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 韓国の独立記念館に行った時に、高校生の方がなぜ「天は人の上に人を・・・」の人が征韓論を唱えたか知っている方教えてください。

A 回答 (8件)

福沢が私財を投げ打って支援したというのは、後に甲申事変(近代化革命)を起こす、金玉均を始めとする開化派朝鮮人(独立党)です。

慶応義塾や陸軍学校などへの50名程の朝鮮人留学生を世話しています。

金玉均の日本視察の折には、自宅を滞在拠点として提供し、井上馨等の日本政財界要人を紹介して彼との会談を実現させています。金らに近代政治学の初歩や、近代国家の独立自主という概念を伝えたのは福沢でしょう。

また福沢は銀行に口利きして朝鮮への融資を世話し、開明派はこれを印刷機購入などに当てました。福沢が朝鮮に派遣した弟子が朝鮮初の新聞「漢城旬報」発行を実現しています。これは漢字ハングル混じり文の新聞で、一部の両班層だけでなく、より広く朝鮮人に世の中の情報を知ってもらおう、という福沢の配慮です。

福沢は当時、文化の啓蒙による朝鮮の革新を期待しており、改革を「武力ではなく、資金の移入を端緒に学問によって実現させるべき」と主張しています。

しかし、当時中国(清)の属国であった朝鮮を清の近代独立国家へと改革する独立党の革命、甲申事変が失敗に終わり、福沢の努力はすべて無に帰してしまいます。福沢が育てた独立党も多くが殺され、金玉均も日本亡命後に朝鮮人に暗殺されました。初めは革命に理解を示していた朝鮮皇室ですが、土壇場になり清軍の介入に恐怖して清への服従を選んだことが、失敗の最大の原因です。日本政府もこの革命に協力したのですが、清との国力差はまだ大きかったため、限定的な協力しかできませんでした。

こうして朝鮮近代化の可能性は完全についえ、前近代的な国家形態が日韓併合まで続きます。こうした朝鮮の体たらくに失望した福沢が起こしたのが「脱亜論」です。

維新建国後しばらくは、日本は朝鮮に近代国家として独立してもらう事を望んでいました。まだ国力が充分でない日本にとって、朝鮮半島に直接大国の清やロシアの影響力が及び日本の安全補償が脅かされる事を危惧したためです。かつての元寇の折、元は朝鮮支配の後に日本侵略を現実的に計画しており、この再現を避ける必要がありました。近代化朝鮮と協力して東アジアでの自主独立を守っていこうとしていたのです。

西郷を始めとする当時の「征韓論」というのは、決して朝鮮を侵略して占領しようということではなく(当時そんな国力は日本にありません)、日本が黒船の圧力により近代化したように、朝鮮に軍事的政治的圧力をかけて近代化させよう、という話です。西郷は自身が外交使節として朝鮮に赴こうとしてました。これに対し福沢は学問を浸透させての朝鮮近代化を図ったわけです。

しかし、朝鮮は清やロシアへの依存心を捨てることなく、まともな近代化を実現できません。日清戦争、日露戦争と勝ち続け列強の仲間入りをした日本にとって、もはや朝鮮に「自主独立のパートナー」として期待する必要はありませんでした。日本が切磋琢磨している間に無為に過ごした朝鮮は、当時の帝国主義世界では敗者となることが歴史的必然です。

長くなりましたが、福沢が主張したのは征韓論ではありません。脱亜論もこれとはあまり関係ありません。アジア侵略を肯定する論、というのはデタラメです。当時の国際社会の常識自体が「弱肉強食」だからです。韓国併合とは、日本も国際基準の列強国となった結果です。

福沢が示した朝鮮近代化への情熱、朝鮮への愛情をまったく無視し、近代化を実現できなかった自民族の無能を省みることなく、自分勝手な「歴史認識」を押しつけ、12歳の子供に平気で反日をぶつける・・・それが今の韓国です。独立記念館とやらでどんな展示をご覧になったとしても、どんな目に遭われたとしても、一切気に病む必要はありません。
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この回答へのお礼

頭の悪い私にも噛み砕かれた回答に心より感謝申し上げます。教科書問題の大きな時期でしたが、刺されるような目線は今もって忘れられません。
 でもどんな時も日本人としての誇りだけは失いたくないと思います。早くwebで聞けばよかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/14 13:34

ご参考にどうぞ。



「脱亜論」本文
http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.h …
【「脱亜論」は著作・論文の類ではなく、『時事新報』明治18年3月16日付の社説に対する通称です】


