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よろしくお願いします。
標記の通りなのですが、手塚治虫さんは当時どのように思われていたのでしょうか。
私は1980年代生まれで手塚治虫さんのことを現役ではしりません。
人から、すごい漫画家だよ、といわれて読む程度でした。

80年代生まれの私は、スタジオジブリの映画がアニメに触れる最初の機会で、でも宮崎駿監督は手塚治虫氏の事をあまりよく思われていないような発言もされています。

最近、MWやアドルフに告ぐ、キリヒト賛歌、などを読み、なんてすごい漫画なのだろうと思いました。知識量が半端ではないな、と。ただセックスの場面や戦いの場面を描き、人気を取るということではなく、確実に何かメッセージを伝えるために漫画という手段を選んだ人なんだと。
MWなど、とても50年前(1960年代)に書かれたとは思えない、今読んでも面白い漫画だと思いました。

本によれば、当時の首相以上の給料を稼ぎながら、アニメに手を出して相当の借金を抱えたとか、ブラックジャックを連載する頃には人気がなくなっていて、相当苦労されたとか。

手塚治虫氏のプロフィールを読むと阪大医学部を出て医学博士となっていますが、ブラックジャック、キリヒト賛歌などを読む限り、外科医の医師免許は取っていて、医学博士も取っているような気がします。当時、医師になっていたら、バラ色の人生が待っていただろうに、漫画という水商売に生命をかけた手塚治虫氏に感謝の念ばかりです。(ここら辺が医師免許は持たずに医学博士という肩書きだけでコロナについて語るヒトとは格が違うと思いました)

コロナの時代に、手塚先生ならどのようなメッセージを発信してくれたでしょうか。
そんなことを考えます。

手塚先生の魂を受け継ぐ漫画家はいるでしょうか。教えてください。

手塚先生は、ドラゴンボールなどで有名な鳥山明氏を後継者にしていたみたいですが。。。

漠然とした質問ですいません。手塚先生について教えてください。

A 回答 (6件)

医師免許に関しては厳密には


阪大の医学部卒、ではなく「医学専門部」卒業なんです。これがややこしいんですが
医学部とはちょっと色が違います。


古い時代には専門部は、開業医、つまり町医者養成のためのコースでした
大病院や医学部で働くような医者は医学部でした

のちには戦争での軍医不足、医師不足対策として養成が急務だったための医師養成のために開設、運用、というのがこの医学専門部です。

当時は旧制中学校出たあとは旧制高校を経て医学部へ行くか
旧制中学校から医学専門部へ行くか、のパターンがありました。

手塚治虫先生は高校は不合格で医学専門部へ行きました。
多くの人がそうでしたが、当時は製造に駆り出されたり
繰り上げ卒業したりとなかなか勉強どころではなかったのです。

戦後専門部は廃止されたのもあり、専門部卒の人は医学部卒を名乗ってる人も多かったのですが
ネット社会になりこれを、学歴詐称、盛ってると騒いだ人達もいて議論になりました。


ちなみに海外の国にはやはり
専門医と、町のかかりつけ医などの医師は別の免許、養成なところもありますね。
先生の作品の医学への知識や洞察の素晴らしさには変わりはありませんが
今の感覚で帝大医学部、医師、と絶賛するのもちょっと違うかなとは思います。

昭和初期なんかは私大の医学部や人気のない帝大とかは
入試がない時代もあったり、と。



手塚治虫先生は負けず嫌いで、石ノ森章太郎先生にパーティで「あれぐらい私もかける!」と言ったり
絶対間に合わないのに間に合うと言い張り編集者たちを待たせて、できませんでした、と言ったり
多忙の中、出先から電話で原稿用紙を、座標化して指示を出そうと試みて上手くいかなかったりと
どこか子供っぽいところも魅力の一つかと思います。
アシスタント(弟子)の漫画家が複数居ますから、そちらを読んでみたらどうでしょうか?

あと昭和の大御所の多くの人は手塚治虫作品を通って漫画家になってますね。

宮崎駿氏だってものすごい尊敬や憧れがあってこそこ
欠点や失望や批判、ライバル視、だと思いますよ。

下ネタとかパロディをバカにして!って思わないのであれば
田中圭一作品…漫画のモノマネ達人みたいな人です
下ネタやエロも多いですが手塚治虫作品に強い愛があるのは感じます。

堀田あきおさんが手塚治虫プロダクションでの食事の漫画を描いてたり
石坂啓さんのエッセイなどに手塚先生の思い出が少しでてきたり。
当時の手塚プロの出身者を追えばより手塚治虫像に近づくと思います。


先に述べた田中圭一氏が描いていたペンと箸。
漫画家の家族に食卓の話を聞く漫画です

http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1380

ちなみにこの娘さんの手塚ルミ子さんは
田中先生の作品の帯に
「ライオンキングは許しても田中圭一は許さない」
ってキャッチコピーを描いています。

海外コミックぽい、ユニコ
火の鳥
妖子
七色いんこ
海のトリトン

いろんな名作ありますね。

一見低俗なお色気漫画に見えて
「ももえのヒップ」という漫画があるんですが
この作者さんも手塚治虫先生を追いかけてるんじゃないかな、って思う作品です

いろんな漫画家にDNAが残されてると思います
それぐらい影響がありますよね。

先週ちばてつや先生が一、二ページのコロナの作品書いてますね

ぱいどん、というAIに手塚治虫作品を学習させて漫画を描かせる計画があります。
今はまだ参加してる漫画家さんや人の手によるところが大きいです
10年ぐらいかかる予定です。
が、その期間にまたAIの進化で早まることはあるかもしれません。
何とかしてその作品のエッセンスを残したい、復帰したい人が
今でもそれだけ多いということでしょう
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この回答へのお礼

