今だけ人気マンガ100円レンタル特集♪

オランダ、中国ともに貿易をしていたにもかかわらず、おもな輸入品は中国産の生糸、
朝鮮からも中国産の生糸を横流ししてもらうなど、
やたらに日本は生糸を輸入してますが、当時そんなに大量の生糸が必要だったのでしょうか?

中国産の生糸なら中国から直接買い付けたほうが安いとおもうのですが、なぜオランダや朝鮮からも買い付けたのでしょう?

A 回答 (3件)

なぜ生糸を?ですが、染色技術が進歩した。

絹織物の利用者が多かった。小袖、旗等。安土桃山時代の影響を受け、公家や武将階級に限られていますが、需要が多かったのでは。鎖国までだと、まだまだ武将の財力があり、参勤交代やら幕府の財政難等に陥るのは、改革が叫ばれる頃ですし・・。
一般市民にとっては縁遠い存在。

中国から直接買い付けだけでないのは、例えば、対馬藩は、経済的に朝鮮との貿易に依存していて、国書を偽造してまで、秀吉出兵以来途絶えていた国交を回復させ、李氏朝鮮との貿易が再開されました。(己酉約条)対馬藩がもし、活発に貿易活動を行なったとしたら、日本国内に朝鮮経由の生糸が入ってくるのは仕方ないのではないでしょうか。朝鮮も北から女真族の攻防で不安で対馬藩とつながっていたかったようです。

女真族の勢力で1644年に明は滅んでいますので、鎖国の頃は、明(中国)から買い付けるのが国際情勢上ものすごく不安定かなぁ?なんて。女真は満州族で、漢民族である明とはまったく違う民族だし。鎖国時代は朝貢以外の貿易を認めていなかったため、対中貿易を担っていたのは民間の中国商人だそうですよ。密貿易は厳重に取り締まられていたから大変だったのではないでしょうか・・・

オランダからは、ヨーロッパの学問がオランダ語文献により、日本にもたらされ(蘭学)ていたことを思うと、対オランダ貿易も鎖国下で貴重だったのでないかしら?自然と生糸も入ってきますよね。無理に禁止しない限り。あくまで推測だからごめんなさいね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

やはり女真は満族なのですね。
違う疑問がここで解決されましたw

お礼日時:2006/07/24 12:01

江戸時代中期にもなると和装にも絹織物が多くなり、例えば武士の正装の仙台平の袴など皺になりにくいものが使用されますし、富裕層では絹織物が多用されるようになり高級織物は絹というのが常識になり生糸の需要は急激に増加したのです。



当時は日本の養蚕業はまだ技術的に劣っていましたから、良質な生糸は中国からの輸入に頼る他なかったのです。

No1のご回答にあるように鎖国中の貿易は制限がありましたから入港する船舶の国籍を問わず生糸の積載を求めたのです。 価格はこの場合問題になりません。

もちろんこのような事情をふまえて国内諸国では養蚕業を奨励し、技術改良に努めましたから国産生糸の品質、数量共に向上し、明治以降日本の主要な輸出品は生糸という時代を迎えました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

当時綿作りもやっと起動に乗ってきたころかと思うのですが、
まだまだ絹は大量に必要だったのですね。

お礼日時:2006/07/24 12:04

鎖国についてきちんと勉強していればわかると思いますが、各国の船は入港できる数が決まっていますので、大量に買い付けるとなれば、よその国の船を利用することになります。

用途は着物です。当時豪商や大名夫人などは、競って新しい流行の着物を求めてました。参勤交代でみな江戸にいるので、周りより貧乏な着物は切れなかったのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

一反分の布を作るのに生糸がどれくらい必要なのかわかりませんが、
朝鮮からピーク時で15万斤も輸出されていた
と、とある本に書いてあって、さらに中国からも、オランダからも、、、って一体どれだけの人が使うための量なんだろうか、、、
そんなに日本人は当時絹ばっかりきてたのか?!
と、疑問だったのです。
上層に属する人たちだけでそんなに大量の絹を消費するものなのですね。

