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人間には基本的な欲求があると思うのですが、「食欲」「性欲」「睡眠欲」という風に定義するのは少々疑問ですが、これが無くなったら生物としての人間がなくなってしまうという基本的な欲求で「性欲」があまりにもないがしろにされていませんか。ないがしろという言葉が適切でないとしたら、日陰に追いやられているということです。

これが人間社会に暗い影を落としている気がしてなりません。

「食欲」にかんしては、いやというほどマスコミに取り上げられて、商売道具と化しています。ものすごい日があたっているといってもいい。ところが一方の「性欲」にかんして、絶対なくすことはできないものなのに、くさいものにふたのようにおいやられている。ゆがんだ形では売り物になっていますが、そのベースの陰湿感と言うのは、ものすごく深く根付いてしまっています。

その結果、性を売り物にする地下組織とはいかないまでも、陰湿な商売がはびこります。需要が絶えませんから。

本来堂々としていいものでしょう?日のあたる場にやれば、この分野の社会的な問題も解消していくのではないでしょうか。

なぜ、性をはにかむのか、なぜ余計な文化的な心理操作がいるのか。

原始人には羞恥心があったでしょうか?おそらく、現代人よりよっぽど奔放屈託の無い意識で生活していたと思います。それは、現代でも見直すべき過大なのではと愚考したしだいですが、みなさんのお考えなど伺えたらと思い立ちました。

長文駄文失礼しました。

A 回答 (18件中1~10件)

>原始人には~



原始人は自然の摂理の中でコントロールされる側だったので、かまわなかったのかもしれませんが。今現在人類は自然をもコントロールしようとしています。だからこそ文化的な心理操作が必要なのではないでしょうか?

アメリカ等で某宗教団体などが裸で生活したりしていますが、つまりはそういうことかと。
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この回答へのお礼

そうですね。自然には従っていられないという一面が出ている問題のような気がします。

アメリカは宗教も徹底しているものがあるのですね。

お礼日時:2005/05/01 16:19

こんにちは。


この疑問は私も全く同感です。
こんなばかな事やってたら人類亡びちゃうでしょうって思いたくなります。

既にその兆候があるような気がしないでもないです。

さて、この原因は儒教教育の歴史云々もあるでしょうけど、本質的に「人間が大切にされない社会」につきると思います。

今の資本主義経済、自由主義とかいってますが、一番大事なのは人間ではなくてお金であるというのが基本です。

なので性も売り物だし人の命だって売り物になります。

性の売買(ヤミでもブラックマーケットでも)なら取り合えずまだ命が残るだけいいかもしれません。

発展途上国では子供が拐われて臓器を切り取られて捨てられ、その臓器が先進諸国の移植用に使われる・・・というような事が厳然として存在しています。

もう何年か経ちましたが日本でもありましたね。
サラ金の取りたてで「眼玉売れ、腎臓売れ」ってのが。

性もそういう商品の一つでしかないのでしょう。
少しでもいい金にする為には、そういう教育をされては困る人達が学校教育に文句を言ったりして性教育を取り締まるような事を平気でやらかしてるのではないかと思います。

つまるところ、性の商品化を進める国策ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご同意いただき、ありがとうございます。

経済的視点からというのは、私はほとんど考え及びませんでした。うならされます。

ただ、臓器売買の問題とは一線を画すように思われます。結果的に性のブラックマーケットができているのかなと。

つまり、臓器移植は貧困からあるいは経済的困窮から発しているように思われますが(もちろん児童買春等もその一端でしょう)、性は(大まかにできない)という大衆心理から主に来ているのではという気がします。スーパーに入るのは気が引けませんが、風俗に入るのは人目をはばかります。ビデオリラクゼーションでも同じことですが。これが、市場の適正を奪っている気がします。そして、秘密クラブやら怪しげなものが発展する(金を積めば人目をはばかられることができるみたいな)という図式になっている気がするのですが。そして、供給側は困窮からという、需給が成立しているのかもしれません。

やはり、大前提に深い人間の文化的心理が絡んでいるように思われます。


要するに、なぜ性をタブー視するような大衆心理が存在するのかが、鍵のように思うのです。

お礼日時:2005/05/01 16:33

確かに私も前々から気になっていました。

3大欲求と言いつつも、「性欲」だけは表立った形では表現されていませんよね。

ご質問があるまでは考え込むほど気にしてはいませんでしたが、いざ考えてみると、

■元々日本人の歴史の中で男女間の性的な事が汚らわしいというような考え方・文化が意図的に作られた
■食欲・睡眠欲・性欲の3つとも、個人的に欲求を解消をすることができるが、その中でも性欲に関しては相手あっての場合もあるので、欲求が出てきたら何も考えずに解消できるわけではない。昔から男女が一つ屋根の下で暮らす夫婦という形があるから、性欲だけはその形を崩してしまう可能性がある。
■服を着る時代だから、単に裸になる事に対して羞恥心があるから表立てない

