No.19ベストアンサー
- 回答日時:
No.18です。
只今、夜空を見上げてみると、大月天王が微笑んでいました。
さて、本題ですが、、、
>真言、律、禅、念仏は、等しく悪いのでしょうか?
No.1参照
>>大日如来、または、毘廬舎那仏と、久遠の本仏・釈迦牟尼仏とは、同じなのでしょうか、違うのでしょうか?
名称の違いだけということは、ないのでしょうか?
違います。
前記しましたが、大日如来は迹仏です。
そして、釈尊は二つの立場があります。それは、娑婆世界において修行をし、悟りを開いて仏になった始成正覚の立場と、寿量品で明かされる久遠実成の立場です。もちろん、釈迦牟尼仏の本地は、後者、久遠実成にあります。
さらに、末法に入り、日蓮大聖人は衆生成仏の因として、『南無妙法蓮華経』の本尊を現し、久遠元初・自受用報身如来の本地を明かされます。
ですので、久遠元初の仏が表れることにより、久遠実成の仏でさえも迹仏となってしまうのです。この点が、日蓮宗と日蓮正宗の一番の違いであり、伊豆、佐渡へと流罪の時にお供をした、第二祖・日興上人にしか伝わらなかったのです。ですから、日蓮滅後、身延では地頭波木井と日向により、釈迦仏の像の建立など、本尊造乱が起きるのです。今、全国の日蓮宗の寺、それに連なる信徒団体は、謗法の衆となっているのです。(これは、四箇の格言当時には、無かったのですね。突き詰めると、これらも悪法になります。)
もちろん、それ以降に起こった日蓮正宗での分裂も含めてですが。
【最後に、、、】
ここで、質問者様に知っておいて欲しいのは、宗教と言うものが我々人間にとって、生活や環境に密接に関わっている、関連しているという事です。質問の中にも“立正安国論”があり、多少なりとも研鑽されていらっしゃる質問者様は、既にご理解されていると思います。この事こそが、立正安国論の主題なのです。
ですから、立正安国論の結びには、“汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ”と書かれているのです。これは、鎌倉時代の事だけではありません。現代においても、道理は同じなのです。
No.20
- 回答日時:
No.19です。
【追記】
今回の質問は、『四箇の格言』がテーマになっていますので、、、
四月二十八日。まさに、ちょうど760年前の今日。『四箇の格言』が発せられた日であり、日蓮(名前)が誕生した日であり、『南無妙法蓮華経』が世に出でた日であるのです。
建長五年(1253年)四月二十八日 午の刻。安房の国、東条の郷、清澄寺持仏堂において、比叡山を中心とした遊学から戻られた是生房蓮長は、名を【日蓮】と改め初説法を行ないました。その中で、「真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊」という『四箇格言』をもって誤れる宗派を破折し、『南無妙法蓮華経』こそが末法悪世を救う法であることを明かされます。
もし、この時の説法がなければ、日蓮は清澄寺の一住職で終わっていただろうし、『南無妙法蓮華経』の御本尊も世に現れてはいません。そして、現在の日本は、蒙古に負けて百済の属国になっていたでしょう。われわれの名前も横文字、カタカナだったかも知れませんね。竹島問題も存在していませんね。
※※しかし、質問者様図られたように、『四箇の格言』の質問と日付が重なりましたね。
今回の質問を通じまして、
いろいろと教えていただきまして、ありがとうございます。
今日が日蓮(大聖人)の誕生の日だとは知りませんでした(ポリポリ)。
No.18
- 回答日時:
No.13です。
>大日如来、または、毘廬舎那仏と、久遠の本仏・釈迦牟尼仏とは、同じなのでしょうか、違うのでしょうか?
名称の違いだけということは、ないのでしょうか?
本来なら、当初の質問に対する回答は済んでいるかと思います。しかしながら、この点に疑問が残るのであれば、回答をしたいと思います。ですがその前に、質問者様が現時点で考えられる、或いは、思っていることは、どのようなものでしょう。もちろん、上に上げた貴方の追加の質問に対してです。今までの質疑の経緯から、ご自身の思いは何かしらお持ちのはずですよね。
お聞かせ願えますか??