お詳しい回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/18 19:26

鉄腕アトムの年代、アニメ本家のアメリカでも、30分ものなら、2週間に1本製作が時間的にギリギリ。

しかし、手塚氏は日本の子供たちにアニメを飽きずに見てもらうためには、30分モノを毎週放送したいとこだわって、そのためにいろいろ工夫したそうです。
何年か経って、ジャングル大帝の2作目、ジャングル大帝進めレオの売り込みに行ったとき、向こうの人に、君は何年先の話をしてるのかね。と呆れられたそうで。アメリカではまだ、2週間に1本の放映が普通だったそうです。
創る側ではなく、見る側を重視してたってことで。

手塚治虫氏のメッセージ、作品を通して語られてますし、いろいろと文章も書かれてます。ぜひご一読を。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/18 19:27

生前も今のように、漫画家としては第一人者でした。


手塚氏以降に人気が出て、漫画家として大御所となった、藤子不二雄のお二人、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、つのだじろう。みな手塚氏を師のように慕っていました。
そのほか、ちばてつや、永井豪、横山光輝、水木しげるなどなど、昭和40年代に活躍していた漫画家にとっては英雄的存在だったんじゃないでしょうか。
テレビで最初に連続アニメとして放送された「鉄腕アトム」。手塚氏が忙しすぎて、なかなか毎週のアニメ制作が間に合わなかった時期には、彼らが手助けに描いたものを放送した
なんてエピソードもあるくらいですからね。
今、日本は世界屈指のアニメ大国です。その先駆者と言ってもいいでしょう。
日本のアニメは日本経済に好影響を与えています。
なのに、手塚治虫氏は、国民栄誉賞に名を連ねていません。「サザエさん」の長谷川町子は受賞しているのにね。

どういうんでしょう。どうも日本ていう国は、子供を中心とした娯楽については、文化として認めていないところがありますね。
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この回答へのお礼

これだけの漫画家を引きつけるなんてよほどの魅力があった方なのですね。
作品と人間性は違うと言いますが、私は作品しか見たことありませんが作品は好きです。

お礼日時:2020/08/18 19:29

医大学生の時、4コマ漫画掲載していました。


卒業時、医者になるか漫画家になるか、恩師に相談したら、医者になったら何人か殺しそうだから止めろ、漫画家になれと。
虫プロでは、鉄腕アトム、初のカラー連続放映のジャングル大帝、アニメと実写のコラボ、バンパイヤなど。
赤字分は、自分の漫画原稿料で埋めると決意し実行。倒産は、経営を任せた人のせい。
同時、アラバスターのような、ドロドロとした漫画描いてました。なぜかそういう話になってしまうと。

スターウォーズの制作前、メカデザインでオファーがあって、アメリカにこいという条件、悩んた結果、アシスタントや、アニメ製作のスタッフたちの妻子合わせて100人以上を路頭に迷わせることはできないと断念。手塚にはそんなにたくさんの妻子がいるのかと、やや誤解して伝わったようで。

自身の漫画を原作にしたアニメW3ワンダースリーの裏番組がウルトラQ。
ウルトラQの方を見たかった子供(真)に妻が、お父さんの作品を見なさいと言ったのに対し、子供の好きなほうにしなさい。と言ったとか。

若いときの手塚先生、ドラえもんの作者藤子不二男の二人をかなり評価してたようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。行動力や決断もすごいのですね。

お礼日時:2020/08/18 19:34

私もファンですよ。


先生は医学部なので医療関係のマンガは秀逸ですね。
普通に考えて他の人には書けません。
また中学生のころ(?)も昆虫図鑑を自作していて絵が細密ですごかったらしいです。
自作の物語をおかあさんにいつも話していたらしいですね。
まぁ映画ファンだったのでたくさん話があふれていたのでしょう。
病床でも書きたい話は山ほどあったみたいですよ。
あーあと火の鳥、ザ・クレーターもお勧めします。
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この回答へのお礼

火の鳥、いいですね。クレーターは知りませんでした。
ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/18 19:32

テレビのインタビューで本人が語っていたのですが、最初の頃は、医者と漫画家を兼業していた時があったようです。


手塚先生が、お見合いの席上、相手が医者は嫌いと言ったところ、胸を張って、職業は漫画家ですと答えたと言っていました。
ブラックジャックの連載時に、最初から既に、ブラックジャックのような外科的な医療は、当時でももう時代遅れだと仰られていました。

鉄腕アトムをテレビ放映中に体調を崩されて、その代役で脚本やコンテを描かれた方が、大漫画家の方ばかりで、石ノ森章太郎さんが担当したら、アトムが009顔になったという話も残っています。
鉄腕アトムを始め、ジャングル大帝レオ(西武ライオンズのマークになった)やリボンの騎士、等はアニメで非常にヒットしましたし、
円谷プロが特撮番組を撮影し始めた頃には、マグマ大使という実写物をウルトラマン(初代)にぶつけたりしました。

ただ、アニメ制作に関して制作側の人件費を低く抑えた為に、後の世代が苦労することになり、そこを宮崎駿監督らが根に持っている部分になっています。
この頃の1960~70年代の社会的な風潮というものもあったので、手塚先生だけの責任ではない部分もあると思いますね。

ブラックジャックの頃は人気が落ちていた、と世間的にはよく言うのですが作品的には面白い作品になっていると私は思いますね。
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この回答へのお礼

お詳しいですね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/08/18 19:33

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