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韓国は、『何が』『どう』なって日本の植民地になったんですか?
植民地になった、というのはわかるのですが
なぜ植民地になったのかが分かりませんでした。
近くには図書館が無いため、本を探すことができず、
検索をかけてもみつからず・・・
また、韓国が植民地にされていた時の様子、
植民地にかかわっている社会問題など
常識的なことかもしれませんが、
詳しく教えてください。

A 回答 (13件中1~10件)

>韓国が植民地にされていた時の様子、


すでにお答えが出ていますように、植民地にしたのではなく、望まれて(当時の朝鮮人の団体で改革派だった「一進会」より「韓日合邦を要求する声明書」というものも日本政府に提出されています)日本国の一部になったのです。当時、アジアで、欧米と対等に話が出来たのが日本だけであったことを考えれば、「日本人になる」ことの意味はわからなくもないでしょう?
強制労働についても、貧しかった朝鮮半島で求人が行われ、日本列島内の仕事場で行われた仕事が、たまたま辛かったというだけに過ぎません。当時日本は戦争をしていて(あるいは列強に対抗するため富国強兵政策の真っ只中にあって)、辛い仕事が多かったのは不自然なことではないと思います。日本人と同じ仕事をしていて、たまたまそれがきつい肉体労働だったというだけに過ぎません。そういう仕事は給料がよく、朝鮮半島から密航してまで就労しようとする人もあとを絶たず(当時の朝鮮半島は日本国内でしたが、混乱を避けるため半島-日本列島間の移動は政府の許可が必要でした)、半島から日本へ来てはいけないという政府からの通達が何度も出ているくらいです。ただし、戦争末期、決定的に人不足になったときには朝鮮で「徴用」が行われました。しかしこれは「強制連行」ではなくあくまでも任意でしたし、日本列島に渡って就労した後仕事を辞めても罰則なしというゆるいものであったのです。
従軍慰安婦についても同じことです。当時、売春は「政府の管理下で行われるものである限り」合法な商売でした。そしてまた、慰安婦の募集も基本的にはまたはじめは日本国内に限ったのです。戦地拡大に伴って、半島での募集も行われるようになりました。ですが、そういう商売において、女性を買ったり売ったりする職業というのは、いつの時代もそうですが後ろ暗い人たちの専売特許みたいなものです。今の風俗嬢が、いかにして風俗嬢になっていくかを考えてもそれはわかると思います。今とは比較にならないほど混乱していた当時、半島では女性を売り買いする商売(女衒といいます)の中には、若い娘をさらって強制的にそういう商売につかせる悪質業者がいました。それもほとんど半島人であったといわれています。日本政府は「そういうことのないように」とたびたび通達を出しています。これが後に「政府が関与した証拠だ」などといわれてしまうのです。
万事がその調子、今現在北朝鮮や韓国が「日本の戦争責任」を叫ぶ事柄のほとんどが、当時は自分たちが喜んで、あるいはしぶしぶであっても受け入れたことを、今になってまるで銃でも突きつけた上で強制されたかのように言っているだけのことなのです。
>植民地にかかわっている社会問題
今現在、朝鮮半島併合時に関わる社会問題は、ほとんど日本人が作り出しているといってよいでしょう。天皇を頂点とする国家作りのゆり戻しのような形で、戦後、万人が平等な国家作りをしよう、と考えるのがまるで義務であるかのようになりました。特に知識人たちはそれを喧伝し、万人平等国家のイメージは、共産主義に重ねられたのです。このため、戦後から1970年代くらいまで、共産主義信奉者にあらねばインテリにあらず、というような風潮すらあったのです。しかし、日本人の共産主義観はある意味特別でした。「何事も話し合いで解決し、誰もが何も強制されることのない国家」というイメージだったのです。現実の共産主義国家を見てみればそんなことは夢物語だとすぐにわかるのですが、日本の「インテリ」はその夢に酔ったのです。ところで、共産主義は革命によって作られる、というのが、最初にそれを唱えたマルクスの主張であることはご存知かと思いますが、革命を成功させるために、若者を以って自国の将来に絶望させる、という手が奨励されています。まあ、わからなくもないですね。自国の未来が暗いとなれば、理想に燃える若者は何とかしようとするでしょう。で、積極的に「共産革命」を求めなくても、いわゆる「共産主義国家」が失敗したのは、それが本当の平等国家ではなかったからだ、平等かつ誰も何も強制されない国家は、やっぱり作れるんだ、という、夢から覚めない人が日本には「インテリ」を中心にまだまだいます。こういう人たちは、現に国を運営するためにいろいろと規則を作り統制を取っている現政府を、「あれは自分たちが利益を得たいがために我々の自由を拘束しているんだよ」と宣伝する類のネガティブキャンペーンを今でも盛んに続けています。そして、前振りが長くなりましたが、そのネガティブキャンペーンのひとつが「アジアの人たちにあれだけひどいことをしたのに、自分たちの立場が危うくなり、賠償金を払わなければならなくなるのが嫌でアジアに対する罪を認めない日本政府」という宣伝なのです。
もちろん、本当に謝罪するべきことは、戦争中にはあったのでしょう。しかし、終戦時にそれについては話し合いがもたれ、条約を以って解決したとする以上、本当はあとからそれを持ち出すのはルール違反なのです。そのルール違反をしているのが、新しい「日本帝国主義の被害」が見つかったと言っては話を蒸し返す中国・韓国・北朝鮮、そして、そのネタを見つけては彼らをたきつけにいくのが日本の「インテリ」を中心とする、「政府が倒れればみんな自由で平等な国家が出来る」と夢想する人々…一部の人の言うところの「反日日本人」なのです。
彼らはもはや政府を倒すとかそういう本来の目的すら忘れ「日本政府を悪く言うことが、人間としての良心の証」と信じ込んでいます。そのためなら理屈なんてクソ食らえ、というのが彼らなのです。でなければ、なぜアジアに「与えた被害」と、たとえば原爆や東京大空襲、終戦直後のソ連軍進行によるシベリヤ抑留など「受けた被害」の両方を日本政府に補償を求める、などという変なことができるでしょうか?
話はそれましたが、植民地にかかわっている社会問題というのは、そんなわけであくまでも現在の日本の国内問題であって、中国や韓国や北朝鮮などの人は「反日日本人」の出汁にされているに過ぎません。このあたり、一見人間的・良心的な「被害者を救え」のようなスローガンにうっかりついて行ったら特定の思想を持つ団体に取り込まれていた、などということがありますので、重々気をつけてください。
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>『何が』『どう』なって日本の植民地になったんですか?


