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ビデオを借りて(この世に生まれて)、ビデオを見て楽しんで(人生を楽しんで)、終わったら返しに行く(死ぬ)。色々なビデオ(人生)があって、人それぞれ。

なんとなくそう思いました。皆さんにとって人生って何ですか?教えてください。(漠然としていてすいません、でも真面目です)

A 回答 (13件中1~10件)

死ぬまでの間の暇つぶしですね。


ビデオとまったく同じです。暇つぶし。
同じことばかりじゃ飽きるから、いろいろ見たり聞いたり食べたり・・・。

ビデオも、同じものだけを繰り返しは見ませんから。
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私見ですが



人生=模範解答のない答え合わせ

うーん、俺の人生、赤点かも・・・(笑)。
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「私」を主人公とする物語だと思います。


(間違いなく「私」が作者ではない。)
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> 色々なビデオ(人生)があって、人それぞれ。



年を重ねるほどに、「一生は短い!」と言う思いは、実感させられますねぇ。
だからこそ、出来るだけの努力をし、悔いのないように生きてください。

> 皆さんにとって人生って何ですか?

偶然に生まれて来た(少なくとも本人の意思ではない)と、思っているので、
自分と世の中にとって、【 自分の出来る、意味の有る生き方は何か? 】を、
日々考えながら、可能な限り最善と思える生き方をすること。
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 貴方の「虚無にとりつかれそうな」状況は、人それぞれ


程度の差は有るでしょうが、このような漠然とした虚無感
(それが、清清しい時さえあります)に襲われ、妙な気持ちになったことが有るようです。 だから、当たり前なのですが、この虚無感が、長々と継続すると、最も恐ろしい
「うつ病」になり、最終的に確実に「自殺」に到達するそ
うです。 そういうわけで、ちょっと心配しています。
 「人生」てのは、やはり「その人」だけの、他人には本
当の事など解らない「特別」なものです。
 私は医者に「うつ病」寸前という診断を突きつけられた
時に「この自分の時間こそ、自分に命の続く限り自由に、
自由でいたいから精一杯有意義に使うべき貴重なものであ
り、お金では買えない大切なものだ。何故、俺が死ななき
ゃいけないんだ。馬鹿馬鹿しい」と考え、虚無感に襲われ
そうになる度に、相当に苦心して「お呪い」のように、こ
の考えを頭の中で繰り返していました。 結局、皆さん誰
もが、ちょいとワイルドに「精神的過激性」を失っては、
やっていけない「現代社会」と付き合う「運命」なので
す。「運命」なのですね。「運命」です。「運命」という言葉も、「お呪い」です。 理屈ではなく「お呪い」を唱
えてバカになってしまう方が気楽ですよ。 仏教、特に日
蓮正宗も推奨している「方便品第二」は、私にとては最高
のお呪いです。(「お呪い」では、ちょっと失敬ですが)
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非常に示唆的なたとえ話です。

でも、僕はこう考えた方がもっと面白くなるような気がします。

何かに借りてこられて(生まれて)、何かに見られて(我々が生きている状態)、何かに返される(死ぬ)

そうすると、自己と世界を分られる。「何か」というのはこの世の存在意義になります。「何か」が解れば、人は何のために生きるかが解ると言うことです。
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面白いご質問ですね(笑)。



確かに人生はビデオ(映像)に比喩できます。それは「ドラマ」であるということにおいて。でも他の回答者の方々がおっしゃるように、したいときに巻き戻しもできないし早送りもできません。♪したいとき~…それは「後悔」するとき~♪(笑)一時停止…、これはまあある意味、意図的にできるかもしれない。まあ今の私の人生で例えられますね。何もかもが「停滞」していますから(笑)。
しかし「内容」でいえば、それこそ多ジャンルの無限のストーリーの要素があるでしょう。「ある程度の」脚本作成も演出も主演も自分でできます。チャップリンみたいに。
編集は映した後からできることが可能です。その編集とは主観とか思い込み、心の領域で行う作業ですから(まあ、本来編集とはそのようなものですが)。あるときは悲劇はそれほどひどい悲劇ではなく、むしろ喜劇となり、喜劇も考えようによっては惨劇にもなりうる性質を秘めています(二律背反の法則にのっとれば、悲劇と悲劇は紙一重です)。それは「編集」しだいで「ジャンル」さえ変化するダイナミズムでしょう。自分の作品世界に病的にすらこだわる監督が(たとえばキューブリックなどが)「編集」に固執し、決して他人に任せられないにように…。

それがメジャーであってもB級であっても「観客」があれば「人生」も「映画」のようになる。例えば小さな映画館でしか上映されないような小品でも、観客がいること(もちろんいなくても)、それは映画として収まる。一人にでも感じられれば、「映画」は「映画」として、そして「人生」は「映画のような人生」としてまなざされる。観客数を意識しない小粋な作品もあれば、メジャーを目指しているのによい評価に繋がらない作品もある。一本の作品が人の個性のようだとすれば、そこに訪れる観客の人生もまた同じように存在し、その人生が「映画のよう」と比喩されることもある。

悲劇も喜劇も、上手に書ける脚本家や演出家にピックアップされれば芸術へと昇華する。しかし映画は嘘で塗り固めただけの世界ではない。その「虚構」も、有機的な人生を基盤とせずにはいられないから。「物語」が虚構であっても、その世界は人が想像しうるすべての世界が集約されている。それを物語にする脚本家も演じる役者も、人間である。その物語の基盤とするものはフィクションでもノンフィクションでも「物語の成立」に対しては自由自在である。芸術の方で、凡庸な人生からイマジネーションを与えられるときのほうが多いだろう。凡人はただの観客ではなく、かつ専門的な世界のためのものではない。

