準・究極の選択

「とはずかたらず」の作者は二条ですね。
司馬遼太郎は次のように書いています。
「恋が多かった。賢く、かつ性的魅力にも富み、それもひょっとするとある種の男の嗜虐趣味をそそるようなところがあったのかもしれない。>

二条は、1289年32歳で鎌倉に旅しています。
質問は、この旅の動機は何でしょうか?
(鎌倉で新将軍を迎えるための準備の手伝い、でしょうか?)
(これは、たまたま新将軍を迎える時期に合ったのでしょうか?)

A 回答 (3件)

古谷友香里さんが2019年に


「『とはずがたり』研究 ― その独自性―」の中で、
次のように書かれています。

二条は御所を追放されたあと出家を果たし、諸国を旅するこ
ととなる。伏見で院と再会した際、院が二条に「東、唐土まで
尋ねゆくも、男は常のならひなり、女は障り多くて、さやうの
修行かなはずとこそ聞け。いかなる者に契りを結びて、憂き世
を厭ふ友としけるぞ。一人尋ねては、さりともいかがあらむ」
という言葉をかけていることから、男性に頼って援助してもら
わない限り、女性が一人で旅をすることは難しいという認識が
あったことがわかり、当時としても二条は珍しい存在であった
ことがうかがえる。
二条の出家後の旅について、今関氏は「作者の出家は、不本
意に御所を追われ、喪失感を拭いきれないまま、やむなくなさ
れた側面が強く、喪失した時間と場への回帰性の強いものであ
る」とし、「「とはずがたり」の出家は、従来言われてきたよう
な意志的にして自由な女西行、中世的な新しい生き方、という
自由な側面よりも、実ははるかに〝零落と流浪〟という落ちぶ
れの側面が強いと思われる」と述べている。また、寺尾美子氏
も「この旅は決して撰び取られて実行されたり、自ら進んで求
道の世界へ入って行ったりしたものではなく、身の拠り所をな
くした女の、余儀なく出発した、いわば漂泊の旅である」と主
張している。たしかに、二条が旅に出ることになったのは、御
所を追放されたからである。

次の記載もあるそうです。

御所には、当国司、足利より、みなさるべき人々は布衣なり。
御馬引かれなどする儀式、めでたく見ゆ。
三日に当る日は、山内といふ相模殿の山荘へ御入などとて、
めでたく聞こゆることどもを見聞くにも、
雲居の昔の御事も思ひ出でられて、あはれなり

主催者側、饗応側、重要関係者としてではなく、昔のよしみで呼ばれて見てしまったという状況のように思えます。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございました。
一つの動機としては、
1.<〝零落と流浪〟という落ちぶ
れの側面が強い>ですね。
2.<いわば漂泊の旅>ですね。
かならずしも、鎌倉へ、だったわけではないのですね。
他の動機としては、<昔のよしみで呼ばれて見てしまった>ということもあるのですね。こちらは、鎌倉が目的地だったのですね。

お礼日時:2021/08/26 13:51

「とはずかたり」


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%AF …
 を御覧ください。
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この回答へのお礼

ご解答ありがとうございます。

お礼日時:2021/08/26 13:40

やはり鎌倉時代、十六夜日記の作者で、後妻であった阿仏尼は、夫の死後、先妻の長男と、遺産の土地の所有権・租税権をめぐって訴訟を起こすため、鎌倉に旅をしています。



御成敗式目成立が1232年なので、時期的には、土地訴訟の可能性が高いと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<土地訴訟>のために鎌倉の問注所へ、という可能性が高いのですね。

お礼日時:2021/08/25 07:35

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