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自我とは能動的に考えて行動する、考える、価値観、思考、だと思うのですが、
どうして千差万別なんだろうか?

勿論、逆の意味で皆、同じだったら気持ち悪いのですが、この個性(自我)のメカニズムがわからんですわ。

人生80年が与えられて、同じ境遇、環境下で育っても、個人の性格、考え方、判断により全く違った人生になりますよね?

よくありがちなのが、親が超有名人だけど、2代目(子供)に代わった途端、人気が凋落するとか普通にあるのがこの世界です。

これは魂の品格が違うと言うことなんでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

人の数だけ自我があるんですから、当然。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

いやなので自我とは何でしょうか?

お礼日時:2022/09/14 18:31

自我だからですッ!

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2022/09/14 18:32

自我というより、魂でしょう。

個性を持っています。
個人は人類という大河の一滴であって、
事故で明日死んでも支障はない。

>親が超有名人だけど、2代目(子供)に代わった途端、人気が凋落・・・
逆に、2代目だと注目されがちです。親の七光りです。
ですが本人に、才能がないと逆に不遇な生涯が多いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

うーん。前回「魂とは何ぞや」でやりましたが「自我」という回答を頂きました。

なので「自我とは何ですか?」と聞いたのに(><)
また魂と言われたら(;^ω^)

お礼日時:2022/09/14 18:33

自我とは何か?


 ↑
自分だ、と自覚出来ること。
つまり、自分と自分がお話出来ること。



どうして75億通りも自我が違うのか?
 ↑
1000億個のニューロン(神経細胞)が
あるから。

脳内には約250兆の「シナプス」があり、
その数値を大雑把に計算すると、
「シナプス」一つが5ビット容量として、
150テラバイトもの容量になります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

すごい容量ですね!

お礼日時:2022/09/14 18:33

いまの世界人口が仮に80億。


単純に2択の選択肢がだされたときにAを選ぶ人とBを選ぶ人は完全に分かれたとして、10個の質問を2択させると約1000個の選択がされます。80億を超えるのにわずか33個の質問だけで済んでしまいます。
人は生きていく中で何万、何億もの選択肢を選びます。33個の質問だけで個性が確定できるのであれば選択肢を選びながら人生を形成すれば、それだけ個性がでるというものです
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

自我~

お礼日時:2022/09/14 18:42

十人十色というでしょう。



子供は父と母の品格を繼ぐ。

だから親は親。
子は子となる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

遺伝するところはあるんですけどね。

お礼日時:2022/09/14 18:42

多分、人間は機能的に複雑すぎるから、だと思います。



単純な“生物”の自我?は結構同じだと思いませんか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

鼻と口、目が同じ位置にあるのが人間の特徴ですな^^

 たいていの人は昼間は起きて夜寝る。
これも同じですな。


しかし細かいところで全然違いまする。

お礼日時:2022/09/14 18:43

投稿したのに反映されてない どうしたんだろう?



DNAも環境も人間関係も何もかも違いますよねえ

双子でも違います。

天に軌道がある如く 人それぞれ運命というものがあります。

同じ軌道でも色んな小惑星や人工衛星の古いのが回っています

そういうのも皆違うのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり生まれた星というのがあるんでしょうかね^^

お礼日時:2022/09/14 18:44

自我って


近くで感じたら千差万別だけど
遠くから感じたら、大抵一緒なんじゃないかなぁ~

近づくと違いが感じるのは
自分と他人は違うと感じるためだと思いますよ
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんと新しい発見よ。
なるほど、近づくと違いを感じる(^^♪

お礼日時:2022/09/14 18:44

おのおの人間が用いる《わたし》という自称が じつは――代名詞ではなく――言わば固有名詞であるからだと考えます。






★ (趣旨説明欄) これは魂の品格が違うと言うことなんでしょうか?

☆ 《われ》と自称する自己表現が それぞれ固有に言わば――相対的に・社会関係の中で――独立しており あたかも《魂の品格》と呼びうるような性格となってあらわれ得る。

それは 基本として われわれ人間にそなわった意志の問題だと考えられます。

意志および意志行為たる自己表現が――相対的に有限性の中でも――自由だと想定されるからだと思われます。





この自由というのは たとえばわれと かれとが 同じ自己表現をおこなったとしても その現実性は 互いに違っているといったところに現われます。

ふたりがいづれも同じようなご飯(料理)を食べたとしても それぞれの意志は異なっている――というようなことなら 意志選択の自由が 比較的分かりやすい。

つまり たとえ同じ思想・同じ信念であったとしても その発言は 違っているはずです。

もし仮りに発言内容も まったく同じだったとします。それでも 意志のありかは われとかれとでは 異なっています。

意志が互いに異なっているから そこからの表現として互いに同一の思想だというふうに言えるようになる。

当たり前のごとく 《わたし》は 人それぞれに別であるのだと思います。





なお 《自我 das Ich; the 'I' 》は 《わたし〔なるもの〕》のことです。翻訳したら あらぬ・余分な意味内容がつけ加わったもののようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私とは何でしょうね~。

お礼日時:2022/09/14 18:45

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