>なぜ植民地になったのかが分かりませんでした
『何が’』『どう』なったのか?という質問が、具体的にどんな事を知りたいのかが、今ひとつわからないのですが、日本による植民地化を可能ならしめた原因をあげれば、
1.日本側の、帝国主義列強に負けまい、それに並びたい、という願望
2.朝鮮側の内部対立
3.朝鮮に関する競争相手だった清およびロシアが、イギリス、フランスなどの『一流』の列強に比べればずっと弱体であった事
の3つが主なものだと思います。

1.そもそも論としては、江戸末期の段階で既に、吉田松陰や橋本左内などが、列強に対抗する為にアジアの日本の勢力下におくべし、という、後の「大東亜共栄圏」につながるような考えを唱え、後の明治政府の指導者達に影響を残したが、この段階では「観念論」に留まっていた。ただし、江戸末期から、非常に素朴な意味での「帝国主義的発想」があった事が、これから読み取れる。(「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くなさしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、即ち善く国を保つと謂ふべし。」吉田松陰「幽囚録」)

2.朝鮮には、日本の支援を得て近代化を進めようとする勢力と、従来からの体制を維持しようとする勢力(宗主国である清との関係を重視)が対立しており、これが宮廷内の権力闘争と結びつき、清・日本双方の介入を招いた。(例:1884年の甲申政変。いわゆる『開化派』が日本の支持をへてクーデターを起こしたもの。)
3.元々、東アジアに於いては、欧米列強が領土的な欲望を強く持つ事はなく、中国を専ら「商品の販路」として期待してたが、朝鮮は(同様の意味で日本も)人口も中国に比べれば遥かに少なく、半植民地化の対象として魅力に乏しかった。