波乱万丈でないと生きている実感がわかないという、平凡な幸福に退屈する人もいるでしょう。そのとき彼もしくは彼女にとっては、そのフィクションはその人にとってのノンフィクションになります。また普通では「ヘンな映画」「不可解な映画」でも「カルト」ともなります。つまりは観客がいればどんな「劇」も成り立つということでしょう。誰も見てくれないとき…でも人生には自分という観客もいます。そして「共に」俯瞰して見れば、隣には「神」という観客もいます。

映画評論家の故淀川長治さんは「自分は映画がないととっくに死んでた」とおっしゃっていました。推測ですが、死にたいくらいの現実を映画が救ってれたという意味かもしれず、また死にたいくらい映画が好きという意味かもしれません。いずれにしてもこの方は、ファンタジーの世界と、評論家としての現実世界との扉を、その虚構世界も現実世界の境界を見失うことなく、上手に行き来してきたお人でした。
ある夢がフィルムに「投影」され、それが別の誰かの夢の「投影」のためのツールとなる。だから映画という媒体は素晴らしい。上手な映画鑑賞とは、そのような似たりよったりの現実世界と夢世界とを「同一化」することなく、適度な距離を保ちつつ「投影」できる見方なのではないでしょうか。しかもその趣味を生涯の職業として昇華できた、淀川さんは本当に「幸福な人」でした。

巨匠フェディリコ・フェリーニは「映画は多きなベットで皆で見る夢だ」と言いました。私はこれは「遺言」であるとも思っています。これはビデオ時代への批判ともとれますから。
とはいえ、無意識の世界(=眠りで見る夢の世界)は底辺で皆と共有しているように、共通の時間枠の中でひとつの虚構の物語を、皆で生身の実感と共に共有し、感動という共通の味わいを深く感じられるのは、「映画」という媒体の恩恵でしょう。
ネット世界に時に孤独を癒すリンクを求めるように、映画も同様に人とのリンクのためのツールであり、覚醒しながら見る夢なのでしょう。フェリーニのその遺言は、便利さで失いつつある、娯楽に伴うプラスαの意味を残していたのかもしれません。

だから…デートで映画に行くのはもちろん素敵なことですが、独りで行くのも決して恥ずかしいことではありません(笑)。

ここでいきなり心理学ですが(笑)巻き戻しということで連想したことがあります。
トラウマ療法では「巻き戻し法」という方法があります。トラウマが生じた事件までの記憶の映像を自ら巻き戻す。それがどんな理論で、癒しへつながるのか詳しいことはわかりませんが、巻き戻すという作業に癒しが本当にあるのならば、現実は巻き戻しできないところに意味があるのではないかと思いました。また形而上的な説ですが、意図的にはできない「巻き戻し」が強制的?自動的?にされるときが「死ぬ瞬間」なのだそうです。「走馬灯のように人生が思い出されて」とは、臨死体験した人の定番体験です(これはビデオなんか比較にならないほど速い巻き戻しですよね)。神様は死にゆく人にその人のそれまでの人生を振りかえさせるんだそうです。で、みせられた本人はすごい「恥」を感じさせられるらしいです。これこそ神の「罰」なんでしょうね。臨死体験はないけれど、この瞬間こそ本当の地獄なのではないかと思います。(ビデオデッキはビデオが最後にくると自動的に巻き戻さししますよね。この瞬間もビデオデッキと同じなのかもしれない)。やはり神様は観客…それもすべてのドラマを厳しくそして優しく見つめる、観客であり、演出家であり、そして最後の評論家でもあるのでしょう。
心の理論でいえば、そのように巻き戻すことができる。記憶があって人生があると思いますが、テープが上書きできるように、人生もそのように可能ならと。これは切なる個人的な願いですが。

そうだ、TUTAYAにビデオ返しにいかなければ!ハー、面倒…「現実」では「延滞料金」がついてしまいます。ああ「夢」から覚めたあとの虚しさよ(笑)。
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似て非なる意見を持つものです。



ビデオ的な感覚、私もあるんです。
特に私は無宗教ですが、死んだら一生分の自分の映像が見れたり
するのかなぁ、なんて考えたりします。
妄想というわけではなくて、その時に、「こんなもんかよ」とか
思いたくないなぁって。

素晴らしい人生にはならないかもしれないけど、せめて「よく
やったわ」と思える人生にしたいもんだと考えたりします。

誰かその映像を覗き見してて、「プッ」とか言われたら嫌だし
(十分「プッ」な人生ですが…まだまだこれから)
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tsutayaのテープは、的を射てますね。

世界で60億巻のテープが走っているんですね。死んでテープを巻き戻してプレーバックしたときに、この人生は合格と思えるなら80年の人生に意味がありますね。しかしこの人生では不合格となれば、再度やりなおしですね。映画にもランクがあるように人生の結果にもランクがあるんですね。だからそれを永遠に繰り返しているんです。それが人生ですよ。カルマというのは、前の人生での不足分を補うという意味ですね。
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ビデオとの最大の違いは、未来が決定されていない事じゃないかな?



 多分決定事項ではないと思うんだよね。

ビデオテープみたいに巻き戻しは出来るかもね。
でも巻き戻されても、本人は気づかないでしょうね。
それはビデオの役者が巻き戻しに気づかないのと同じ
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