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中国の冊封体制下で朝鮮は琉球より格下だったという記事をネットで見た記憶があります。
これは本当ですか?朝鮮と琉球(沖縄)では昔も今も人口で50倍以上の差があると思います。もし本当なら中国は朝鮮をいじめていたとしか思えないのですがどうでしょうか?

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A 回答 (6件)

いじめではありません。


中国4千年の歴史で4千年のあいだ朝鮮はただの属国でした。

http://peachy.xii.jp/korea/korea2.html

琉球王朝のほうが格上です。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
>中国4千年の歴史で4千年のあいだ朝鮮はただの属国でした。
納得です。

お礼日時:2012/11/05 16:04

 たとえば。

川の中州に猫がいる。こちらの岸には虎がいる。どちらを警戒し、厳しく処するべきか。ちなみに、川の対岸には猪がいた。中国から見た周辺情勢は、そういうことです。

この回答への補足

回答有難うございます。
中国の冊封体制下で朝鮮は琉球より格下だったというのは本当であるとの回答ですが、根拠を紹介してください。

補足日時:2012/11/05 16:00
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日本もドイツも、国際連合に対する拠出金は大きい


http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jp_un/yosan.html
だが、常任理事国にはなれていない、格下です。

なぜか?

そもそも国連(United Nations)は日独に対して戦った連合国(United Nations)が作った組織だからです。
※ ドイツの分割統治が 米英仏ソ の四カ国で、日本の分割統治(案)が英米中ソ の四カ国であったことに端的に示されています。連合国にいた他の国は、この分割統治に加わっていません。

ということを考えると、

朝鮮は、清朝と戦って負けた敗戦国の位置づけであり、琉球は戦っておらず、単純に柵封を受けただけです。
国力とかなんかは関係ない。仮想敵国(あるいは敗戦国)か友好国かでの扱いのちがいです。

この回答への補足

回答有難うございます。
中国の冊封体制下で朝鮮は琉球より格下だったというのは本当であるとの回答ですが、根拠を紹介してください。

補足日時:2012/11/05 16:00
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地勢の差です。

朝鮮半島は満州と陸続きに接しています。しかし琉球王国は中国大陸とは海を挟んで遠く離れています。その違いが冊封体制下での朝鮮と琉球の序列の違いになるのです。

満州では度々、勢力交代がありました。契丹→金→モンゴル→明→後金。

中原での政権交代より先に満州で政権交代が起こります。中原が万里の長城で守られているのに対し、満州は何も無いただの草原ですから。

新勢力が満州で台頭してきたときに、いつも朝鮮はそれまで旧勢力に朝貢してきただけに、新勢力と敵対することになります。朝鮮は旧勢力への忠誠にこだわり、新勢力の台頭を認めないという保守的な立場に拘ってしまうのです。そうして朝鮮は新勢力と激しく対立して度々攻め込まれたりしました。朝鮮と満州の境には万里の長城など無い。朝鮮が抵抗しても敵わず、満州は旧勢力と新勢力が完全に入れ替わってしまいます。そうなると覇権を握った新勢力からすれば朝鮮はいままで散々逆らってくれたという立場になってしまうのです。だから序列は下に落とされます。

しかし琉球王国は、そうじゃない。新勢力が琉球王国の存在に気づくのは中原を完全に納めた後です。旧勢力と新勢力が完全に入れ替わった後なのです。気づくというより、中原の勢力交代が終わったのを見計らって琉球王国の方から進んで朝貢にやってくるのです。だから琉球王国は新勢力からすれな従順な朝貢国に見えます。他の朝貢国は琉球王国をみならえとばかりに琉球王国の序列が上がるのです。

この回答への補足

回答有難うございます。
中国の冊封体制下で朝鮮は琉球より格下だったというのは本当であるとの回答ですが、根拠(中国の文献等)を紹介してください。

補足日時:2012/11/05 16:01
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「頒封」と「領封」の違いについてでしょうかね?



【頒封・領封】
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/topics …

ご承知のように、支配権がはっきりしない時代から「グスク時代(城塞を中心とした琉球王国形成期)」そして琉球王国が成立してゆくわけなのですが、10~12世紀の東アジア地域は、宋(中国)の海商を中心とした自由貿易の時代であり、海商たちは中国の陶磁器などをアジア各地に輸出し、日本からは美術工芸品や薬の材料となる「夜光貝」や「硫黄」などを出すといった感じなのですが、夜光貝そのものは琉球列島にありますので、日本からの様々な物が夜光貝などと交換されたのでしょう。特に注目されるのが、長崎産の「石鍋」ですね。滑石をくりぬいた保温性の高い石鍋は4個で牛一頭の価値がある高価なものとされ、琉球列島では波照間島にいたるまでの広い範囲で出土します。
このような事から、日本にとっての琉球といった地域は交易的に魅力的な地域であり、実際に日本人商人の活躍も波照間島までの広い範囲であった事が指摘できると思います。

当然そのような自由貿易の時代は、琉球における社会変化を促し、13世紀には「按司(あじ)」と呼ばれる地域豪族が出現し琉球の政治統一がはかられるわけです。これらがいわゆる「グスク時代」とよばれます。その様な中で琉球は、中国やアジア諸国に対する直接交易に乗り出すなど、その成立初期から順風満帆な滑り出しであったと言えるのではないでしょうか?