質問がありましたので、お答えします。
わたしは、久遠の本仏・釈迦牟尼仏は、法身仏、もしくは、報身の自受用身に相当すると考えています。ですので、久遠の本仏と大日、廬舎那仏の区別は名称による相違に過ぎず、同じものである、と考えています。であるとすれば、日蓮の真言批判の論拠の一部は失われます。
です。
回答者のks5518さんのお立場上もおありでしょうから。。。
で、本質問に戻って、
真言、律、禅、念仏は、等しく悪いのでしょうか?
No.17
- 回答日時:
こんにちは、早々の折り返しありがとうございました。
この回答を最後にします。これ以上は元々のスタンスが異なる様子(私自身が信仰を持たない人間ですから)ですので。>日蓮の板曼荼羅と真言の両部曼荼羅は異なっている、異なる形式・構造を有している、というのではダメなのですか?
ヴェーダ由来のインドの神さまはOKだけれど、日本の神さまを曼荼羅に描いてはいけない、というのも、考えてみれば、妙な話でしょう。
ですから、「その違い」についてお話ししただけであって、真言のシンボルである曼荼羅の意味をとりあげたのは日蓮及び日蓮教団の持つ特異性があるからです。他宗派があの様に他者を排撃していたでしょうか。一向一揆が対峙したのは時の政治権力であり、それは自らの日常生活をも脅かしかねない相手だったから対峙したのであって、宗教レベルでの価値観の対立に起因するものではありません。これに対し日蓮は一方的に他宗を排撃し、その象徴があの板曼荼羅です。中心に「自らが至高の価値と認めるもの」を置き、その教典をありがたがれなどとわけの分からないことを一方的に押しつけるだけでは支持も得られないでしょう。真言の曼荼羅が「仏姿と仏姿」「道具と道具」「文字と文字」の構造であるなら、それぞれの比較対象が同等であることから違和感もありませんが、日蓮のそれを見た場合は「教典+日蓮の名前と神仏の名前」を比較していることから違和感が生じることになります。
そもそも「宗教のレベル」では神仏と教典を同一視するものでしょうか。信仰を持たない者には全く理解のできない話です。仲良しサークルを内輪でやっているならば問題はないでしょう。けれどそれが外に向けられたならば、あのカルト集団や怪しげな霊感商法で有名な団体と同一の反社会的組織ともなりかねない危惧がある。だから僕は宗教(殊に仏教)に対し疑いの視線で見ざるを得なくなる。
質問者様が「日蓮大聖人」と仰っているからには、おそらく質問者様ご自身も日蓮教の考えに帰依するお一人でしょう。世俗、凡下の輩である僕にとって、日蓮は歴史上の人物の一人でしかない。なにもそこに敬称を付ける意味など見出すこともできません。
当初の問題に戻るなら、それは日蓮が一番悪い、他宗派を全て否定する合理的な論拠など一つもありませんのでとの結論も変わることもありません。
ご回答を数多く頂けまして、ありがとうございます。深く感謝いたします。
~~~~~~
質問者様が「日蓮大聖人」と仰っているからには、おそらく質問者様ご自身も日蓮教の考えに帰依するお一人でしょう。
~~~~~~
いえいえ、わたしは日蓮教の教えにまったく帰依などしておりません。
ただ、わたしにはその信仰形態をまったく理解できませんが、日蓮を教えの始祖として尊敬している人たちの信仰に敬意を払い、《日蓮大聖人》と書いたまでです。
わたしは、法華経───現代語訳です───を何度かいい加減に読書した経験程度しかありません。日蓮の著作は、まったくと言っていいほど、読んだことがありません。
ですから、今回、「日蓮の考えでは、なぜ真言亡国で、律国賊なのか。日蓮は、どちらがより国家、国民にとって悪いと考えたのか」と質問させていただいた次第です。高校の倫理社会で、この言葉を習っていらい、ずっと私の心のなかにくすぶりつづけていた疑問を提出させていただきました。
No.16
- 回答日時:
ひとことです。
★(No.12お礼欄) ~~~
S学会さんが目指しているのは、
《地涌》の菩薩、
それとも《常不軽菩薩》のどちらなんでしょうね。
~~~~~~~~~~~
☆ ここは あちらさんの弁護をおこないます。
《常不軽菩薩》のこころで