お礼日時:2006/07/24 12:02

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qオランダが鎖国中にも貿易ができた理由

鎖国中には清とオランダが出島に限って貿易を許されましたが(他に朝鮮通信使や琉球慶賀使などはありましたが…)オランダ船来航が禁止されなかったのはキリスト教布教に熱心ではなかったということを聞いたことがありますがこの理解で正しいでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこんなにオイシイ話はないので、表から裏からアレコレと頑張っていたようです。
(以前NHKで見た歴史番組によれば、そもそも、ポルトガルとスペインは布教目的で来日するから追い出したほうがいい、と進言したのもオランダだった、という話です)

幕府としては、キリスト教に関係の無い国となら貿易しても構わなかったのですが、それぞれいろんな事情があって、「皆そろって長崎で交易」というわけではありませんでした。
逆に言えば、長崎を通して交易していなかったからと言って、日本と交流が全く無かったわけではない、ということです。
以下、知っている限りで並べておきます。

●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

これら3つについては、幕府直轄の長崎を通していなかった、というだけで、日本全体で見た場合は“交易があった”と言えます。
(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

●明→清帝国●
正式の国交は無し。民間の貿易商のみ往来。

●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

キリスト教布教に熱心でなかった、なんてレベルじゃないです(^^;)。

キリスト教布教絶対絶対やりまっせん!!! 商売一筋!!!
だから我々オランダの船とだけ仲良くしてねっ♪♪♪

とゆー強烈アピールをしまくった結果です。
何しろ島原の乱の時、幕府に協力して、篭城中の日本人キリスト教徒たちに砲撃までしてますから。
(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

当時のオランダにとって、対日本交易は結構な利益でした。
独占出来ればこん...続きを読む

Q貿易品としての生糸について

織田信長や豊臣秀吉が日本を治めていた時代の外国貿易は輸出品が銀で輸入品が生糸だとあります。しかし日米修好通商条約などを結んで鎖国が終わりイギリスなどと貿易するようになると輸入品が毛織物や綿織物や軍需品で輸出品が生糸となっています。 鎖国をしてる間に何があったんですか??輸入品だった生糸が輸出品になるなんて…………

Aベストアンサー

信長や秀吉の時代(16世紀)は、世界史の表舞台に立つことが少なかった辺境地域が、中心地域と活発な交流を持つ時期です。

中心地域が4大文明が起きたユーラシア大陸だとすると、西の辺境がヨーロッパ(大航海時代)、東の辺境が日本です。地力をつけて、海外に進出するだけの力を得たわけです。

ただ、文明の差はまだ大きく、当時貴重品とされていた生糸と絹織物、茶、砂糖などは中心地域が圧倒的な生産性を誇っていて、辺境地域で大した交易品もないヨーロッパや日本は、ただただ貴金属とそれらを交換するしかありませんでした。

今で言えば、貿易赤字を垂れ流していた状態ですね。

日本は、その状況に対して鎖国、つまり貿易を制限して金銀の流出を防ぐ道をとりました。結局、生糸などこれまで輸入に頼っていたものは、自給自足するしかありませんでした。こうして国内需要をまかなうために色々な産業が発達し、生糸などは開国時には輸出できるほどの産業に発展していました。

蛇足ですが、こうして大量産出される貴金属に頼らず、国内産業の育成を江戸時代を通じて行ったことが、結果として開国後して不平等条約下でも、日本が経済的従属の地位に落ちずに独立を保ち、近代化に脱皮できた遠因となっています。

掘り出すだけ掘り出したアフリカ・メキシコ・南米や、植民地の貴金属をあてにして産業を育成しなかったスペインやポルトガルは近代化に大きく出遅れたことを考えれば、鎖国は歴史的英断だったかもしれません。

信長や秀吉の時代(16世紀)は、世界史の表舞台に立つことが少なかった辺境地域が、中心地域と活発な交流を持つ時期です。

中心地域が4大文明が起きたユーラシア大陸だとすると、西の辺境がヨーロッパ(大航海時代)、東の辺境が日本です。地力をつけて、海外に進出するだけの力を得たわけです。

ただ、文明の差はまだ大きく、当時貴重品とされていた生糸と絹織物、茶、砂糖などは中心地域が圧倒的な生産性を誇っていて、辺境地域で大した交易品もないヨーロッパや日本は、ただただ貴金属とそれらを交換する...続きを読む