そして14世紀。東アジア地域に大きな転換期が生まれます。1368年に江南地域を基盤とした明が成立しますと、明は冊封した国家との朝貢貿易のみを認め、宋にみられるような自由貿易が衰退するんです。
では、貿易立国たる琉球王国はどうであったか?といえば、琉球王国として冊封され、しかも冒頭に申し上げたように「頒封」などの優遇措置を受けるんです。その結果、琉球王国は海外貿易をテコに繁栄してゆくといった具合なんですね。

ですから、その国力を別として、中華秩序の中で琉球地域は独自性を発揮できる条件があり、また朝鮮と比べた場合、中国にとっては、その独自性を生かすことこそが国益にかなう国。その様な国の中の一つの地域が琉球であったということなのでしょう。ですから、「頒封」といった、国家として認めながらも、その国家運営自体にはオブザーバーを派遣させてもらいますよ。といった特別な関係が生まれたのでしょう。

冊封体制のありかたって、「支配・被支配」「征服・被征服」などのパワーバランスだけでは上手に読み取れない部分もありますからね。
ですから、そもそも「格下」という表現が曖昧なので、質問者様も少々理解に手こずっているのかな?と客観的に思いました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/11/05 16:05

欧米人の旅行記とかでの内容ですが



中国の偉い人が朝鮮を訪れたときは朝鮮人が総出で歓迎させられていたり、毎年数千人の美女を中国に献上とかの奴隷国扱い

その結果、その当時の朝鮮の首都は、凄い酷い状態+ブサイクなじょせいばっかり

沖縄とかではそういうことは皆無

いじめていたと言うよりは奴隷状態が正解です
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/11/05 16:05

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Q朝貢と冊封体制について

タイトルのことを教えてください。

Aベストアンサー

●朝貢:
自国の親分格にあたる大国に、貢物を持っていくこと。

●冊封体制:
国家同士で親分子分の関係を結ぶことで出来る、ピラミッド形式の国際秩序のこと。
親分の国(宗主国)が、子分の国(朝貢国)の国家元首を任命することを“冊封”という。

子分側は親分側にオドされてイヤイヤ子分になる時もあれば、メリットを見越して進んで子分になることもある。
子分国の元首は“親分国のお墨付き”というハクが付くため、国内外のライバルより上に立てるし、親分から軍隊を借りることも可能(一歩間違うと乗っ取られるけど)になる。

…だと、思います。
人同士国同士で身分差があることが前提なので、#1さんの回答にある現在の国際社会での力関係には当てはまらないように思います。

あと、宗主国と各朝貢国との力関係は、時代や国によってケースバイケースで一定していません。
ほぼ属国状態の場合もあれば、形式的に親分子分になっているものもあります。
この場合、宗主国は朝貢国の内実には一切ノータッチ、朝貢国の代替わりの度に追認の使者がやってきて宴会してオシマイです。
(#2さんの回答にある琉球王国はこのケース)

冊封体制の宗主国としては中国歴代王朝が有名ですが、タイ王国とかオスマン=トルコも朝貢国を持っていました。

●朝貢:
自国の親分格にあたる大国に、貢物を持っていくこと。

●冊封体制:
国家同士で親分子分の関係を結ぶことで出来る、ピラミッド形式の国際秩序のこと。
親分の国(宗主国)が、子分の国(朝貢国)の国家元首を任命することを“冊封”という。

子分側は親分側にオドされてイヤイヤ子分になる時もあれば、メリットを見越して進んで子分になることもある。
子分国の元首は“親分国のお墨付き”というハクが付くため、国内外のライバルより上に立てるし、親分から軍隊を借りることも可能(一歩間違うと乗...続きを読む

Q日本と琉球は、それぞれどのようにして中国の冊封体制から抜けたのですか

日本と琉球は、それぞれどのようにして中国の冊封体制から抜けたのでしょうか。

調べた限りでは、

●日本は室町時代までは続け、江戸時代の途中、中国で満州国が起こるのに乗じて辞めた???

●琉球は島津氏など日本が後から占領に乗り出したために清が反発し、廃藩置県後まで対立は続いたが、日清戦争で解決???(下関条約には記述無し?)