未来の《地涌の菩薩》たるべく
いま 実践をおこなっている。
ですかね。
回答ありがとうございます。
S学会の会員さんが「地涌」の菩薩───あくまで現象的可能態としてです───としてこの世に生まれたのならば、「地涌」でもいいか。
と思ったのですが、であるならば、S学会の会員さん以外のすべての人も「地涌」でなければならない。
でなければ、法華経は、一部エリートのオシエになってしまいます。
───学生のころ、大学の友達にS学会の人が何人かいました。この縁で、誘われてとある集会場に連れられて、S学会の人たちと仏教のお話をしたとき、この匂いをプンプンとさせていた。エライとされる人(地域の青年部長か何か)や在家のなかで論の立つ人ほど特に……───
なので、「地涌」はやっぱりダメですね。エリート、選民だから、ダメです。
「常不軽菩薩」でなければならない、と思います。
ついでついで。
私の通っていた大学には、親鸞さんの『歎異抄』を研究するサークルがありまして、ここにもひとり知人がいました。で、「一緒に、歎異抄を研究しませんか」と誘いを受けたこともありました。私のアパートにやってきて、「阿弥陀さんの名前は、じつは、サンスクリットでアミターユ(?)」みたいなことをいうとりました。この友人、生気あふれるエネルギッシュなS学会員さんたちとは対照的に、生気がまったく感じられず目が死んでいた。
実は実は、他にも、大学の統一教会系のサークル───といっても、非公式───の女の子からも、入会の勧誘を受けていたっけ。
最初、スピリチュアル・霊的な───スウェデンボルグあたりの───話から入り、次第にキリスト教っぽい話へと導いてゆく。。。。。。
何度も、その女の子は、一人で眠り猫のアパートにやってきて、長々とそうした話をしていた。時に、クッキーなどもを焼いてもってきたっけ───わたしは、ちょっと怖くて食べなかった。翌日、友達に食べさせたところ、「洗脳の味がする」と言うとりました(わらい)───。
夜、一人で、よく知らない、年頃の男のアパートの部屋に入り込む。やらしいことでもされたら、どうするのだろう。口さがない大学の友人の一人などは「それは何をされてもOKということ。無言の合意形成がなされているので、和○になる!!強○罪にならない」と言っていた。
『おっめぇ~、それでも法学部の学生───専門過程に上がる前でしたが───か。な~わけはねえだろうが、ボケ!!』
この女の子も、やはり、目が死んでいた。。。
なんか、関係のないことを長々と書いてしまいました。
いつもの脱線癖がでてしまったようです(ポリポリ)。
No.15
- 回答日時:
ねむりねこさん こんばんは。
連投になりますが すみません。けいえす5518さん こんばんは。ご返答をいただきありがとうございました。
そうしますと けっきょく《神》と言いますか信じるところの《本尊》が違う。本尊がマチガイである。
――こういうワケであると受け取りました。
ただし それでも
◆(創価学会公式サイト:教学基礎情報) ~~~~
§ 法華経
§§ 不軽菩薩
悪世末法は、「争い」の時代でもあります。その争いの時代を変革するためには、一人ひとりが「自他の仏性」を信じ、「人を敬う」行動を続ける以外にありません。「人を敬う」という、人間としての最高の振る舞いを説き、万人が同じ実践を貫くように教えたのが仏教です。
~~~~~~~~~~
☆ とのことです。つまり この精神にかんがみて いただいたお答えを合わせて捉えるなら 四箇格言は それぞれの宗派に対する――本尊をまちがえていますよという――警告としてのお知らせである。
――こういうことですよね?
言いかえると つまり 真言等のオシエを貶めると同時に それでもそれらを奉じる《ひと》としてはこれを《敬う》。――こういうことですよね?
◆(同上) ~~~~~
§ 仏法の実践
§§ 広宣流布
仏の悟りである正法を人々に流布し、万人を仏の境涯に導くことこそが仏法の目標です。
~~~~~~~~~~~
☆ というごとく 真言等のオシエを弾劾しつつ その《ひと》については 《仏性をやどすとうとい存在》として敬う。――こういうことですよね?
