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以前フィリピンにいったときに、海際のコテージを借りて泊まったんです。一ヶ月ほどの滞在だったので、そこの大家とも仲良くなったんですが、その大家さんの母親が、「あんたはブディスト(仏教徒)か?」と聞くんです。僕は、「いや、無宗教なんです。」というと、「なに?ナン?ナッシングだと!?」とすごく驚き、お手上げだねって感じのしぐさをして、ため息をつかれたんです。僕は、おいおいどーゆーことだ?信仰ってのわって思ったのですが、どうゆうことなんでしょうか?
みなさんの、信仰にたいするお考えや、ご意見をお待ちしています。宜しくお願いします。

A 回答 (8件)

とても難しい質問ですね。



日本人は一般に「無宗教」といわれていますが、わたしはそう思っていません。
caballeroさんはお正月に初詣に行きますか?
クリスマスはどうしますか?
結婚式は神社、教会、何がいいと思いますか?
自分が死んだときはお寺ですか?

無節操ですが、日本人は宗教的行事が大好きで、それも「宗教」とはあまり意識しない、という特性がありますね。
一種「薄い」んですが、いわゆる「無宗教」という決めつけは違うと思っています。
何故なら、日本人は伝統的に宗教を「儀式」として消化して、その儀式を何か「役に立つ」機能性を重視してきたんですね。
一方で、強烈な信仰を持つことはうさんくさいと思うようになっている。
そんなところが「貿易立国」として成功する原因かもしれません。
薄い感覚しかないけれど、ゼロではない、これが日本人の「宗教」と思います。
さて、キリスト教国もイスラム、ユダヤも、信仰がない人というのは人間じゃない、という感覚を持っています。
caballeroさんが体験されたのもそういうことでしょう。

では、日本人は宗教を持たない「人間じゃない」人間なのか?
実は、古代からの宗教観が薄まってDNAに入っていると思います。
言霊(ことだま)、穢れ(けがれ)、怨霊(おんりょう)ですね。
言霊とは、言葉に神が宿る、という信仰です。
「あんなやつ交通事故で痛い目に遭えばいい」なんて言ったら本当に交通事故にあって、俺があんなこと言ったからかなぁ、というもの。
本当は全く関係ないですよね。でも、日本人は現代でもそんなふうに思考します。
穢れとは、物理的に「きたない」ことではなく、精神的に「きたないと信じる」ことです。
いじめで「おまえきたない」というはまさに「けがれ」ですね。
穢れたら禊ぎ(みそぎ)を受ければ直ります。
汚職議員が選挙で当選すると「みそぎを受けた」といって正々堂々と議員バッジをかざします。
いじめ問題が悲惨なのは、いじめられている子をみそぐ方法が見つからずに、思いあまって自殺して自らを本当にみそいでしまうことです。
怨霊とは「たたり」のことです。
いじめで自殺する子が遺書で相手を「たたり」ますね。

子供の事例を出したのは、家庭や学校で教わった訳でもなく「なんとなく」だからです。なんとなく=DNAですね。

つまり、日本人は非常に薄いけれど古代の信仰を引き継いでいます。
そういう意味で、現代日本の不幸は「神話」を捨ててしまったことです。
民族には個々の神話があり、それを引き継ぐのは重要なことです。
この国では「神話」に政治を持ち込んだため「神話」自体がタブーになってしまいました。

ヨーロッパの「森の妖精」は、キリスト教が布教される前の古い時代の神話が基になっています。
信仰というのは突然できるものではなく、その国の歴史や文化をしょいこんで醸成されるものですね。
フィリピンはスペイン統治時代にキリスト教が入ったと思いますが、征服の歴史と折り混ざって今に続いていると思うと、なかなか奥が深いですね。
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この回答へのお礼