と、あいまいです。
通説では具体的にどのようになっていますでしょうか。

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

足利義満の次の将軍の義持は、冊封を受けるよう薦められたのを拒否したましたが、次の義教の時には、復活し、冊封使を受けた記録(「満済准后日記」)も残っています。当時の明は、朝貢の形でしか貿易を認めておらず(それ以外は密貿易になる)、朝貢は莫大を利益をもたらす事が、足利将軍を形式的な冊封体制に入らせた動機です。(遣明船自体は1547年まで続いています。)
また、義持の例でわかるように、こちらから冊封を求めなければ、中国側にそれを強制する力は当然無く、自然にその体制から抜けられました。
国境を接していた朝鮮と、海を隔てた日本とでは、中国が及ぼせる影響力は全く違う、という事でしょう。
琉球も同じ事で、いわゆる琉球処分に対しては、清もかなり反発したらしいのですが、実力行使する力はなく、そのままとなりました。

Q韓国は2000年以上中国の属国だった?

韓国が2000年ほどのあいだ中国の属国だったとよくネットで言われていますが、ソースはあるのですか?

Aベストアンサー

 短く言えるのに気づきました。
1。韓国(大韓民国)は建国以来、53年間中国の属国には一度もなっていません。

2。アジアで2000年続いた政府はありません。

3。2000年前、東アジアで文字があったのは後漢だけですから、それ以外の地域についての記録は当時の後漢の「書き言葉」しか残っていません。ですからそれ以外の地域、例えば東の無文字文化(=東夷=今の北朝鮮、韓国、日本など)は自己主張の文献を残していません。まあ文字のあったただ一つの文化に都合のいいことだけ残っているという事です。

 ネットでお読みになったものはあまり信用できないようですね。

Q韓国人が一発で黙る歴史の真実

東アジアでは昔から「王」は「皇帝」の家来です。
従って朝鮮王と名のることは中国皇帝の家来ですと宣言することです。(日本は天皇がいた。)
このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

Aベストアンサー

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、李氏朝鮮は明や清に朝貢、冊封していた事は認めています。
もし、そう言う認識が韓国に無いのならばこのドラマを作った監督は韓国マスコミや民衆に袋叩きになっていると思います。

中国に対しても韓国5000年の歴史と大統領が発言したりして中国より歴史があると言ったりしています。歴史観でほんの少しでも日本寄りの発言をすると韓国メディアや国民から袋叩きにあって社会的に抹殺されます。
それがソウル大学の教授でもですよ!
まだ、社会的な抹殺で殺人でないだけ良いですが…
(添付YouTubeを見てください)

韓国の有識者は日本併合(植民地)時代の本当の歴史等を知っているとは思いますが全体としては臨時政府などと言い方を変えたり、テロリストを反日であれば英雄にしてしまうように都合のいい歴史観にしています。
考古学的に何の検証もしていない神話レベルの話で韓国5000年の歴史と大統領が発言してもはばからない国です。
現在は日本は、歴史は歴史で神話とは別というのが日本人の共通認識のはずですが韓国人がどこまで区別しているのか、全く分かりません。

何せ、韓国では日本は悪でなくてはならない国であり、韓国は常に正義であり善であると教えている国です。
今の韓国には日本人が何を言っても逆なでする事はあっても肯定する人はなく無駄な気がします。
多少の隠れ親日派は作れるかもしれませんが公に口にする人はいないと思います。
韓国で権威のある歴史学者、大学の教授の発言でも親日でなくとも日本を少しでも擁護する内容であれば叩かれます。

李氏朝鮮末期の記録は欧米の記録や写真などが多少なりとも存在しています。
そう言った物、資料を直視する韓国人は少ないのです。
今の韓国と日本で歴史観を埋めようとしても一方的に韓国の歴史観を押し付けられるだけです。
今のうちに、そう言った客観的な資料を集めておくとか、日本、中国の文献を集めておくとか準備しておくくらいしかないと思います。
あまり人の事を言える立場では無いですが慰安婦問題なら「韓国軍のベトナム人大虐殺」「米軍慰安婦」とかで対応するしかない。

添付YouTubeでも言っているように
韓国とは暫く距離を置いて付き合うのが無難だと思います。

【日韓問題】 韓国人から見ても異常な…韓国人ブロガー・シンシアリー氏 .
↓↓(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=cluHbI5i7gU

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、...続きを読む

Q韓国の両班 (ヤンバン) について教えて下さい

個人的に韓国に興味があって、結構勉強してきたつもりなのですが、どうしても分らないのが、両班 (ヤンバン) という身分制度についてです。

最初は、日本の貴族のような王族をとりまく特権階級かな、と思っていたのですが、どうもそれだけではないようです。 もっと精神文化的な意味が強そうです。

そこでお教えいただきたいと思います。

1.もし、両班が貴族階級なら、それを示す何らかの象徴か、代々伝わるような両班という身分を証明する何かがあるように思うのですが、そういう具体的な物品はありますか?  つまり、何もなくても 「自分は両班だ」 と言えば、通用したのか? また、娘を王族に嫁がせるような事はあったでしょうか?

