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明治時代の、征韓論について

日本で征韓論を唱えた人達がいたのは、凍らない港を求めて、南下政策をとっていたロシアが朝鮮に侵略してしまうかも、という危機感があったからというのは分かります。
そこで、日本は朝鮮に単に開国して欲しいのですか?それとも植民地化したかったのですか?
日清修好条規を締結したのは清の冊封国であった朝鮮に対して日本は清より格上だと示すためだと聞きました。
それは、朝鮮に抵抗されることなく開国してもらうためでしょうか?

質問が多くてすみません。

A 回答 (9件)

>日本は朝鮮に単に開国して欲しいのですか?


 それとも植民地化したかったのですか?

簡単に言うと開国してほしいの方です。
この時点で植民地化の意思はありません。
ただし、後述しますが征韓論が活発になったのは
朝鮮側の対応があまりにも不遜だったので
日本側が反発したから。



>日清修好条規を締結したのは
 清の冊封国であった朝鮮に対して日本は清より格上だと示すため

大間違いです。
普通に正当な交易をするためで、朝鮮の清からの独立を支援しましたが
清より格上とか考えていません。



征韓論は様々な人が唱えており、その理由は欧米に対抗するためなど
富国強兵が主でしたが、一気に征韓論がたかまったのは書契問題から。

日本は明治維新で新政府となったので朝鮮との国交と通商を求め
対馬の宋氏を介して折衝を試みました。
ところが朝鮮は、礼儀にかなっていない文字の使用や印鑑、
書式を理由に親書を受け取り拒否しました。
詳細な理由を問うと「天皇」や「天朝」の文字が不敬であると
言いましたが、朝鮮通信使の頃から「天朝・皇朝・朝臣」などで
使用していると指摘すると病気を理由に話し合いを拒否しました。
日本側は朝鮮に配慮して何度も書き直しや印章の変更を行いましたが、
明治元年から7年間拒否されました。これが書契問題。
ちなみに、征韓論のWikiには要出典になっていますが、この経緯は
 朝鮮始末(一) (レファレンスコード:A03023629100)
 朝鮮始末(二) (レファレンスコード:A03023629300)
 朝鮮始末(三) (レファレンスコード:A03023629600)
  注 いずれもアジア歴史資料センター
等に記載されています。

この時に朝鮮は日本をさげすみ、海難救助などで協力したものも
この頃は漂流民を海岸に放置するなど、非常に悪質でした。
例えば「朝鮮始末(一)」
「東莱府使釜山僉使等其属官ニ達スル所ノ示令」(P18)
 為天下可笑、恬、不知恥、出而、
 (天下が笑うことを行う恥知らず)注 明治維新のこと
この張り紙を東莱府使(釜山における朝鮮側の外交官のトップ)が
公館に貼りだしたというから、いかに馬鹿にしていたか判ります。

この書契問題によって日本国内では怒りの建白書が多数寄せられ、
政治家や新聞が征韓論を強く主張するようになりました。
このため、日朝修好条規が締結されると
朝鮮を征服しようという
強硬な意見は全くでなくなりました。



日朝修好条規の方は有名な江華島事件を契機にしています。
よく日本がわざと軍艦で示威行為をしたとされますが、
これも当時の史料ではイギリス船が江華島を無断で測量する
との情報で、日本の船を誤射したもの。
こういうと、当時の史料を見ない現代の自称歴史家が
「日本の朝鮮侵略の先駆けなのに何を言う」と言われますので
参照資料として交渉に当たった記録から。
 黒田弁理大臣使鮮始末 正本1(B03030145900)
 黒田弁理大臣使鮮始末 正本2(B03030146000)
 黒田弁理大臣使鮮始末 正本3(B03030146100)
 黒田弁理大臣使鮮始末 正本4(B03030146200)
江華島事件については例えば正本2、P16くらいから、
黒田弁理大臣と朝鮮側の申大臣との会談で、申大臣の説明では
「貴国の船と知らなかった」
「日本の国旗を地方に伝えていなかった」
「日本の軍艦なら攻撃しなかった」
等の説明がなされています。

ちなみに、この時の主役である雲鷹号は江華島に至るまでに
釜山や洛東江の遡行までしていますが、問題視されたいません。
ただし、地方官吏は賄賂を要求して補給を拒否したりで
揉めにもめています。
当時の貿易でも地方官吏が独自の徴税や嫌がらせをしたので
これを正常化する目的が日朝修好条規。
関税自主権は地方官吏が勝手に徴税しないようにするため。
治外法権は江戸時代からの慣習に従ったもので、
日米通商航海条約で煮え湯を飲まされたからではありません。