問題は、日本がいつ頃から植民地化を明確に意識したかですが。。。
江華島事件(1875年)から日朝修好条規(1876年)の頃は、日本の行動は、例えばペリーが黒船で日本に来た頃のそれと非常によく似ているし、条約にも、不平等条約の要素を含んでいますが、領土に対する要求はまだ出ていません。
しかし、大規模な兵士の反乱である壬午事変(1882年)に際し、日本人の軍事顧問や公使館員が殺害され、日本公使館が襲撃された事に対し、謝罪、犯人の処罰に加え、巨済島または鬱陵島の割譲を要求していますから、領土面での要求ははっきり打ち出していますが、全面的な植民地化とはかなりの差はあります。(もちろん、この時点では全面植民地化を実行する能力は日本にはありませんでしたから、そういう要求を出す余地自体もありませんでしたが…)
また、よく言われるように伊藤博文は、暗殺される少し前までは、朝鮮を実質的な保護国にする事で充分と考えており、政府部内にも植民地化すべきか否かについての議論はありました。

あまり細かく述べるときりがないのでまとめると、私は、「欧米列強に倣った勢力圏拡大」という指向が、長い間明治政府にあったのは間違いないが、それほど明確な方針のようなものはなく、それでも植民地化に至ったのは、朝鮮の内部対立や日露戦争勝利などにより、予想以上に「うまく行ってしまった」為、日露戦争で獲得した満州での権益を確実にし、中国大陸への進出の足がかりを確かなものにする為に、日本は最終的に植民地化に踏み切ったのだと考えています。

尚、私は、ネットでこの手の事を勉強しようとするのは、やめた方がいいと思います。学者や研究者の書く本や論文の場合、例外はあるにせよ、他の研究者にバカにされないように、ある程度は原資料にあたって書くのが通例ですが、ネットの場合はコピペの類が多すぎます。だから、Googleなどで検索すると、自分にとって好ましい結論に合う他人の意見を単にコピペしているだけのサイトが、ぞろぞろヒットしてしまって、結局のところ中々肝腎な(=読むに値する)ものに辿り着けない事がよくあります。(ただ、最近は、近現代史については、全くの門外漢の大学教授等が、特定の考え方の人にだけ売れればよい、という発想で、全く読むに値しないウソを、書物にして撒き散らす例も、なきにしもあらずなので、本ですら、結構問題なものもあるのですが…)

例えば、日本が朝鮮を植民地にしたかどうかですが、アジア歴史資料センターのWebで調べてみればわかるように、戦前の日本政府自身が植民地と呼んでいます。代わりに調べてくれているサイトがあります↓ので、ご覧下さい。
http://higeta.blog2.fc2.com/blog-entry-31.html
日韓併合に当たっては、明治政府はちゃんと英仏などの『先輩達』の植民地統治の方法も研究しています。(これもアジア歴史資料センターで「植民地」をキーワードに丹念に探せば見つかります。)
まぁ、実際には、支配する側がどういう言葉を使おうが、他の国を政治的に支配して、別の法律・行政組織を適用するのは、どこからどうみても「植民地」であって、戦前の政府は自分のやっている事を知っているから、植民地と呼んだだけの事ですけどね。

創氏改名は、創氏は必須(仮に届けなくても、自動的に氏は作られる)、改名には強制があった、というのが真実です。「朝鮮人はさきを争って日本名に」したのか、あるいは、強制があったのかどうかは、創氏改名の受付期間のぎりぎりになって、急に届出が増えた事を見れば、どちらが真実を伝えているかは、容易に理解できるでしょう。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=571154
以下のように、日本側の資料(御用新聞、警察関係資料)も使って、実証的な研究もされています。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/soushi.htm
御用新聞や、政府の公式文書の表面づらだけを読んでいる人か、そういう人の意見を単にコピペしている人だけが、「朝鮮人はさきを争って日本名にした」などといった、事実と反対の理解ができるのでしょうね…。