う~ん、考えてみると、なかなかクリアな答えがでません。大した回答になっていませんが、少しでも参考にしていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

はい、私も社会的規範が保たれなくなるから、誰かが(あるいは知らないうちに大衆倫理というようなものが働いたのか)性をタブー視するようなことを普及させたのだろうか、と考えました。

お礼日時:2005/05/01 16:43

学校と社会は全く異なる世界でして、学校(教育の場)ではそうかもしれませんが、これがひとたび社会に出るとそうでもないような気がします。



おおっぴらに語ることが出来ないこと以外は、諸外国に比べると、私達が暮らす日本という国のこうした産業は充実していると耳にします。
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この回答へのお礼

ええ、でもスーパーにはどうどうとは入れるんですが、風俗店やらビデオショップやらラブホテルは引け目を感じながら、人目をはばかりながらというのがあるじゃないですか。それが、ずっと引っかかるのです。性欲が無くなったら人類終わりなのにです。

お礼日時:2005/05/01 16:45

よくわかりませぬが、儒教とか儒学とか。


どっちだったかなー、タブン儒教。
六歳になったら男は男、女は女、という意識をもちなさい。という教えがあるのです。

欧米の方では、サー(sirだっけ)意識。
騎士は女性を守る、というキリスト教の意識があったからでは。現在のレディーファースト。

アフリカ系統では、男の子は六歳にして母親から引き離され、男に受け継がれる笛の吹き方を教えられ独立します。女の子は刺青。

こういった男と女、という違いが意識される段階が早くて、性と言うものに抵抗が生まれたのかな。
どちらかと言えば、日本伝統の男と女、という意識は低いです。

そーいえば。
原始人ではありませぬが、源氏物語。
光源氏主人公殿は、初恋の君と元服を境に別れます。14、5歳。早いですねぇ。
往々にして、子供と言うのその辺りで成人してるんです。考えても見てくださいよ。
戦後まで、女性の結婚適齢期はだいたい10代だったんです。成人式が二十歳って遅い気がしますけどね?

いやいや、横道外れはいいとして。
性欲は汚いもの、というのは仏様の禁欲生活の中で最も実行しやすいものだったからでは。
実際に断食とかありますけど、普通の商人とかができませんよね。だったらお手軽に女断ちするんで商売繁盛ヨロシク!の方が早いですし。
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この回答へのお礼

そうですね。やはりいろいろな宗教に共通する「禁欲」が大きいというのは教えられる気がします。しかし、なぜ宗教はそろいもろそって、それが美徳のように唱えるのか、そこに国家政策が絡んでいるのか、などわからないことが多いです。

お礼日時:2005/05/01 16:48

もともと人間が洞窟や掘っ立て小屋のようなワンルームに大家族で住んでいた頃には性は解放的なもので、身近に存在する光景だったようです。

そこに神秘性など入る余地はなかったのです。現代でもその様な暮らしをしている民族はいますが。

次第に多数の部屋を持つようになるにつれその行為は人目につかなくなり、性は秘密めいた行為へと代わっていった様です。さらに宗教や政治が入り込み現代のように神秘性や汚らわしいといった概念が作られてきました。

この性の抑圧によってその反動としてポルノや幼児売春・児童虐待が発生してきたともいわれます。

解放への動きもあると思いますが、現代において解放されたときにどんな問題があるのか?今の状態より悪くならないのか良く検討する必要があるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答うれしく拝見しました。文明の発展によって付随的に表れた心理であるというのは、大変納得します。しかし、なぜ部屋が分かれると、それを進んで隠すようになったかですよね。おおらかに団欒の場で行われるものでも良いのに。そうしたくない、本能の部分があるように思われます。像の墓場のようなもの?そういう本能を利用して、一夫一婦制の政治機構が「秘匿すべきもの」みたいな政策を採ったのかもしれないです。そうしないと、そこらじゅうで性交が蔓延しますね。

人間の楽園は政治の地獄だということを、その昔の為政者は予見したのでしょうかね。

いま、その大衆心理倫理はしっかり人間に根付いてしまい、もう性が食欲と同質の自然なものだなどということを意識することさえなくなってしまった。もはや、上からの指導などどうしようもないほど固定化した、性への大衆意識が固まってしまっている気がします。

この問題はやはり常に模索傾向にあるのでしょう。しかし、何が問題なのかが暗くなって、本質を避けた議論が横行しているような気がしてなりません。そこまで本質を見るというのは、人間の限界があるのかもしれませんが。

ただ、やはり「性」が人間の一般心理や常識として、無意識的にすみに追いやられるているのは、自然でないこと、ひずみを生み出すことから逃れられない気がします。そして、開放することは、可能であったとしても、もっと大きな問題が噴出するのではという危惧があって当然だと思います。

