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ミュラー・リヤー錯視は、線分の両端につける矢印の向きによって、その線分は短く見えたり長く見えたりしますね。
ところで、私が「二つの線分は同じ長さだよ、と(誰に?)しつこく教えても、頑として長短が消えません。

質問は、ミュラー・リヤー錯視は、なぜ、頑固なのでしょうか?

A 回答 (9件)

質問者さんの視覚を司る脳の領域においては「長短がある」ように見える。

それに対して同じく質問者さんの理性を司る領域において「同じ長さ」であると知っている。
それによって質問者さんの脳の中で「矛盾」=自己矛盾が生じている。
脳は矛盾を嫌うことから質問者の「同じ長さ」と知っている領域が「長短がある」ように見えた(判断した)視覚を司る領域のその判断を否定=自己否定している。
脳にとって否定される事は存在否定に通じるので自己否定された視覚を司る領域にとってそれはその領域の存在否定された事に通じるのです
存在否定されることはその領域にとっては耐え難いので自己否定に購おうとします。つまりその領域那のその判断(視覚)が正しと主張するのです。その主張こそが質問文中の「ミュラー・リヤーサクシハ、なぜ、頑固何でしょうか?」となります
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この回答へのお礼

度々のご回答ありがとうございます。
<存在否定されることはその領域にとっては耐え難いので>すね。
いずこも同じですね。

お礼日時:2024/07/13 14:57

錯覚一般に関して、の意見です。



人間の情報処理システムの相当根深い位置にあるから。
つまり進化のより初期の段階では情報処理能力が相対的に低く
それゆえ頻度の低い情報に関しては切り捨てて
情報処理の効率を高くすることが
生存への優位性を確保するために重要だった。

そういうコアの上にかぶさる形で進化してきた
高次の精神機能においてそれが錯覚を生み出す原因になっている
と考えるのが妥当だと思っています。

ミュラー・リヤー錯視に関しては
ひょっとしたら、どこかから落ちるときに
とっさに何かつかもうとする場合の、
どういう性質のものをつかもうとするのが
落ちないで済むことにつながる可能性が高くなるのか
ということにつながっているのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
錯覚の発生は
<頻度の低い情報に関しては切り捨てて
情報処理の効率を高くすることが
生存への優位性を確保するために重要だった。>ことによるのですね。

お礼日時:2024/07/13 12:25

「引かない」かどうかは個々の脳次第です。


それはそれてとして、脳は不完全さを嫌うことから矛盾感を嫌うのです。直線の長さが同じであると知っているにも拘らずそれでも長短があるように見えてしまうのは矛盾感の影響によると考えれます
具体的に
<ー< >ー>
<ー< >ー>
上記の上下のペアは左右とも「同じ図形」であることから直線の長さも「同じ」ように見える
<ー< >ー>
>ー> <ー<
上記の上下のペアは左右ともどちらか一方を「180度回転」すれば「同じ図形」であることから直線ノ長さもう「同じ」ように見える
<ー> >ー<
>ー< <ー>
上記の上下のペアは違い図形であることから直線の長さは同じように見えると「矛盾感」があることから「矛盾感」を脳は嫌うので「矛盾感」がないようにするために直線の長さが「違う」ように見えると考えられます
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
<「矛盾感」を脳は嫌うので「矛盾感」がないようにするために>
脳は働くのですね。

お礼日時:2024/07/12 13:02

精神の“理的で正常な反応”という表現は適切では無かったかも。



私は精神的理性を釈尊の四諦八正道に求めています。
善い行いをした時の“良心”は晴れ晴れとしますし、悪いことをした時の良心は滅入って、顔は下を向いてしまいます。
こうした精神の反応は法則的であり、法則的である故にこれを精神的理性と云ってみたのです。

この理的精神は物理のような明確な境界は無く、境界は常にグレーゾーンとなっているようにも思っています。

こうした性質を持った精神的法則を精神の“理的で正常な反応”と云ってみたのですが、あいまいな表現でした。

☆ 頑として長短が消えないのは、精神がそのように認識する性質(精神的理性)を持っているから。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
承知しました。


ただ気になった点は、「善い行いを」なのですね、「正しい行いを」でなく。
(最近、正と善の違いが気になっていますので)

お礼日時:2024/07/12 12:59

追記  


同じ長さに見えるようにするには
ミュラー・リヤー錯視が起きるその誘引が矢印であることから、矢印を無視して直線だけを意識することです
具体的には
上下それぞれの直線の端(矢印と接している点)を左右それぞれの上下に焦点を合わせるようにする
︻  ︻
| |  | |
| ーーー |
| | | |
| ーーー |
| | | |
︼ ︼
と言うようなイメージで
そうすれば矢印は意識しなくなるので矢印に影響される事なく上下の直線の長さが同じに見えるようになります
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございました。
了承しました。

お礼日時:2024/07/11 18:17

前回の質問と合わせて回答します


脳は脳自身が完全であることを望んでいて逆に脳自身が不完全である事を嫌がるのです
ですから脳自身が不完全であることを示唆する事実は脳にとって都合が悪いのです。
遠近によって直線が斜線に見える等が脳にとって都合が割ることです
これに対して脳は補正等してリカバリーしようとするのです。
ですが例えば遠近によって生じるそのような事柄は光の性質によって生じる事からそれを補正しきれないのです。そのような場合に脳はその事柄を知ることによってリカバリーするのです。これはミュラー・リヤー錯視についても「長短があるように見えるが同じ長さ」であることを知ることでリカバリーするのです
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<脳は脳自身が完全であることを望んでいて逆に脳自身が不完全である事を嫌がる>のですね。一旦言い出したら引かないのですね。

お礼日時:2024/07/11 18:16

なぜ、頑固なの?


それは、精神がそのような仕組みになっているから。

物質現象は約束通り(理的)に運動しているのは、科学の発達が証明していますが、精神の運動も約束通りの現象を起こしていると云ってよいでしょう。
釈尊の四諦八正道がそれです。

錯視は、精神の“理的で正常な反応”と思います。

ミュラー・リヤーの矢印の図は、矢の羽が内に向いているか、外に向いているかで、同じ長さの線に長短を感じるわけですが、試しに羽を線と平行に描いてみても、心持ち長短を感じられます。

線側(内側)に物(羽)を置いた(書いた)場合の意識は内側に向き、線の外に物(羽)を置いた(書いた)場合の意識は外側に向くという“約束”めいた反応が、認識の基礎としてあるのだろうと考えました。

ただ、二つを比較するから長短が生じますが、比較しなくても一方は長めに、他方は短めに認識しているはずです。

そしてその精神のあいまいさを物理が修正します。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<錯視は、精神の“理的で正常な反応”>ですね。


とはいえ、私が「二つの線分は同じ長さだよ、とクオリアにしつこく教えても、頑として長短が消えません。理的ではないようですね。

お礼日時:2024/07/11 18:13

ヒトは信じたいものしか信じない。

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この回答へのお礼

そうですか。

お礼日時:2024/07/11 09:15

意味不明。


単にあなたが頑固なだけ。
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2024/07/10 11:59

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