2.今でいう公務員、または村長だったのでしょうか?  または、地方にあっては、中央政府の出先機関のような仕事を普段していたのでしょうか?  つまり、年貢の取立てや、新しい法律や条令を農民に啓蒙する任務とか、あったのでしょうか?  それと、主たる経済的収入源は?

3.なぜ両班は肉体労働を蔑視して、雨が降り出しても決して走らない、とか優雅さを求めるようになったのか?

4.文班と武班を兼ねたのが、両班と聞きましたが、それでは、両班は武道に長けていたのか?  肉体を動かす事を極端に嫌う両班に武道ができたのか?

5.本当は両班は尊敬どころか、農民や一般市民から、とても嫌われた存在だった、と聞いた事があります。 本当でしょうか? その理由は?  もし事実なら、なぜ今の韓国で良い意味で使用されるのでしょうか?

今まで聞いた範囲でのイメージとしては、労働など一切しないで、花鳥風月を賞でたり、儒教や天下国家を論じながら酒を飲んで一日を過ごす、グータラ階級という感じがして仕方ありません。

両班について書かれた文献を読んだ事がありますが、とても難しいので、分かりやすくお教え下さい。

個人的に韓国に興味があって、結構勉強してきたつもりなのですが、どうしても分らないのが、両班 (ヤンバン) という身分制度についてです。

最初は、日本の貴族のような王族をとりまく特権階級かな、と思っていたのですが、どうもそれだけではないようです。 もっと精神文化的な意味が強そうです。

そこでお教えいただきたいと思います。

1.もし、両班が貴族階級なら、それを示す何らかの象徴か、代々伝わるような両班という身分を証明する何かがあるように思うのですが、そういう具体的な物品は...続きを読む

Aベストアンサー

両班制度は時代ともに変遷しており非常に複雑なもので一概にこうだということは出来にくいです。

先にご質問についてですが一般的なことと思ってください。

1.貴族階級と考えるとわかりにくいかもしれません。むしろ日本で言う官僚制度に近いものです。高級官僚になるための科挙(試験)は常民にも開かれていましたが実質的には両班に独占され、相互に血縁関係を結び、現在でも韓国に残る「族譜」(系図)を作成し排他性を保っていました。この「族譜」が身分を証明するものに他ありません。例えば最近あった事件のように突然「●●宮家」だといっても通用しないのと一緒ですよね。

2.国家公務員として考えてください。トップは総理大臣みたいな高官になる人もいれば地方行政の長もいるわけです。高級両班は首都に居住していましたが出身地と密接な関係をもち京在所をもちコントロール使用としていました。地方在住両班は自治的な法律(郷約)をもち裁判権を行使して一般民衆を支配しました。収入源ですが今で言う地方税の収入が合ったわけですよね。

3.朱子学の影響です。学問が全ての中心という気風があったため優雅さと言うよりも、言葉では言いにくいですが自然の理であるといった思想だからです。
いわば支配階級はみんな学者さんという世界ですよね。肉体労働を蔑視したというよりもホワイトカラー&ブルーカラーといったような思想があったことは確かです。また身分制度も影響しています。
両班・・支配階級
中人・・下級両班(技術官僚)
常民・・一般人民(労働者)
奴ひ

4.元々は中国に起源を持ち国家の会合の東班(文官)西班(武官)から来ています。だから武道ではないわけですね。ちなみに両班の支配下に武人がいたわけですから現在の日本やアメリカと同じようなシビリアンコントロール(文民統制)です。

5.当然支配階級ですから通常は嫌われると思いますよ。16世紀の日本軍17世紀の清軍の進入により国家の財政危機を打開するため政府が積極的に売位売官を行ったことと族譜の偽造や戸籍の虚偽が多くなり17世紀以降両班の人口が非常増えました。1894年の甲午改革によって身分解放が行われ両班特権が消滅しましたが彼らの影響力は消滅することはなく社会意識は変化しませんでした。

もともと両班は法律や規定によって定められた志度ではないのと、李朝から続く両班への上昇志向、また、「族譜」は両班の同族のみで編纂されていたのが近年では同姓同本(本籍と姓が同じ)の人を網羅するようになって多くの人たちが両班の末裔意識するようになり社会全体に広がったわけです。