なんとも、そう考えると悲観的な気分にならざるを得ません。人間の哀しさを垣間見る気がします。

お礼日時:2005/05/01 17:04

今の時代の性は「ないがしろ」にされているのではなく、自分の性も他人の性もどう扱ったらいいかわからないのではないでしょうか。



後進国のもっと奥の未開の地のようなところでは幼児といってもいい年齢の子供達が性行為に日々及んでいるそうです。その理由が「ヒマだから」だそうです。
また時代を遡って、中世の貴族など高貴な身分ほど働かなくてもよいわけですからこちらも相当毎日ヒマです。遊ぶネタに事欠かない今とは違って何もないわけですからやはりヒマつぶしに「行為」をすることくらいしか娯楽はなかったそうです。当時の風習として、中世ヨーロッパの貴族は結婚してても男も女も「愛人」をもつのは普通でしたし、不倫によって産まれた子供を養子にだすのはおかしいことでもなんでもなかったようです(だから「母性本能」というのは実はないという説もある)。

また東京・府中市の大国魂神社の、俗に言う「暗闇祭り」は200年くらい前までは祭りの夜になると暗闇の中で相手構わず通じ合う「乱交祭り」だったそうです。ただ「痴情」で交わるのは神を穢すことですのでそこはただ「媾合」的にしなければならない約束事があったそうです。
逆に産業革命頃のイギリスなどはそれはそれは性がタブー視された時代で(国策か?)、たとえば、本棚に隣り合わせに並べる本は著者は同姓同士のものを並べなければならないなどのバカバカしい決まりがあったそうです。
当時は精神疾患というとヒステリーが主流でした。そこでかのフロイトは、この原因を性の抑圧であると考えて神経症論を打ち立てたわけですが、私も何でも性の抑圧が原因であるとするフロイトはちと過剰かな、とも思いますが、実際有名なアンナの症例でもみるとおり、自らの性を認めることで症状は消え去ったという事実は、いかに国や風習が抑えようとも何らかの症状で形を変えて表現せざるを得ないという凄まじいエネルギーという証明にもなるでしょう。

でもへんですよね。我国の性文化は。暗闇にまぎれて堂々とラブホテルに入ることの恥ずかしさはあるけれど、それ以前に住宅街に堂々とラブホが建立しているのをみると日本って美観に関しても本当に無神経な国だとつくづく腹が立つのですがこれは個人的な感情として、公然と「行為に及ぶ」場所が認められているのは世界中探しても日本だけではないでしょうか。繁華街にどーん、と林立しているのをみると決して「ないがしろ」にされているとは思いません。まぁ住宅事情もあるのでしょうけれど、れっきとして商売として成り立ってますよね。
昼間「先生、先生」と呼ばれ、しかめっつらでお堅い理論を説く政治家や社長さんがSMクラブで思いっきり「M」に興じているなんてよく聞く話ですし、酒を無礼講にしてホステス相手にバーチャル恋愛は公然とできるわけです。性倒錯の形は性の歩みとともにあるといってもよいでしょう。何といっても売春は人類で最も古い職業ですし。
欧米はキリスト教の教えも強いでしょう。でも聖書なんて虚実ないまぜだそうです。教会側の都合(つまり政治)によって書き換えられたそうですから性をタブーとして上に述べたかつてのイギリスや、イスラム教、昔の日本でも霊山は「女人結界」とされていたり、相撲の世界でも土俵に上がるのは女はだめだったりしますよね。女の私からすれば「男は女から産まれたんだろ」って思いますけれど、本当の神様はそんなこと言ってないと思う(笑)。むしろ男が女に対する気恥ずかしさや照れや憧憬を「女はタブー」とするところに著し、女の性を封印することで自身の性の罪の意識を転化させていたのではないだろうか?なんて思います。

「>陰湿感」というのは確かにモラルを考えない暗い性ですよね。だから抑制の矛先を「グルメ」に求めるのでしょう。すると文化はますます栄えますよね。グルメのみならず、芸術、スポーツ…。科学もその一部でしょう。そのあたりフロイトの「昇華」理論が証明されているわけですからあながち結果論をリビドーに求めるのは間違いではないわけです。でも理性で抑圧されればされるほど「性文化」も栄える。それが現代の性という特徴であるのならば、おおらかな性を謳歌していただろう太古の世界はある意味ほのぼのとしていたわけですよね。

旧約聖書のアダムとイブの話は、禁断のリンゴを食べたから自分の裸に対する「恥」という感情が生まれたということになっていますが、それはフィクションであったとしても、隠さなければならないことを知ったということは被服の必要性にも繋がることでしょう。人間の肉体は体毛がない分、外界や寒暖差の環境から身を守る必要があって、被服がその機能を果たしているわけですが、秘部を「隠す」ということが羞恥心をかきたてる。
今の若者の服装も下着が平気で見える服装をしていたり、夏になると裸としか思えないような格好をするおねえちゃんも増えます。そして共通意識として羞恥心がないのだから性犯罪もなくなるだろうとある心理学者が言っていました。性犯罪はもちろん「陰湿な性」のひとつですから、乱暴な言い方をすると性に対する乱交的意識が、逆説的に「明るい性」となるのではないかと思います。