Q朱印船と奉書船

朱印船と奉書船の違いが分からなくて困ってます。
教えてください。

Aベストアンサー

朱印船は、江戸幕府から海外渡航許可の朱印状を受けた公認の貿易船です。
これに対して、奉書船は、渡航許可として朱印状のほかに老中発行の奉書を所持している貿易船のことです。
幕府が鎖国へ向かう中で海外渡航をする貿易船は制限されていきます。
1631年以降、朱印状に加えて老中奉書の所持を渡航の条件とすることで、海外渡航のハードルを高くしようとしたのです。

Qオランダは何故、鎖国中でも貿易できたのか?

中学の時の社会科教師が、クラスのやる気の無さにキレて教えてくれなかったのですが。

江戸時代に西洋の国なのにオランダが貿易を許されていたのは何故なんでしょうか?

オランダはキリスト教の布教活動はしなかったんでしょうか?

10年ぐらい気になってます。

Aベストアンサー

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・

安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵をさせた訳です。(カトリックの信徒にとっては十字架や聖母図は踏めませんからね)

ところが、そのころ日本に進出していたオランダ商人はプロテスタント系キリスト教(偶像崇拝を否定するキリスト教)信徒が多かった(ここ以降は多少あやふやな記憶ですので、あまり自信ありません)ために、「我々はキリスト教ではない。証拠に十字架なんぞはいくらでも踏んでみせる・・・」というようなやり取りがあって、「オランダはは邪蘇教(ヤソ教=江戸時代におけるキリスト教の呼び名です)ではない」というのが幕府の公的見解になって、出島でのみ貿易を許可された・・・という話だったと思います。

ただ、実際は、幕府もオランダが「ちょっと変わった」キリスト教であるということは知っていたようですが、鎖国しているとはいえ、世界の状況も知っておいた方が良いということで、目をつぶっていた・・・という話もあります。

長くなってしまいましたが参考になれば・・・

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・

安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵を...続きを読む

Q太政官札

太政官札とは、初の全国通用貨幣であるということと習いましたが、
この太政官札が発行されたことの意義はどんなことがあげられますか?
何か検索すると江戸時代の貨幣が存在していたから、その貨幣との兼ね合いで発行されたという感じのことが書かれてあったのですが、
江戸時代の貨幣というのは、金貨であれば両、分、朱ですよね?
ちょっといまいちなので教えてください。

Aベストアンサー

#2です。お礼ありがとうございます。

大政奉還が為されたといっても、まだ幕府と新政府は戦争をしていました。例えは悪いですが、今のイラクと同じ状態です。

この時点では、幕府→新政府と外国への窓口は変わりましたが、各藩はどちらにつくか決めかねていました。もちろん軍事力も温存しています。

新政府としては、とにかくはやく日本国内に主権を確立しなければなりませんでした。そのために太政官札を発行し、通貨と経済をコントロールできるようにしたかったのです。これが第1段階です。しかし、太政官札には信用がありませんでした。
その後、天皇の勅旨と各藩がそれに准じるという約束を経て、ようやく太政官札に信用が生まれます。ようやく国内通貨としての地位を確立するのです。これが第2段階です。
そして、通貨単位の変更(円・銭・厘)が行われ、日本国内の通貨体系がひとつになります。(江戸時代は、関東が銀本位制・関西が金本位制で別の通貨体系、藩も藩札など、それぞれ別の通貨体系を持っていました)これで3段階です。
そして、日本銀行券(今の日本の紙幣と同じ)の登場です。ここまで15年かかっています。

最初の太政官札は、どちらかというと借金のために発行したという意味合いが強いのです。新通貨体系に成ってから発行した太政官札は、確かに金や銀の兌換を保障し、藩札の回収や金本位・銀本位をひとつの枠に収めることに成功しました。これは政府に信用があって初めてできることです。
そして、お金(紙幣に限らず)を回収することが出来て初めて、殖産興業にお金を回すことができます。最初は太政官札だけでなく国民銀行券(日銀ではない)もあったようですが、これも政府の信用があって、お金を回すことがでるということに注意が必要です。