朝鮮側が併合を望んでいた証拠として、一進会の「韓日合邦を要求する声明書」が、よく引き合いに出されますが、一進会が望んだのは、「合邦」であって「併合」ではありません。そこらへんの事情は↓をご覧下さい。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/kenha/uchida.html
この程度の事は常識の部類です(↓)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%EC%BF%CA%B2%F1
ただし、日韓併合直前の一進会を、韓国最大の政治結社がそのまま残っていたと考えると間違いになります。↓
http://higeta.blog2.fc2.com/blog-entry-33.html
また、上記のWebにある日本側の資料に、「日韓電報通信社長菊地忠三郎が、一進会操縦の任に当たっている」と書いてある事にもご留意下さい。

つまり、日本の右翼の強い影響下にある政治結社が「併合」ではなく「合邦」を望み、かつ、それですらほとんど支持が得られなかった事を、当時の日本人は知っていたのに、今の日本人の一部には、「植民地化が望まれた事である」との印象を与える為のネタに使われてしまっている訳です。

ですから、できるだけ余計な雑音を聞かない為に、ネットでこの手の事を質問せず、ご自分でちゃんと勉強する事をおすすめします。私の書いた事も、自分としてはそれなりに根拠をあげたつもりですが、疑ってくださって一向に構いません。
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19世紀に入り、欧米列強の植民地拡大を目指す帝国主義的な動きが激しくなり、その焦点が極東に向けられた。

 イギリスは南京事変により、中国進出の足がかりを掴んだ。 アメリカは、捕鯨船に対する薪と飲料水の提供を目的とし、日本に開国を迫った。 日本は南京事変を教訓とし、無益な武力衝突を避け、開国した。 

1858年の日米和親条約は、日本が外へ開いた画期的な条約である。 これによって、残るは朝鮮半島の朝鮮の李朝王朝だけとなった。 朝鮮王朝は、長らく中国と冊封関係を結び、政権を保証されて来た。 この冊封関係は、過度の中国依存の体質を生み出していた。 南京事変によって、清朝の政権土台が大きく揺るがされる。 しかし、朝鮮王朝は何も対策を講ずることなく、鎖国を続け、対応が遅れてしまった。

当時の世界は帝国主義全盛であり、欧米列強は極東の植民地支配を虎視眈々と伺っていた。 日本は開国後、富国強兵政策により急速な経済発展を遂げた。  そして、対外的な国防政策を考えた場合、朝鮮半島が国防上大きな意味があると考えるようになった。

結局李氏朝鮮は、日本及び列強諸国の圧力により開国を余儀なくされた。 しかしながら、冊封関係の離脱を中国(清)看過するはずがない。 朝鮮の近代化を要請する日本と中華思想に基づく冊封体制を堅持したい清との対立が顕著となり、日清戦争となった。 日清戦争に勝利した日本は、下関条約を結び、朝鮮を独立させることに成功した。 

しかしながら、その後、フランス・ドイツ・ロシアの三国が日清戦争で得た日本の権益を剥奪しようと企る。(いわゆる「三国干渉」) 日本が、これに屈したことを契機として、朝鮮半島の政情が極めて不安定になる。 朝鮮の旧守派はロシアに接近し、日本に擁護された改革派との政権抗争が激化する。

朝鮮がロシアの属国となることを危惧した日本は、独立の事実を明確にさせようと様々な働きかけを行う。 国号を大韓帝国とするなど、独立の形式と権威を内外に示そうとしたが、近代化は遅々として進まなかった。

韓国を併合して、改革を進めるべきとの機運が日本国内に生まれた。 当時の日本国内は、併合推進派の桂太郎と、消極派であった伊藤博文との対立があった。 消極派の伊藤が、安重根という朝鮮人テロリストによって暗殺されたことから、一気に併合推進に傾いていった。 1910年、日韓併合条約が締結され、朝鮮半島は日本に併合された。
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「自分の故郷を離れて外国に働きに出る事が、自発的に支持された過半意見などと言う事がありえないのは常識では無いでしょうか。



