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日本人の多くはお盆やお彼岸、クリスマスといった宗教行事に参加します。
このことを背景に日本人は無宗教とはいいつつも、無意識的な信仰心があると言われています。
一方で「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム: 宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い (保坂,新評論,2003)」では次のように述べられています。
「ましてや、一般の人は、自分が宗教に関わっている意識すらありません。お彼岸やお盆で田舎に帰ってお墓参りをする。しかしこれは、昔からの習慣的行事だから、そうするのであって、特に宗教的な信心があってのことではありません。(中略)学園祭のイヴェントにでも参加しているような気持ちです。」

皆さんはこうした宗教行事に参加する際に、形だけの参加なのか、信仰心をもって臨んでいるのか、どちらでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • アニミズムという考え方自体、キリスト教的観点から日本宗教を無理やり形容したものです

      補足日時:2024/03/12 22:07
  • 後一つ恐縮なのですが、アミニズムではなくアニミズム(animism)です。
    ラテン語で霊魂・生命を意味する「anima」からつくられた言葉です。
    英語で動物を意味するアニマル(animal)の語源となっています。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/03/13 12:53
  • 捕捉の「アニミズムという考え方自体、キリスト教的観点から日本宗教を無理やり形容したものです」の書き方が悪くて多くの方に誤解を招いているようで申し訳ないです。
    この補足は、「アニミズムが日本宗教を形容するために生み出された概念だ」という意味ではございません。「ヨーロッパが持っている考え方の一つであるアニミズムを、日本宗教を解釈する際に適用した」という意味です。多くの方がおおしゃる通り、西洋が日本宗教に接触する前にアニミズムという考えは生み出されています。

      補足日時:2024/03/13 19:49

A 回答 (9件)

>もしphjさんは価値がないと思うのであれば、「無駄なことやってんな」と放っておいてやってください。



いえいえ、全然、応援します。質問者様の考え方には賛成ですし、大いにやってみればいいと思います。

ただ「日本人の宗教的バイアス」は理解した方がよいと思いましたので、しつこく回答させていただきました。
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この回答へのお礼

>ただ「日本人の宗教的バイアス」は理解した方がよいと思いましたので、しつこく回答させていただきました。

日本人のあいまいな宗教観については「日本人はなぜ無宗教なのか(阿満)」でも触れられていて十分に理解した(つもりで)この試みをしています。
質問者と回答者という立場をとるとどうしても教師になったかのようなつもりになりがちなので仕方がないことではありますが、回答者という立場から少々越権しているのではないかと思われます。特に「その質問意味あるのか」といった投げかけや、質問自体に対するアドバイス(「バイアスについては理解したほうが良いと思いましたので」)は不要ですよ。
結局phjさんとの会話を通して得られた知見は「phjさんという一人の回答者様はアニミズム的信仰をしている、自覚している」というものだけです。
それこそ私が求めていた知見ではあります。しかし、そのほかの記載についてはこの手の本を多少読んだら必ず目にするようなものばかりですし、実際新しい知識は得られませんでした。これらを加味すると回答という範囲から逸脱していると言わざるを得ないでしょう。

お礼日時:2024/03/14 19:54

#7です。

お礼ありがとうございます。

>私の質問は、繰り返しになりますがアニミズム的な信仰心が現代日本人に備わっているのかということです。

持っています。そして持っていることは質問者様の考えとは別の形の思考実験で証明できると考えています。


>日本人全体というよりむしろ、回答者様それぞれが自身の信仰心に向き合った結果を知りたいのです。

ですから、最初から「信仰心という言葉が一神教的な価値観に毒されているので、質問者様の提示する思考実験は成り立たない」と回答しています。


質問者様の考えていることはよくわかります。しかし「無自覚な人」にいくら「信仰心を試してほしい」と言っても《信仰心の自覚が無い》のですから、そう簡単に気が付くはずがないし、大学の研究でもないようなこのような場所で有益な回答が得られるとも思えない、と考えているのです。

>私の関心は「習俗化した宗教行事は完全に信仰心とは切り離せないのか」というところにあります。

このご質問に答えるには、二つの要素を考える必要があります。それは
・自分の中の信仰心
・他者による「信仰」という言葉の基準
です。

日本人の信仰を考えるうえでこういうエピソードがあります。それは
「ある外国の各国から留学生が集まる学生寮での日本人の行動」についての話です。

その学生寮では世界各国から留学生が集まるため、寮のルールとして「信仰を共有スペースに持ち込んではならない」としていました。
 そうしないと、たとえばイスラム教文化の学生が「台所で豚肉を使うな」という《信仰の押し付け》をしたりしてトラブルになる可能性があったからです。