でも戦中は「産めよ増やせよ」という国策があったわけですが、女性の私からみればまたまた明らかに性差別なわけです。慰安婦問題しかり。戦後は売春防止法から始まり、風営法などの立法で性を厳しく取り締まる一方、相変わらずラブホは住宅街にまぎれていたり、歓楽街があること自体、やはり「はけ口」を残しておくのは商売にしようとする人にとっては温情的なことでしょうけれど、いくら文明が進歩しても人が人である限り、決してなくならない「太古の職業」でしょう。う-ん…「陰湿な性」は男性側の性、だったりして…。そういえばANo.5の方がおっしゃってる「レディファースト」はアメリカの西部開拓時代、酒場に敵がいたときのために女を盾にするためのものだそうですが、レディファーストという言葉に酔っていた私は「お前が盾になって蜂の巣にされろ!」などと思うのですが(笑)、だからやはりある意味男は女より弱いんだなと改めて思いました。

被服の機能と同じように正々堂々と行為に及んだり、語ったりすると羞恥心や秘め事に関わるときの「嬉し恥ずかし」い気持ちがそれこそ「ないがしろ」にされて、飽きてしまう、そうすると逆に子孫繁栄に至らなくなるのではないでしょうか。
本能が始めにありき、だとしたら本能の叫びを理性で言い訳にしているに過ぎない。文明が理性のなせるワザだとしたら、ないがしろにされているのは「本能」⇔「理性」の拮抗状態に常におかれた人間の存在でしょうね。実際脳の真ん中に「本能」という単純なものがあって、後天的に大脳新皮質の正体である「理性」がかろうじて乗っかっているにすぎないのですから。
その点動物なんてやることやって自分のコピーを残せば天命をまっとうするのですから、それこそ堂々と死ねる。そこには弱肉強食という厳しい掟と同様、メスを争う掟もあるわけですが、それでも人間世界のように必要以上に複雑なドラマはない。ラクでいいなーと思いますよ。少なくとも彼らは私みたいに「いつまでひとりでいるの?早く結婚しなさい!」なんて母親にまくしたてらないですからね(笑)。
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この回答へのお礼

大変な長文、ありがとうございます。このようにご回答がいただけることはうれしい。

中世、後進国、祭典の例、やはり自然状態みたいなものを想像ででます。これは現代が忘れているだけであって、本能的には息づいているものでしょう。

ラブホテルの立地についてですが、住宅地に建つ例を私はあまり知りませんが、それでも、メインな場所表舞台には建っていません。メイン通り一歩入ったところのように、やっぱり引いていると思う。それが、やはりオープンにはできないという気まずさが生きています。これは昔の自然状態と違います。政治家などの女騒動も、かならず裏生活の話になっています。だんだんとそのタブー感が薄れていっているのでしょうが、表に出せるものとなるには、社会意識が覆られなければならないと思いますので大変そうです。

ご指摘のとおり、そのタブー感が大脳皮質に作用して、現代の性欲を守り立てているという、結局上手く釣り合いが取れているのかもしれないですね。

お礼日時:2005/05/03 22:46

 そもそも、何をもってなぜ人間の「三大欲求」などと決めつけなくてはならないのか、なぜ仮に三つが基本として性欲をそこにいれるのか、bossambaさん同様、非常に疑問に思います。


 「なぜ、人は性にまつわることについて隠すのか?」「なぜ、人は性にまつわることに羞恥心を感じるのか?」は興味深いテーマです。でも、質問に書いてらっしゃる残りの部分には賛成できません。ミスリードではないかと思います。

 そもそも人間は、生殖に関して非常におおっぴらだったからこそ、現在地球上で60億というありえない過密人口を誇っているのではないのですか?その性欲のために無尽蔵に数を増やし、自滅しかかっているように見えますが・・・。
 さらに女性が閉経後もセックスを行うというのが、他の動物には見られない興味深い文化です。通常、動物の雌は生殖行為を行うようなホルモンが充分でない場合、がんとして雄を拒むものです。ところが人間の女性は、文化によってその後もセックスを行う。
 他の動物と違い、生殖に結びつかない性欲が、特に男性の場合は組織的な商業施設まであって推奨すらされているのに、何をもって「性欲がないがしろにされている」と思われるのでしょうか。むしろ非常に性に関して奔放な生き物です。そのことが羞恥心云々と関係しているのかもしれません。

 人間が性に関して羞恥心があるのは確かですが、「風俗店やポルノビデオをレンタルしたりすることに恥ずかしい思いがある」のは、本来の性の姿と違う形で性に関わることが恥ずかしいのでは?
 あるいは、そもそも羞恥心のある行為を、周囲に喧伝してしまう形になるのが恥ずかしいとか、そういうことなのではないでしょうか。ラブホテルにはいるのは人目につき、「今から私達セックスします」「今やってでてきました」と触れ回ることになるから恥ずかしいのであって、誰にも触れ回る行為にならなければ、それは恥ずかしくないのでは?
 つまり、性欲をないがしろにしているのではなく、羞恥心から隠したくなるだけなのではないでしょうか。

