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犬養道子がある対談で、次のように語っています。

<日本人は無宗教になっても反宗教にならない。憎むといたって、たかが知れています。ところが一神教、それの裏返しの反宗教が生まれ出るところでは、憎悪といえばそれはもう百パーセントの憎悪ですからね。>

質問は、日本人は無宗教になっても、なぜ、反宗教にならない、のでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

日本人は~」という主語の大きすぎる話は厳密さに欠けることが多いので、話半分で聞かなければならないと思いますが、犬養道子が<日本人は無宗教になっても反宗教にならない。

憎むといたって、たかが知れています。ところが一神教、それの裏返しの反宗教が生まれ出るところでは、憎悪といえばそれはもう百パーセントの憎悪ですからね>と語っているのであれば、犬養道子にとって「宗教」という言葉で喚起されるイメージ、「無宗教」や「反宗教」という語で喚起されるイメージを検討して、彼女の語りの内容を理解すべきでしょう。
彼女はカトリックの信者です。宗教改革、プロテスタント、反宗教改革についてもカトリック信者としての視点からイメージを懐いていて、その上での(無宗教)(反宗教)でしょう。 《裏返しの反宗教》という語りをしているのであれば、そうしたフレームで検討すべきことであって、漢字文字列の(無宗教)(反宗教)で考えても、彼女の語りの理解から外れるでしょう。

> 質問は、日本人は無宗教になっても、なぜ、反宗教にならない、のでしょうか?

彼女の視点に立てば、(宗教という基盤がない状態)では(反宗教は成立しえない)ということに近い発想なのでしょう。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku_2006a_gfk_sueki/
なぜ日本の多くの人が、宗教由来の行動を習慣化しつつ、特定の宗教を意識せずに暮らしているのでしょうか。
ここで、近代日本で政治と宗教がどのような関わりを持って来たのか、歴史を辿ってみましょう。

時は明治の初め、西洋から様々な文化が流入します。
英語における「religion」(当時は主にキリスト教において神と契約を結び救済されるために)個人が信仰を持つという、当時の日本人にとってやや新しい概念も流入してきます。その訳語として、もともと仏典に登場する「宗教」という言葉が当てられ定着していきました。(「宗教」とは、「仏教の真髄を説く法」を表す、仏教でこそ意味をなす用語でした。)
  【宗教=仏の教え=法のようなもの】&【宗教≠各人の信仰】
それまでの日本の一般庶民にとって、宗教の存在は、共同体維持のための制度や習俗などに近いものであったと考えられるでしょう。
一方、時の政府は、列強諸国と肩を並べることができるよう、今まで各藩バラバラだった日本が固く強くひとつになれるような新しい体制を、一生懸命作っている最中です。
明治政府は、天皇を君主とした政治を行う「王政復古」の考え方を重視し、さらに神道を国教とする「祭政一致」(政教分離の反対の体制)を目指します。
明治政府は、神道の対抗勢力になる恐れがあるとして、神道と仏教を切り離す「神仏分離」を押し進めようとします。結果的に、無茶な廃仏の政策は失敗します。欧米諸国からキリスト教の布教を進めたいという要望もあり、大日本帝国憲法には「信教の自由」が明記されることとなりました。
かくして、日本で公的に、個人個人が自由に宗教を選んで信仰を持つことが認められたのです。
  【政府・国際政治レベルで、宗教へのスタンスがくるくると変わる】
  【一般の多くの日本人にとっては、
     "寺や僧が説く教えが宗教"というもの 
    "極楽往生や安穏をえるためになすべき定例行為の教え"=宗教
    "自分の内面や精神の志向性に関わるものを宗教とは考えない" 】
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このような状態だと、①宗教を重視する ②ときと場合に従う ③宗教を無視する(無宗教) に大きく分かれる状態になります。
何しろ、①でやろうにも、宗門は多く、説くところ、決まりも様々です。宗門の違いの他に、あちこちの神社や地蔵がもとめる行為や制約もあるのが実態です。 ②の(ときと場合) ③の(距離を置く無宗教)はありえても、①が不定形で多様では(日蓮宗に反、真宗に反、曹洞に反)となるばかりで (反宗教)というターゲッティングができないです。 
宗教改革が可能だったのは、正統教会が確立し「信仰を強要された生活態度・思考様式」があったからです。 宗教改革があったから、反宗教改革もイメージ形成出来たのです。 革命がなければ反革命も起きえないのです。

