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意識と思考の違いは何でしょうか。
意識のない思考、思考のない意識を想定できるでしょうか。
できるのであれば具体例を示していただけないでしょうか。
よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

#5です。


あなたのご質問にお答えするのに、ただの哲学的定義を述べても無意味と思いますが。
また、そもそも意識論を厳密に展開して説明するには、このブログのスペースでは難しいのではないでしょうか。(なお、意識に関する参考書籍は無尽蔵に出版されています)
ただ、あなたの更なるご質問に対しては、分りやすい例を挙げてお答えするだけにします。

たとえばここで、人種を意識する場合を考えてみましょう。
最新の遺伝子進化学によると、
生物進化の歴史において、人類がチンパンジーから枝分かれたのが500万年前。
そこから現世人類が誕生したのが15万年前で、その現世人類(黒人)から黄色人種が枝分かれしたのが12万年前。さらに黄色人種から白人が枝分かれしたのが6万年前と言われています。

現在我々が、黒人というものを意識する場合は、簡単に言えば、肌の色が黒くて髪の毛がチヂレ、黄色人種でもなく白人でもない人種というところでしょうか。
しかし、今から12万年前にまだ人類から黄色人種が枝分かれしておらず、この世に黒人しかいなかった時代、その当時の人類は「黒人」というものを意識できなかったはずです。彼らは黒人というものではなく、ただの人類であり、人類の肌の色は黒が当り前だったのですから。
(今でも、アフリカにおいて黒人達は、白人や黄色人種を、白い人間・黄色い人間と呼んでも、自分達のことは決して黒い人間(黒人)とは呼ばないと言うことです。彼らは、自分達のことを、ただ「人間」であるとしか言わないそうです。そして黒い皮膚は、人間の肌の色と言うことです。)
 ───────────────────────────────
最後に、
意識が思考と対比されて考えられる場合、それはあくまで行為内容をさすのであり、存在内容を指すものではないと思いますが。(「意識する」VS「思考する」)
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この回答へのお礼

なるほど、面白いですね。
普段使っている言葉とはちょっと違う感じですが、納得できますね。
哲学が自分の頭の中を整理するのに役立ちそうなので勉強してみます。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/29 23:44

>意識の動きが思考だと考えられるのですね



それほど単純な事ではないと思います。
一人の人間が、何かを感じ、それを思考し、解釈し、理解し、反応するなどの一連の行為を突き動かしているのが「無意識野」であるとフロイドは言っているのです。この「無意識野」は記憶であると考えると、「意識」とは別のものになります。むしろ“自我”でしょうか。

日常で救急隊員が「意識がある、ない」と言っているのは、反応が有るか無いかを見ていると思っています。彼らの使っている「意識」は今質問者様の疑問とされているところとはやや趣が違うと思います。

ただ、「意識があるかないか」を判断するのは、一体誰でしょう。犬は褒められると尻尾を振り、叱られるとしょんぼりします。犬には意識があると考えますか?蝿は蝿叩きで潰される前に逃げようとします。蝿に意識はありますか?では蟻には?魚には?アメーバには?
視点を変えてでは一般に植物状態患者には意識がないとされています。では、誰がそう決めるのでしょうか?人間は運動系を使わなければコミュニケーションが取れない種族です。運動系が全て途絶した人間はもはやコミュニケーションは取れなくなります。感覚系は全て生きていても何も反応がなければ「意識はない」と判断するのでしょうか。
アレクサンドラ・デュマのモンテ・クリスト伯に出ているノワルティエ老人、映画「ジョニーは戦場に行った」のジョニーなどはわずかに残った運動系を使ってコミュニケーションをとる事が出来ましたが、それを理解する人達が必要でした。理解しない、或いは理解したくない人達にとっては意識の無い者として扱われました。

このように考えると、いよいよ“意識とは”と言う問いかけの答えからは離れてゆきます。それが私にとっては“意識とは”という問い掛けは“人間とはと言う永遠に回答の無い問い掛けと同じ”に思えてくるのです。

唯識において「種子(しゅうじ)」の発生の方が「意識」に近いかななどと思ってしまいますが、皆様どのようにお考えでしょうか。
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続き