#2です。お礼ありがとうございます。

大政奉還が為されたといっても、まだ幕府と新政府は戦争をしていました。例えは悪いですが、今のイラクと同じ状態です。

この時点では、幕府→新政府と外国への窓口は変わりましたが、各藩はどちらにつくか決めかねていました。もちろん軍事力も温存しています。

新政府としては、とにかくはやく日本国内に主権を確立しなければなりませんでした。そのために太政官札を発行し、通貨と経済をコントロールできるようにしたかったのです。これが第1段階です。しかし、...続きを読む

Q鎖国~ポルトガル・スペイン来航禁止の理由~

鎖国政策の中で、1624年にスペインが来航禁止、1639年にポルトガルが来航禁止になっています。その背景はやはりキリスト教対策と考えていいと思うのですが、オランダはキリスト教を日本に布教しなかったから(キリスト教信者がいたとしても)、来航禁止にならなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

キリスト教の布教が無くても
鎖国政策の可能性は十分にあったと思います。

というのも当時のヨーロッパ諸国は
植民地政策(とそれに伴う奴隷貿易)が
広く行われていてその隠れ蓑として
キリスト教布教が使われていました。

鎖国政策といえば
江戸幕府になってからのものが有名ですが
それよりも前に元々キリスト教を推奨していた
豊臣秀吉がキリシタンの危険性にいち早く気が付いて
キリスト教を禁教にしています。

江戸時代に入ってからの鎖国政策は
キリシタンの危険の排除に加えて
対外貿易の利益独占の為に
より徹底して行われた政策です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html

Q江戸時代の貿易について

江戸時代に長崎の出島でオランダと貿易をしていましたが、オランダからの輸入品や日本の輸出品と言うのはお互い「これが欲しいから送ってくれ」みたいなリストがあったんでしょうか?
それとも、これはオランダや江戸幕府が勝手に何を送るか決めていたのでしょうか?

わかりにくい文で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

長崎貿易は、時期により取引の仕方が異なっていたようです。松井洋子「長崎出島と唐人屋敷」によると以下のように時期区分されます。
(1)糸割符制度(1641-54)・・・糸割符年寄が売手方と話し合って生糸の等級ごとの統一価格を決め、一括で買い取る。
(2)相対貿易 (1655-71)・・・売り手と買い手の間で価格を決定する。1668年には輸出入の品目を制限し、オランダへの銀輸出を禁じる。
(3)市法商法 (1672-84)・・・奉行が全輸入品の買取り価格を決定し一括購入する。
(4)定高制  (1685-  )・・・1年の貿易額を中国船は銀6,000貫、オランダ船は金50,000両、私貿易品(脇荷)は銀400貫に制限する。
(5)正徳新例 (1715-  )・・・A.銅の輸出額を450斤と定め、中国船へは不足分として俵物等を渡す。B.オランダ船は2艘、中国船は30艘とし、積荷の銀高を決める。C.中国船には信牌の所持を義務付ける。D.輸入商品は日本側で価格を決定する。

基本的には、日本側は生糸が欲しく、オランダ側は金銀が欲しかった。しかし、貿易をすると日本の金銀がどんどん海外へ流出してしまうので、これに歯止めをかけるために、何度も取引方法の改革をしたようです。回答になっていないかもしれませんが、参考になれば幸いです。
正徳新例については、以下のサイトを参考にしてください。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6%E4%BA%92%E5%B8%82%E6%96%B0%E4%BE%8B

長崎貿易は、時期により取引の仕方が異なっていたようです。松井洋子「長崎出島と唐人屋敷」によると以下のように時期区分されます。
(1)糸割符制度(1641-54)・・・糸割符年寄が売手方と話し合って生糸の等級ごとの統一価格を決め、一括で買い取る。
(2)相対貿易 (1655-71)・・・売り手と買い手の間で価格を決定する。1668年には輸出入の品目を制限し、オランダへの銀輸出を禁じる。
(3)市法商法 (1672-84)・・・奉行が全輸入品の買取り価格を決定し一括購入する。
...続きを読む