(1) このように ひとこと言い添えてご主張を述べられると 分かりやすいように思いました。
(2) もうひとつは けっきょく何を信じるか? という主題については どこまで行っても堂々巡りの水掛け論になろうかと考えますので 話は一たんお休みになると思います。(保留となると思います)。
(2-1) それでもさらにひとこと添えるとしますと:
もしその神ないし本尊がマチガイではなく ただしくほんものであるとするならば それは 《全体としてひとつなる真理》であると思われます。つまり 《妙法蓮華経》がその真理なる本尊であるとするならば ほかの名のブッダないし神をすべてみづからの内に包み込むことになると思われます。
そういう意味においても ご説明なさると 話が分かりやすい。
――このようにも思いました。
ご返答について 重ねてお礼申し上げまして とりあえずこの問い求めをめぐるわたしの参加は ここまでといたします。(見守りつつ 必要に応じて また口出しするかも知れませんが)。
No.14
- 回答日時:
こんばんは。
先日の「曼荼羅」の宿題と♯5の回答者様からの反論に対する詳細な説明です。先ずは♯5の方の東大寺再興と日蓮の関係です。当該の回答者様はWikiを引用されていますが、この説明だけで「東大寺再興」を説明することはできません。俊乗房重源だけを東大寺再興に寄与した人物としていますが、東大寺の再興は12世紀中後期に始まり鎌倉時代だけでも13世紀前期、その後も江戸時代に至る迄の間続いています。
鎌倉時代の勧進聖も最初の重源から二代目の栄西、三代目の行勇へと引き継がれています。これは史実です。従って以下の説明は根拠から崩れる形となります。
>日蓮(にちれん)(貞応元年2月16日 - 弘安5年10月13日、ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日[1])は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗(法華宗)の宗祖。生まれていないのに、出きるはずが無い。
何も重源の勧進だけが東大寺再興ではないのです。重源の後、宝永六年に至る500年の間での断続的かつ継続的な事業ですから、生まれていなかったからできるはずがない、との結論は短絡的です。
>ただ、比叡山遊学の最中に、京都はもとより、奈良、大阪の主だった寺院にも立ち寄っていると思います。文献が手元に無いもので、思いますとしておきます。
仕方ないでしょうね、それだけの材料もなく質問に応えようとしたのですから。
さて質問者からの宿題に移ります。
確かに画像の「曼荼羅」には「大曼荼羅」以外に「三昧耶曼荼羅」「法曼荼羅」の計3種類があります。
けれども「大曼荼羅」は「仏の絵姿と絵姿」を表し、「三昧耶曼荼羅」は「それぞれの仏が使う道具対道具」「法曼荼羅」は「仏を模したサンスクリットの文字対文字」の形です。
これに対し日蓮の板曼荼羅と称する紙片では紙幅の中央部に「題目」があり、周辺部には「神仏の名前」が書き込まれている点で、真言密教の曼荼羅とは全くパターンの異なるものです。それは恐らく「仏教を含めての信仰そのもののあり方」の本質的な違いともいえるでしょう。
空海の思索が「人間としての幸福」を重視することに対し、日蓮のそれは「俺様こそが日本国家を救うヒーローだ」などと最初から肩に力を入れて大上段に振りかぶる姿にも似ています。両者を比べるならば、中世社会で真言宗や一向宗に庶民からの支持があったことも頷けます。
少し横道に逸れますが、中世社会の構造的特色を示す用語に「アジール」があります。世俗の法や権力とは異なる「独自の規範に基づいて支配される空間および領域」の意味ですが、この代表例として「寺社」があります。寺社の山門を隔たりとして、そこから内側には幕府などの警察権力も及ばず、またそこに奉仕する卑賤の身分の者にも手出しはできません。そうした卑賤身分の者を神人・供御人などと呼びます。彼らは死者や動物の死骸などを扱うことを生業としていたことから「穢れ」との扱いを受けておりました。しかしながらその彼らはただ表沙汰にはできない仕事に携わる身分との側面を有していたわけでもありません。寺社の庇護を受け、独自に経済活動を営むなどする利益集団であったことも知られています。その庇護者である寺社は彼らの活動と身分を保証することで彼らから一定の「上がり」を得ていて、Win-Winの関係にあったともされています。
その寺社自体が一つの権門であり世俗とは異なる原理に基づいた社会であることから、世俗の法規範で罪科などを科すことも中々できず、その限界を突破したのが清盛であり信長です。神輿に対する弓引きも比叡山の焼き討ちもそうした「世俗の権力による宗教支配」と理解することが日本史学では一つの見解としてあることも付記させていただきます。
回答ありがとうございます。
曼荼羅は、絵画や文字などを使ってシンボリックに表現した宇宙観、価値観、秩序構造のようなものですから、いろいろな観点から表現してもいいと思うのですよ。
《南無妙法蓮華経》というお題目───私には理解できませんが、なにか不思議なハタラキを有しているのでしょう、このオマジナイ───を中心とした表現をしてはいけないのでしょうか?
