鎌倉の仏教についてお聞きしたいのですが、日蓮の唱題と他宗派の念仏はどこが違うのでしょうか。日蓮は念仏無間説を説き、念仏を否定したとあるのですが、「南無妙ほうれんげきょう」は念仏ではないのでしょうか。念仏を否定したのは、道元だと思うのですが・・・。

それと、中国の仏教の「四諦と八正道の違い」について、イメージで良いので教えていただけないでしょうか。

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A 回答 (2件)

念仏と題目の大きな違いは誤解を覚悟で言ってしまえば信仰対象の違いです。

まず南無とはサンスクリット語の音訳で「~がお助けくださる」という意味です。だから念仏の南無阿弥陀仏は日本語にあえて言い直すと阿弥陀仏がお助けくださるという意味になります。題目の場合は信仰対象が妙ほうれんげ経でありそこに言われている仏であると言えます。仏教の言葉はサンスクリット語やパーリ語の音訳が非常に多く言葉から考えるのもよい助けになると思います。例えば盂蘭盆会の元となったウランバーナなどもいい例です。あと鎌倉期の仏教は浄土系の仏教と禅宗系の仏教に大きく分かれます。念仏を否定したのは日蓮だけではなかったように思います。あと四諦と八正道の違いは私には手に余ります。すいません。
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この回答へのお礼

>念仏と題目の大きな違いは誤解を覚悟で言ってしまえば信仰対象の違いです。

ご回答くださって、どうもありがとうございます!!誤解を覚悟に割り切って仰っていただいてどうもありがとうございます。おかげさまで理解できました。事実は違っているかもしれませんが、今のところはこれを答えとして考えていきたいと思います。

お礼日時:2001/10/11 23:03

現代、星の数ほどある仏教の差異を理解するには、「仏教は釈尊(仏)が説いたもの」という観点が必要であろうと思います。



で、釈尊の説いた経典は、阿含経、般若経、法華経、涅槃経など、たくさんありますが、それぞれの経典が、「これまで説いてきた教えは実は本当のことを明かしていない。この経が最も正しいのだよ。」と書いており、凡人には何が正しいのか、ちんぷんかんぷんです。

ですが、日蓮はこれら全ての経典を読破し、その上で「法華経第一」という結論を下したということは聞いたことがあります。
日蓮の題目「南無妙法蓮華経」の「南無」とは「帰命」、「妙法蓮華経」とは「法華経」のことです。つまり題目とは、「法華経に命を託します」といっているのだと思います。

で、念仏ですが、これは「選択集」という法然が著わした書物が根本となっているらしいです(うろ覚え)。つまり、釈尊が説いた仏教をベースにしていない。
釈尊は、「仏教以外の宗教を信じれば、無限地獄に落ちる」と説いています。日蓮は、そういった釈尊の経文に沿って、「念仏無限」説を訴えたのだと思います。(この論説は、日蓮の「立正安国論」に載っていたと思います)

私自身、全ての経典を読んだわけでもないですし、いまいち自分の言葉の裏づけがなく、申し訳ないです。この文章を読んで、気分を害される方もおられるでしょうが、どうかご容赦ください。(中国の仏教は分かりません。おそまつ)
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この回答へのお礼

お返事どうもありがとうございます。

>私自身、全ての経典を読んだわけでもないですし、いまいち自分の言葉の裏づけがなく、申し訳ないです。この文章を読んで、気分を害される方もおられるでしょうが、どうかご容赦ください。(中国の仏教は分かりません。おそまつ)

いえいえ、投稿してくださっただけでも感謝の気持ちでいっぱいです。ところで、念仏と唱題はどこが違うのかあまりわからなかったのですが・・・やっぱり仏教のことを真から勉強しないと理解するのは無理でしょうか。易しい言葉で、「こうだ」と言い切ってもらえるとありがたいのですが。

お礼日時:2001/09/20 02:51

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Aベストアンサー

個人的には、我という主体はあるけどそれは定義できないという意味だと思います。仏教については専門外ですが・・・
『私』などというものは幻想(マーヤ)であり、本当は実在していないというのは、仏教以前のヴェダーンタの教えにも見られます。

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Q法然・親鸞・道元・日蓮はお互いの面識は?

各聖人は生きた時代が重なってる様ですが、法然聖人と日蓮聖人は重なってませんが。  
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特に日蓮聖人は禅は魔界に入る  浄土宗真宗は無間地獄と言っていると認識いているのですが。

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聖人たち自覚の底は繋がっていると思うのですが、お互い面識が有り語り合えば解りあえた様な気がするのですが。

法然・親鸞両聖人は師弟関係の様ですから別ですが。

Aベストアンサー

>>法然・親鸞・道元・日蓮はお互いの面識は?
>>お互いの会った事は有るのでしょうか?
質問者ご自身がおっしゃるように法然上人と親鸞聖人は師弟関係にあったわけですから、面識はあったでしょう。道元禅師と日蓮聖人は、質問にある方とは面識はないと思います。