朝鮮人の海外移住(逃亡)は、日本統治時代に始まったことではありません。さらに言いますと、現代でも韓国からはアメリカ等の外国への移住が憧れをもって語られ、日本の農村には韓国人花嫁が多数います。飢餓と暴力に支配された北朝鮮からは、今日も脱北者が生命を賭けて脱出しているでしょう。今日は、タイにまで逃れた脱北者200人近くが密入国で検挙されました。

さて、李氏朝鮮時代、朝鮮半島では一般人は原始人のような生活をしていました。法律はなく、国民の半分以上は貴族の所有する奴隷で生かすも殺すも貴族の勝手、衛生も教育も原始人そのものの状況でした。朝鮮を訪れたイギリス人旅行家イザベラ・バードがその惨状をルポしています。

バードは、朝鮮を見た後でロシア領シベリアに行き、朝鮮半島から移住した朝鮮人の村落を見ました。朝鮮半島の悲惨な状態とは全く違い、清潔な村で朝鮮人たちが生き生きと働いている様を見て「朝鮮の将来に希望を見る思いだ」と書きました。

「日韓併合の前の朝鮮(韓国)の実情」を知ると、「韓国は何故日本の植民地になったのか」の理由も見えやすくなるでしょう。

朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (文庫)
イザベラ・L. バード
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061593404/
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質問者さんについてよく判らないのは、一つ目は近くに図書館がなく本を探せない、検索をかけても見つからないと言うところで、少なくとも「朝鮮併合」で検索すれば山ほど出て来る筈です。


次に疑問と思うのこのテーマについて、常識的な知識としては学校で習う教科書にあるもので充分で、趣味で調べたいのであれば、ここに投稿されている「意見」以上の知識をお持ちの方の本も沢山あります。
一部の意見・事実をピックアップして見れば、昭和恐慌後2.11に参加した軍人が憤慨していた、東北地方の農家の娘の身売りも、当人の「意思」で「喜んで」と言う言い方もできます。
自国が併合されたり、自国の王族が殺されたり、自分の故郷を離れて外国に働きに出る事が、自発的に支持された過半意見などと言う事がありえないのは常識では無いでしょうか。
勿論支配勢力に反対する一部の勢力が、自国を売る様な意見を述べる事は必ずあり、敗戦時の当日本でも米国軍は歓呼の声をもって迎えられています。
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直下2名の回答者で、ほぼ正解でしょう。


本件では、日韓併合や創始改名が植民地ではない、強制ではない、と回答している方もいらっしゃるようですが、背景や経緯といったものが何かは解りませんが、当時の軍事力を背景に、他人様(朝鮮族)の土地に土足で上がりこみ現地の朝鮮族を従わせていたのです。その後終戦まで、従軍慰安婦・強制労働を強いてきたのです。細部については、専門の研究者が一番ご存知でしょう。とにかく、かつて日本領であったかどうかの議論はさて置き、現地朝鮮族を敵に回す政策をしてきたことは紛れも無い事実です。

聞けば、当時は日本の韓国併合などに支持・賛成した勢力もあったようですが、それは「長いものに巻かれろ」ということでそうした方が得策と考えたからです。

最後に、
本件は内容的に、「詳細」をここで書ききれるようなものではありません。また書こうとすれば、かなりの長文となりやすく読む方も読みづらくなってしまうため、可能な限り要旨をまとめたものを書いた方が良いように思われます。
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全てを説明すると非常な長文となるので植民地(併合)に至るまでの経緯まで・・・。