なるほど、DNAですか。しかし、たたりとか、言霊とか、けがれなど、おっしゃる事に共感をもてます。日本人ですね(笑)。
 僕は、初詣になら彼女が晴れ着を着るならいきます!(笑
クリスマスは彼女や家族が喜ぶなら、クリスマスをします!ひとりなら、しません(泣
結婚式は彼女がウェディングドレスを着たいなら、きてもらいます!彼女がどうでもいいというなら、何か二人だけの記念を探したり、つくったりしたいなぁ。
自分が死んだ時はあとのものの好きなようにしてもらいます。なぜなら、僕は、宗教というものは生きている者のためで、死者のためにあるのではないと考えているからです。費用のかかる葬儀などは、家計を圧迫するだけだと考えています(葬儀屋さん、すみません)。あとの者が、ほんとに慰められるなら何でもいいです。使えるなら臓器も好きにしてもらいます。
>子供の事例を出したのは、家庭や学校で教わった訳でもなく「なんとなく」だからです。なんとなく=DNAですね。
 これは難しいですね。なんとなくがすべてDNAかなぁと思ったりもします。小学生程度なら、十二分に文化の影響を受けていると思います。また、例えば、闇を怖がるのは、多くの認識を光のもとでの視覚に頼って成長してきているので、認識しようがないという、生物的な不安だと思います。野生に育つと、むしろ闇で安心すると思います。忍者みたいに、。(笑
 しかし、おっしゃるように、自然に何か宿っているような気(DNA?)もしますよね。「となりのトトロ」にも出てくるような、何かです。
>なかなか奥が深いですね。
 pachikuさんのご意見をきいて、そう思うようになりました。ありがとうございました!

お礼日時:2001/12/22 19:09

まったく個人的な意見ですが


ある留学生と宗教の話で盛り上がったとき
私は「祖先崇拝」なんだ、と説明して納得?してもらいました。

特定の神様ということでなくご先祖様を崇める。

いかがでしょうか?

この回答への補足

hidearexさん、ここに皆様へのお礼をかく事をお許しください。
一応ポイントはつけますが、みなさんの回答はどれもとても等しくさんこうになりました!ありがとうございました!

補足日時:2001/12/23 12:33
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この回答へのお礼

>特定の神様ということでなくご先祖様を崇める。
たしかに、おなじ墓ににはいる云々・・を問題にする方も結構いらっしゃいますよね。先祖があるから今の自分がある!自分の本質を考えた所の論理的思考ですし。結構そういう論理性で留学の方に受け入れられたのかもしれないって思います(いいかげんなこといってすみません)
 しかし、僕は先祖について言われると、「ではおなじ兄弟なのに、なぜ彼と僕は違うのか?先祖が一緒ならおなじはずではないのか?」とか言って、そういうことから、先祖崇拝は決定打にかけます(笑
 しかし、決定打をのらりくらりとかわしていくのも、良いも悪いも日本人の国民性にあるのかもしれないですね。
 ご回答参考になりました!ありがとうございます。

お礼日時:2001/12/23 07:44

多くの日本人の宗教観を英語ではなすことって、難しいですね。

私にもできないなあ。おそらく私でも、面倒臭いから、「仏教徒だ」と言ってしまうだろうと思います。

さて私は以前、似たような質問で答えております。(参考URL参照)

私も基本的にはNo.2のpachikuさんと同じ立場だといえます。基本的に日本人は多神教。日本人にとっての信仰とは、本来の大きな側面である哲学という面をあまり重要視せず、「救いを求める」対象として意識されていると思うのです。

一方多くの外国では、宗教とは哲学的な意味合いを多く持つものであり、もちろん救いを求めるものでもあるのですが、それ以上にその人のアイデンティティーに深く結びついています。だから、「無宗教」と言ってしまうと、
「なんと、あなたには人生哲学が全くなく、自分こそが神と思い込んでいるのですな!?」と受け止められる可能性が、ひじょーーーに高いです。思い上がりと思われてしまうのです。

参考URLで私が述べたように、実は日本人の宗教心って、下手すればどこの外国にも負けないぐらい、強いのではないかと思います(そうでなければ、幼い子をして、「○○ちゃんに触っちゃったー!わあ、○○菌がついた~~!」と言って、触ってうつす「ケガレごっこ」なんて起こりえないでしょうに)。