>>特に日蓮聖人は禅は魔界に入る  浄土宗真宗は無間地獄と言っていると認識いているのですが。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」ってやつですね。この中でも、日蓮聖人は法然上人を中心とする日本浄土教に関しては非常に厳しい批判を加えていますね。
 こういった批判が行われたことは親鸞聖人の弟子(親鸞聖人は「弟子一人ももたず」といっていますけど)唯円が著わした『歎異抄』第二条の中にもうかがうことができます。

おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

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>>聖人たち自覚の底は繋がっていると思うのですが、お互い面識が有り語り合えば解りあえた様な気がするのですが。
 これについては先にも述べている人がいらっしゃいますが、やはり末法の克服というのがその根底にあるでしょうね。「末法」とはわかりやすくいえば「修行できない、悟りを開けない時代」ということだと思っていただければいいと思います。
 法然上人や親鸞聖人は、末法という時代に住む自分の弱さや愚かさや醜さを徹底的に見つめ、悟ることができない私であるという自己反省から出発します。そして、悟りを開くためには阿弥陀仏の御本願を信じ「南無阿弥陀仏」と称えて、極楽というすばらしい環境で悟りを開くしかないと考えます。
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 日蓮聖人は天台大師智ギの経典理解に基づき、「法華経」を最高の経典と考えます。この真実の法門たる『妙法蓮華経』にこそお釈迦様悟りのエッセンスが詰まっており、さらには「妙法蓮華経」の題目の中に集約されているといいます。そして、「南無妙法蓮華経」と唱え題目を受け取ることこそ、末法に凡夫の中に仏の世界が展開される唯一の方法と考えます。
(乱暴な説明ですが、ご容赦ください。)
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 長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章であることどうぞお許しください。文意を読み取っていただきたく存じます。
 合掌 南無阿弥陀佛

>>法然・親鸞・道元・日蓮はお互いの面識は?
>>お互いの会った事は有るのでしょうか?
質問者ご自身がおっしゃるように法然上人と親鸞聖人は師弟関係にあったわけですから、面識はあったでしょう。道元禅師と日蓮聖人は、質問にある方とは面識はないと思います。

>>特に日蓮聖人は禅は魔界に入る  浄土宗真宗は無間地獄と言っていると認識いているのですが。
 「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」ってやつですね。この中でも、日蓮聖人は法然上人を中心とする日本浄土教に関しては非常に厳し...続きを読む

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続けて別の質問をします。
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(ちなみに、この箇所は日蓮系で(創価学会だけ?)は、信徒に読ませないようにしていませんか?)

Aベストアンサー

創価学会の者です。

日蓮大聖人は、こう仰せになっています。「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」(上野殿御返事)

また、こうも仰せです。「 問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄)

今は末法です。末法においては、釈尊が説いた法華経そのもの(これを文上の法華経と言います)では、衆生を利益する力がないのです。末法において衆生を利益する力があるのは、文上に対して「文底の法華経」すなわち「南無妙法蓮華経」です。唱えるべきは「法華経の題目」である「南無妙法蓮華経」なのです。

観音経は言うまでもなく文上の法華経であり、ここでは詳しく記しませんが、五重の相対という法理の中の、「種脱相対」の脱益(だっちゃく)に当たり、末法の我々には必要ないのです。必要ないものをあえて読ませる必要などないと思いますが。

末法における御本仏は釈尊ではなく、日蓮大聖人です。末法の衆生が仏法を実践するにあたっては、大聖人の教えを根本としなければなりません。大聖人の教えに反して、我見(自分独自の考え)で「南無観世音菩薩と唱えてもいいじゃないか」というのは、それこそ「南無妙法蓮華経に余事をまじへ」ることであり、「ゆゆしきひが事(道理に合わないこと)」となってしまい、功徳などないのです。

私の言うことに疑問を感じられるようでしたら、一度、日蓮大聖人のお認(したた)めになった曼荼羅御本尊に、観音でも阿弥陀でもいいですから、「南無……」と唱えてみればいいと思います。どういう実証が出ることでしょうか。理論で疑うより実験して証明することが、何よりも大切です。

創価学会の者です。

日蓮大聖人は、こう仰せになっています。「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」(上野殿御返事)

また、こうも仰せです。「 問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄)

今は末法です。末法においては、釈尊が説いた法華経そのもの(これを文上の法華経と言います)では、衆生を利益する力がないのです。...続きを読む

Q観想念仏と口称念仏

観想念仏と口称念仏は同じですか?
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Q仏教は「色即是色、空即是空」と説くべきであった

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この意味で色即是空、空即是色と説いた仏教は完全に間違いである。
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それはこの世は自らの世界であるということである。
この世は自らの世界であるから、自らの赴くままに世界を捉えればそれで良いということである。
誰にも遠慮などせず、自らの赴くままに世界を捉え、自らの赴くままに世界を歩むことが一番正しいということである。
この世のことであろーと、あの世のことであろーと、自らが信じることが出来なければ、信じる必要などさらさら無いのである。
自らの目に映る世界がバカバカしいと感じれば、実際その世界はバカバカしい世界なのである。
この世ことについて自らが正しいと感じれば、それは正しいということである。
「色即是色、空即是空」、仏教はこのように説くべきだったのである。

Aベストアンサー

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