戦後の日本は戦争の反省から「日本は大陸を侵略した」
という前提で語ることが多いので、資料を見て判断しましょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
日本は朝鮮を植民地にしたい訳ではなく、開国して貰って、共に欧米に対抗していきたかったのですね。
日朝修好条規が日本に有利な条約になったわけが分からなかったのですが、朝鮮の日本に対する無礼に、日本人が不満を持ったからだったんですね。よく分かりました。

お礼日時:2022/06/01 00:38

征韓論のルーツは、西暦663年の白村江の戦いまでさかのぼる古い認識がもとになっています。



まず、日本に限らず、政府とか統治者は「自分の国をどうやって守るか?」を常に考えている、ということを前提にしてください。それは日本に限らず朝鮮もロシアも中国も同じです。

白村江の戦い、というのは朝鮮半島の白村江という場所で、倭国百済連合軍と新羅唐連合軍の戦いで、日本側が負けた戦いのことをいいます。

これにより日本(倭国)と兄弟関係にあったと言われる百済は滅び、新羅が朝鮮半島を統一したのですが、後ろ盾に唐がいました。

唐はこの後中国全土を平定し、超巨大国家(今で言えばアメリカレベル)になったので、倭国の政府は「唐が日本に攻めてくるかもしれない」と恐れを持ちました。

唐が攻めてくる場合、ルートは2つで一つは朝鮮半島から対馬経由、もう一つは上海付近からやってくるルートが想定されました。
 いずれにしても距離や海流の関係で福岡付近に上陸するはずなので、そこに防衛ラインを築いたのが防人という軍隊で、防人を東国(関東付近)から徴兵するために、日本全体に律令制を敷いて国号も「日本」に改めたのです。

つまり「朝鮮半島に、日本の敵国が現れると、日本はマジでやばい」という認識は7世紀にはすでにあったわけです。

そして、この危機感は鎌倉幕府時代の元寇で現実になり、元寇は釜山付近と上海近くの寧波から船を出してやってきたわけです。

秀吉の時代になると、西洋各国の船がアジア経由で日本にやってきていたし、戦国時代が終わりになったので傭兵として東南アジアに移動した武士たちもたくさんいました。その中で最も有名なのはタイ王朝で一国の領主になった山田長政でしょう。

このような情勢の中で、当時の中国「明」の動きや西洋列強の植民地化を知った秀吉は、民国派兵を実行します。教科書には朝鮮出兵と書いてあるもので、あれは「朝鮮を通って民国を支配下に置く」という、白村江の逆を行う予定だったものです。

いずれにしても「朝鮮」という場所は日本を守るという視点から見れば「その先にある大陸の手先になって、日本を攻める前線基地」であったわけです。

で、日本は徳川鎖国時代を経て、黒船によって開国をすることになります。
(しかし実際は、ロシアのほうが黒船よりも50年ぐらい前に開国を迫っています)

明治維新の目的は「日本が天皇中心の中央集権国家になり、近代化することで西洋列強の植民地化を防ぐ」ことにありました。

だから、白村江の敗戦の後、当時最大の文明国であった唐の律令制を取り入れたように、西洋列強の文化や軍事力を吸収して、日本を守る能力を高めたわけです。

日本がとりあえず何とか西洋化して一応「独立を維持できそう」になってくると、周囲の情勢が気になります。もちろん一番の問題点は朝鮮半島で、ここにロシアや清国(の後ろ盾の西洋列強)がやってきて好き勝手すると、日本に攻め込むのが容易になってしまうのは明らかでした。

だから明治政府は、日本同様西洋列強から開国の圧迫を受けていた朝鮮王朝に「日本に習って開国して、西洋化しませんか?お手伝いしますよ」と持ち掛けたわけです。

しかし、朝鮮からみれば日本は「朝鮮に乗り込んで、武力を振り回す国」なので信じられず、また朝鮮貴族も開国を嫌ったので、ものすごい失礼な言葉使いで丁重にお断りしてきたわけです。

となると日本は「自国を守るために何とかしないといけない」という発想になります。

最初に日本が考えたのは「朝鮮はずっと中国の属国だったから、中国(当時は清朝)との縁を切れば開国する気になる」ということ、それが日清戦争の発端であり、下関条約の一番最初に書かれているのは「朝鮮国は清国から分離し独立国であることを清国が認めること」だったわけです。

で、朝鮮にまた「清国をぶっ飛ばしたから、独立できたね。さあ開国しようよ、日本が手伝うからさ」と提案したのですが、今度は「やっぱり嫌、ロシアに守ってもらう」となったわけです。