私達は意識していないことを意識できない。意識があって初めて意識できる。「内なる神々は言語の進化過程で生まれた副産物であると同時に、ホモ?サピエンス自身が誕生して以来の生命進化における、最も注目に値する特徴でもある。私は単に詩的な意味でそう言っているわけではない」とジェインズは述べている。「内なる神々は、断じて妄想から生まれた虚構などではない。人間の意志作用だったのだ」
ところが、長い目で見るとそれはうまく機能しなかった。結局、神々は人間を見捨てた。「神は私を見放した」現存するメソポタミア最古の文献の一つにそうある。「女神も私を見捨て、よそよそしい。寄り添って歩いてくれた守護天使も去ってしまった」
紀元前2000~1000年は困難な時代だった。自然災害や戦争、人口の大移動によって、中東の諸文明圏で大変動と大混乱が起きた。民族間の交流が進み、書き言葉が話し言葉の力を弱め、内なる神々の声の中に示された、昔ながらの知恵はもう時代遅れになった。世界は一変していったのだ。〈二分心〉が崩壊し、文化が激変し、それが意識の起源となった、というのがジェインズの仮説だ。
人間の心の仕組みがどう発展してきたかを明らかにする資料として、ギリシアの叙事詩を読み解くという考えは、それ自体新しいものではない。精神分析学では昔からこの手法がとられてきた。例えばフロイト派では、オイディプス王(父を殺害し、母を妻とした男)やナルキッソス(水面に映った自分に恋をした青年)の神話が取り上げられている。
1949年、C?G?ユングを祖とする学派の精神分析学者エーリッヒ?ノイマンは意識の起源を理解するうえで、『オデュッセイア』は重要な証拠資料である、と述べた。『オデュッセイア』はイタケー島のオデュッセウス王の物語だ。オデュッセウスはトロイア戦争で名を揚げた。中でも一番の功績は、籠城中のトロイアに空洞の木馬の計略を用いて兵と共に潜入したことだ。故郷への帰路、オデュッセウスは海神ポセイドンの機嫌をそこねて数々の苦難に見舞われる。危険の多くは、オデュッセウスに伸びる誘惑の摩手という形をとる。しかし、オデュッセウスはセイレーンの美しい歌声や邪悪な巨人達、求婚者をみな豚に変えてしまう妖婦などの誘惑に、意志の力と狡猾さで打ち勝つ。
アメリカの歴史家モリス?バーマンは、ノイマンの解釈を要約した文章で次のように述べている。「オデュッセウスは、無意識で未分化の女性的な力の激しい引きを幾度となく経験する。それは、かつてほんの赤ん坊だった頃や母の胎内にいた頃と同じように、再びその力に溶け込んで一体になりたいという回帰の欲望、無意識状態に戻りたいという欲求だ。しかし、彼の英雄たる所以は、そうした誘惑を退けた点にある。オデュッセウスは無意識の持つ暗黒エネルギーには興味を示さなかった。彼の無意識に対する『勝利』は、一つ目の巨人キュークロープスの目を潰すこてに象徴されている。キュークロープスの目は、直観的な理解をもたらす『第三の目』だからだ」
バーマンはこう続けている。「この英雄の誕生は自我の誕生に他ならないのだが、それによって、世界は二面性を持つようになった。世界は、男性と女性、黒と白、神と悪魔、自我と無意識に引き裂かれた。こうして壮大な物語が始まり、世界中の文化がそれに巻き込まれていった」
しかし、この解釈によると『オデュッセイア』は意識の起源の走りと、無意識が意識に見舞う誘惑を描く物語の域を出ない。
ジェインズは意識の起源を厳密に辿ると、ギリシアの為政者で立法家、アテネのソロンまで遡れるとしている。ソロンは紀元前640年頃から560年頃にかけて生きた人物だ。タレスやアナクシマンドロス、ピタゴラス等によってギリシア哲学の基礎が築かれた世紀に、アテネに民主政治を導入したのがソロンだった。
ソロンが『noos』という単語で主観的な心を表していたことは間違いないとされている。同時代に活躍した様々なギリシア人思想家達が言ったという説もあるが、ソロンのものとされる言葉に、かの有名な「汝自身を知れ」がある。これは人が、外側から眺めた自己という概念を持っているときにだけ、意味を成す言葉だ。自己を外側から眺めるのは、自分が何者であるかという考えを前提とする、高度な心の働きと言える。
ジェインズは、意識の起源とおぼしきものを、ギリシア文明やインド文明、中国文明、エジプト文明といった文明に見出している。紀元前500年前後に、この地球上の様々な文明で数々の目覚ましい進歩が一度に起こったが、ジェインズの見るところ、そのうちでも意識の起源を最もよく記述している文献は旧約聖書だ。旧約聖書には、神々が姿を隠し、意識が心の支配権を奪うまでの一部始終が一息に語られている。
そのうえ、旧約聖書の信仰は一神論を説いている。多神教の信仰が〈二分心〉に対応する一方で、一神教は意識ある心に対応している。
多神教と一神教の大きな違いは、迷信や幻覚、或いは雨乞いの踊りなどにかかわるものではなく、誰が人間の行動の実権を握っているのかという認識にある。
意識時代の前段階、〈二分心〉時代には、人々は自由意思を持っていなかった。それどころか意思というものを全く持ち合わせていなかった。意識が出現して、人は自由意思をある程度までは与えられた。やがて倫理問題が発生し、モーセが神から授かった十戒が記された二枚の板を手にシナイ山から降りてきた。
突如、人には考えることができた。人はどのように行動すべきか、だ。一方には「汝自身を知れ」という信条と道徳律があり、もう一方には〈二分心〉による免責がある。両者の落札がいかに大きいかは、次に引用したジェインズの一節にうかがわれる。「シュメール人には『直ちに行い、汝の神を喜ばせよ』と古い諺がある
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意識の起源



