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自由と定めがうまく融合するような境地について考えています

生きている間は程度さはあれ自由度があり 意志を行使することも可能です しかし人には人の定めがあり 道を外してはまともに生きていくことは難しくなります 

人以外の生き物もそれぞれに自由と定めの合間に生きているように思います

自由は新たに道を切り開くような力強さのあるものでしょうか

定めはそれに従うゆえに自由に振る舞えるようになるものでしょうか

自由と定めについての所感などあればお願いします

質問者からの補足コメント

  • 例えば生命体には死ぬ定めがありますが
    その定めのあることによって その定めを知ることによってより良い生を目指す動機のようなものも生まれ得ると思います

    もし死という限定がなくそれから自由であるなら
    その生き様は全く別様になると思われます

    定めは自由を限定するものですが 却って自由を伸ばす役割も持っているのではないか など考えております

      補足日時:2024/06/26 15:39
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A 回答 (10件)

自由も定めも「善悪両面」に働く



自由は幸福の条件の一つだが
自由に責任が伴わなければ不幸になる

定めを不自由と思えば不幸の条件の一つになり
義務、役割、使命と思えば幸福の条件にもなる

自ら定めた人生を歩む事こそ、絶対的幸福の条件である
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この回答へのお礼

自ら定めた人生 これは一つの完成のように思えました

ありがとうございます

お礼日時:2024/06/28 14:52

自由は新たに道を切り開くような


力強さのあるものでしょうか
 ↑
何が正しいか解らないから
自由があるんでしょう。
正しいことが解っていたら、自由に
してはいけません。
無理矢理にでも
その正しいことを、やらせねばなりません。



定めはそれに従うゆえに自由に振る舞えるようになるものでしょうか
自由と定めについての所感などあればお願いします
 ↑
過度な自由による弊害を
防止するために定めがあるんだと
思います。



例えば生命体には死ぬ定めがありますが
その定めのあることによって その定めを知ることによってより良い生を目指す動機のようなものも生まれ得ると思います
 ↑
そうですね。
死があるから、よりよく生きようとする
のでしょう。
そうやって生が輝きます。



もし死という限定がなくそれから自由であるなら
その生き様は全く別様になると思われます
 ↑
死がなかったら、文化文明も
発達しなかったと思います。



定めは自由を限定するものですが 却って自由を伸ばす役割も持っているのではないか など考えております
 ↑
社会において、無限定の自由は
あり得ません。
他人にも、自由があるからです。