 自由奔放にセックス可能になれば、人間社会から暗い陰がなくなるかも・・・とおっしゃっているように解釈しましたが、暗い陰があるのはむしろ、経済的な不均衡など他のことが原因ではないかと思います。
 人間も他の動物と同様、男女両性あります。片方が子どもを産むからには、両性の繁殖適応戦略は微妙に違うものになります。また一夫一婦制に近い形で落ち着いたことが、人間の繁栄に一役買ったと思います。
 従って性に関してもっとオープンで正々堂々とした社会になっても、同じく性を売り物にする産業は生き延びると思います。

 個人的な推論になりますが、原始人には羞恥心があったと思いますね。原始人とはいつの時代のどの人類を指すのかちょっと曖昧ですが、現世人類につながる初期の人類の段階から、確実にあったと思われます。
 なぜなら本能では行えない生殖行為を、この文化でコントロールしていたはずだからです。(なぜ本能とはなりえなかったかというと、本能の定義もさまざまですが、環境の変化に広く順応するためにはあまり厳密に決めず、大人社会が子どもを教育する方がより適応していたからではないでしょうか。)
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この回答へのお礼

長文のご回答、ありがとうございます。
ご共感、また、ご批判もありがとうございます。

閉経後にもセックスを行うという点、ホモ・サピエンスだけが「おばあさん」が存在するそうです。ですので、他の原人新人は、したくてもできなかったということらしいです。で、それがいま人類が栄えている要因なのですが(テーマからそれますので省略します)ですので、現生人類が繁栄しているのは、必ずしも生殖欲が高いということでなく、よりうまく育てることができる死亡率が低いということのようです。

ないがしろにされているというのは、やはりラブホテルや性関係の商売が表には出ていないと思われるからです。CMでもやらず、「性欲」特集番組も無い。奨励されているというか、裏の文化として息づいているという意味です。本当の羞恥ならいいのですが、後ろめたさというほうが近い気がします。性関係の界隈店舗にいる人たちの暗い表情が存在します。ですので、商売としての闇でなく、まず後ろめたさを逆手に取っていることから闇が発生しているのではないか、と感じています。

そして確かに一夫一婦制の社会コントロールが繁栄と結びついてもいるのでしょう。それが自然状態を抑圧して成立していると私には思えます。

最後の文なのですが、ちょっとわかりにくい感じでしたすみません。

お礼日時:2005/05/03 23:02

人間と他の動物の大きな違いがそこだと思います。



ネコにしろ犬にしろ鳥にしろ猿にしろ、他者の目、場所を気にせず交尾をしますが、人間界では普通は他者の目があるところでは交尾しません。


恐らく脳が他の生命体より異常に発達した結果かもしれません。
あまりいい例ではないかもしれませんが、知的に障害も持つ人、精神的に障害を持つ人は、公も場でもその本能に従順です。


では、脳が発達した人間は他の動物同様どうして本能に常に従順ではないのか。


聖書を読むと昔の人の価値観がわかります。
それを読むと、人間界では男が人間で、女は物的な見方をされており、それは常識であったというのがわかります。

昔は貨幣というものがありませんでした。
物々交換です。
「魚10匹 ヤギ10頭 それに娘いっぴきをつけるから、その土地をください。」
こうやって他者と交渉をしてきました。

イエスキリストの時代ですら、人数をカウントする時、女はその数の中に含まれていませんでした。
現代でも使われている聖書にも数の中には女は含まれていないようです。
男半分 女半分のこの世界で、数を数えるとき、女が含まれていない。 いるににいないものとされている。
そうですよね、 宗教においては性欲を感じさせる女は誘惑者サタンだとされていますから。
サタンは人間じゃない なるほど。。。って思います。
だから数を数えるとき女は数に入れないのだってわかります。



何億年のもの人間の歴史において、女性が男性と同様になりつつあるのは、ここ数十年です。
まだ同等ではありません。
なぜなら商品として扱われている社会がまだあり、それは現代の日本においてもまだそうだからです。
未だに多くの社会では女は人間ではなく物です。
選挙の時だけ、人間として扱っているだけです。

それを考えると、どうして人間界ではやりたい時に性交をしないのかの基本的な理由の一つがわかるように思えます。

娘を強姦されたら男は怒ります。
「俺の所有物を勝手に使うな」と。
いや そうじゃない。愛する娘が暴行を受けたから怒ったんだ?
そうでしょうか。
女は共感脳、男はシステム脳 って本を今読んでいますが、女が娘を強姦されたら自分の事のように痛みを感じます。
男はそのような感覚を覚えずらいです。
脳がそういう能力が女に比べて低いので。
従って「俺の所有物に手を出したから怒った」というのが、本人には自覚の無い本当の怒りの理由ではないでしょうか。


食欲に関するカルチャーが進んだのに、性欲に関するカルチャーはなにかしら密閉されたように思える?
それは男の方にどうしておおらかにしないのかって聞いた方がいいと思います。
密林や砂漠の民族によっては、とても性にはおおらかで、旅行者をもてなすため自分の妻を提供するところもあるようです。
これがおおらか?
とても私にはおおらかな性の文化だとは思えません。
そこにはやはり女は ブツとしてしか存在しないからです。

結局性を開放しても、女がブツとして利用されるしかなく、性を開放することを希望する人は、沢山の自分の遺伝子をおおっぴらに植え付けたいからではないのでしょうか?

