく日本全体の問題ですから公は日本国民になります、沖縄が公になることはありません。どうしても沖縄を公とするなら日本国民は仲間ではないということになります。沖縄だけ良ければ日本国民などどうでもいいと考えるのであれば、もう沖縄は日本の仲間ではありません。仲間とはみんなで安心して暮らせるように協力している人たちを言うのです。

また世界各国の国民の生命財産を守る事は各国にとって絶対善です。その各国の絶対善がぶつかり合ったときにはどうなるか?と言えば、各国の紛争の問題は世界の問題となりますから世界が公になります。例えばドイツが他民族であるユダヤ人を虐殺する問題はドイツが公ではなく世界が公になります。本来、常識的に考えてドイツ人とユダヤ人を同じ仲間、公としてユダヤ人を虐殺してもいいとドイツ人が勝手に結論を出すことなど許されるはずはないでしょう。絶対善は「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること」ですから世界のみんなで考えれば本来「ユダヤ人を虐殺することは世界の為なのだ!」なんて答えがでるはずはありません。
しかし善は人それぞれであるという相対主義であればドイツ人の考えたことが絶対善なのだと考えてユダヤ人虐殺に走ることが出来るのです。相対主義は自分の考えこそが絶対善であり自分こそが神なのです。このように相対主義は独裁的です。

しかし善的絶対主義は自分が考えたことが絶対善ではなく、みんなで考えたことが絶対的に正しい(絶対善)となります。ですから善的絶対主義は民主主義的だと言うのです。相対主義者は「絶対善はある」と考えていたソクラテスに完全に論破されたのです。何故その歴史的事実を認めないのですか。相対主義では正しい答えは絶対に出せません。

このように公は問題により自然と一つに決まってしまうのです。「善とは公の為である」の公は色んな問題に対しても一つのフレーズで表せる便利な言葉なのです。公という言葉が気に食わないというのであれば、公という言葉を使わずにいろんな問題に対応できる言葉があれば教えてください、それを使って善を表現しますから。

このように考えましたが公の意味について理解できないところはありますか?

質問者からの補足コメント

  • 絶対善は公の為である、を例えればお父さんが家庭においてタバコを吸うのは正しいのかという問題が出た時、絶対善はお父さんも「絶対たばこは止めない」と言う私欲を抑えて家族の為と考えなければなりません。その結果、家の中ではタバコはダメとなれば、お父さんはいやであろうが家族の為にと我慢して家ではタバコを吸わないようにするでしょう。
    仲間であれば自分にとって悪い結果が出てもそれが最も正しい答えなのだから妥協できるのです。この時「家族のことなどどうでもいい、俺は家でもタバコを吸う」なんていえば、それはもう仲間ではありません。仲間であればみんなで話し合った結果が嫌であってもみんなの為だからと妥協できるのです。

      補足日時:2019/04/25 19:21

A 回答 (26件中21~26件)

○ はじめにファッショ(麦の一束)ありき。



☆ という思想だと考えます。つまり:

★ 公(みんな)
☆ も その《大前提としての命題》のもとに解釈されるようです。

ふるいでしょうね。
    • good
    • 1

No.3に横槍を入れてみます。



>公の為に個人が犠牲になることは善になる訳ですね。
犠牲になる個人は困ると思いますが、それはどう考えますか。
「お前は何も悪いことはしていないが国の為になるから殺します」

に対して、犠牲者が英雄になり、人々から讃えられる文化もあることを説明します。

公の為に個人が犠牲に関して、民族が違うとそのあり方がだいぶ違っています。一般に日本以外の文化、例えば西洋型の文化では、組織の意思決定は組織の指導者が行い上意下達方式を取ります。ですから組織の下位の人間は命令で動く。従って、その意思決定の結果不祥事が起こっても、組織の下位の連中は責任を取ろうとはしません。下位の連中は、

「俺が決めたんじゃないから、俺には関係がない」

と、皆が責任逃れします。(ただし、指導者は自己保身のために、部下の中で弱い者にその責任を被せて頬被りをすることは、しばしば起こります。要するに、誰も責任を取ろうとしない方式です。)