そこにある日本人学生がやってきます。彼は他界した母親の遺影を持ってきていて、ある申し出をします。それは「朝一番に炊いた共有スペースの炊飯器から、一番最初にご飯を取らせてほしい」ということです。

なぜ?と聞かれて彼は「母親の遺影に炊きたてのご飯をあげたいから」と答えます。彼が言うには「亡くなった母を敬っているので、親孝行できないが、せめて自分も含めて誰も食べてない炊き立てをあげたい」ということでした。

しかし、世界各国の留学生たちは一致して「それは共有スペースに宗教を持ち込まない、というルールに反するから却下」といいます。

しかし日本人である彼は「いや、単に母にご飯をあげたいだけで、宗教とは関係ない」と食い下がるのですが、様々な価値観を持っているはずの他の国の学生たちは一致して「それは宗教的行為」だと答えたのです。

ここで分かるのは、そもそも宗教的行為とはどこの基準で見るべきなのか?という点です。「自分の行為を宗教的行為だと考えていないが、他の文化からみれば明らかに宗教的行為」ということは十分にありえるわけです。

だからなんども「一神教的価値観に日本は毒されている」と回答しています。

逆をいえば、日本人が日本の文化的価値観として「このような行為は習俗であって、信仰とは関係ない」とするなら、そもそも質問者様のご質問を待つまでもなく「それは信仰ではないし、日本人は信仰心を持たない」という結果になります。(ただしそれはそれで矛盾が生じます)

だから《自覚的な信仰心》が無い場合「それが信仰かどうか、個人では判断できない」という問題点を指摘せざるを得ないのです。

たとえば質問者様のいう「お守り?シュレッダーにでもかけてやるよ」という人は《信仰心の発露を嫌ってそう言った》のか
《信仰心そのもの理解がないから問題ないと考えた》のか
《本当に信仰心がないからやってもいいと考えたのか》
は、無自覚な本人には分からない、ということです。

逆に他国の判断基準でいえば「ある特定の行動規範・道徳律は十分に信仰になりえる」ということになります。お守りを持つことも、お盆や正月に帰省することも「心の内からの強制性」を感じるなら《宗教性が強い》ということなのです。

なので、先ほど書いた「他の思考実験」という意味で、この「炊き立てのご飯」の話を検討すると《その日本人留学生は間違いなく信仰心があり、自分が信仰する宗教の戒律に従って行動しているが、全く無自覚である》ということになります。

となると、お盆や正月に「帰りたい」と思うことも「帰りたいけど無理」と罪悪感を持つことも「(無自覚だけど)宗教心の発露」になりますし、神社仏閣に初詣に行くことや、七五三なども「(無自覚だけど)宗教心の発露」です。

再度書きますが日本人がこれらを「信仰ではない」と思ってしまっているのは《信仰とは一神教のような明確に戒律があり行動様式が決まっているもの》だと思い込んでいるからです。

なので、無自覚な人々に「信仰心があるかどうか?」を聞いても有益なものは得られないです。

>日本人全体というよりむしろ、回答者様それぞれが自身の信仰心に向き合った結果を知りたいのです

「信仰心」という言葉の定義があいまいな日本人にそれを聞いても「信仰心、なにそれおいしいの?」ということにしかなりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
日本人が一神教的な宗教、信仰といった概念に染まっているため、たとえ自分自身に問いかけても正確な答えが得られるかが怪しいということですね。

それでも良いのです。信仰心に限らず、アンケートのような主観的なものに厳密な正確さが得られないのは承知の上ですし、そういうものです。
しかしそれでも何名かが自分自身の内面に向き合った結果を残してくださることで何かしらの参考になるのではと思い質問しています。
仰る通りこの質問が一神教的な言葉の定義の浸透により無駄に終わる可能性もあります。しかしやってみる価値が全くないとも思いません。
もしphjさんは価値がないと思うのであれば、「無駄なことやってんな」と放っておいてやってください。

お礼日時:2024/03/14 18:23

#3です。

お礼ありがとうございます。補足も拝見しました。

>アニミズムという考え方自体、キリスト教的観点から日本宗教を無理やり形容したものです

ちょっと違います。アニミズム:animismという言葉を作ったのは19世紀のイギリス人エドワード・バーネット・タイラーですが、彼は特に「日本」を意識してこの言葉を作ったのではありません。