って疑惑が出てしまいます・・・・・。
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この回答へのお礼

長文のご回答、ありがとうございます。

本能の一節、非常に納得いきます。大脳皮質のなんとかですよね。性を「知的」なものとして捕らえるという、進化なのか何なのかわからないことが起こっているようです。

聖書にそれほど女性蔑視があるとは知りませんでした。恐ろしいですね。ちょっとさかのぼると、男女同権などという常識がまったく通用しない時代にすぐ突入するという、人類史の闇がありますね。で、その後ろめたさのためかなと、ちょっと思ったのです。男の所有欲から性を閉ざしたというご回答には、大変考えさせられます。視野が広がります。ただ、今はちょっと私が考えていた範疇外なので、まだピンときませんが、もう少し考え(られれば)考えたいなと思います。

お礼日時:2005/05/03 23:16

かなり、重複するところがあるかもしれませんが、整理の意味で。



ご質問には、様々な先入観が伴っていると思いますが、それを修正しながらの回答になると思います。

1)そもそも「性欲」は、ほとんどピグミーチンパンジーと人間の独占のコミュニケーション円滑化の欲求といえます:

他の動物は繁殖のためにしか、セックスをしません。つまりは、言いたいのは、もともと、性欲は社会的欲求であり、食欲、睡眠欲などに比べると、基本欲求といわれるのは、おそらく誰かさんの勝手な分類で、あまり必然性がないでしょう。仮に、基本欲求の一つに数えるとしても、親和欲求ときわめて関連が深い。とりわけ女性の場合はそうでしょう。

人間の場合、マスターベーションやメディアの発達で、性欲が様々に生じ、かつ、それを発散するのも、食欲などと同様にできるようになってきたせいで、なにか単独で満たすことが可能、通常の商品同様に市場で調達可能な財というイメージができつつあるかもしれませんが、もともと社会関係に付随する欲求なので、「羞恥心」が伴うことが自然かどうかはともかくとして、社会的に調整しながら満たしていくべき欲求なのです。

霊長類は一般にコミュニケーションが発達した社会的動物で、コミュニケーション手段の一つとして、毛づくろいなどのスキンシップも発達しています。それでも、セックスをコミュニケーション手段として用いるのは、ほとんど人間とピグミーチンパンジーのみです。

ま、という背景があるわけですから、私が聞いたことがある感じで言えば、女性の性欲が「触れられることによって強くなる」というようなのが分りやすい。メディアにのっている映像を見たり、小説を読んで興奮したり、機械的に買春で「性欲のみ」を処理したりするのが、もともとの性欲の機能ではないでしょう。あくまでも、お互いの関係を良好にする手段として、もともと性欲が発達したと考えられるのです。

というわけなので、確かに性はタブー視されることが多いでしょうけど、夫婦や恋人同士のセックスライフをより充実させるための市場での商品ならともかく、あくまでも「もともとは」性自体が商品化されるというのはなじまない類のものだと思います。

で、まさに、より充実したセックスライフの目的に限定された商品ならば、これから、どんどん充実させていくのが望ましいでしょうし、実際に充実していくでしょう。日本は、性の分野に限らず、市場経済がまだまだ発展途上、どんどん従来ならば市場にのっていない分野の商品が増えていっています。アメリカやヨーロッパは、こっちの分野ではかなり先行しているでしょう。また、アジアも、古くから、カーマスートラや春画などなど、結構オープンなセックス系の商品がありますが、マスターベーションよりは、より充実したセックスライフを目的としたものであったというのは、言いすぎでしょうか?