一方、日本の場合、下意上達、現場主導、あるいは稟議制(りんぎせい)と呼ばれる意思決定方式が主です。それは、組織の現場に携わる人間の提案に基づいて、上部がその提案を承認するという形を取ります。この場合、何か不祥事が起こった場合の責任の所在が、西洋型の上意下逹方式よりも曖昧になります。要するに、意思決定に皆が参加しているので、皆が責任を感じています。要するに一億総責任体制です。ところが、その場合、誰が責任を取るのかが複雑になってしまう。そこで、日本の場合には、

「よしっ、俺が腹を切る」

という形で名乗り出ることがある。この場合、その人は組織を救うための犠牲を買ってでる。ですから、この犠牲者は組織の救世主であり、皆から尊敬されます。そこで、組織の者は、ほとぼりが冷めたらなんとか面倒をみることに努力をする、あるいは、残された家族の面倒をみる、などの行為で、組織を救ったものに感謝を捧げる。事実、日本の多くの地方では、切腹をした者を祀った神社を作り、神と崇めることがしばしば行われてきました。

ですから、犠牲者になることは、必ずしも敗者になることではないと考える文化も存在するのです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

先生、詳しい説明ありがとうございました。

私の言う絶対善はとても非情なところがありますから、先生も絶対善に対して賛成できないところもきっとあるだろうと考えていましたが、今回の説明を見て先生は私の言いたい絶対善を完全に分かってらっしゃると理解できました。本当にうれしいことです。
まあ、多少の意見の違いはありましょうが、絶対善の本質さえ通じ合えていればそれで充分です。またよろしくお願いします。

お礼日時:2019/04/24 20:36

言いたい事は理解出来ますし貴方の提唱する「絶対善」が


間違ってるとは思ってませんよ

ただ、「で、現実に反映させる具体例は?」って問いに答えてないのですよね
少なくとも多くの人が答えて無いと思ってるから否定的な回答が付くのですよね
この質問も「じゃあ実際私たちは何をすればいいの?」って問いに明確に答えて無いから
No1の様な回答が付くのです。理解できない方が悪いのではない
要約できない貴方がバカなのです

公=大衆となるとポピュリズムになります
公=国となると全体主義となります
公=多数派となると民主主義となります
公=血となると民族主義となります
公=神となると原理主義となります
(上記はかなり意訳ですよ)

貴方は絶対善を実現させたいようですが、であるならば私たちを驚嘆させる
新しい概念の「○○主義」を提示して欲しいのですよ

「善とは公の為である」証明終了

って言いたいだけならもう充分理解できましたよ
後はこっちで勝手に絶対善の概念を発展させますよ

そうですね、、、
例えば今現在こじれにこじれた日韓関係を絶対善の視点から解決策を提示してみて下さい
個人的に韓国ヲォッチャーなのでこの問題に詳しいです
この問題の「公」とは何処に有ると思いますか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>貴方は絶対善を実現させたいようですが、であるならば私たちを驚嘆させる新しい概念の「○○主義」を提示して欲しいのですよ「善とは公の為である」証明終了って言いたいだけならもう充分理解できましたよ、後はこっちで勝手に絶対善の概念を発展させますよ<

だから善的絶対主義を主張しているではありませんか。私は絶対善を示しています。それだけで十分なのです、それ以上何もいりませんよ。絶対善の概念を発展させることもいりません。絶対善だけでどんな問題でもすべて解決できます。


>例えば今現在こじれにこじれた日韓関係を絶対善の視点から解決策を提示してみて下さい個人的に韓国ヲォッチャーなのでこの問題に詳しいです
この問題の「公」とは何処に有ると思いますか?<

