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No.3
- 回答日時:
なぜ生糸を?ですが、染色技術が進歩した。
絹織物の利用者が多かった。小袖、旗等。安土桃山時代の影響を受け、公家や武将階級に限られていますが、需要が多かったのでは。鎖国までだと、まだまだ武将の財力があり、参勤交代やら幕府の財政難等に陥るのは、改革が叫ばれる頃ですし・・。一般市民にとっては縁遠い存在。
中国から直接買い付けだけでないのは、例えば、対馬藩は、経済的に朝鮮との貿易に依存していて、国書を偽造してまで、秀吉出兵以来途絶えていた国交を回復させ、李氏朝鮮との貿易が再開されました。(己酉約条)対馬藩がもし、活発に貿易活動を行なったとしたら、日本国内に朝鮮経由の生糸が入ってくるのは仕方ないのではないでしょうか。朝鮮も北から女真族の攻防で不安で対馬藩とつながっていたかったようです。
女真族の勢力で1644年に明は滅んでいますので、鎖国の頃は、明(中国)から買い付けるのが国際情勢上ものすごく不安定かなぁ?なんて。女真は満州族で、漢民族である明とはまったく違う民族だし。鎖国時代は朝貢以外の貿易を認めていなかったため、対中貿易を担っていたのは民間の中国商人だそうですよ。密貿易は厳重に取り締まられていたから大変だったのではないでしょうか・・・
オランダからは、ヨーロッパの学問がオランダ語文献により、日本にもたらされ(蘭学)ていたことを思うと、対オランダ貿易も鎖国下で貴重だったのでないかしら?自然と生糸も入ってきますよね。無理に禁止しない限り。あくまで推測だからごめんなさいね。
No.2
- 回答日時:
江戸時代中期にもなると和装にも絹織物が多くなり、例えば武士の正装の仙台平の袴など皺になりにくいものが使用されますし、富裕層では絹織物が多用されるようになり高級織物は絹というのが常識になり生糸の需要は急激に増加したのです。
当時は日本の養蚕業はまだ技術的に劣っていましたから、良質な生糸は中国からの輸入に頼る他なかったのです。
No1のご回答にあるように鎖国中の貿易は制限がありましたから入港する船舶の国籍を問わず生糸の積載を求めたのです。 価格はこの場合問題になりません。
もちろんこのような事情をふまえて国内諸国では養蚕業を奨励し、技術改良に努めましたから国産生糸の品質、数量共に向上し、明治以降日本の主要な輸出品は生糸という時代を迎えました。
No.1
- 回答日時:
鎖国についてきちんと勉強していればわかると思いますが、各国の船は入港できる数が決まっていますので、大量に買い付けるとなれば、よその国の船を利用することになります。
用途は着物です。当時豪商や大名夫人などは、競って新しい流行の着物を求めてました。参勤交代でみな江戸にいるので、周りより貧乏な着物は切れなかったのでしょう。
この回答へのお礼
お礼日時:2006/07/24 12:02
一反分の布を作るのに生糸がどれくらい必要なのかわかりませんが、
朝鮮からピーク時で15万斤も輸出されていた
と、とある本に書いてあって、さらに中国からも、オランダからも、、、って一体どれだけの人が使うための量なんだろうか、、、
そんなに日本人は当時絹ばっかりきてたのか?!
と、疑問だったのです。
上層に属する人たちだけでそんなに大量の絹を消費するものなのですね。
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