両班制度は時代ともに変遷しており非常に複雑なもので一概にこうだということは出来にくいです。

先にご質問についてですが一般的なことと思ってください。

1.貴族階級と考えるとわかりにくいかもしれません。むしろ日本で言う官僚制度に近いものです。高級官僚になるための科挙(試験)は常民にも開かれていましたが実質的には両班に独占され、相互に血縁関係を結び、現在でも韓国に残る「族譜」(系図)を作成し排他性を保っていました。この「族譜」が身分を証明するものに他ありません。例えば最近あ...続きを読む

Q琉球の兵が薩摩に対抗できなかった理由 1609年

1609年に薩摩の兵3000が琉球に侵攻し4000の琉球の兵が破れて和睦のあと支配されることになった件で疑問があります。
帆船で長期航海を行い(激しい船酔いや士気の低下も想定される)、兵糧も十分ではなく土地勘もない薩摩の兵が、なぜ琉球を短期間で侵略出来たのでしょうか?琉球の方が交易も活発で薩摩よりも豊かであるような気がします。また薩摩は関ヶ原で直前に兵力を失っているとも思えます。
なぜ薩摩が琉球に侵略できたのでしょうか?琉球の兵力、軍備、他国との戦闘(琉球が他国を侵略したような事実もあれば)など付随する情報がありましたらお願いします。薩摩側の被害も教えてください。

Aベストアンサー

薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。

その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で着き、次の沖縄本島にも1日で着いています。
島々での戦闘があったから薩摩から沖縄本島への到着は20日以上かかりましたが、航海日数だけで言えば必ずしも長くありません。これを長期航海と呼べるのか・・・私は疑問に思います。
また、薩摩は朝鮮出兵で水軍を出していますし、関が原の戦いにおい残存部隊が本国に戻る際には、海路であり黒田水軍と戦ってもいます。豊臣政権以降の薩摩の兵は海路を利用して派兵される事が多いので、船に慣れている者も多いと思います。

2.兵糧について・・・薩摩は琉球遠征にあたり五ヶ月分の兵糧を用意しました。3月4日に出航し4月初めには琉球は降伏しています。1ヶ月で戦いは終わっており、薩摩軍の兵糧が十分ではないというのは疑問です。

3.土地勘について・・・琉球を攻めるにあたり、水先案内人としてトカラ列島の七島衆が薩摩に味方しています。

4.豊かさについて・・・琉球が降伏した後、薩摩の検地では琉球は11万3千石と出ています。当時の島津は58万7千石ですから、琉球の石高は薩摩の五分の一です。石高から言うと、琉球が薩摩より豊かであったかについては疑問符が残ります。

5.兵について・・・諸説ありますが薩摩は関が原で1500の兵を動員し、三分の二を失ったと言われています。ただ、薩摩の石高から言えばもっと兵を動員する事は可能でした。例えば豊臣秀吉の朝鮮出兵では1万人の動員を命じられています。兵士の動員方式に百石三人制というのがありますが、これを薩摩に当てはめれば1万7千人は動員可能であり、しかもこれは限界の数値ではありません。関が原で薩摩が兵を失ったのは事実ですが、薩摩の動員能力から言うと、損害は少ないものでした。

6.薩摩の損害は100から200人ほどだそうです。

琉球軍の敗因・・・まず琉球王国の一角を占めていた奄美諸島では、薩摩の鉄砲にしてやられました。
奄美大島では島民3千人を集め砦を築いて薩摩軍に抵抗しようとしましたが、薩摩の鉄砲に敗退しました。
「棒の先から火が出る武器に驚いて逃げ去った」とか、徳之島でも「目にもとまらず棒の先から火が出て打ち倒した」とあり、どうやら奄美諸島の人達はあまり鉄砲の事を知らず、その威力の前に敗退したようです。
沖縄本島の場合は、作戦ミスです。
琉球軍は北部の良港である運天港を守るために千人の兵を今帰仁城に配置しましたが、まずここを薩摩軍に攻められ壊滅します。
薩摩軍はその後、読谷山の付近で海路、那覇港へ向かう部隊と、陸路、首里へ向かう部隊の二つに分かれ、二方向より進撃します。
琉球軍は薩摩軍が那覇港に来ると思い三千の兵をここに配置し守りを固めていました。薩摩の水軍はその那覇港の守りの堅さに一度は敗退しています。
しかし、琉球軍は陸路、進撃してくる薩摩軍の早期察知には失敗しており、気付いた時には手遅れで首里目前でこの薩摩軍を食い止めるには兵力が100人ほどしかなく、この部隊も結局薩摩軍に壊滅させられました。
そして首里に迫った薩摩軍に琉球の王は降伏を決断します。
つまり琉球軍は多いとは言えない貴重な防衛戦力を北部に派遣して各個撃破され、情報収集を疎かにして薩摩の進撃路を読み誤って陸路の防備を疎かにし、薩摩軍に敗北しました。
つまり琉球軍は情報と兵力の集中に誤りがあったための敗北です。
なお、沖縄本島の戦いでも薩摩の鉄砲に痛手を受けたようなので、薩摩の鉄砲にしてやられたという部分もあるかと思います。

薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。

その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で...続きを読む

Q中国皇帝と朝鮮の国王と日本の天皇

韓国ドラマの説明をしているサイトで、朝鮮の王様は中国皇帝の臣下なので、
皇帝のように「陛下」と呼ばれることはなく、「殿下」と呼ばれた、とありました。
日本の天皇は、「皇帝」とは書きませんが、今では「陛下」と呼ばれています。
(いつから呼びかけに陛下を使い始めたか・・・知らないのですけど)

日本の天皇は、朝鮮の王と違って、中国皇帝の臣下ではなかったということでしょうか?
このあたりの事情をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

現在、ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられています。
昔は、その場所に『迎恩門』という門がありました。
それは「朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して中国(清)の使者を迎える」という屈辱的な属国の象徴の門でした。
この迎恩門で『朝鮮の国王』が土下座して出迎えたのは、中国の「皇帝」ではなく、中国の『使者』でした。
朝鮮はそれほどまでに国家として隷属扱いされてたのです。

韓国人は『中国の属国だった惨めな歴史を隠したい』 という意識から、歴史を捏造し続けてきました。
世界中の国家や大学などが知っているように、朝鮮はずっと中国の『属国』でした。
記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っています。
留学経験のある韓国人も自ら「朝鮮は中国の属国であった。」と認めている者もいます。
そもそも朝鮮の古い国旗にまで「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。
しかし、韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたいのです。
朝鮮最古の国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という文字をカットして報道したほどです。
実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係があります。

まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位でした。
そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国でした。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣です。
朝鮮国王の身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になるでしょう。

・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。

朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉がたった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けています。

日本は聖徳太子が「日いずる所の天子~」という文章を送ったように、古代から独立国でした。
中華の冊封体制に入ったことはありません。

現在、ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられています。
昔は、その場所に『迎恩門』という門がありました。
それは「朝鮮王が9回頭を地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して中国(清)の使者を迎える」という屈辱的な属国の象徴の門でした。
この迎恩門で『朝鮮の国王』が土下座して出迎えたのは、中国の「皇帝」ではなく、中国の『使者』でした。
朝鮮はそれほどまでに国家として隷属扱いされてたのです。

韓国人は『中国の属国だった惨めな歴史を隠したい』 という意識から、歴史...続きを読む

Qなぜ清は琉球処分のとき武力に訴えなかったのでしょうか

なぜ清は琉球処分のとき武力に訴えなかったのでしょうか
かつての琉球王国は日清両属だったのですよね?
ならばなぜ日本が廃藩置県で琉球王国を強制廃止したときや
さらには琉球藩を廃止して鹿児島県に編入したときに清は武力介入を行わなかったのでしょうか?
琉球は実質薩摩へ服属していたとも聞きますが一応は清との冊封を維持していたと思うので清の立場からすればキレても良い場面だと思うのですが。
強く反発はしても結局そのときに武力介入を行わなかったのはなぜなんでしょうか?

Aベストアンサー

 形式上はそのとおりですが、実効支配をしていたのは薩摩藩です。清に限らず中国は海洋に対する関心が殆どなく、水軍と言ってもそれは主として長江での戦闘を前提にした装備であり、太平洋の荒波を越えて侵攻できる装備は保有していませんでした。
 また、当時の清はアヘン戦争にやぶれて大変な国難に遭遇しており、琉球に軍を派遣することはできないし、そんなことを考える高官は皆無だったでしょう。冊封と言っても朝貢して来た使節をねぎらい、莫大な贈り物をすることで面子を保つことだけがその関係だったのですから、使節を送って来なくなったからと言って懲罰の遠征などはやった例は皆無です。むしろそれは経費がかからなくなってホッとしているという面があるのです。日本の遣唐使にそんなに度々来るなと愚痴ったという話も残っています。

Q沖縄はもとは中国のものだったのですか?

