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キリスト教を批判も肯定もしませんが、客観的な話として、
例えば、モルモン教であれば、入信した場合の禁止事項で、

①コーヒー、紅茶、茶、タバコ、アルコール飲料、麻薬類を禁止。
②婚前交渉、夫婦間以外の性交渉、自慰行為、避妊を禁止。

これらの戒律があるのは本当ですか?
あるなら、モルモン教徒の人達は、守っているものでしょうか?
守り切れていないのに、宣教師同士でも「お互いに守っている」と言い合っていたりするのでしょうか?
キリスト教では、モルモン教に限らずカトリックなどでも、戒律があるそうですが、守っていない部分があり、信者同士や宣教師同士でも、自己矛盾を感じているのでしょうか?
それとも「戒律=努力目標」の認識みたいな感じなのでしょうか?

A 回答 (3件)

そうしてくださいね!という程度かも



同級生の弟は
外に子供作っても聖書教えで罪はないとか言ったようです。
ちなみに元不良の同級生、犯歴多数です懺悔すると神は許してくれるとか

わしが死んだら、天国へ直行便で祈ってあげると
歌ってくれると言う約束は守ってくれるのか心配だ

いいだろ、キリストて
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/11/06 17:18

ネットには次のように説明が記載されています。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戒律(かいりつ)
仏教においては、修行者の生活規律のこと。自発的に規律を守ろうとする心のはたらきを指す戒(梵: śīla)と、他律的な規則を指す律(梵: vinaya)とを合わせた語。
日本仏教の戒律史
転じて、様々な宗教や文化における生活規律や禁忌全般(タブー)
ミツヴァ - ユダヤ教の戒律。(モーセの十戒)
シャリーア - イスラム教の戒律

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヌルシアのベネディクトゥス(羅:Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年)は、529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノ(イタリア共和国ラツィオ州)に修道院を設け、540年ころ修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行った。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このベネディクトゥスの修道会則(戒律)は、修道会に属し修道するものに課したルール、生活全般の規則です。 一種の法律のようなものです。

怠惰は魂の敵である。それゆえ、兄弟は定まった時間労働作業に従事し、さらに定まった時間聖なる読書を行なわなければならない。
聖務日課の時刻には、合図を聞いたら、ただちに、手にしているものをすべて捨て、何よりもす速く、しかし、軽卒に陥ることなく沈着に急ぐべきである。それゆえ、何事も聖務日課に優先させてはならない。
四足の動物の肉を食べることは、病気で弱っている者を除いて、すべての者が控えるべきである。
病人への配慮は、すべてに先立ち、すべてにまさってなされるべきである。そこで修道士は、キリストに仕えるのと全く同じように病人に仕えるのである。というのも、「私が病気であった時、あなたがたは私を見舞ってくれた。」 そして「あなたがたがこれら小さい者達の一人にしたことは、私のためにしたことなのである」とキリスト御自身が言っておられるからである。一方病人の方は、自分たちが神の栄光のゆえに仕えられているのだということをよく考え、過度な要求をして、自分に仕えてくれる兄弟を悲しませてはならない。他方兄弟は、これを辛抱強く耐えねばならない。それによってより多くの報いが得られるからである。そこで修道院長は、病人がなおざりにされないよう最大の配慮をなすべきである。
聖書には、「各人が、その必要に応じて分配された」とある。だからと言って、依怙贔屓をしてよいと言うのではないーそのようなことがあってはならないーそうではなく、病人(弱い者)を考慮すべきだと言っているのである。(必要なものが)少なくて済む者は、神に感謝し、不平を言うべきではない。他方、多く必要な者は、自分の弱さを思って謙遜になり、あわれみを誇ってはならない。こうして全員が平和のうちに過ごすのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ベネディクトゥスは、この「戒律」を定めるにあたり、「苛酷なこと、耐え難いことはなにも定めようとは思わない」と述べた。
極端に厳格な規律を課すと、それを守ることができない修道士もでてくるからである。

> キリスト教では、モルモン教に限らずカトリックなどでも、戒律があるそうですが、守っていない部分があり、信者同士や宣教師同士でも、自己矛盾を感じているのでしょうか? それとも「戒律=努力目標」の認識みたいな感じなのでしょうか?

「守ってない」ではなくて、「守ることができなかった」と見るべきでしょう。
サボってはいけない、盗んではいけない、定められた時間にすべきことをせよ、各人の体力などに応じて色々配慮せよという【指針・生き方の方針とすべきこと】を示したのが【戒律】でしょう。
[戒律=努力目標]の認識次第です。
[努力目標なら努力しないでも良い]とはならないのが、普通の認識です。
「守ることができなかった」と気がつくことが肝心です。当人が自分の行為を自覚できなくてはどうにもならないので、知人・友人・指導者などが指摘して、本人が「戒律を守れなかっただけでなく、そのことにも気付かずにいた。これではいけない」と自覚し、以降「戒律を強く認識し、行動を慎む」ということを求めているのです。

> 守り切れていないのに、宣教師同士でも「お互いに守っている」と言い合っていたりするのでしょうか?

そんなことはないでしょう。修道院であれば修道院の全員が、たまたま遭遇した二人の宣教師でもその二人が、霊肉から成る人間の尊厳を認めあって、協調・協力し、より良き完成に向かっていこうとするのでしょう。 隠蔽を図ったり、問題を見逃すことに集中したり、かばいあって良いことにしてしまったりということはないでしょう。 
そういう見逃し行為を、【指針・生き方の方針とすべきこと=戒律】としているではないはずです。
自分だけでなく、お互いにも切磋琢磨でより聖書的な生き方を目指しているのでしょう。それが【指針・生き方の方針とすべきこと=戒律】でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/11/07 18:15

守れないから戒律があるんです。


みんなが守れるなら戒律はいりません。
人殺しがいなければ、殺人罪はいらないんです。

戒律を守れてないと自分を責める人間の、その心の
弱さにつけ込んでくるのが宗教なんです
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました

お礼日時:2023/11/05 16:51

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