後は他の回答者のリンク先などを参照してください。

日本は、アメリカからの圧力により開国を決断しました。アメリカは日本の植民地支配を目論んでいましたが、日本は人口が多く、庶民に至るまで国民の教育レベルが非常に高かったことから、一般的な植民地支配が困難であったこと及び、幕府という軍事政権体制であり、戦争となった場合陸上戦では勝ち目がなかったことから、とりあえず砲艦外交により日米和親条約という不平等条約を結ぶにとどめ、アジアへの足がかりをつかみました。
当時の世界は帝国主義全盛であり、英米仏露などの列強諸国は東アジアの植民地支配を虎視眈々と伺っていました。
日本は開国後富国強兵政策により急速な経済発展を遂げましたが、対外的な国防政策を考えた場合、日本列島に突き出た形となっている朝鮮半島が国防上大きな意味があると考えるようになりました。
当時、朝鮮半島は中国(清)の朝貢国として冊封体制を堅持し、鎖国状態にありましたが、先の理由から朝鮮(李氏朝鮮)に開国・近代化を要請しました。その方法は、アメリカが日本に対して行ったことの物まねとも言えるやり方です。
朝鮮は永らく中華秩序に支配されていましたから、朝鮮及び中国は日本による近代化の要請を侵略を目的とした内政干渉と批判しましたが、結局李氏朝鮮は、日本及び列強諸国の圧力により開国を余儀なくされました。
しかしながら、朝貢国の離脱を中国(清)看過するはずもなく、朝鮮の近代化を要請する日本と中華思想に基づく冊封体制を堅持したい清との対立が顕著となり、日清戦争となりました。
日清戦争に勝利した日本は、下関条約を結び、朝鮮を独立させることに成功しました。
しかしながら、その後、フランス・ドイツ・ロシアの三国が日清戦争で得た日本の権益を剥奪しようと企み(いわゆる「三国干渉」)、日本が屈したことを契機として朝鮮半島の政情が極めて不安定になり、朝鮮の旧守派はロシアに接近するなど政権抗争が激しくなったのです。
朝鮮がロシアの属国となることを危惧した日本は、独立の事実を明確にさせようと朝鮮に様々な働きかけを行い、朝鮮内部でも国号を大韓帝国とするなど独立の形式と権威を内外に示そうとしましたが、国内の権力抗争の激化など近代化は遅々として進まず、結果として、韓国を併合して改革を進めるべきとの機運が日本国内に生まれるに至ったのです。
当時の日本国内は、併合推進派である桂太郎と消極派であった伊藤博文との対立がありましたが、安重根という朝鮮人によって反対派の伊藤博文が暗殺されたことから一気に併合推進に傾きました。韓国内部でも併合賛成派と反対派の対立がありましたが、結局、日韓併合条約が締結され、1910年、朝鮮半島は日本に併合されました。
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朝鮮人自らが朝鮮人を外国に売り渡した。



それだけのことです。
ちなみに元襲来の時も当時の中国王朝南宋を支援する日本を尻目に元に内通し半島を元に売り渡しています。

朝鮮戦争も良く似たもので双方の朝鮮人がアメリカとソ連に売り渡した戦争ですね。

元と同じく簡単に日本の進出を許したのは、半島を売り渡した朝鮮人が居ると言う事です。
当時としては、朝鮮人自体が当時の政府によって騙された。と言う方が幾分正しいと思います。

朝鮮人の過去の外国との対応を見ればある程度は予測がつくと思います。
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 「植民地」の定義はさておき、大陸に「進出」した意図ですが、これは様々な要素が絡んでいます。

資源確保の意味合いもありますが、経済史的には、国内の疲弊した経済状態(民衆は購買能力がないほど国から搾り取られていた…それもこれも植民地化を避ける「富国強兵」のため)により内需拡大はとても見込まれなかったので、市場開拓のため進出した…という背景もあります。

 戦争を正当化するつもりはないのですが、日本が大陸に出ざるを得なかったのは、世界的な帝国主義の波をモロに受けた背景があるのです。日本が「いい」とまでは言いませんが、アジアを食い物にし、日本を追い詰めた先進国の罪が問われないのは釈然としません。
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#3さんも言っておられますが朝鮮は植民地では有りません。


大日本帝国朝鮮地方です。日本国です。
お間違えのないようにして下さい。
ついでに創始改名も朝鮮人はさきを争って日本名にしました。
けっして強制ではありません。
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