となると、今度は朝鮮半島にロシア軍がやってくるかもしれません。当時のロシア海軍は無敵艦隊と呼ばれていたので、日本は早急に手を打つ必要があったわけです。

それが結局日露戦争になるわけで、日本はロシアに勝って、また朝鮮に「さあ、清国もロシアも日本が排除したから、気兼ねなく開国しようよ」と誘ったのですが、朝鮮王朝内は開国派と鎖国派で争いになって何も決まらなかったのです。

ぐずぐずしていると、清王朝が崩壊して元みたいな騎馬民族が朝鮮をしはいするかもしれないし、ロシアは一応勝ったとはいえ体力が上だから軍事力で朝鮮半島に侵出するかもしれないし、日本としては「時間がない」という状態だったわけです。

で、結局、日本は自国の安全を優先して、朝鮮王朝の日本融和派と結託し、日韓併合をしたのです。

で、幕末からずっと「征韓論」はあったわけです。秀吉の朝鮮出兵で「朝鮮軍は弱い」とわかっていたし、近代兵器を持っていない朝鮮軍はもっと弱いわけで、日本の安全保障を優先するなら「朝鮮半島を征して日本の植民地にする」のがもっとも手っ取り早いし、それを主張する人は結構いたのです。

しかし、日本の国是自体が「西洋列強から自主独立を守る」ことにあったわけですから、朝鮮を日本の植民地にしたら本末転倒です。
 ただでさえ、白人たちから「アジア人は約束を守らないし、自分で言った目標を都合よく忘れる」と思われていて、それが不平等条約につながっていたので、征韓論は日本政府にとって都合が悪かったのです。

だから日本は植民地化より朝鮮の開国政策を心から願っていたといえますし、結果的にそれがかなわなかったので植民地化ではなく「併合」にしたわけです。だから「内鮮一体」という差別のない融和を目指していました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、韓国併合は植民地化よりも開国を望んでいたから 併合 なんですね。征韓論自体は昔からあり、活発になったのが明治初期だったということですね。

お礼日時:2022/06/01 23:12

№3回答者です。

お礼のコメントありがとうございます。
添付写真について補足します。

これは、国立公文書館で行われた明治維新150年記念展示の一部で、黄色丸の間が西郷隆盛が留守政府のトップだった期間で、赤丸が岩倉との約定書で留守政府が実行することを禁止されていた改革事業でした。

明治維新の改革事業の大部分は、西郷が留守政府の時に実行開始されていますが、実際に動いていたのは明治6年の政変で西郷とともに下野した人々でした。学制制定や徴兵制は失業した武士たちの受け皿としての役割も担っていました。また、学制制定は留守政府が実行したモデルに対する理解が不足していたため、結局うまくいかず、後年大きく路線変更しています。

最後に、またまた、明治維新150年の記念展示の一部を写真添付します。
「明治時代の、征韓論について 日本で征韓論」の回答画像8
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まーた『ぼく悪くないもん、相手が悪いんだもん』なバカウヨの回答が寄せられているな。


アタマお花畑のバカウヨの意見など信じず、自分で資料などをあたれば本当のことが分かりますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、昔のことを完全に理解できる人なんていませんよね。学校の教科書は言葉足らずで、誤解しやすいです。歴史を勉強する上で、資料を活用して事実から予測していくことが大切ですね。回答してくださった方の意見を参考にしながら、自分なりに資料などから勉強しようと思います。

お礼日時:2022/06/01 00:43

当時の朝鮮は清の属国であって、ロシアの南下政策云々はほとんど関係ない。



征韓論はあくまでも日本の問題だ。
日本は維新によって封建制を中央集権体制に改革し、欧米列強の軍事的・経済的脅威に対抗して独立を守るために「富国強兵」を国是としていた。そもそも明治維新そのものが、そういう近代化を推進していく主導権を徳川家に任せるべきか、薩長など徳川家以外が負うべきかを争った戦いだった。

そして日本の近代化の成功は、日本産の工業製品を輸出する相手国が存在することが絶対条件だった。その当面の相手国とは中国と朝鮮だった。
ゆえに対等の平等条約による貿易をその両国に求めた。

しかし、朝鮮は属国という立場に安住して緩み切っているうえ、小中華主義に毒されて世界情勢を意に介せず、日本に対してはマウントを取ることしか眼中にない朝鮮王朝の主流派は、極めて日本に無礼な態度で開国を拒絶した。
清の属国で実質的に外交権を奪われていた朝鮮側は、清の承認なしに自主的に開国することができなかったという実情はあるにしても、極めて無礼な態度であったことは間違いない。

日本の士族が激高して征韓論をぶち上げたのは、感情的には無理からぬことだった。ただ、征韓論自体は、幕末からあり、吉田松陰や橋本佐内などは、記紀の任那日本府を根拠とした朝鮮はもちろん、中国も併合せよと主張している。