日蓮の板曼荼羅と真言の両部曼荼羅は異なっている、異なる形式・構造を有している、というのではダメなのですか?
ヴェーダ由来のインドの神さまはOKだけれど、日本の神さまを曼荼羅に描いてはいけない、というのも、考えてみれば、妙な話でしょう。
何もそこまで強く全面否定なさらなくても。
No.13
- 回答日時:
No.5です。
分かる範囲で、お答えいたします。
>>○ 真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊について
その哲学的な根拠を明らかにして欲しい。
※※※※※※※※※※※※
●念仏無間
浄土宗は阿弥陀仏を本尊とし、称名念仏を修行としています。仏教、中でも法華経で説かれているところの正法である『妙法蓮華経』を捨て去り、迹仏である阿弥陀仏を本尊としているため、法華誹謗=地獄の業⇒『無間地獄』の業であるといわれています。
●真言亡国
こちらも、浄土宗と同様に、大日如来を本尊としています。大日如来は、釈尊説法の方等時の経でとかれる仏です。要するにこちらも迹仏です。亡国といわれるのは、中国、日本において、真言で祈った際に国が滅した事を引き、亡国とされました。これは、国土が無くなるということではなく、その王朝なり政権が滅ぼされるという意味です。
●禅天魔
禅においては、釈迦仏の教えをことごとく否定するところから始まります。よって、仏をないがしろにすることなどは、天魔の所為であるというところから、禅天魔が出ています。
●律国賊
律自体が、小乗の教えを基本に展開されました。南都六宗の時代に伝教大師:最澄にことごとく破折されます。ですが、それ以降も凝りもせず小乗の教えを広めました。それだけではなく、忍性良観は幕府を利用して橋等を整備する傍ら、高額な交通料を取り、私腹を肥やしていました。このことから、国賊と言われました。
※※※※※※※※※※※※
※詳細については、ご研鑽いただければと思います。
>「弥陀の名号は煩悩を断ち切る利剣である」とありますが、
この《利剣》は文殊菩薩の利剣を意味するのでしょうか。
これについては、良く分かりません。
>念仏や密教に染まっている天台宗への批判である、
>ということにもなりそうです。
>この文章は、天台宗の現状を憂え、天台宗は原点である法華一乗に戻れ、という意味なのでしょうか?
立正安国論については、天台を攻めるためのものではありません。これはあくまでも、時の権力者に対するものです。
>日蓮系の宗派で極悪人とされている《良観忍性》は、真言宗のお坊さんですよ。
申し訳ありません。私の勘違いだったようです。
質問者様、仰るように真言律宗の僧ですね。
>この順序の変更には、何か意味があるのでしょうか?
