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ブッダは、まるでアブラハム宗教が何度も戦争を繰り返してきたようなあの歴史を透けて見据えていたような立ち位置に居て、あえて神の存在を否定することで戦争の火種を作らないようにしたのでしょうか?

それとも、ブッダ亡き後、少し歯車が違えば阿弥陀信仰と法華経信仰が戦争をしていたかもしれなかったのでしょうか。皆さんのこのような宗教情勢に対する考えや感想をお聞かせください。どうして心の安息を探求する哲学のはずのものがいつだって争いの種火になっているのでしょうね

A 回答 (8件)

それは宗教概念が支配の道具に使われるためでしょう



特定の宗教概念に集うことによって大きなまとまりとなった人間は都市や国家を形成するほどになります その集団の行き道を考えるのは教義によるところとなりますが その教義の解釈を巡ってさらに狭い集団や個人の思惑 または利害が関与して 大きな集団内に派閥や対立構造が生まれます そして自分勝手な解釈や 特別に選ばれたなどと言う僭称によって偽りの権威を用いて 大きな集団の趨勢を意のままに決しようとします

それにより他の大集団と対立したり協和したりとややこしい外交関係を行うのだと思います

結果外から見ればただの利害関係の調節でしかなく それを決するのは力なのですが その力のソフトパワーとして思想が存在するのです ちなみにハードパワーは軍力です

宗教概念が支配の道具にならないために必要なのは解釈ではなく理解です 信仰ではなくその教えの生まれた理由を知ることだと思います

しかし多くの宗教や哲学の教えは難解な記述を伴っており 民を惑わせてしまいます それは多くの思想や宗教が 人類的トラウマから出発しているためだと思います
心の傷を隠したり擁護するための言い訳として あれやこれやとチグハグなことをするようなもので 本来的に宗教や哲学は迷妄からの出発であるので 解を得ないのです

そうではなく 本来の生きる道は民の健全な精神の中に存在しているのであり それは言葉にすれば簡単な記述で済むものです

例えば 争いは不利益の分かち合いによってこれを回避する

などと言うような表現になると思います
例えば領土と資源を巡って争う時に 争うことによって生じる利益(領土と資源)に目を向けるのではなく 争わないことによって生じる架空の不利益(領土と資源を目算通りに得られないこと)を互いに認めてそれを享受することです

ようするにお互い我慢するのだから相手を恨むなと言うことです

しかしながらそのような忍耐や我慢のない 節操のない集団が人間でもあるので 戦争は絶えないのだと思います 要するに 互いの不幸を耐え忍ぶことが出来ず 幸福を追求するあまり他の犠牲を厭わないことによって この星から恨みの消えることがない

相手の幸福に学び 相手の不幸を耐え忍ぶことができたなら妬みもなくなるのに
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仏教は、修行して、神に近づこう


とするのが基本です。

それに対し、キリスト教は一神教で
布教に熱心にならざるを得ません。

布教しようとするから、争いに
なるわけです。

その違いだと思います。
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仏陀の思想は、現代で云えば、「精神的苦痛からの脱出」を目指す精神医学や心療内科的な位置づけであって、「神」のような曖昧で実証できない思想とは一線を画したものであると思います。



仏陀自身は、「神」に関する論戦を挑まれると、微笑むだけで何も言わなかったとされています。

仏陀にとっての「神」とは、戦争を含むかもしれませんが、「苦」を産み出す源泉である「欲」のひとつだったのかもしれません。

どのような思想も、解脱者である仏陀がお亡くなりになれば、欲にかられた複数の後継者に教団が分裂し、競い合う。それが戦争に発展していくのも自然の摂理ではないかと思います。
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ブッダはブラフマン自体は否定していない。


明晰な分析体系を取る仏教体系のため非常に抽象的なアートマンとは相いれなかったが、結局後世、大乗仏教などでそれらの思想も取り入れてゆくことになる。

ブッダが宗教を確立しようとしていたかは極めて疑わしい。
ブッダが説いたのはいずれも人生修養に属するものである。
「いかに苦を苦と感じなくするか」という明確な目標の元に組み立てられた思想・実践体系である。
後世の仏教は様変わりしてゆくが。