韓国と日本の問題は他の国同士でもある事でありますから、世界を公、世界の為と考えるのがいいのです。韓国と日本だけで話し合うのではなく、これは世界も一緒に考えてもらうのがイイのです。まず竹島問題も歴史の事実に照らせば世界はどちらが正しいか自ずから分かるでしょう。慰安婦問題も真実を知れば韓国が嘘をついていることが明らかになるでしょう。韓国人の為にも本当は韓国人に正しい歴史を教えることがいいのです。嘘の歴史を韓国政府が教え韓国人が日本を憎んで何の得が在るのですか。韓国政府も私欲を抑え韓国国民の為と考えればそれが本当は一番いいのです。しかし韓国の本当の歴史を知れば韓国人は自信を喪失しますから多少は嘘で装飾するのがいいでしょう。韓国と日本の問題も公(世界)の為にならねばなりません。国が国民に嘘の歴史を教えればとんでもないことになるよと世界が知ることが世界の為でしょう。

お礼日時:2019/04/24 20:34

このように考えましたが公の意味について理解


できないところはありますか?

いくつか疑問点があります。

公の為に個人が犠牲になることは善になる
訳ですね。
犠牲になる個人は困ると思いますが、それは
どう考えますか。
「お前は何も悪いことはしていないが 
 国の為になるから殺します」


公の意味はわかりましたが、例えば国家があります。
国家のためとは国民の為、ということでしょうが、
その国民は現在する国民に限られるのですか。
未来の国民は含まないのですか。

国民の為といいますが、国民は一様ではありません。
1億以上もいます。
色々な利害が錯綜しています。
こっちの国民の為にはなるが、あっちの国民の為に
ならない、という場合はどう考えるのでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>「お前は何も悪いことはしていないが 国の為になるから殺します」<

ですから国の問題は公は国民になります、国や政府は私です。国が勝手に国民を殺すことは許されません。国民みんなで話し合って決めるのが善です。ですから政府や官僚がおかしなことをやれば「それは公(国民)の為なのか!とは言えますが、国や政府や官僚たちが公になることはありません。

>その国民は現在する国民に限られるのですか。未来の国民は含まないのですか。<

前にも同じ質問をしてますよ。祖先も子孫も仲間なのですから祖先が侮辱されれば正さねばなりませんし、子孫たちの為を考えず自分の時代だけ良ければいいというのは悪です。

>国民の為といいますが、国民は一様ではありません。1億以上もいます。色々な利害が錯綜しています。<

何億人いようが私欲を抑えて公の為と考えられるのが仲間です。自分たちの私欲ばかり主張するのは善ですか?それはもう仲間とは言えませんよ。そうならないためにも絶対善的考えの教育が大切なのです。税制でも金持ちは税が高く貧乏人は税が低いとなっています。これが正しいことでしょう。金持ちたちが自分の欲ばかり考え主張すれば国はうまくいきません。自分は損するかもしれないが公の為だから仕方ないと考えられるのが仲間です。何事においても社会がうまくいくのは「私欲を抑えて公の為」と考えることなのです。そのことを国民みんなに知ってもらうことが大切なのです。これこそが最高の道徳ですよ。
政治家や大企業や官僚たちがもう少し私欲を抑えて公の為と考えられればもう少し良い国になるのですがね。

お礼日時:2019/04/24 20:33

善や悪とは、個人に対する行為の評価です。


それが多くの人に共通すれば「公」に置き換えることができます。
人間社会においては、
その評価が善であれば道徳となり、それが悪となれば規制がかかります。
視点を変えてみてはいかがでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

コメントありがとうございます。


>善や悪とは、個人に対する行為の評価です。視点を変えてみてはいかがでしょうか。<

これを誰が言ったのか知りませんがそんなことはありません。アメリカが原爆を落としたのは善なのか悪なのかと言いますよ。個人に対する行為の評価だけではありません。貴方こそ視点を変えて疑ってみなければなりません。

お礼日時:2019/04/24 20:32

もうすこし要約してくれませんか



文章が長いです
    • good
    • 3
この回答へのお礼

コメントありがとうございます

私の今までの投稿で公の為が分からないと言う人が多かったので今回は詳しく説明したので長くなりました。以後気を付けます。しかし良く分かってもらう為には本当は詳しく詳しく書かなければ皆さんには分かってはもらえないのですよ。

お礼日時:2019/04/24 20:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す