Q写実主義と自然主義

日本文学の、写実主義と自然主義の違いがよくわかりません。
写実主義は明治初期に坪内逍遥が提唱して二葉亭四迷が確立したものですよね?
自然主義は明治末期より田山花袋などの私小説的なものをいうみたいですが、なんだかどっちも人間の心理とか真実とかを描き出すことには変わり無いと思うんですが・・。
主義というだけには何か決定的なものはないのでしょうか?ただ単に時期が違うというだけなんでしょうか?日本の自然主義はヨーロッパのものとはまた違うなどあるみたいですが・・。
便覧見ても人に聞いてもいまいちしっくりこなくてしこりを残してます。

Aベストアンサー

 実は僕も疑問に思いまして、調べてみたことがあるんです。
 本当に、疑問に思われても無理もないことだと思います。というのは、明治の文学史を見てみると、ひっじょーに奇妙なことが起こっているからです。
 まず、写実主義の方は、おっしゃるとおり、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、二葉亭四迷の『浮雲』を本格的な出発点とする流れです。言文一致が特徴ですね。文字通り、現実を描写するという意味で写実的でした。
 で、自然主義にいく前に、浪漫主義という流れがあったのをご記憶でしょうか。雑誌『文学界』を拠り所に、北村透谷や初期の森鷗外らが活躍しました。その『文学界』の創刊当初のメンバーに、あの島崎藤村がキッチリ顔を見せているのです。彼は、浪漫主義抒情詩人として出発していたのでした。これがハナシをややこしくする元なんです。つまり…日本においては、自然主義というのは、写実主義からではなく、浪漫主義から派生したと言える部分がある、ということです。ヨーロッパとは全然ちがう経緯を辿っている。そのため、「自我」であるとか「内面性」であるとか、そういう浪漫主義的要素を多分に引きずることになりました。
 さらに、日本における自然主義の出発点をなした、藤村の『破戒』、これがまた問題なんです。
 ヨーロッパにおける(つまり、もともとの)自然主義は、写実主義の客観的描写姿勢を受け継ぎつつ、より科学的・実証的・体系的に現実を捉えようとする、実験的な文学様式でした。現実を、あるがままに、しかも、歴史的状況や因果関係や社会全体の中での位置付けも視野に収めて、現実のナマの姿を浮き彫りにしよう…みたいな。
 で、『破戒』なんですが、まず、被差別部落問題を背景としている点に、上記の意味での自然主義の特徴を認めることができます。一応。あくまでも、一応。
 ところが、作品全体として見ると、明らかに焦点は主人公・瀬川丑松の内面的苦悩に置かれています。被差別部落問題は、ただ単に「背景」でしかなく、作品を通してこの問題の核心を追究しようという姿勢は、もうぜーんぜん見られない。つまり、本来の意味での自然主義文学としては、要件を十分に満たす作品ではなかったのです。
 にもかかわらず、『破戒』は発表当初から「自然主義小説」として宣伝されてしまった。おまけに、小説としての完成度が高かったことから絶賛を浴びた。大成功を収めた。…これが、皮肉なことに、日本における自然主義文学の方向を決定してしまったのです。社会的視点を欠いた自己告白的小説が「自然主義だ」ということになってしまった。藤村自身が、「いやー、実はねー、自然主義って、ほんとはこうなんだよ」と、ちゃんとフォローするような仕事をしてくれていればよかったかもしれませんが…やってないんです、結局。
 こういういきさつで、要するに、日本では写実主義も自然主義も、中身に大したちがいはないんです。強いて言えば、自然主義の方は、「浪漫主義混じり」のせいで内面描写に突っ走ることになり、自己告白が露悪的な方向に傾きがちになった点に、写実主義との違いがあるでしょう。写実主義の方にも露悪的なものはありましたが、どちらかというと、「現実って、こんなに厳しくて悲惨なんだよ」という、現実世間の描写でしたから。

 どうでしょ? これで、「しこり」、消えます?