企業だって二世になれば創業者の精神は相当失われてしまう。
人間、たとえ親子でも思想や心情は遺伝しない。
宗教の宗主・弟子も同じである。

>どうして心の安息を探求する哲学のはずのものがいつだって争いの種火になっているのでしょうね
生まれてから今まで一度も我を主張しなかった人間だけが、この問いを発する資格がある。
それ以外の人間は、自分が我を主張したときの心情を振り返ることである。
答えはそこにあり、人から教えられて納得できるものではない。
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> 心の安息を探求する哲学のはずのものがいつだって争いの種火になっている



全人類の完全なる平等を目指す共産主義が最も差別的で貧民の犠牲になりたっていることから考えれば、目指すものと結果は必ずしも一致していないということです。
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現在ある仏教・ユダヤ教(旧約聖書)・儒教(諸子百家)・ギリシャ神話等原始宗教の始まりは、紀元前500年頃に世界同時多発的に発生しました。

この時代を、枢軸時代と呼びます(カール・ヤスパース)。社会学者マックス・ウェーバーもこの時代の重要性に注目しています。この時代とは、人口増加による社会の肥大化と社会制度の成立、それによる民族意識の高まりと、国家概念の確立の時代でもあります。結果的に、戦争に悩まされる不幸な時代の到来の時期でもありました。
この人類未曾有の災厄に対し、人類が対抗してあみ出した手段が宗教と考えられます。つまり、原始宗教は戦争国家の不幸から、人の救済を行った訳です。しかし、時間の経過と共に、宗教の巨大化が進み国家さえも呑み込む時代となります。そして、国家と宗教とは混然一体となり、宗教指導者と国家権力者さえも混合します。結果的に、純粋に金力・権力争奪手段としての制限的戦争から、宗教的信念を含む不純で悲惨な戦争へと変化することとなります。
しかし近代には、この凄惨で残忍で無制限な戦争に制限を設けました。これが、有名な戦争論(クラウゼビッツ著)にある戦争の定義です。この定義とは「 戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」です。この定義の重要な点は、戦争から宗教を取り除いた事にあります。つまり、政治的な目的を達成したならば、戦争は停止しなければならないのであり、思想・信条・宗教による殺害は禁止と言うことです。
しかしながら、現在はこの定義により規制された正常な制限戦争から、再度凄惨な戦争へと退化しつつあります。それは、宗教に代わり哲学(自由民主主義や共産主義)という思想が、国家の中に混入している為に起きています。
そして、この哲学(宗教)の後ろには、旧来からある強欲という金力・権力の争奪者が存在します。つまり、古くは宗教に隠れて金力・権力を毟り取った戦争から、哲学に隠れて金力・権力を強奪する戦争へと変わった訳です。
哲学とは、神と言う言葉を使わない宗教です。
この様に紐解けば、宗教や哲学が単独で戦争を起こしている訳ではありません。古来からある強欲にて金力・権力を強奪したい者が、宗教や哲学を利用して戦争して居るだけなのです。歴史書を読み込めば、宗教や哲学の裏に暗躍する、強欲な者の姿が見えて来るでしょう。
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むしろ、その原因を解いているのですよ。

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人間全ての心が平穏無事で平等なら、宗教は必要ないからです


宗教が必要なのは心が無事ではないから
従って多くの宗教では権力者の迫害を悪くは言いません
迫害は前提条件
でないと、みんなが救いを求めては来ない
心が安息状態でないから宗教が必要なのです
所詮は権力の道具なのが実態
キリスト教徒は、権力者と戦おうと言いましたか?
権力者を倒し、平和で平等な世界を作ろうとしましたか?
他の宗教とは随分戦いましたよね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます! なんというか、「人間に煩悩がある限り、いくら文明が育っても苦しみは消えない」っていうのと同じように、「人間に煩悩がある限り、宗教は無くならない」、つまり人間から煩悩が消えれば宗教は無くなるのかもしれないなとさえ考えさせられました

お礼日時:2024/07/02 11:34

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