社会という枠がある中で
最も良く自由を延ばす、というのが
質問者さんが言う、定めなんでしょう。

憲法学では、好況の福祉といいます。
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この回答へのお礼

いつも分かりやすいご回答をありがとうございます

自由と自由はぶつかるものだろうかと思いました

相乗効果さえ生む場合もあり すれ違いやいがみ合いを生む場合もあるのかもしれません

その違いは 相手の自由を尊重するかどうかにあるような気がします

また 正しさの方が自由よりも優先されると言うお考えには一種の厳しさと現実性を感じました

社会の枠組みも変容しまた成長しているようにも思います

それは必ずしも自由が枠組みの中に治まり切るものではなく 時に枠組みを動かす力を持ち得るからだと思いました

お礼日時:2024/06/27 23:28

>人間的なるものというのは 言葉にすればなんとなるのでしょうね



「あなた方の願いはあなた方の心であり、あなたの心はあなた方の願いである」

言葉にすればこのようになります。
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この回答へのお礼

このような問いの答えを言葉にできるだけで その答えが何であれ立派なことだと思います

私は 人は他の動物より比べて特別というわけではなく ある性質を強調 延伸 そして純化した生き物だと思います その性質とは 愛だと思います

大事なものは 他の生き物にもあります 自己や子孫 一族は彼らにとっても大事なものであると思います

しかしながら普遍的なものを大事に思うのは 人間だけのような気がします

普遍的なものを捉えるだけではそれを可能にする知性を備えているだけに過ぎません それを大事に出来るかという点で 何か分水嶺がある気がいたします

お礼日時:2024/06/27 23:33

>例えば老いて病み死ぬ定めがあるとしても その自ら定めたところの生には影響を与えない と言うような生存の在り方があるのではないだろうか



生きるのも自由、死ぬのも自由というのであればそのとうりでございます。
生きるのも定め、死ぬのも定めというのであればそれもそのとうりでございます。
では宇宙の法則、アルケーはどのように教えているのでしょうか?
アルケーはあなた方の望むよーにしなさいと教えています。
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この回答へのお礼

人間的なるものというのは 言葉にすればなんとなるのでしょうね

望むようにする それはそうなのだけれど 望みよりも望まれるものがある気がします

お礼日時:2024/06/26 21:40

その定めとは誰が定める定めでしょうか。


この世界には宇宙の法則という何ものも決して逆らうことのできない最も強力な定めがございます。
法治国家と名乗る日本などの国がどのような法をつくろうが宇宙の法則という定めには足元にも及びませぬ。
何ものもすべて万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの定めに従わねばならないのです。
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この回答へのお礼

定めには 従わざるを得ない
しかし定めに対して能動的に接することは可能だろう
敢えて乗るようなことで 嫌だ嫌だと死について思うのではなく 
この宇宙存在に対して悲観したり喜んだりすることも無く

自ら定めるところの生に従って生きるなら それは自由と言えるのではないだろうか

例えば老いて病み死ぬ定めがあるとしても その自ら定めたところの生には影響を与えない と言うような生存の在り方があるのではないだろうか

宇宙が途方もない時間をかけて運行している その事とは別に 自ら定めるところに従った生存があるのではないだろうか

それを見出すことが求道であり それに従う事で自由が発揮される

その様なことを考えました

お礼日時:2024/06/26 19:01

「七〇にして、自らの欲するところに従ってしかも規を超えず」孔子


「自由と気ままと勝手の違いはなに?」ザ・コレクターズ
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この回答へのお礼

まっとうかどうかということですかね

お礼日時:2024/06/26 19:04

自由すぎても選択肢が多すぎて決まらない結果、何もしないケース


ある一定の決まりがあれば、自由すぎるよりは結果行動すると

二極化でかんがえると、自由主体か定め主体かの違いは出そう
僕はなんとなくの曖昧な道こそが、自由でもあり定めでもあるかのような
とも思います。
うまく融合しているかどうかは、それもまた曖昧な道みたいな

何を持ってうまくなのかが、みんなの同意に左右されそう、それはそれでありか
自然と反対される仕組みは消えてってるだろうよも思う
ただ、それはみんなにとっての
多数決っぽい原理は働きやすいと、僕は感じることが多いかなーという
ただそれだけw
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この回答へのお礼

曖昧さ つまり遊びや猶予がある 

現実的にはそのようでもあると思います

お礼日時:2024/06/26 19:05

無為自然で因果応報みたいな性善説が本来の姿であればと言うか


道は常に形を変えるような、決まりきったもんでもないし道かどうかも行ってみなければわからない
定めがあるにしろ自由にしろ
曖昧であることを、自然に受け入れればそれでいい
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この回答へのお礼

杓子定規と言うのではないと私も思います

お礼日時:2024/06/26 19:05

日本国憲法は、国民に自由を保障していますが、併せて、


公益及び公の秩序に反してはならない、という義務を課しています。
これがあなたの言う「自由と定め(義務)」に該当します。

定めというのは、成すべきこと、成さぬべきこと、などがあるので、
どちらを指しているのか、を明確にすべきです。
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この回答へのお礼

現実的な解釈であると思います

お礼日時:2024/06/26 19:06

社会における自由は公共の福祉を優先するだけ

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この回答へのお礼

しかし社会そのものが自由をはき違えた場合には 集団で大きな過ちを犯してしまうのではないでしょうか

お礼日時:2024/06/26 19:07

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