犬養さんにとっては、「大多数の日本人は宗教について誤解している。無宗教の人は大勢、ごろごろいる。でも、彼らは反宗教にはなり得ない」というように見えるのでしょう。

https://web.tohoku.ac.jp/modern-japan/wp-content …
爵近代日本と諸宗教の領域
キリシタンと「宗門」
近代的な意味での「宗教」が翻訳語として初めて登場するのは、世情が「御一新」に沸いた頃のことであると考えられる。しかし、この時期には、「宗教」は、religionに与えられた翻訳語のひとつに過ぎなかった。すなわち「宗教」以外には、例えば「宗法」や「宗門」、さらには「法教」や「徳教」といった言葉が用いられたのである 。
近世初期には、多くのキリスト教禁止令が発布され、また人々がキリシタンでないことを仏教寺院が証明する制度として「宗門改」が成立し、「宗門人別改帳」も作成され戸籍的人身把握がなされていった。こうした幕府の法令で、キリスト教は「切支丹宗門」と呼ばれており、このことは、キリスト教が「宗門改」が実施された仏教と同様の範疇において認識されていたことを示している。
「宗門」や「宗旨」といった言葉は、今日においてもなお、曹洞宗・真言宗・浄土真宗など既成の仏教教団を指すためのタームとして用いられるが、近世においては、仏教各宗のみならず、キリスト教を含めた包括的な概念としても機能していた。

宗門の僧や神父が教える「日常的な仏像、マリア像への礼拝や瞑目、唱名、数珠、クロスのような実践」が宗教の重要な要素になってしまうと、実践行為とは別の強い志向性をもつ内面の帰依的なものは、一部の人のものに限定されてしまうのでしょう。 その内面的帰依をも極力重視しようとした社会と、日常の実践を僧も政府も重視した社会とで、宗教のあり方が違う状況になるのは致し方ないです。
創唱宗教というのでは、「信仰告白というか、生き方とか、信条とかに関わる言葉が盛りだくさん」の聖書はあって、カトリックでも神父がこれを読み、説明することが常でした。 仏教でも、原始仏教の頃は、何が説かれたかが重視されました。
しかし、大乗仏教、中国仏教、日本仏教のようになると、ドンドン変わってきて、経典理解などはもう重視されなくなって、意味不明の呪文で充分というようなスタイルになり、寺門は布施・法事・祈願に重点を置きます。 
確かに、法話を重視する寺や僧も多いのですが、大半の参加者は「ありがたいお話を聞けた」という程度の受け止めで流します。朝礼の訓示とか倫社の時間の話し程度の受け止めです。 信仰のようにならない、信仰にはしないというのが、この日本に住む多くの人の態度でしょう。 
こうした社会では、無宗教にはなれても、反宗教にはなりようがないでしょう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
ちゃきちゃきのキリスト教徒である犬養からみたら、日本人は無宗教でしょう。しかし、とうの日本人にとっては、強くは主張できないが、宗教(神道を基底にした)に包まっており、反宗教と主張するほどではない、のでしょうね。

お礼日時:2023/11/06 12:34

神の対象が自分の魂であり祖先を敬う気持ちの中に存在しているから



見た事も無いキリストやアラーを崇める非科学的な人種じゃないって事

そもそもキリストが神なら磔で殺された時点で辻褄が合わんからなw

信仰宗教で私は神だ何て言ってるイカれたペテン師から壺を買う必要も無い、邪魔になるだけだからなw
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。

お礼日時:2023/11/13 09:14

思想と宗教。


こういった事は、
時間制限があります。
時代背景と大意、
常に、期間限定で、
修行の仕方が変化しています。
思想は、理論、理念だけではなく、
行動が伴い、
そして、その結果を出して示す事が、
正しいかどうかという、
唯一の判定法となっています。
本当の正義。
その基準と、証拠(立証)。
理屈では何とでも言えて、
いくらでもごまかせそうですが、
そんな偽りは、
絶対無理なのです。
本当の結果を出した後、
第一段階の理論で、
間違っていた事を、
取り払ったり、修正する作業があって、
これが、本・迹(ほん・じゃく)二つの、
第一と第二段階。
迹(理論)を取り払って、
本地(真実)、
本当の境涯や状況を現し直す。
しっかり学んで、正しく行ずる(実践修行)。
面倒でも、どちらも省く事はできません。
宗教と無宗教という変化ではないのです。
時間を超過した宗教と修行は、
その後、行っていてはいけないという、
絶対のルールがあるからなのです。
戒律とは異なっていても、
何故なのかは、
きっと誰でもわかると思います。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2023/11/09 18:09

