アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

Wikipediaの説明には、「物理主義(または唯物論)の立場を攻撃する際に用いられる」と書いてあり、その内容について、

普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビにはその際に「楽しさ」の意識も、「怒り」の意識も、議論の厄介さに対する「苛々する」という意識も持つことがなく、“意識(クオリア)”というものが全くない、という点である。哲学的ゾンビにとっては、それらは物理的化学的電気的反応の集合体でしかない。

と書いてありますが、そもそも物理主義の立場からすると、意識とは物理的化学的電気的反応の集合体なのですから、これは全く反論になっていないというか、平行線を辿るだけになりそうなのですが、どうなのでしょうか?

A 回答 (4件)

意識は何の為に働くのか?


それは不明瞭・不明確なものを明瞭・明確にするため働く 
それはつまり不明瞭・不明確な状態を明瞭・明確な状態にするということですや。と同時に自身の脳の所定の部位が明瞭・明確な状態となります
上記のように一方の状態を決めるともう一方の状態がその瞬間決まる物理現象それが「量子もつれ」と言います
上記を踏まえると意識とは「向けたその対象と自身の脳の所定の部位とが量子もつれ的に「もつれた状態」となります」
    • good
    • 0

wikiの説明は非常に分かりにくい。


おそらく「デイヴィッド・チャーマーズが1990年代にクオリアの説明に用いた思考実験」云々などの学術的説明に捉われすぎたからだろう。

分かりやすいポイントは「(おもに)物理主義(または唯物論)の立場を攻撃する際に用いられる」という一節だろう。
つまり哲学的ゾンビとは、唯物論に洗脳された頭の固い共産主義者をイメージすればよい。

もっと分かりやすい例で言えば、哲学的ゾンビとは、宗教、特に教理がメチャクチャな似非宗教に完全に洗脳された狂信者をイメージすれば良い。

つまり、自立した客観的思考ができずに、押し付けられた思想を繰り返すことしかできない人間。盲目的に教祖の教えに従うしか出来なくなった人間。それが哲学的ゾンビの正体だ。
    • good
    • 0

意識とは物理的化学的電気的反応の集合体


  ↑
これは意識の表面を、一部の機能を持って全体と捉える、浅はかな見方です。
ここで人間の意識についての説明は省略しますが。
意識とは今だ解明されていまい茫漠たる未踏の領域です
人間の意識は不可能を可能にしてきました
量子論でも人間の意識が科学的法則すら変えてしまう事が明かされています。
これは意識がただ単なる電気的反応の集合体ではない事の証明です

唯物論は
「知識によって描き出されたユー トピアへの青写真どおりに、
強引に社会をっくり変えよう」とする思考法であり、そこに落とし穴がある事に気が付かなければならない、それを「哲学的ゾンビ」と言うのです

言語は理性的法則を意味する。例えばマルクス主義は、
歴史の発展や社会の構造を明らかにする 「法則 」を明らか しているというがこの議論の前提には、社会の 「法則 」は人間の理性によって解明され、
言語によって表現されるという間違った信念があることに注意しなくてはならない、

物理主義の言葉 は、はたして生々流動しゆく実在を、あますところなく写し取ることができるのか。
人聞はそうした実在を固定化してしまう 「言語の虚構性」の罠、「抽象化の罠」から、どうしたら け出 ことができるのか一 このような「言葉の虚構性 」に対する警戒 、さらには 「言葉への不信」 さえもが、いまほど必要とされている時代もない。

マルクス主義 、また社会科学の多くは、言葉で表現される理性的法則によって現実の問題の原因を明らかにし、その解決 策を示そうとする。
しかし、しかし、そもそも現実を 「あますところなく写し取る」
ロゴスなど存在するのか、 と思うのです

キリスト教マルクス主義といった西洋の思想が「外在的規範」をもって指摘 します
人類は何度、悲劇を繰り返したことでしょう。
そうした"神"や"イデ ロギー"を特徴づ けているのは「内在的規範」に対して
いえば,それが著しく「外在的規範」であったということです。
20世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、
私は何よりも「外在的規範」の挫折と捉えたい。
とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていとは、到底いえません。
キリスト教の説く"神"や マルクス主義のいう、行動を律する規範であるというのはデロギーは人問の「外 から人びとの内に入り込んできたのです」

現代の最大の問題は
「知識 と知恵を錯覚しいるのる」と言えます
「知識jを「知恵」と錯覚することこそ近代の急進主義が陥った落とし穴である といってよい。
 知識イコール知恵と思い込み知識によって描き出されたユートピアへの青写真 どおりに、強引に社会を作り変えようとしたのが、近代の急進主義の流れでした。
たとえば、目的とするゴールが、あらかじめわかっているのなら、到達するのは早ければ早いほどよい。
それを理解しないわからず屋には、多少力ずくでのぞんでも止むをえない
知識と知恵の錯覚、すなわち「知識イコール知恵と思い込み、知識によって描き出されたユートピア の青写真どおりに、強引に社会をっくり変えようと」する思考法に囚れている人が多い
    • good
    • 1

★ (趣旨説明欄)


そもそも物理主義の立場からすると、意識とは物理的化学的電気的反応の集合体なのですから

☆ というとき 哲学的ゾンビなる思考実験からする批判は こうです。

早合点して言ってしまえば 物理主義の説く意識は その怒りや楽しみなどの心の気持ちが その喜怒哀楽なる現象が起きているのだけれど 意識(再意識)されない――ここに 論点があるようです。



つまりそのために 物理主義の説く《物理的化学的電気的反応の集合体》としての意識(怒ったり楽しんだりする心の現象ではある)が じつは実際には意識(再意識)されていないという場合を 哲学的ゾンビなる人間として想定している。

このゾンビが 現実に存在するとはほとんど誰も考えていないが こういった思考実験が成り立つのではないかと。



つまり もしそうだとしたら 物理主義の説く意識は あたかも動物のそれに似ていて じゅうぶんには意識(再意識)されることなく 楽しい思い出や苦い経験などとして味合われることがない。

なぜなら 心の気持ちの意識が起きて そしてさらにその意識感覚を反芻するかのように再意識する場合 前者は 物理主義でも説明して得ているが 後者は 果たしてどうか?

《物理的化学的電気的反応の集合体としての意識》が 再帰して――まったくその物理的等の反応と同じように――心の感覚質・クオリアを生み出しているか?


心を心として二重に念入りに思い抱くそのハタラキは やはり《物理的化学的電気的反応の集合体としての意識》そのもののチカラによるか? と。


心は――そうは言っても―― 物理的等の神経組織などの土台の上に成り立つといった前提をみとめつつも 果たしてどうか。


心で経験を反芻するといったことがらとしては 動物に歴史はあるか? 持たれているか?
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!