先日、日本史の授業で「沖縄は中国のもであり、日清戦争に勝利したため日本のものとなつた。」 と教えられました。


私はずっと、沖縄は琉球王国という独立した国であったと思っていたので自分が無知だったのだと思いましたが、帰って親に聞いたところ否定されました。

そしてネットで調べると、中国人が勝手に沖縄は中国のものだったと主張しているだけ、と出てきました。

日本史の先生なのにこんな嘘を教えるとは思えずどれを信用していいのかわかりません。

結局、琉球はどのような歴史で日本の沖縄県となったのですか?
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

冊封関係を理解しないと難しいのではないでしょうか、冊封について先に説明します。

冊封とは、近隣の強大国に貢物を持って行き「貴国の偉大さを称え、皇帝として受け入れますので、うちの国と私が王であることを認めてください」と願い出ます。強大国の王は「よし、私を皇帝(つまりあんたより偉い)と認めるなら、私も慈悲深さを発揮して、お前の領地は侵略しないし、お前を領主(王)と認めよう。よく来たな。褒美を持って帰れ」と貢物よりも多くのお土産を持たせて帰す、と言うやり取りのことを言います。

これにより、皇帝である強大国は軍事力を使うことなく周辺の国を従わせ、属国とすることができますし、周辺国も強大国から認めてもらうことで、近隣の争いのある国に対しても「おらのところは皇帝から領主のお墨付きをもらったんだから、うちの国を攻めると皇帝が黙っていないぞ!」と主張することができます。

事実、近隣国同士の争いは戦争の火種になりますので、皇帝はそういう近隣国同士の調整も行っていたといえます。

東アジアでは、基本的に中国(唐や隋・明・清など)が常に皇帝を称する大国であり、近隣の朝鮮やモンゴルの一部、ベトナム、沖縄(琉球)一時期の日本などが冊封を受けていた国に相当します。

では、冊封を受けていたから「大国の属国であり、現代的に言えば領土に入るか?」と言われれば、「入る可能性は高い」と言わざるをえません。

これは、なにも中国が主張しているということではなく、西洋的な国際法の考え方からも援用される部分があります。
西洋においての国と国関係はローマ帝国とそこから分離した各諸国、そして皇帝との関係性が基本になっています。そのため「ローマ帝国の属国または属領は、ローマ帝国の領土」という考え方が基本になり、アジア的な冊封関係もそれから類推して『領土的範疇に入ってもよい」と考えられているのです。

ただし、そうは言っても「ヨーロッパ各国」も独立国になっているわけですから、そのための条件というのはいろいろと複雑にあるわけです。

ただし、ウクライナとロシアの現在の問題のように(ソ連時代、ウクライナはソビエト連邦の一部(構成国)一度でも大国の一部になった形跡があれば、大国はいつまでもそれを主張し続けるし、それが的外れであるとは言い切れない、ということもあるのです。

ヨーロッパ各国が独立を維持できるのは、すでに大国であるローマが無い(その末裔である神聖ローマもすでにない)ので、主張する国がないからです。神聖ドイツ帝国だった時代までは、戦争が多かったのはそういう理由(領土主張)もあります。

で、沖縄です。

沖縄が「中国の一部であったか、独立国であったか」というのは、上記の冊封体制と現代の国際法両方をかんがみて、さらに歴史的経緯からすれば「どちらも正しい」ということになります。

日本の場合は卑弥呼の時代に冊封を受けていても、大和朝廷が成立して以降「独立するから冊封はしないよ」とメッセージを発していますし、その後元寇などを撃退して独立を保っています。
朝鮮については、日清戦争後の下関条約で中国の属国から独立しましたし、ベトナムは何度も戦争して独立を担保しています。

ところが、沖縄に関しては、あまりにも小さな国であったこと、隣に日本と言う別の大国もあったこと、で「二つの大国と等距離を取ることで、独立を維持する」と言う政策をとったことで、中国から見ても「お前の国が一応の独立国だったのは、うちのおかげ(つまりうちの属国)」ですし、日本から見ても「お前の国が一応の独立国だったのは、うちのおかげ(つまりうちの属国)」(日本も(正確には鹿児島藩が)冊封を琉球から受けていた)お前んとこはうちの属国だろう、ということになります。

実際に琉球は、どちらの国からも独立を維持するために軍事的な配慮は一切せず、刀の代わりに扇子を腰に差し、舞踊や歌などの文化的な力で特色を維持していました。

結局、日本の都合で琉球処置と言う形で鹿児島藩に組み込むことになるわけですが、中国の側から見ると「うちの属国である琉球を日本が奪った」という見方も成り立つわけです。

ですので、沖縄の歴史的経緯を見ると
・中国から見れば、ずっとうちの属国で日本が武力で奪った
・日本から見れば、うちの属国だったけど必要があったので、藩に組み入れた。
・沖縄から見れば、ずっと独立国だったけど日本に武力で併合された。
ということになります。

教師の見方が一概に間違っているとはいえませんが(と言っても下関条約というのはちょっとどうかと思う)、日本で歴史を教えている教師の言い方としては、いくらなんでも偏りすぎではないかと思います。