100年前、心理学者達が内観をまだ真剣に受け止めていた頃、ウィリアム?ジェームズがこう書き記している。「意識に関する普遍的事実とは、『思考や感覚が存在する』ということではなく『私が考える』『私が感じる』ということだ」
意識ある〈私〉は、人が最も身近に経験するものだ。〈私〉は他のどんな経験にも先行する。現代人なら誰もが、この〈私〉という視点から人間を生み出した世界を眺める。だが、〈私〉自身は何処から生まれたのだろう?


〈二分心〉の崩壊、意識の誕生

1976年、プリンストン大学のジュリアン?ジェインズは衝撃的な仮説を発表した。『〈二分心〉の崩壊に辿る意識の起源』の中で、3000年前の人類は意識を持っていなかった、と主張した。「もしこの推測が正しければ、会話、判断、推理、問題解決に止まらず、我々がとる行動の殆どを、全く意識を持たない状態でこなす人類が存在しえたことは、まず間違いない」
古代ギリシアの大叙事詩、ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』には、意識を持たない人間達、内から聞こえる神々の言葉によって行動する自動人形のような人達が描かれている。特に『オデュッセイア』のほうは、人類の歴史に意識が登場し始めた時代に書かれたことが現れている。意識の起源は、ある歴史的プロセスであり、そのプロセスは現存する最古の文明遺産にその形跡を辿ることができる、とジェインズは主張した。
彼の解釈では、次のようになる。意識は人間が機能するうえで、一般に思われているほど重要なものではない。意識は比較的近い過去に誕生したもので、一つの歴史的現象だ。〈私〉という概念が形成する歴史的産物の一部である。意識と、〈私〉という概念は、歴史と共に創られたものであり、それ故に歴史と共に変化しうる。
ジュリアン?ジェインズの仮説は注目を集め、同時に批判も浴びた。何故ならそれは、意識に対する認識を変えるだけでなく、実は広範な史実に対する認識を変えるものだったからだ。ジェインズは意識の起源を主題に据えて、人類の歴史を解釈し直していく。
彼の考えはこうだ。大昔、3000年以上前には、意識も〈私〉という概念も、人間が自分の内に心を持っているという認識もなかった。だからといって、社会の構造や人間の経験や言語がなかったわけではない。人間行動の認識の仕方が、今日とは全く間違っていたということだ。当時の人々は、神々の命令によって行動したのであり、自らの衝動によって行動したのではない。彼等にとって、感情や欲求や決断は、人間を通しての、神々の働きかけの結果だった。全ては神々の介入によって生じるものだった。
ジェインズによれば、人間の心は二分されていた。つまり、左右の大脳半球に呼応して、心も二つの部屋に分かれていた。右脳で行われる非言語的活動は全て、人の頭中で聞こえる話し声の形をとって、左脳へ伝達された。精神分裂病の患者がありもしない声を聞くのと同じように、古代人達は自らの中で、何をなすべきかを告げる神々の声を聞いていた。社会秩序は、神々の声という形をとり、〈二分心〉を経て、個人へ語りかけることができた。現代ではそのような声が聞こえることを「幻聴」と呼んでいる。
人間観における、古代人と現代人との根本的な相違は、古代人の頭中で独立した内観活動が行われていなかった点にある。古代人には意識もなければ決断もなかった。そういうことはダイモンと呼ばれる神々が面倒をみてくれた。
当時の人類には自由意思が全くなかった。それどころ、私達が言うような意味での意思すらなかった。「人には、我々のような意識はなかった。自らの行動に責任はなく、それ故、数千年という長い間になされたことのどれ一つに対しても、彼等を讃えるわけにも責めるわけにもいかない」とジェインズは述べている。
だが、果たしてそんなことがありうるだろうか?意識を持たない人間が、どうして町や船や道を造りえたのか?どうして人として機能しえたのか?
ジェインズの考えは奇想天外に聞こえるが、実はそれほど想像しがたいことではない。繁華街へ出かけるときのことを思い浮かべてほしい。最も使い慣れた交通手段と、殆ど毎日のように通る道順を選ぶことにする。そんなとき、どうやって繁華街に到達するかを考えてみよう。私達は、どんどん進んでいく。人や車の往来はさほど気にせず、目的地に着いたらやることに気をとられているかもしれない。或いは今朝の天気か、全く別のことが頭にあるかもしれない。実際の移動行為は、おおむね自動的に行われる。手足に任せておけば、あれこれ考える時間がたっぷりある。もちろん道中の交通と完全に無関係ではいられないが、心は他の様々なことに向いている。自覚を伴わずに、実に様々な行動がとられている。意識は、何処か他のところにあるのだ。
「さてここで、その意識を取り除きさえすれば、〈二分心〉を持つ人間の境地を味わえる」とジェインズは書いている。
私達は大概、自分のしている行為以外のことについて考えている。それは、つまり、意識は人間の通常の機能にさほど重大な意味を持っていないということにほかならない。なにしろ、そうでなければ、人間は自分が今していること以外は考えられなくなってしまう。
従って、何か別の事柄について絶えず考えている点を抜きにすれば、現代人は意識を持たない人間と何ら変わりはない。唯一の違いが現れるのは、予期しないこと、注意を要することが起きたとき、例えば、交通渋滞に巻き込まれたときだ。そんなとき人は、仕方なく注意を払う。何が起きているか、何をするべきかを意識する。一方、〈二分心〉を持つ人間は、神々からの指令、すなわち、何をすべきかを告げる内なる声を持たねばならない。彼の人生経験は、意識ある回想や内観の形ではなく、無意識から聞こえてくる神々の声を通して表現される。
人は〈私〉という意識を持たなくとも確かに機能しうる。事実、大抵の人間は多くの時間を〈私〉という意識なしで過ごしている。ただ、そのことに気付いていないだけだ。何故なら、無意識に行動している間はそれを意識しないからだ。もし意識できるのなら、それは無意識ではないということになる。
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意識の定義があるのかどうか分かりません。

