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歎異抄の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉は、善人と悪人を書き間違えた可能性はありませんか?

A 回答 (7件)

この文章だけをみればそう思われるかもしれません。

でもこの文章の続きをご存じでしょうか。

原文
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、『悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや』」

現代語訳
「善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」 と言っています。」

ですから原文をみても善人と悪人を書き間違えた可能性などないですよね。
文章は前後の関係をみなければよくわからないことがあります。ですので全体の中で、その文章が何をいっているのか考えるクセをつけましょう。

これば文章だけに限った話ではありません。ものごとを一部だけしかみなければ解釈を間違ってしまう可能性がありますよ。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。

お礼日時:2021/11/04 12:05

必ずしも普遍的ではない現状の枠の中で


善人として暮らしていけている人よりも
その普遍的でない分のひずみによって
その枠の中では悪人にしかなれないような
もがきを余儀なくされた人のほうが
社会に貢献している
ということでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。

お礼日時:2021/11/04 12:05

これがもし「善人」と「悪人」が逆だったら常識的な当たり前の文でしかなくなります。

「善人でさえ救われるから悪人はもっと救われる」と言う逆説的な主張をしている所が歎異抄の肝だと思います。もちろん書き間違いではあり得ません。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。

お礼日時:2021/11/04 12:04

ここで悪人善人というのは通常の


意味とは違います。

善人、というのは仏の教えに疑いを持たない
ひとのことです。

悪人、というのは疑いを持って、自分で
色々考える人のことです。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。

お礼日時:2021/11/04 12:03

ありません。



親鸞聖人の仰る善人というのは人間はみんな煩悩だらけで悪人であるのに、そのことに無自覚、気づいていない未熟者であるという人です。
だから、早く己が悪人であるということに気が付けという教えです。

悪人とは自分がさまざまな煩悩を持っている。そのこと自体、悪人であるということであり、自分が煩悩だらけの悪人であるということに気が付き、自覚した者のことを仰っております。

極論を言えば、私は昼に牛丼を食べましたが、おいしかったので「おいしいね」と言いました。そのことも「おまえは牛を殺して食べておいて、おいしい」と言ったのだぞと。それも悪人であるという教えです。つまり、人間と言うのはみんな煩悩を持って生きているのだから、本来、みんな悪人なのだと。

ですが、これは親鸞聖人自身が「自分は煩悩だらけの悪人である」ということを反省、自戒して仰っているのです。だから、親鸞聖人ほどのお方が自分はとてもじゃないが人から尊敬されるような者ではない。悪人であると。だから、親鸞聖人は弟子を取りませんでした。弟子などを取れる立場に自分はいないという自覚です。

自分の罪を自覚している悪人>自分の罪に無自覚な善人(未熟者)なのです。

なので、善人でさえ救われるのなら悪人なら、なおさら救われるという教えです。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。少しですが、意味が分かりました。

お礼日時:2021/11/04 12:03

これって小乗仏教と大乗仏教の話だから


別に問題ありません。

お釈迦様は万人を助けてくれる。
拝んで媚びへつらってる人が
往生できるのに
平民ができないわけがない(私見)
ということでしょ。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。

お礼日時:2021/11/04 12:02

ないね。


人生経験を積めば分かる。
池波正太郎の小説を読んでも分かる。
「同じ人間が、置かれた条件の違いで善人にもなり悪人にもなる」

厨二には分からないが。
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この回答へのお礼

ご回答、有難う御座います。

お礼日時:2021/11/04 12:01

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