でも、そろそろ日本人も、もう少し宗教に「哲学」を求めなければいけないのでは?とも思います。謙虚さを持つことが、そもそもの日本の宗教観の、最も高尚とするところでしたから。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=147983
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この回答へのお礼

>「なんと、あなたには人生哲学が全くなく、自分こそが神と思い込んでいるのですな!?」
 こりゃたいへんだ!? 自信の無い国民性で有名なのに・・(笑
参考URLも読ませて頂きましたが、なんとなく分かるような気がします。確かに僕もバリアとかはってましたし、、。(笑
>でも、そろそろ日本人も、もう少し宗教に「哲学」を求めなければいけないのでは?
 宗教以前に哲学自体があまり繁盛していないですよね。フランスなどはマカロネア?とかいうセンター試験で、ずいぶんと難しい哲学課題があたえられるようです。まぁ、他者と共に「なぁなぁ的」に生きる最近の日本人(すべてがそうだとは言いませんが)には、自分を問い詰め、自分で思索する、自分自身を思索する行為は、実感の無い遠い世界の様に思えてしまうのでしょうか。事実、僕が学生だった頃は、哲学的対話のなんとも乏しいというか、そういう友達に困りましたね(泣
 しかも、僕は話するのが好きなので、「うわっ、またcaballeroがきたでっ。」って感じでした(笑 中学時代からそんな傾向がありましたね。
別に哲学をしているからといって、それだけで人間的か?というとそういうことも無いですが、宗教哲学となるといよいよ問題は深くなります。人生を深めるにも、迷い多き僕のような人にはいい手かもしれませんね。
 ご回答大変参考にさせて頂きました!

お礼日時:2001/12/23 07:36

「神は我が心に有り」です。


  「鰯の頭も信心から」? とも言いますね。

「無宗教」ではなく「無宗派」でしょう。
自分を信じて生きてゆけば、それは立派な信仰でしょう。

小生は、親の回向のため?にお寺にお世話になってはいますが、その宗派を信仰している訳ではありません。
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この回答へのお礼

>「神は我が心に有り」です。
 まったく同感です!
>無宗教」ではなく「無宗派」でしょう。
 そうなんです!僕にもっと英語が出来てたら、、。でも説明はたいへんでしょうね。(笑
>自分を信じて生きてゆけば、それは立派な信仰でしょう。
 自分教、ですか?僕は、自分の中にある自分でないものを信じてます!自分の本質というか、。自分を自分としているもの、みたいな、。
>その宗派を信仰している訳ではありません。
宗派というのは一種、社会機構のようなものと考えています。本当に信仰のある人はひとりでも大丈夫なわけで、当然、社会の中でも大丈夫なわけです。(迫害に逢うかもしれませんが、。)
共感するご回答、ありがとうございました!

お礼日時:2001/12/22 20:48

これは、なかなか難しい問題ですよね。


私もイギリスに留学中、とても悩みました。
日本人の留学生は、堂々と「私は無宗教です」と答えている人が多かったようです。イギリスは宗教色がそれほど濃くないので、あまり問題にならなかったようです。

私自身は、自分は仏教徒だと思っています。日本人は正月は神社へ初詣し、結婚式はキリスト教会で挙げ、葬式はお寺で仏教式という感じですよね。でも、父や親戚のお葬式を何度も経験して、葬式だけは宗教を選べない!と思ったのです。いくら無宗教といっても、お葬式を無宗教でやる人はまだ極少数だと思います。

私の母方の親戚は皆、カトリック教徒なので、自分にとって1番身近なのはキリスト教なのですが、でもキリスト教の信者では絶対にないです。なので、自分のお葬式を教会でしてもらうことはありえません。やはり、そのときはお坊さんがやってきて、お経を唱えてくれると思います。