アンリ・エイは「意識」について二冊、「無意識」について七冊の本を出しましたが理解できる方はあまりいなかったそうです。世界中の脳外科の偉い方々が集まって頭部外傷の語彙集を作ろうとして、ついに合意に達しなかった言葉に「意識障害」があります。その理由は、「意識」の定義が出来なかったためだそうです。恐らく古代からの「人間」の定義が出来ないように、ひょっとすると永遠の答えの無い問いかけかもしれません。
思考については、寝ているときの“夢”が思考か否か分かりません。しかし、起きているときに“思考する”と言う行為は自分の持っている「記憶」との一対一の対応の検証かと思います。但し、ここで言う「記憶」はフロイドの言う忘れてしまって引き出せない領域=無意識野も含まれていると思います。(例えば母親の胎内にいるときに記憶した母親の鼓動等も意味します。)即ち、「思考」は脳の機能だと思いますが如何でしょうか?
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この回答へのお礼

なるほど、意識の動きが思考だと考えられるのですね。
なんか分かってきた気がします。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/30 13:45

─ 意識と思考とはまったく別のものです ─


意識とは、対象同士の差異あるいは変化を認識することである。
思考とは、意識対象を確定さそうとする行為である。

Aを意識するとは非Aとの差異を認識することです。

<思考のない意識>
したがって、普通は意識出来ているときは、思考は停止しています。
<意識のない思考>
ある事がどうしても思い出せないと言うような場合は、
思考はしていても何ら意識すべき対象が無いと言うこともあります。
─────────────────────────────

しかし、「意識がある」とか「意識がない」とかの場合の意識は、上記の意識とは別のものです。
その場合は、上記の意識行為をなす主体(自己)そのものを指すことになります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
少し質問させてください。

>意識とは、対象同士の差異あるいは変化を認識することである。
>思考とは、意識対象を確定さそうとする行為である。

これは哲学という学問上の区分(定義)なのでしょうか。それと非Aが存在しなければAを認識する事はできないと解釈できるのですがいかがでしょうか。Aが存在するのに認識できないとはどういう事なのかご説明いただけいないでしょうか。
私は意識行為をなす主体(自己)を意識として質問しているのですが、学問的には間違っているという事なのでしょうか。
ご回答よろしくお願いします。