> とうの日本人にとっては、強くは主張できないが、宗教(神道を基底にした)に包まっており、反宗教と主張するほどではない、のでしょうね。



「宗教(神道を基底にした)に包まっており」とは、どのような状況をさす表現なのか、意味が判然としないこと夥しいです。

「宗教(神道を基底にした)に包まっており」「宗教(イスラムを基底にした)に包まっており」「宗教(英国教会を基底にした)に包まっており」「宗教(呪術を基底にした)に包まっており」「多様な宗教に包まっており」

 宗教に包まっており ⇔ 宗教に包まっておらず

どのようなことを指し示すものとして、その表現を使っているのですか。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/11/07 08:39

共産党や新左翼といった歴史ある反宗教組織が存在して、反宗教の人たちはそちらへ組み込まれるので、他の国に比べて目立たなくなっているだけでしょう。



犬養さんは、五・一五事件で家族を亡くされているので、政治に関することは発言したくなかったのでしょう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
反宗教は<共産党や新左翼>に吸収されているのですね。

お礼日時:2023/11/06 18:03

>反宗教については?


➡︎あまり聞かないですね。
また、そういう人は、論理が破綻している気がします。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/11/04 16:45

日本人は無宗教ではありません。



神道という宗教の信者です。
文科省の調査によると、神道の信者は
1億を超えます。

宗教というと、仏教やキリスト教を
彷彿するので、誤解するのです。

神道には教義も経典もありません。
先祖や自然を敬う心を持っていれば
それだけで信者確定です。
だから、信者だ、なんて意識もありません。

そういう宗教なんです。
この神道の司祭が天皇です。




なぜ、反宗教にならない、のでしょうか?
 ↑
神道は、自然発生した宗教です。
キリスト教のように、教祖がいる
創唱宗教とは違います。

宗教というよりも、宗教的風習といった
感じです。

こういう宗教の下地があるから、反宗教には
ならないのです。

又、神道は多神教です。
キリストも仏陀も、数ある神々の一人に
過ぎません。
だから、宗教的に対立する、ということも
少ないのです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
犬養のいう無宗教が正しくはないですね。
<日本人は無宗教ではありません。>ですね。
<神道という宗教の信者です。>ね。

お礼日時:2023/11/04 09:48

「日本人は~」という主語の大きすぎる話は厳密さに欠けることが多いので、話半分で聞かなければならないと思いますが、仮に「日本人は反宗教にならない」というのが本当だとすれば、それはやはり八百万の神を信じる心を持つ人が多いからではないでしょうか。


どんな宗教の神様であれ、自分たちの信仰体系の中に取り込み、1柱の神として拝むことができるという、融通無碍な考え方が、反宗教に至るのを防ぐということではないでしょうか。
決して日本人だけが持つ特性によって「反宗教にならない」ということではなく、教義を持たない神道の性質がそうさせているのだということです。
実際、江戸時代に日本人はキリスト教を激しく迫害しましたから、宗教に対する憎悪を持つ可能性は十分にあると言わざるを得ません。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
日本人は無宗教ではなく、<融通無碍な考え方が、反宗教に至るのを防ぐ>のですね。

お礼日時:2023/11/04 09:53

遙か昔に、神仏習合で宗派を気にしなくてもよくなった、これに尽きるんじゃないかな?


なので、お盆・正月・埋葬、など、多岐に渡り、神仏を同じように信じている。
ある意味、多神教の特徴と言えるかも?

あと、私の考えですが、キリスト教にも様々な宗派があります。
クリスチャンは、神の名前があるが、ある宗派は「父」で、祀っているのは、十字架や十字架に貼り付けられたキリスト像、これって一番しちゃいけない【偶像崇拝】と言える。
キリストは「伝道者」であって、神ではない。
この矛盾をいつ訂正出来るのか?

また、夫以外に肌を見せてはいけない、とされているのにヤリまくりだ。
つまり、その時点で聖書の教えは破られている。
彼らにとっては、神との契約なのにすでに破棄されている。
これは「神への冒涜」と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
反宗教については?

お礼日時:2023/11/04 09:50

日本人は宗教に関する意識が希薄という意味です。

日常的に宗教とは無縁で無関心な人が多いので、宗教に対して憎悪を抱くほどの反宗教にはならない。
そういう理屈でしょう。

日本では旧統一教会があれほど騒がれても、一部のヒトを除いて憎悪して行動を起こす人が多いとは言えない。
これが一神教国で起こったら、速攻で禁止でしょう。

オウム真理教が事件を起こしたとき、日本で捜査が始まる前に、諸外国では布教禁止になった国もありましたし、フランスでは創価学会が過度の集金が問題になって布教禁止になっています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
ご説明は、日本の無宗教と他国のそれとは違う、ということが前提になるのですね。

お礼日時:2023/11/03 15:19

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