儀式としては、神社でお払いをしてもらったり、教会でお祈りをしたり、いろいろなことをしていますが、やはり私が個人的に思うに、宗教で一番大切なのは、死んだ後どうなるかということではないかと思います。

私はそれほど信仰心にあつい方ではないですが、死んだ後は天国ではなく極楽浄土(仏教徒はここでしょうか?)に行くのではないかなと思っています。無宗教で、死んだ後は無になると考えるのは、少し寂しすぎるような気がするので。死んだ後は、極楽浄土で死んだおばあちゃんや父に会いたいですね。
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この回答へのお礼

こんにちは!ご回答ありがとうございます!
ご回答を読んでいてたいへん興味深かったです。
>やはり私が個人的に思うに、宗教で一番大切なのは、死んだ後どうなるかということではないかと思います。
 僕の姿勢とと反対とも見えますが、実はおなじかもしれません。
僕は、宗教は死者のためでなく、生きているもののためにあると思っています。ですから、そういう意味で、死があるのは生きているものだけです。しかし、「死」に気をとられて、「生」を見失ってしまいがちかなぁって思っています。「死」に直面して人ははじめて生に気付くのかもしれませんが、元気なうちから死に気付くと、それは生において立派な糧になると思います。
>無宗教で、死んだ後は無になると考えるのは、少し寂しすぎるような気がするので。
 そうとも限りませんよ!僕はこの世界は本来「無」だと思っています。しかし何故あるのかというと、無だと「無は無」なわけです。「無いは無い」⇒「ないことはない」的に、つまりそれは⇒「あり」です。
 この考えは、西洋哲学的には「無元論」といえそうです。仏教的には般若心経や維摩経にでてくる「空」、「空観」といったようなものです。「色即是空 空即是色」
この世の色々はすでにしてこれ空(無)で、無はすでにしてこれ色々です。というおしえです。この世界、新しく生まれるものもなければ、また消えるものも無い。これは正しいことを言っているとおもいます。つまり、死んで無になっても、無は無⇒ありということですね。ただし、色の内で、生成されたもの、それら消滅しない事はないとも言っています。つまり、「空」であり「0」であるということです。有、無の根本二元を断つ真理思想です。
>死んだ後は、極楽浄土で死んだおばあちゃんや父に会いたいですね。
 きっとあえるといいですね。僕もたくさん血縁をなくしましたが、彼らの分だけでなく、自分を含め僕の命に関わっているものすべてのために、元気に生きようと思いますっ!
 ありがとうございました!

お礼日時:2001/12/22 19:53

信仰の話では無くて、無神論のことで一言。



無神論=共産主義を指す場合が、あります。
マルクスの言葉の中に、”宗教は麻薬”があります。
もしかして、共産主義者と思われたのではないのですか。
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この回答へのお礼

なるほど、そういうこともあるんですね!たいへん勉強になります!
ありがとうございました!

お礼日時:2001/12/22 19:32

私もまだ大学生だった頃に、こんなことが事がありました。

=D
当時私はキリスト教系の大学へ通っていたんですが、語学研修で1ヶ月ほどシドニーへ行くことになったんです。するとホームステイ先のバーちゃんがしつこく言うんです。

バーちゃん:「おまえはキリスト教の大学へ通ってるんだよね?」
Kunimatsu:「イエース!」
バーちゃん:「じゃ、クリスチャンだよね。グッドボ~イ!」
Kunimatsu:「え…別にクリスチャンじゃないけど。」
バーちゃん:「けど、キリスト教の大学なんだろ?」
Kunimatsu:「イ、イエース!」
バーちゃん:「じゃ、クリスチャンだよね。ベーリグ~!」
Kunimatsu:「いやあの、ノー…」
→最初に戻る(泣)

結局最後には「はい、クリスチャンです…。(T-T」と言ってしまいましたが、これは私だけでなく、一緒に研修に参加したほかの人達も、各々のホームステイ先で熱心に改宗するよう勧められたらしいです。(^-^;

