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むしろ任那は、侵略され滅ぼされた側ではないでしょうか?
例えば日本の縄文土器は世界で最も古い土器です。朝鮮半島から縄文土器より古い土器は出て来ません。つまり、縄文以前に、朝鮮半島に文明と言えるものは有りませんでした。
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任那日本府
『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている。
新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土している。
日本列島独特の前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されている。
宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が倭王済に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた。
世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学出版局が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。
アメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)朝鮮南部の地域を統治するまでに至った」と記述。
コロンビア大学のオンライン百科事典「紀元前12世紀、朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」
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https://artworks-inter.net/ebook/?p=2894
日本の縄文時代は紀元前1万5000年である。
http://freephoto.artworks-inter.net/senpukuji/ka …
ここには世界最古の豆粒文土器が発見された。日本人は12000年もの昔に土器をつくっていた。
朝鮮半島に土器が登場する4000年も前に、日本の長崎では土器が作られていたのだ。
その頃の朝鮮半島にはウラル系民族が住んでいたとある。
ウラル系民族はユーラシア北方の針葉樹林またはツンドラ地帯において狩猟採集とトナカイ遊牧を生業にする民族である。ウィキペディア
また櫛目文土器文化(くしめもんどきぶんか)は、新石器時代のヨーロッパ北東部、現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった文化である。
簡単に言えば、北極に近いロシアとヨーロッパあたりがその文化の大元といえるようだ。
ウラル系民族はシベリアを経て、モンゴル経由で朝鮮半島に住み着いたと思える。
その後にやってくるのが無文土器時代(むもんどきじだい)である。
百済の旅-松菊里遺跡-
表面に模様を持たない様式で紀元前1500年から300年といわれている。
時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。
このあたりから、朝鮮半島の文化が日本にやってきたと、学者の人たちはいったのだろう。
弥生式土器は明るく褐色で、薄くて堅い。
これは縄文土器が野焼きで作られるのに対して、弥生土器が藁や土をかぶせる焼成法だった。
朝鮮半島の無文土器の製作技法も、縄文土器よりも高温で焼くため、強度が高い。
これまで弥生時代の始まりが、紀元前4世紀だといわれていた。
朝鮮半島の無文土器時代が紀元前15世紀からとなっているので、時代的に遅い弥生時代が朝鮮半島の影響を受けたという事だったのだ。
しかしAMS炭素14年代測定により、弥生時代の始まりが紀元前10世紀くらいという新事実が発表され、すべてが大きく変わり始めたのだ。
朝鮮半島の無文土器時代前期は紀元前1500年から850年頃とされている。
この時期には農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。
農耕にはまだ石器が用いられていたという。
中国の黄河文明もそうだが、朝鮮半島も畑作が主流である。
朝鮮半島に水田稲作が始まったのは李氏朝鮮(1392-1897)後期だ。
どう考えても、弥生時代に稲作を伝えられるはずがない。
最近の調査でわかったのは、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。
なぜ稲作が朝鮮半島から伝わったと考えたのか。
研究の遅れといってしまえば実もふたもないが、「朝鮮半島渡来説」を唱え続けていた学者の人たちは、総て「考古学者」で「農学者」「民俗学者」がいないという特徴がある。
「稲」は日本から朝鮮に伝わった
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/170.html
朝鮮人研究者はすべて朝鮮が日本に「稲」を伝えてやったという。
悪口ではないが、感情的な朝鮮人研究者の意見に、自虐的な日本人考古学者が同調したとも受け取れる。
ここで、稲作の伝来という従来の説は終焉したと断言する。
そうすると、稲作を伝えるために、大勢の朝鮮人が日本にやってきたという説も、その根拠が消滅した事になる。
そうなると弥生式土器の誕生も違った見解が必要となる。
薄くて堅い土器は、縄文土器とは違い、生活一辺倒の土器である。
生活の必要に応じて、土器は改良されたと考えたほうが納得がいく。
どんなに便利で進んだ道具でも、必要がなければ浸透しない。
なぜ、薄くて堅い土器が必要になったのだろうか。
弥生土器は女性用
下右田遺跡で見つかった弥生土器
一つは食生活の変化だろう。
気候の変化により、穀物の比重が大きくなった。つまり、農耕時代の幕開けだ。
現在の日本の水田地帯の家族を見れば、一家全員が労働者である。
狩猟採集生活の人たち、たとえば漁業や狩猟中心の家族は、男性が主に労働する。
この違いが、縄文後期から弥生時代にも適応されると思う。
縄文土器と弥生土器の大きな違いは、その製法による重さだ。
軽くてシンプルな弥生土器は女性用とも考えられる。
農耕時代は女性が活躍する時代である。重たい縄文土器では、女性が持ち運びするには負担が大きい。
だから、うすい土器が発明された。
もしかしたら、土器を作る人たちも、男性から女性へと変わっていったのかも知れない。
あくまでも推論だが、「必要は発明の母」のことわざどおりだと思う。
この事を裏付けるように、稲作のゆっくりとした伝播に従い、軽い土器もゆっくりとしたスピードで広がっている。
弥生土器の広がりは九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなるのは、生活様式の変化によって初めて、使用する土器が作り出されていったという事の証明にもつながると思う。
またこの無文土器時代、朝鮮半島南部と北部では色んな違いが生じてくる。
葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。
朝鮮半島の変化
なぜ、この時期から急激な変化が朝鮮半島に起ったのか説明はない。
中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化(ソングンニ)とも呼ばれている。南部へ行くほど異なった要素が増える。
石槨墓(せっかくぼ)とは中国の東北部を中心に構築された墓であるが、石棺墓、石室墓との区別はない。日本の弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。
日本では、縄文時代以降に甕棺墓が見られる。
縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地で甕棺墓の風習があったことが判っている。
アジアでは、まず黄河文明期の中国に現れている。
ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは華北西部のみに分布する。また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。
なぜ、朝鮮半島の南部では、日本の特徴的な甕棺墓がみられるようになったのか。
その答えは一つしかない。
倭人の朝鮮半島移住が始まったからなのだ。
弥生時代の朝鮮半島移住
朝鮮式墓といえば支石墓(しせきぼ)が有名である。
支石墓(しせきぼ)は、ドルメンともいい、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種である。
支石墓は西ヨーロッパが発生の場所だといわれているが、自然発生的に世界各地で個別に行われていたと思われる。
紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。
南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。
大韓民国では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。
なぜ支石墓の形式が、朝鮮半島の南北では違いが顕著になっているのか。
これらのことを考えると、おのずから答えは出てくる。
倭人たちが朝鮮半島南西部に住みついていたからである。
北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。
そして朝鮮半島の南部では、日本の特徴的な甕棺墓がみられるようになった。
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>いつも打ち返した新羅が勝ったように書いていますね。
『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている。つまり高句麗には負けたが、朝鮮南部を支配していたのは間違いない。だから白村江に援軍を出したのです。