現代語対訳「脱亜論」(スピノザ猫の「新・脱亜」)
http://supinoza.blog.ocn.ne.jp/datuaron/

・意訳「脱亜論」(isa訳『福澤諭吉の「脱亜論
」』)
http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/2 …

・林思雲氏「福沢諭吉の『脱亜論』を読んで」の感想
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Co …
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ご参考にどうぞ。



「脱亜論」本文
http://www.jca.apc.org/kyoukasyo_saiban/datua2.h …
【「脱亜論」は著作・論文の類ではなく、『時事新報』明治18年3月16日付の社説に対する通称です】


現代語対訳「脱亜論」(スピノザ猫の「新・脱亜論」)
http://supinoza.blog.ocn.ne.jp/datuaron/

・意訳「脱亜論」(isa訳『福澤諭吉の「脱亜論
」』)
http://plaza.rakuten.co.jp/isanotiratira/diary/2 …

・林思雲氏「福沢諭吉の『脱亜論』を読んで」の感想
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/y-kanatani/minerva/Co …
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この回答へのお礼

林思雲氏の感想に心打たれます。立場を変えれば同じだとはいえ申せませんが。ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/14 13:02

日本は清国・朝鮮に対して欧米列強に対抗するためにも、国家の近代化を促そうとしていたが、当時は国と国は平等という考えはなく、特に歴代支那王朝は「朝貢体制」、つまり国(支那王朝)と属国(朝鮮・日本など)という考え方でした。


 このような国家観・政治体制の大陸国に対し、日本が国力をかけてまで近代化を促すのはもはや無為であり、逆に国益につながらない。「脱亜論」は、自主独立や近代国家建設を目指そうとしない両国に対して、“もはや日本は前近代的な大陸国の影響圏を脱し、独自路線で近代化を推し進めるべき”という考えです。

 現在でも「東アジア共同体」という発言がなされますが、少なくとも民主的国家体制・同等水準の経済力がなければ非現実的でしょう。そういう意味では海洋国家である日本には、現在でも「脱亜論」という考えはまだまだ考察すべき理論だと思いますね。 
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この回答へのお礼

今、もう一度アジアを見直してみようと思います。
ありがとうございました。
 

お礼日時:2005/06/14 13:08

 福沢諭吉も「征韓論」者ですね。

西郷隆盛を強く支持していたはずです。板垣退助なども「征韓論」者であったことを考えても、当時の民主主義と並ぶ進歩的な考え方だったのだと思います。
 向上心を持たず富国強兵に努めようとしない怠惰な国家は日本が征服して進歩させなくてはならない、というようなことだと思います。帝国主義の中で植民地などの他国の支配下にならないためには自ら帝国主義国家にならなくてはならなかった時代、富国強兵は国家としての義務と考えていたのではないでしょうか。
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「脱亜論」は、結論的に朝鮮や中国を侵略してもかまわない、ということなるので、そういう意味では「征韓論」と表現しても、まったくの間違いとはいえないかもしれません。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。もっと早くこのサイトで聞けばよかった。韓国の学生の一言がず―と気になりました。12歳だった私にはさされるような目線にすくんだことを今も忘れられません。もう少し研究してきちんと韓国の学生に答えられるようになりたいです。

お礼日時:2005/06/07 18:06

征韓論を唱えたのは、西郷隆盛ですね。


(明治維新後、生活が苦しくなった元武士階層の
 不満をそらすために、朝鮮を攻めようと唱えた
 ものですね。)

福沢諭吉が脱亜論を唱える前は、中国(清)や朝
鮮と連合して西洋の列強の干渉をはねのけるよう
になろうと考えていました。
しかし日清戦争後清や朝鮮の弱体ぶりを見て、
「日本だけでも西洋化を進めて、列強のように強
 くならないと・・・」
と考えるにいたったという事です。

しかし、福沢諭吉は日本に来た革命派の朝鮮人の
世話をしたり、韓国語の新聞の発行を援助したり
していました。

この回答への補足

脱亜論だったんですね。福沢諭吉は日本に来た革命派の朝鮮人の世話をしたり、韓国語の新聞の発行を援助したりしていました。 なんですが革命派の挑戦人お名前教えてください。(ご存知でしたら)

補足日時:2005/06/07 17:59
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福澤諭吉は征韓論ではなく、


脱亜論じゃなかったっけ?
 
「朝鮮のような恥ずかしい国は無視して、
 欧米の仲間入りをしよう」
という趣旨だったような気がします(^^;
       
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この回答へのお礼

征韓論でなく脱亜論だったのですね。独立記念館で日本の子供が見学することが珍しいというより韓国の学生には意外だったのでしょう。12歳でしたから。
ありがとうございます。調べなおします。

お礼日時:2005/06/07 17:59

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