お礼日時:2007/03/26 16:00

意識と思考の違い、は難しいですが、


とりあえず、程度の違いで、本質的な違いは無いだろう、と言う予想が可能かな。

例えば、ご質問者様が存在する、まぁ可能性としては、コンピューターで質問を自動的に発生させる装置でなければ、ご質問者様はどこかに存在して、キーボードを叩いて、質問を此処に提示しています。

で、この質問者様の存在がひとまず全体としましょうか、そのひとつの総体としての存在者が環境の中で他の存在者と同居しています、で意識と言われるものは、その一人の存在者の、自己と環境に対する「気付き」の全てのことが意識と言われるものではないでしょうか、暑い、寒い、疲れ、美的な感覚や喜び、主に感覚的な気付きが、思考をともなわない意識としてあるようです。
ただ、意識の無い思考は、私には考えられませんが、どうなのでしょう。

勿論、心臓や肺は意識をともなうことなく、活動を続けますし、転びそうになって、手を付いたり、石が落ちてきてとっさに避けるのは、自律神経や反射ですから、思考とはいえないのでは、思考はそもそも、何物かに関する思考ですから、何物かを意識せずには、できないと思いますが、まぁ、自信ありませんが。
参考程度に

余談ですが
そもそも、なぜ気付くことが出切るのか?
これも面白い問題ですね。
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この回答へのお礼

私も気づきというものは不思議だなと思っていました。知識や経験を超越しているのではないかと思うときすらあります。気づく時には同時に何かそれに呼ばれているような感覚がしますね。

精神をコップに例えて、コップは空のときに始めて役に立つと言った人がいました。精神と意識が同じものであるならばコップに入った液体が知識ということになるのでしょうか。知識を論理的に並べ替える行為を思考とするならばコップのない液体は存在しないのと同じですね。存在しないもを並べ替えることはできませんので思考することもできないのかもしれません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/25 20:04

意識とは、心の覚めた状態であり、その中に思考や感情や意志などの状態が含まれる。

思考とは、意識の中の特に知的作用であり、推論や判断等の作用を指す。つまり思考のない意識というのは、この定義であれば、直感や意志といったものであればどれでもそうなるでしょう。人間の本能(暑い寒いのどが渇いた眠たい怖い)の感情や、(やりたいやりたくない)等の意志はどれも思考を伴わなくても生じるでしょう。
これらの意識、というのは「それらを意識する自分を発見する」という意味での意識(自己意識)という点でも定義されます。

一方、我々は意識とは反対に「無意識」の存在を認めています。一般的には、無意識とは習慣化した意識化の行動、ということらしいです(ある本によると)。元々は思考(知的な判断から生じた)が定着することで習慣的にその行動を取ってしまうようなものです。朝起きたら無意識に洗面所に行って顔男洗うなどでしょう。これが「意識のない思考」になるのかは分かりませんが、前者の意味での意識外(無意識に行動する)といえるかもしれませんが、後者の意味(自己意識)では、その”無意識”な感情や意志ではない行動自体があることを自覚している、つまりと思考による行動ともいえなくはないきもします。

個人的に「意識のない思考」に適した言葉は、重要な予定がある日にどんなに遅くまでおきていてもなぜか寝過ごさないできちんとおきれたりするような経験がそれに近い気がします。

最後にそれっぽいことを書いていますが、あくまで個人的に書いているので学術的にどうかは分かりません、ということを断っておきます。
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この回答へのお礼

思考、記憶、感情、感覚を統括する物が意識というご意見でよろしいでしょうか。
意識と無意識の違いはlarme001さんの言葉を借りれば、意識する自分を発見しない、或いはできない意識と言い換える事ができるでしょうか。思考のみが完全に独立して動作するのは少し想定しにくいですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/23 12:40

>意識と思考が互いにどう関係しあっているかご意見があれば


ヒマなので適当なこと書きまくりですが。

意識というのは脳内の神経活動それ自体を指していると考えています。
思考はそこから一歩進んで、その脳内活動を自分で知覚している。そのフィードバックを指している(自意識みたいなもん)。

すると、やっぱり重体患者の例は不適当だね。言葉のレトリックに走っちゃった。
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この回答へのお礼

鏡を見ながら行動するようなイメージですね。
それと医学的に言う意識と普段使っている意識にはちょっとずれがあるみたいですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/23 10:45

>意識のない思考


意識不明の重体患者が臨死体験をしました。

>思考のない意識
交差点の角から急に車が飛び出してきたので、頭の中が真っ白になりました。


こんなんでどう?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>意識不明の重体患者が臨死体験をしました。
臨死体験は思考でしょうか?

>頭の中が真っ白になりました
これは的を得ている感じがします。

意識と思考が互いにどう関係しあっているかご意見があればご回答いただけないでしょうか。

お礼日時:2007/03/23 00:16

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