順番については、意味があるのかは、分かりません。
■No.10回答者様ご指摘の点
>さて鎌倉幕府と仏教の関係ですが、東大寺の再建との事象をどの様に考えるでしょう。この事業に携わったことで知られる俊乗房重源がいますが・・・・・・・・・・・・もし日蓮が「国家存亡の危機」を訴えるなら、東大寺再興にも寄与したはずです。にも関わらずそうした行為を一切しなかったことは、似非愛国者と同じでしょう。
この事は、
■■■■■■■■・・・Wiki引用
東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。
■■■■■■■■
この事かと思いますが、、、、
日蓮(にちれん)(貞応元年2月16日 - 弘安5年10月13日、ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日、グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日[1])は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の宗旨のひとつ日蓮宗(法華宗)の宗祖。
生まれていないのに、出きるはずが無い。
ただ、比叡山遊学の最中に、京都はもとより、奈良、大阪の主だった寺院にも立ち寄っていると思います。文献が手元に無いもので、思いますとしておきます。
ご丁寧な回答、ありがとうございます。
日蓮大聖人が、念仏無間、真言亡国、禅天魔、律国賊と結論なされたのか、理解できました。
ところで、大日経を方等時の経典と分類するのは、天台チギの五時八教に基づく、日蓮大聖人の判断ですよね。天台チギの五時八教説の是非は議論するつもりはありません。
ズバリ、
ks5518さんにお伺いします。
大日如来、または、毘廬舎那仏と、久遠の本仏・釈迦牟尼仏とは、同じなのでしょうか、違うのでしょうか?
名称の違いだけということは、ないのでしょうか?
No.12
- 回答日時:
ご返答をありがとうございました。
★(No.11お礼欄) ~~~~
なぜなら、『常不軽菩薩品第二十』は法華経の本編ではないから。法華経の本編に、のちの時代、追加された章段だから───学問的には、あ・き・ら・か!!───。
日蓮さんは、本能的に、あるいは、直感的に、このことを見抜いたんじゃないですかね~(ポリポリ)。
つまり、日蓮さんの態度にはユレがない!!
~~~~~~~~~~~~~~
☆ だけれどもですね。だけれども だとしますと 創価学会は 《ユレ》をみづからに負わせた。となります。つまり この法華経の本編ではなかった《常不軽菩薩品第二十》を《教学基礎》として公表しているわけですから。
あるいはつまり
★ ~~~~~~
「今、この集まりには、枝葉に類する者───声聞のこと───たちはいなくなり、真実な者───大乗のヒト───だけになった。舎利弗よ、あのような高慢な者たちは退出したほうがよかったのだ。今こそ、舎利弗よ、よく聞きなさい。お前のために教えをとこう」
これが法華経本編の基本的な立場です。
・・・
要するに、法華経とは、本来、万人に向けられたオシエではないということです。
~~~~~~~~
☆ とおそわったわけですが それにもかかわらずこの宗教組織では 常不軽菩薩の実践をみづからのオシエに採り入れただけではなく この《排他性》をも排除することにしているようなのです。
◆(創価学会公式サイト:教学基礎情報) ~~~~~~
http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/jissen/0 …
§ 仏法の実践
§§ 広宣流布
仏の悟りである正法を人々に流布し、≫万人を仏の境涯に導くことこそが仏法の目標です≪。
それ故に法華経でも
「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に
其の便を得しむること無かれ」
(通解—私〈釈尊〉が入滅した後、末法において、
全世界に正法を広宣流布して断絶させず、
決して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの魔物に
つけ入らせてはならない)
と説かれています。
~~~~~~~~~~~~
☆ とやはり公言しているようなのです。
それとも この《公式の表明》は タテマエであって じっさいでは
★ 法華経が、一部の仲良し秘密サークルの教えであることに気づいているのではないでしょうか(ポリポリ)。
☆ となっていましょうか?
ご存じの方は お知らせください。
★ ~~~~~
・・・
排他色のきわめて濃い法華経本編とは異なる、『常不軽菩薩品第二十』などに見られる融和的な面が大切ですよ。
そこから考え直すべきなのではありませんか。
でなければ、大乗仏教でなくなってしまいますよ、
と書いたつもりなのですが。。。。。。
~~~~~~~~
☆ 一年経っていますから どうやら 届いているようですよ。(皮肉にはならないですよね)。
あるいは:
★★(【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】回答No.31=BA) ~~~~
☆(こ) それとも キリストも背景にしりぞき ブッダも背後へ隠れてしまうのだという・《あたらしい天とあたらしい地》の世界と時代を言っておられましょうか?