思うに、あちらの人にとっては信仰を明確にしていない事は、『自分が生きる上での信念』を明確にしていないのと同じことなんでしょう。ですから“無神論者”であると明言すると“何を考えているのか分からない奴”と判断されるし、同じ信仰を持つものは同じ信念を持つ“仲間”として好意的に見られるのです。
それが初めて会う人ならば、なおさらのこと信仰の対象を知ることは相手のモノの考え方を知るのに好都合です。 それが「ありません。」とハッキリ言われるのは、「ヘーイ!彼女可愛いねえ。好みのタイプは?」と聞かれて、「別にー」と答えるようなものなんじゃないでしょうか。(^-^;

国際的に見れば、クリスマスにケーキを食べて、年始めに初詣に行き、お盆になると帰省する日本人のように信仰に節操が無い民族はほんとに特異といえます。 信仰の深さにはそれぞれ差はありますが、普通は誰でも「自分はこれ!」といえる信仰を持っていますから。
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この回答へのお礼

楽しいご回答ありがとうございます!
お話を聞いていて笑ってしまいしました。(笑
彼らには、おなじ信徒を増やす事は素晴らしくよい事だと教えられているのですよね。
>、『自分が生きる上での信念』を明確にしていないのと同じことなんでしょう。ですから・・・・・・“仲間”として好意的に見られるのです。
 納得!ってかんじです!そうですよね~。そのおばさん(92歳ですがすごく若い!大家さん(45歳くらい?でも実際は60くらいかもしれません。。)の奥さんかと思ったんです!)
まぁ年齢はともかく、すごく怪訝な顔をしてましたから、。(笑
>・・・・「別にー」と答えるようなものなんじゃないでしょうか。(^-^;
それほどですか、、。しかし納得ですよね。否定しません。だって実際に好きになる人は、タイプとは関係ないような気もします(笑。気持ちにうそはつけません。
>国際的に見れば、・・・・・・・・といえる信仰を持っていますから。
 そうですね。文化慣習と、信仰と、社会規定?(休日とか)ばらばらですもんね。それはそれで味があるんですが、他国の一般的な人にするときつすぎるのかもしれないですね、異国で食べるゲテモノの感じかも、、今も切腹とかするとおもわれてそうだし、(笑
ありがとうございました!

お礼日時:2001/12/22 19:30

外国人といいましても多々おられますので、全部ではないとは思いますが、外国人の大半は宗教というものを日常に取り入れておりますし、どこの宗派に属するかは別問題として信仰する宗教があるのが当然と考えています。



そのようなところで無神論者であるようなことを話しますと、鬼か悪魔でもあるかのような扱いを受けることも珍しくないようです。

私自身は宗教に対し何ら思い入れはありませんが、外国人とそのような話になったりする際には仏教徒である事にしています。

特別な理由や思い入れがない限り仏教徒ということにしておいたほうが良いと思います。有名な宗教ですし(世界三大の一つですね)。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます!
宗教では、例外なく信じる事が問われますが、信仰では、必ずとも特定の宗教がはいるわけではないと思うのです。物神であれ偶像であれ仏であれ、それぞれがなんらかを信じてるんだとおもいます。つまり、信仰には百人いれば、百の信仰がありえると思っています。それに対して宗教では、共通の教えを崇めることで、特定の社会機構が形成されます。そこら辺がどうも宗教対立の原因かなぁと思っています。キリスト教であれば、神に支えられている、つまりひとりでも平気なはずなのに、同じ教えを生きるものどうしあつまり、その社会機構を支えとしてしまっている。なんか矛盾してるなぁっておもいます。
>特別な理由や思い入れがない限り仏教徒ということにしておいたほうが良いと思います。有名な宗教ですし(世界三大の一つですね)。
 これはある意味臨機応変に対応できるので、無宗教であるということは、あるときにはキリスト教を名乗り、あるときには仏教を名乗り、(信者の方、申し訳ないです)方便としてそういうことも可能ですよね。

ご助言たいへん参考になりました!

お礼日時:2001/12/22 18:50

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