日清修好条規については、朝鮮が平等条約による開国を拒絶した翌年に締結されている。予備交渉そのものは征韓論とは関係なく開始されたはずだ。また日清修好条規も平等条約なので「日本は清より格上だと示すため」とは違う。あくまでも日清対等の条約だ。

ただ、日本は中国と対等だということを内外に示せたことは非常に大きい。この条約でも朝鮮が清の属国であるという事実は変わらなかったが、征韓論政変の終息後の台湾出兵で日本は清に対して外交的に優位に立ち、軍艦を朝鮮に派遣。江華島事件でついに日朝修好条規を結び、朝鮮の日本との開国に成功する。

そしてその後は、朝鮮を舞台に、日清の血塗られた主導権争いが度々発生し、日清戦争に至る。
その結果として、朝鮮は清からの独立を果たして大韓帝国となったが、属国時代に緩み切った執政は立ち直ることなく、独立国家としての矜持を一度も見せることなく国家は破綻し、日露戦争を招来してしまった。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
征韓論は政治的というよりは感情的だったわけですね。朝鮮の日本への無礼が、日朝修好条規が、日本に有利な不平等条約となったひとつの理由でもあるのかなと思います。

お礼日時:2022/06/01 00:02

西郷隆盛の師であった、島津斉彬


の戦略です。

それが明治政府に引き継がれた訳です。

日本一国では、西洋列強に対抗
出来ないので、
中韓を含めたアジアが一丸となって
対抗しよう、という考え方です。

征韓論もその一環です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
征韓論は明治以前からあったのですか。知らなかったです。つまり、日本は朝鮮に開国して、列強に対抗できるような国になって欲しかったのですね。

お礼日時:2022/05/31 23:47

征韓論は、岩倉具視と大久保利通によってねつ造された歴史です。



当時は朝鮮に対して開国を要求していたわけで、武力を背景とした強硬派と外交による開国を主張した西郷隆盛に二分されていたというのが実態で、まずは西郷隆盛による直談判で行く、というのが決定事項でした。

そこへ、2年にも及ぶ物見遊山の海外出張から戻ってきた岩倉・大久保が国内の激変に驚き、自分たちの生き残りをかけて西郷隆盛が朝鮮に行くのを阻止した、というのが真相だと思います。

朝鮮の開国を強力に進めたのは、背景にロシアの南下政策阻止があったのは事実ですが、西郷が目指したのは、物見遊山組が現実に実行した清や朝鮮に対する政策とは根本的に違っていたと思っています。

私が鍵になると考えている歴史的な出来事は以下のとおりです。
1871年 日清修好条規(平等条約)、岩倉使節団出発
1873年 明治六年政変(西郷隆盛ら明治維新の中核人物下野)
1876年 日朝修好条規(不平等条約)

添付写真は明治維新の詳細な年表です。
「明治時代の、征韓論について 日本で征韓論」の回答画像3
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
わざわざ写真まで添付していただき、ありがとうございます。
征韓論を主張する人達と反戦論を主張する人達、それぞれが目指す政策には差異があったのですね。視点が違うと目的も変わってくるので、これ!と断定してしまうのは違うのかもしれませんね。

お礼日時:2022/05/31 23:43

ちょっと違う。

ロシアは1860年の北京条約で沿海州を入手し、ウラジオストクを不凍港として開発します。そうなると李氏朝鮮の親露派が勢いづいて政権を握るのは可能性としては考えられるが、征韓論の頃はまだシベリア鉄道もなくロシアが李氏朝鮮を侵略することを恐れた訳ではありません。征韓論の狙いは、困窮する不平士族の救済なのです。結果として大久保利通によって屯田兵制度が策定され不平士族の救済と北海道の開拓が進められることになる。日清修好条規の狙いは、近代的国際法のもとで日本と李氏朝鮮が国交を回復することで李氏朝鮮から前近代的な清の影響力を拝しようとしたものです。植民地化なんて考えていません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、征韓論を主張した理由は朝鮮を植民地化したかったのではなく、様々な権利を失い、改革に反対している士族の不満を解消するためなんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2022/05/31 01:10

上っ面論で正当化するのは、ナンセンスですけどね。

。。。そんなこと言ってしまったら、プーチンと同じです。

ロシア系ウクライナの独立、自治のためにロシアは戦争していると言うのが、ロシアの口実ですからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、政府は戦争を正当化したいだけなのかもしれないですね。
なんにせよ、戦争に正当な理由なんかないですね。

お礼日時:2022/05/31 01:01

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