◇「はい」とはっきりと明言するほどの勇気も度胸もありませんが、「YES」です。
超越者としての、支配原理としての《キリスト》と《ブッダ》は、もうこの世にいない。
《キリスト》、《ブッダ》というこの世で作り上げられた偶像を信じ、そんなものに祈っても、けっして答えてはくれない。
キリストやブッダの残した言葉などを頼りに、あとは自分で何とかせい!!
という立場です。
~~~~~~~~~~~
回答ありがとうございます。
広布に走れ 作詞:山本伸一
二 旭日に燃えたつ 凛々(りり)しきひとみ
慈悲と哲理の 地涌(じゆ)の誉(ほま)れ
ああ革新の 英知は光る
我と我が友 広布に走れ
http://www2.sokanet.jp/download/songs/text/03.pdf
《地涌》の菩薩といっている時点で、もうOUT!!
地涌の菩薩というのは、この娑婆世界の下にある別世界(虚空)で(法華経にもとづく)修行を行って、ある日突然、何かの因縁によって、地面から湧き出てくる菩薩のことです。
娑婆世界で様々な迫害を受けながらも、決して相手を軽んじない《常不軽菩薩》のことではないんです。
なので、やっぱ、秘密サークルってことになる。馬脚があらわれている(わらい)。
───軽口です。本気でそんなことを考えているわけではありません───
なのですが、
なぜ、この歌詞をいささかも疑問をいだかないのでしょうか?
それが私には不思議です。
世界広布の歌の三番の歌詞にも
「若き地涌の天翔る」
と地涌という言葉が出ています。
http://www2.sokanet.jp/download/songs/text/02.pdf
好きみたいですね、《地涌》って言葉を。
S学会さんが目指しているのは、
《地涌》の菩薩、
それとも《常不軽菩薩》のどちらなんでしょうね。
No.11
- 回答日時:
ふたたびおじゃまします。
◆ SOKAnet 創価学会公式サイト
http://www.sokanet.jp/
を読んでみました。いくつかに反応しましたが オシエの問題として次を取り上げたいと思います。
◆ (同上:法華経について) ~~~~~~~
http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hokekyo/ …
§ 9 不軽菩薩
仏の滅後の悪世に、正法を弘通する実践の在り方を示したのが、不軽品第二十に説かれる不軽菩薩の実践です。
不軽菩薩は、釈尊の過去世の修行の姿で、「二十四文字の法華経」を説き、一切衆生を礼拝し続けました。
二十四文字の法華経とは、法華経の経文上の文字が漢字で二十四文字あることから名づけられたもので、その内容は次の通りです。
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。
所以は何ん、
汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。
(私は深くあなたたちを敬い、決して軽んじない。
なぜかといえば、
あなたたちは皆菩薩の道を行じて成仏することができるからである)」
ここには、万人の生命には仏性が内在しているゆえに、ありとあらゆる人の生命を敬うという法華経の思想が端的に示されています。
不軽菩薩も、この「二十四文字の法華経」を説きながら、増上慢の人々から杖で叩かれたり石を投げられたりしても礼拝行を貫き通し、その功徳で仏になったのです。
悪世末法は、「争い」の時代でもあります。その争いの時代を変革するためには、一人ひとりが「自他の仏性」を信じ、「人を敬う」行動を続ける以外にありません。「人を敬う」という、人間としての最高の振る舞いを説き、万人が同じ実践を貫くように教えたのが仏教です。
日蓮大聖人は、人の振る舞いについて次のように仰せです。
「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、
不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ
教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、
穴賢・穴賢、
賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(御書1174ページ)
自他の仏性を信じ、顕していく不軽菩薩の実践に象徴されるような「人の振る舞い」こそが仏法の目的であることが明確に示されています。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ この考え方と 《真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊》という四箇格言の内容とは どのように相容れるのか?
おそらく 真言を初めとするそのオシエないし思想に即して 内容の批判をおこなう。これによってのみだと考えられます。
なるほど これこれの具体的なオシエが間違っているからたとえば真言は亡国になるのだといったかたちの説明のことです。これが 知りたいところです。
質問者のご趣旨からは ズレますが この課題をめぐって 日蓮派とそれの批判派とで 互いに自由で公正かつ科学的な問い求めをすすめて行くのが 賢明な道ではないかと考えました。いかがでしょう?