2)セックスと繁殖 → 結婚とセックスのプライベート化:

何を持ってタブーとするかが問題だと思いますが、
例えば、チンパンジー社会や、多くの一夫多妻制社会においては、メスとのセックスの権利を争っているわけですから、
権利のないオスがセックスをすることは、超タブーです。

ピグミーチンパンジーは、かなり上手に、かつオープンにセックスを利用しているようですね。とりわけ同性同士で。ホモです。
メス同士が陰部をこすり合わせたり、オス同士では有名なマウンティングがあるでしょう。
ただし、チンパンジー同様に、繁殖期のメスのセックスには秩序があるはずです。

基本的に、オープンセックスの動物は、最初にやったもの勝ちみたいなところがあるでしょう。
社会的に、男女が同居し(家族というだけでなく、群れなどの集団で)、
かつ、メスの取り合いが強い社会においては、自然にセックスがタブーになっていくでしょう。

ですから、原始人がセックスをオープンにしていたなんていうことは、まずないでしょう。
今日でも、人類学の研究対象になるような未開社会は多数ありますが、例外なくセックスは夫婦同士で、かつ基本的には夜に屋内で行うでしょう。

人間で、なんで同性同士などの無害なセックスが、ピグミーチンパンジーと異なり発達しなかったのかは、謎かもしれません。しかし、結婚制度と絡めて、セックスをタブー化して、逆に夫婦の絆を深める手段として、つい最近までは、セックスをしたいほうの権利がどちらかといえば優先されたのは、自然なことなのです。

私の限定された知識の範囲で言えば、原始社会では、比較的欲求不満も少なく、日々の生活のルーティンに追われて、レイプのような陰湿な類の性欲がそもそもそれほどないでしょう。そして、比較的若い段階で結婚するので、自然に本来の性欲処理がなされて、かつご質問のように社会的に性をどうこうというような問題もそれほど深刻化しなかったものと考えられます。

で、それは、実は、今思いつきましたが、やはり一夫一妻制と関連が深いでしょう。人間の大多数は(かりに制度としては一夫多妻を許したとしても実質は)一夫一妻です。なので、性欲不満を抱えたオスがそれほどいなかった。もし、チンパンジーなどのように一夫多妻制で、社会がそのまま発達したら、ご質問のような問題を抱えた、緊張感に満ちた原始社会になったことと想像します。

なお、現在では、恋人同士のセックスが当たり前ですが、これはあくまでも避妊技術の発達の故です。セックスの「コスト」が小さくなった。つい最近までは、結構タブーでしたが、今ではちゃんとセックスできることは良い恋愛のほとんど必要条件でしょう。まさに、ちゃんと、条件が整えば、タブーじゃなくなって「日の当たる」場所に来るのです。


3)社会の発達と欲求不満による性欲の顕在化:

社会の発達に伴い、
結婚へいたる男女の戦略の高度化、
教育期間の延長によって、そもそも本能に反する教育を受けることの欲求不満と結婚による安定したセックスができないことによる若年層の性欲蓄積、
階級社会などによる、セックスに限定されない様々なジレンマ
などが顕著になっていきます。

むしろ、性欲が一つの欲求として顕在化していったのは、こうした社会の発達によるところが大きいと思います。それまでは、あまりに自然なこと。
私は、かつて、タンザニアに住んでいましたが、かの地では、夫婦は毎日セックスをするのが基本ですね。
で、逆に、街にはセックス関連商品なんてほとんど見たこともない。
セックスが大好きなことと、性欲として顕在化させて、社会的にどうこう言ったり、商品にしたりすることとは別のことなのです。
ちなみに、タンザニアから離れて長いのでなんともいえませんが、アフリカのセックスは淡白だと聞いたことがあります。
そこで、1)のところで述べたように、もっと女性の権利が顕在化して、より良いセックスライフを追求するようになったら、相応の市場も発達するかもしれません。

そうして、直接にセックスを表現するのではなくて、
なんとか相手をゲットしようというような
詩、音楽などの芸術表現など、
様々に形式的な文化が発達していきます。
ま、言ってみれば、男女の内面的な能力を、こうした擬似ゲームで推し量ろうとしていったのでしょう。


4)性欲不満の男性と売春:

結局、この職業も、基本的には都市化と切り離せないのではないでしょうか?
とりわけ英語で数多くの良書があると思いますが(勉強不足で、読むのも面倒なので、勝手に書きます)、
結局は、結婚生活がうまく行っていないか、もしくは欲求不満の独身男性諸君がたくさんいるところで成立する職業ですよね。ですから、もともと、そんなに「日の当たる」ようなものでないと思います。もともと親和欲求と関連が深い性欲を、ただそれのみのために処理しようということも、羞恥心に拍車をかけます。

他方、いわゆる側室系統は、かなり女性の身分も保証されて、買う側の男性も堂々としている、最近まではまっとうに扱われてきた文化でしょう。


5)メディアの発達と性の多様な商品化:

本当に現代社会も行き着くところまで来たのでしょう。
それほど、人間の欲求は変わらないのに、部分的には「現代」が入り込むために、妙な市場が肥大化していくのです。

核家族化が進み、かつ社会保障の充実から、子供が結婚することのプレッシャーを受けなくなった。それのみならず、職業や学問も高度化して、多くの人がそっち方面に集中すると、もはやパートナーとの人間関係が面倒。とりわけ、職種によっては、あまり人間関係そのものが上手でなくても食べていけるところも増えています。
ということで、親和欲求系統で発達したが、そのまま親和欲求と分離して残った盲腸みたいな性欲が肥大化して、かつ低コストでこれを満たすべく、
AV とか、アダルトサイトとか(私にとっては十分に高くて手が出ませんけどね!)が発達していくのです。
で、当然、これらは、自然と程遠く、そういう風に性欲を処理していること自体後ろめたい感覚がありますから、当然あまり日が当たるものでもないでしょう。
どう考えても、愛するパートナーと市場を介さずに楽しむのが、正しいセックスであり、その限りでは、社会的にどうこういうものでもないのです。