 実は僕も疑問に思いまして、調べてみたことがあるんです。
 本当に、疑問に思われても無理もないことだと思います。というのは、明治の文学史を見てみると、ひっじょーに奇妙なことが起こっているからです。
 まず、写実主義の方は、おっしゃるとおり、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、二葉亭四迷の『浮雲』を本格的な出発点とする流れです。言文一致が特徴ですね。文字通り、現実を描写するという意味で写実的でした。
 で、自然主義にいく前に、浪漫主義という流れがあったのをご記憶でしょうか。雑誌...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q海外の日本人学校の先生になるためには?

進路に悩む高校生です。
ちょっとだけ「教師」という仕事に憧れています(なる確立は低いですが;)。
私は海外の日本人学校に通ったことがあり、もし教師になるなら海外に行きたいと思ったので、質問します。

・海外の日本人学校にいくには「面接のみ」と書かれていましたが、本当に筆記試験はないんですか?
・日本人学校は大体小学部と中学部が一緒だと思いますが、教師の免許はどっちも必要なんですか?
・行き先(**国の**学校とか)は選べるんですか?
・英語ができなくても、行き先の国の言葉がわかっていれば大丈夫ですか?

あと、詳しくのっているサイトなどありましたらお願いします。

Aベストアンサー

日本人学校の教員になる方法は、大雑把に分けると2つです。
一つは、国内の公立学校に勤務すること。つまり、普通に学校の先生になることです。年に一回、海外日本人学校派遣の募集が来ます。それに手を挙げれば良いのです。基本的には、都道府県単位で選抜されます。たしか面接だったと思います。ただ、その前に当該の市区町村教育委員会の段階で実質的な選抜があると思ってよいでしょう。
この場合。
・海外の日本人学校にいくには「面接のみ」と書かれていましたが、本当に筆記試験はないんですか?
そういうことです。すでに、教員として実績があるわけですから。

・日本人学校は大体小学部と中学部が一緒だと思いますが、教師の免許はどっちも必要なんですか?
小学校の教員が手を挙げた場合には、小学校に赴任することになります。ただ、持っている教員免許の種類によっては、現在小学校だけれど、中学校で教えて、ということもあり得ます。

・行き先(**国の**学校とか)は選べるんですか?
選べません。これは、派遣をする側が決めます。逆に希望を言うと、全然違うところに行かされる、というジンクスがあります。

・英語ができなくても、行き先の国の言葉がわかっていれば大丈夫ですか?
この募集で選抜された場合には、茨城県つくば市で長期の研修を受けることになっています。言葉については、それほどできなくても大丈夫です。

こちらの方法で現地に行く場合には、国内の学校は休職扱いとなり、帰国後は元の通り、教員に復帰します。

もう一つの方法は、現地の日本人学校の募集に応募することです。こちらは、現地採用ですから。
・海外の日本人学校にいくには「面接のみ」と書かれていましたが、本当に筆記試験はないんですか?
採用基準や方法は、多様です。ただし、前の方が海外女子教育振興財団を紹介していました。この財団で採用をしていたはずです。

・日本人学校は大体小学部と中学部が一緒だと思いますが、教師の免許はどっちも必要なんですか?
一般的には、免許だけではなく、実務経験が必要ですよ。

・行き先(**国の**学校とか)は選べるんですか?
こちらの場合は、ある程度選べますよね。でも、たいてい発展途上国です。

・英語ができなくても、行き先の国の言葉がわかっていれば大丈夫ですか?
ケースバイケースでしょう。

日本人学校の教員になる方法は、大雑把に分けると2つです。
一つは、国内の公立学校に勤務すること。つまり、普通に学校の先生になることです。年に一回、海外日本人学校派遣の募集が来ます。それに手を挙げれば良いのです。基本的には、都道府県単位で選抜されます。たしか面接だったと思います。ただ、その前に当該の市区町村教育委員会の段階で実質的な選抜があると思ってよいでしょう。
この場合。
・海外の日本人学校にいくには「面接のみ」と書かれていましたが、本当に筆記試験はないんですか?
そうい...続きを読む


人気Q&Aランキング