痔になりやすい生活習慣とは?

こんにちは。

今回「過去把持」について具体例をあげてレポートを書くことになったんですが、この単語自体よくわかりません。
gogleとかで検索しても分かりづらかったので、教えてください。

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

「過去把持」はフッサール(E.Husserl)の現象学の術語(原語はRetention)です。



簡単に言うと、刻々と流れさっていく意識の流れにおいて、結構細かい次元で「さっき感じて覚えているもの」がありますよね。たとえば、ハガキの表を見て裏を見たとすると、表側の形や内容を(特別意識しないでも)覚えているでしょう。そうした「さっき感じて覚えているもの」を覚えている意識の働きのことをフッサールは過去把持と名づけています(ちなみに表を見て「裏はこうだろう」と予測するのは「未来予持(Protention)」)。

しかしそうして覚えていたものもしばらく経つと目下の対象意識から薄れ、思い出そうとしないと思い出せなくなります。こうして意識的に「思い出そう」とする意識の働きは「想起(Erinnerung)」と呼ばれています。


参考書としては谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)が手ごろでオススメです。レポート、がんばってください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
おかげで無事レポートを仕上げることができました♪
また何かあったらそんときはよろしくです^^

お礼日時:2007/08/05 23:41

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Q日本文学における「近代的自我」って、わかりやすく言うとどういうこと?

いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。

Aベストアンサー

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自我が自然な発達段階を経て成熟し、それと軌を一にして市民社会も成熟した、その結果としての文明ではないわけです。
そのギャップを埋めようとして、なんとか個人の内側に「自我」というものを確立しようとして苦闘した、一連の作家がいる、という考え方です。

ではヨーロッパの近代をささえた「自我」とはなんなのか。

これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。

ヨーロッパ社会では、キリスト教の強い支配と、封建的な身分関係のなかにあって、ひとは、社会からも、神からも自由で独立した「わたし」を想定してみようとも思わなかった時代から、近代に入って、自我が哲学の中心的な問題となっていきます(ヨーロッパ社会の中で「個人」という意識がどのように確立していったか、ということに興味がおありでしたら、作田啓一『個人主義の運命』岩波新書を。この本は手に入りにくい本ですが、非常によくまとまっています)。

近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。

さて、上でも言ったように、ヨーロッパでは百年~二百年の期間を経て成熟していったところへ、日本は一気に追いつかなくてはならなくなってしまった。

文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。

その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。

両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。
主人公は、どういうふうに生きたらいいか考え、悩み、自分が良いと信じる生き方と、社会の現実が相容れないことに悩みます。
つまり、現代までつながってくる問題が、明治二十年代に、初めて登場したのです。

この二葉亭や鴎外がここで提出した問題は、そののち、鴎外自身や漱石によって深められ、あるいは明治四十年以降からは私小説という表現形式をとって現れたりもします。

その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。

非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む

Qサルトルの『存在と無』について

はじめまして。
現在大学3年で、サルトル哲学を勉強しております。

『存在と無』について勉強しているのですが、「対自存在」と「即自存在」の意味がよく分かりません。この2つはどういう意味なのでしょうか?

ご存知の方いらっしゃいましたらご指導の方よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指します。つまり、人間がその「対自存在」にあたるとサルトルは言うのです。つまり人間は、道具のようにその本質を与えられているものではなく、気付いた時にこの世に生きているものであり、そのあとで、自らをつくっていくものだからです。例えば人間には、赤ん坊として生まれた最初から、卑怯者や英雄はいません。しかしその後の人生の中で、自らの意志で人生を選択し決断して、ある者は卑怯者になり、ある者は英雄となっていくのです。ですから、サルトルの人間観は、人間という存在はあらかじめ何者になるか決まっておらず、何者にもなる可能性があるという意味で自由であり、「人間は自らをつくるところ以外の何ものでもない」と言ったのでした。そういった意味でサルトルにとって人間とは、常に、ある自分を乗り越えて、無である未来に対し自己の可能性を「投企」していく(=投げ出して創造していく)存在であるとしたのでした。そのためサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言ったのです。要するにサルトルにとって、人間の本性(=本質)は存在せず、その後にその人が自ら選択した行為によって、その人が何者であるかが定義されるとしたのです。

 なお、サルトルは、惰性や多忙に流れて組織の部品になり下がり、マスコミの論調に判断をゆだねて自己を合理化し、自己を主体的に選択する決断を回避する「即自的」(「即自」ではない)な生き方を、「自己欺瞞」として批判しています。

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指...続きを読む

Q主席で卒業の意味は?

よく肩書きで「○○大学を主席で卒業」なんていう感じで書いてあるのを見かけるのですが、主席ってそもそもなんですか?

主席の定義とか基準というものはあるのでしょうか?
ほとんどの単位で「優」をとって卒業することが主席なのかなとも考えましたがわかりませんでした。

Aベストアンサー

大学における首席とは、大体次のような基準で選ばれます。

1.GPA値…授業ごとの成績を数値化し、単位数で割ったもの。この値が高いほど優秀な成績ということ。

2.学外での評価。例えば、学外のコンクールで良い成績を残したり、難易度の高い資格を取得したりなど(国家試験等)。

大学では主にこれら2つの基準を総合して、首席を決めます。

ちなみに、私は学部を首席で卒業しましたが、いまだもってその肩書きが役立ったことはないです。ある種の名誉称号みたいなもの&思い出としてとらえています。

とりあえずご参考までに…

参考URL:http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/3bunkakai/dai3/3-3siryou7.html

Q哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。
講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか? 

いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)

Aベストアンサー

追伸:
>つまり各指の「自」および「他」は手の一部、つまり同じものの一部なのですね。これが共有可能であ>ることの証明です。 すべての生き物、存在物、人間も全く同じ原理なのですね。
>この部分だと思いますが、「東洋的」というのは具体的に誰のどの部分(どんな著書?記録?経典だとしてもどの時代のものの解釈なのでしょうか?)のものなのでしょうか?

○釈迦仏教(哲学)の基礎:涅槃教の一節、((一切衆生)悉有仏性)、曹洞宗の開祖、道元禅師道元禅師(山川草木悉有仏性)などが全て仏性で繋がっているという認識のことのですね。
仏性が、たとえの「手」ですね。
近代では、京都学派の哲学者の西田は、これを、自身あるいは自と他の関係に置き換えて、「絶対矛盾的自己同一論」を出しています。矛盾する自、あるいは矛盾する他は自身の一部であるという認識ですね。
どれもわかれば簡単なことですが、解説書読んでも、解説するものがわかっていないので理解は難しいですね。これも参考に。


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