というわけなので、
1)でも述べましたけど、
もし、完全に、
セックスライフの充実化の商品と
セックスそれ自体の商品 
が完全に分離されたら、
前者のほうは、明るく日の当たるところで商売がなされるでしょうね。


6)セックス商品と厚生経済学の基本定理

上では、ずいぶんとバイアスのかかった「感じ」の意見を述べましたが、
どちらかといえば、私は経済学関連の専門家なので、こうした鬱屈した欲求も否定するつもりはありません。それは、もし、ちゃんとした大人の欲求ならば、一つの欲求であり、どうということもないでしょう。一見すると。

そこで、経済学の立場から、このことをほんの少し掘り下げましょう。
これにも、文献があるので、ご自身でお探しになっても良いし、decidrophobにメールを下さっても紹介します。

まず、売春はいろいろな国で非合法です。その理由は、いくつかあるでしょうけど、
とりわけ日本の場合は、明らかにパターナリズムです。つまり、初期の法律制定当時、あほな男性諸君が家庭を壊すことがあまりに多く、その最たる原因が、
「飲む、打つ、買う」であったわけですから、
特に後者二つはあらかじめ国が規制して、シートベルト同様に、他人に迷惑が及ばなくても、本人の選択肢を外してあげるのです。悪く言えばおせっかい、よく言えば親切心です。

そのほかの、より無害な AV みたいな商品でも、明らかに男性諸君の多くには、まっとうな恋愛を面倒に思わせる副作用があるでしょう。とても、例えば国策でGDP の将来の構成要素として推進するような文化としてふさわしいとも思えません。確かに、欲求を従来の経済学のように区別しないならば、こうした領域も立派な分野なのですが、金子守さんとか、社会学などでの「中毒」の議論のように、効用にもう少し構造を持たせて考える学派にとっては、本人が納得していない欲求は、必ずしも日の目を見る必要もないでしょう。金銭的コストだけでなくて、心理的コストも感じながらオナニーするくらいがちょうど良いと思います。もし、一人でバーチャルに処理する性欲処理を自然なものであると思う人が増えたら、こうした領域の市場も日の目を見ることになるでしょう。

18禁については、よく分りません。私も質問しているところです。結局、思い浮かぶ暫定的な答えは、上記のように、「性自体」に関する商品がタブーで、大人ならば、自分の責任の範囲で「本人にとって」悪いこともやってよいけど、子供は保護してあげようという親心でしょう。本当は、家族とか、まわりは、大人ですら、AV とか、援助交際とかはあまり買って欲しくはないと思います。
他方で、性教育は盛んになる一方なのですから、まさに1)で述べたような方向で、性を推進しようとしているのでしょう。日本社会は。

この回答への補足

しかし、疑問もありまして、良い性交が恋愛の必要条件ではなく、十分条件ではないか、つまり、親和性の問題と付随しているなら、なぜ精神的欲求がいつも肉体的欲求とセットになるのか、自動的に付加されるのか多少疑問です。中には、精神性が優位であり肉体的にあまり求めなくなる親和欲求もあるのではないか。セックスレスでは言葉が悪いですが、「プラトニック」というのが存在しないのかというような通俗的な議論を検証する必要が出てくるようにも思われます。あるいはこれも、現代の極度に発展したメディア社会が根底にあるのでしょうか。
これは、逆よりは後ろめたさは無いものです。その後ろめたさの理由は、ご回答により十分納得いたしました。

補足日時:2005/05/05 22:26
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この回答へのお礼

非常に考えさせられ、かつ大変目のさめる思いがします。その大きな要因は、「人間が本能的に社会的動物である」というような大きな前提です。

去年やっていたNHKの「地球大進化」で、似たような趣旨の人類変をやっていたので、それに感化されていたのかもしれません。が、本当には納得しかねていたところがあり、性欲までも社会的欲求に取り込めるのか?という疑問を残していたようです。ご指摘のとおり、私もそこまで包括的に考え及ばなかったものですから、性欲は漠然と原始本能だろうなと考えていたわけです。そこに安易な思考があります。

ただ私自身、個人的な問題になりますが、この話を耳にしたくなかったという事情があります。まさに、現代のコミュニケーション欠落症気味な傾向があり、社会性と性行動を自分自身の中でほとんど作り上げておりません。何で物足りない気分になるか、なんで後ろめたい気分になるか、社会融和性がベースにあるとすれば、まったく納得するしかありません。重い課題を自分自身に背負った気がいたします。「社会性の本能」強力です。

お礼日時:2005/05/05 22:26

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