日蓮およびこの学会としては その道を行くことに反対でないばかりか すすんで参加されるものと思われるからです。
批判派は もとよりそのような互いの対話についていさぎよく参加するものと思われますから。
きわめて出しゃばった投稿だと承知しています。少なくとも
○ 真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊について
その哲学的な根拠を明らかにして欲しい。
というお願いをしるしておくまでは ゆるされる回答ではないかと思いました。
もしそうしないのならば 《不軽菩薩の実践》を日蓮の系譜のこの学会のみなさんは 捨てた。このようにわたしたちは認識することになると思います。
回答ありがとうございます。
☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。
所以は何ん、
汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。
(私は深くあなたたちを敬い、決して軽んじない。
なぜかといえば、
あなたたちは皆菩薩の道を行じて成仏することができるからである)」
~~~~~~
そうなんです、法華経には、いいことがいっぱい書いてあるんですよ。
なのに、それを実践しようとしない。
日蓮は、「常不軽(じょうふぎょう)菩薩のように行動しなさい」と言いながら、みずからはそのように行動しない。平気で他宗のヒトを口汚く罵ったりする。罵詈雑言を浴びせかける。
この姿勢が問題。
でも、これは仕方がないことなんです。
なぜなら、『常不軽菩薩品第二十』は法華経の本編ではないから。法華経の本編に、のちの時代、追加された章段だから───学問的には、あ・き・ら・か!!───。
日蓮さんは、本能的に、あるいは、直感的に、このことを見抜いたんじゃないですかね~(ポリポリ)。
つまり、日蓮さんの態度にはユレがない!!
例を出します。『方便品第二』でこんなことが書かれています。
釈尊が法華経を説く寸前、五千人の高慢な比丘と呼ばれる人たちが、「こんな荒唐無稽な話は信じられません」とばかりに、釈尊のもとを去っていきます。そして、釈尊は、シャーリプトラにこのように告げます。
「今、この集まりには、枝葉に類する者───声聞のこと───たちはいなくなり、真実な者───大乗のヒト───だけになった。舎利弗よ、あのような高慢な者たちは退出したほうがよかったのだ。今こそ、舎利弗よ、よく聞きなさい。お前のために教えをとこう」
これが法華経本編の基本的な立場です。
つまり、基本的に、法華経は排他色が強いオシエということです。
なので、
法華経の有名な「若有聞法者・無一不成仏」という言葉も、実は、この法華経の排他性の上で考えなければならない!!
法相の仲算は、このことに気づき、「無(姓有情)の一(姓)は不成仏だ」と言っている(わらい)。
同じく本編とされている『法師品第十』には、
「しかも、その中でこの法華経は最も信じがたく、理解しがたいのだ。薬王よ、この経は諸仏の本質についての《秘密の教え》であるから、分別して《みだりに人に授けてはならない》。」
ともあります。
なぜ《みだりに人に授けてはならない》かというと、
そんなことをすると、他のヒトからぶたれたり、いじめられたりするから(ポリポリ)。
───ジョークです。真に受けないでください───
要するに、法華経とは、本来、万人に向けられたオシエではないということです。
S学会さん、最近、以前のような熱心な(or無茶な?)布教・《折伏》活動をなさらなくなっているそうですから、
法華経が、一部の仲良し秘密サークルの教えであることに気づいているのではないでしょうか(ポリポリ)。
性格の悪いわたしに、こんな軽口を叩かれないようにと、
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7526932.html
で、
排他色のきわめて濃い法華経本編とは異なる、『常不軽菩薩品第二十』などに見られる融和的な面が大切ですよ。
そこから考え直すべきなのではありませんか。
でなければ、大乗仏教でなくなってしまいますよ、
と書いたつもりなのですが。。。。。。
☆☆☆☆☆☆
─────────
○ 真言亡国 禅天魔 念仏無間 律国賊について
その哲学的な根拠を明らかにして欲しい。
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と、わたしも思います。
歴史背景的観点からではなく、
日蓮さんは、なぜ、このような判断をしたのか、その哲学的根拠を浅学非才のわたしに教えてほしいと思います。
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