日本人だから「日本の領土で間違いない」とはいいませんが、各立場の視点すべてを説明してもそれほどの手間ではないでしょうし「歴史」と言うものの見方(立場によって違う)ということを説明するのは歴史教師の義務だと思うんですけどね。

冊封関係を理解しないと難しいのではないでしょうか、冊封について先に説明します。

冊封とは、近隣の強大国に貢物を持って行き「貴国の偉大さを称え、皇帝として受け入れますので、うちの国と私が王であることを認めてください」と願い出ます。強大国の王は「よし、私を皇帝(つまりあんたより偉い)と認めるなら、私も慈悲深さを発揮して、お前の領地は侵略しないし、お前を領主(王)と認めよう。よく来たな。褒美を持って帰れ」と貢物よりも多くのお土産を持たせて帰す、と言うやり取りのことを言います。

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Q日本人と中国人・韓国人の性格の違い

日本人は、中国人や韓国人とは性格が違うような気がするのですが、知り合いにいないので、具体的に何が違うか分かりません。

何となく聞きかじったことは、日本人は感情を表に出さないけど、中国人や韓国人は激情型だということです。
これは歴史的なものなのでしょうか?

また、中国人と韓国人は似たような性格ですか?
多少の違いはあるのでしょうか?

Aベストアンサー

日本,中国,韓国とそれぞれ地理上,歴史上の位置について考えると、それぞれの国民性が分かりやすくなります。

「日本」は大陸から離れた島国であり、(現在では異なりますが)国外からの侵略,進行経験が比較的少ないため、国外から来る人は「商人または知識人=お客さん」、国内の人は「隣人(親戚)」の感覚があります。歴史上、日本国土が侵攻された例を挙げれば、大抵の日本人は元寇と先の大戦ぐらいと思っています。(しかし一日~数日で起こった小さな戦程度の侵攻や人や家畜の略奪事件では、数十~数百件程度の記録がありますが、高校の社会科教師でも多くて4~5件程度ぐらい言えれば良い方でしょう。これが良くも悪くも日本人の対外関係に影響しています。)
このため、他人に対して激しい感情を表せない人間を作り上げています。少々の罪を犯しても「身内であるから何となく許してしまう」とか、「身内であるからお互い争わない」とか、国外から色々難癖を付けられても、「お客さんの言うことだから」とかの感情で済ませてしまうところがあります。

「中国」は大陸の中心をなしており、「夏」「殷」と続く歴史上の国家交代の歴史は、何時,誰(どの民族)にその中心的地位を奪われるかの世界です。ありていに言えば、こちらの方が世界の歴史観の主流です。
主権を持つ民族が交代すると、それまで主流の地位を占めていた民族は反逆者として抹殺されかねない世界です。このため、良くも悪くも図太い人間が出来上がります。すこしでも自分を大きく見せかけないと、いつか他人に出し抜かれてしまうため、出来るだけ子分を多く従えるものが偉いという世界観が出来上がってしまいます。悪くいえば任侠の世界観です。孔子の「論語」も突き詰めれば、ヤクザの親分としての処世訓を書き上げたものに過ぎません。常に自分を中心としておかねば気が休まらないため、自分中心の考えを持つ国家あるいは人間が出来上がります。すなわち、自分がルールであるという国家あるいは国民性を作り上げています。(このあたりはアメリカやロシアなどの大国に共通するものです。)

「韓国」とは、上の2つの例とは異なり、「半島」であるということが国家観や人間の考え方に影響しています。
直接大地を接している中国からは属国として扱われており、歴史の上でも何度も中国大陸側より侵攻を受けております。また逆に、中国に朝貢していれば僅かな挨拶程度でも、「多大のおすそ分け」をいただける位置にあります。
宗主国への鬱屈した反動として中心となる国(中国)から遠い国(すなわち日本)に対して、「こちらの方が中国の第一の舎弟であるから、お前(日本)のほうが悪いのであって、頭を下げるべきだ」との感情を持ちます。また、常に大陸国家からの軋轢や侵攻を受けてきたことから、「自分は常に被害者であり、悪いことは全て自分の原因ではなく、他人のせいである」との感情を持つ国を作り上げています。

日本,中国,韓国とそれぞれ地理上,歴史上の位置について考えると、それぞれの国民性が分かりやすくなります。

「日本」は大陸から離れた島国であり、(現在では異なりますが)国外からの侵略,進行経験が比較的少ないため、国外から来る人は「商人または知識人=お客さん」、国内の人は「隣人(親戚)」の感覚があります。歴史上、日本国土が侵攻された例を挙げれば、大抵の日本人は元寇と先の大戦ぐらいと思っています。(しかし一日~数日で起こった小さな戦程度の侵攻や人や家畜の略奪事件では、数十~数...続きを読む


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