彼は人類学の一環として日本を含む各地の民族や部族の宗教的・文化的研究を行いアニミズムを定義していますし、「霊魂」という概念を「人間の心の中から自然発生するもの」と発表して、キリスト教的(一神教的)な価値観に異議を唱えている部分もあります。

したがって「アニミズム」は日本の宗教を無理やり形容したものでもなければ、キリスト教的観点から見たものでもありません。

>私の言う「信仰心」はおっしゃるようなキリスト教的信仰心だけではなく、民族宗教ならではのアニミズム的な信仰心も含んだ意味で使っています。

上記の指摘は別にして、質問者様がこの定義で日本の宗教を認識しているなら「形だけの参加なのか、信仰心をもって臨んでいるのか」という質問にはならないと思います。

どちらかというと「自分自身がアニミズム的信仰という形態を意識しているか?いないか?」というほうが、質問者様の定義に沿った選択肢でしょう。

この点でいえば「ほとんどの日本人は、自分自身がアニミズム的信仰に沿った行動をしている、とは認識していない」といえます。

なぜなら「ほとんどの日本人が《宗教とは一神教的なものである》と思い込んでいるから」です。

>そういったアニミズム的な信仰心が現代日本人に備わっているのかという質問です。

はい、備わっています。ただしその信仰心を本人が意識できているか?いないか?は全く別問題です。
 実際キリスト教などの宗教においても「自分自身の信仰心に初めて気が付く」というモチーフはたくさんありますので、本人に自覚がないことはそれほど重要ではありません。

個人的な見解からいえば
「戦後日本は、伝統的な宗教を表面的に否定されたため、日本人個々人は《自分達の宗教性を意識できなくなった》し《宗教とは一神教のことである》と誤解しているが、日本人の行動は全く宗教的である」
となります。

>つまり回答者様はトレイの神様を信仰しているということですね

トイレの神様「も」信仰します。同時に日本の八百万の神に敬意をもちますし、なんならエホバ神も仏も敬います。

それが日本的宗教心です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>ちょっと違います。アニミズム:animismという言葉を作ったのは19世紀のイギリス人エドワード・バーネット・タイラーですが、彼は特に「日本」を意識してこの言葉を作ったのではありません。

補足に書きました。私の書き方が悪く誤解を招いて申し訳ございません。


>どちらかというと「自分自身がアニミズム的信仰という形態を意識しているか?いないか?」というほうが、質問者様の定義に沿った選択肢でしょう
>はい、備わっています。ただしその信仰心を本人が意識できているか?いないか?は全く別問題です。

私の質問は、繰り返しになりますがアニミズム的な信仰心が現代日本人に備わっているのかということです。そして、日本人の多くが自分自身の信仰心を認識しているかどうかというのはあまり関心がありません。
私の関心は「習俗化した宗教行事は完全に信仰心とは切り離せないのか」というところにあります。仰る通り多くの日本人はそもそも自分の内面にあるアニミズム的信仰心に向き合っていないでしょう。
そこで、この投稿を読んだ皆様に「なんでわざわざお盆に帰る気になるんだろう?」さらには「お守りを鋏で切ることに抵抗はないかな?」と思考実験を繰り返して自身の信仰心の有無を確かめてもらいたいのです。
中には「お盆に帰るのは家族に言われていやいや行く」「お守り?シュレッダーにでもかけてやるよ」なんて答えになる人もいるでしょう。
日本人全体というよりむしろ、回答者様それぞれが自身の信仰心に向き合った結果を知りたいのです。

お礼日時:2024/03/13 20:07

No.5です。

補足対応

勘違いして覚えていました。
ご指摘、感謝いたします。
ありがとうございます。
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>アニミズムという考え方自体、キリスト教的観点から日本宗教を無理やり形容したものです



いえ、アミニズムは日本固有のものではありません。
人類が出現して以来、あらゆる場所で発生した「自然解釈方法」です。
非力な人類は自然の脅威に怯え惑うしかなかったので、それを「人知を超えた存在のなせる業」と解釈することで、諦め=心の安定を得たのです。

日本にキリスト教が組織的に入ったのは16世紀であり、日本は主に仏教(=多神教)が広まっています。
当時のキリスト教会が仏教をアミニズムと定義したのなら、キリスト教会が仏教について無知だったのです。
多神教=原始的と考える一神教的傲慢さでもあります。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>いえ、アミニズムは日本固有のものではありません。
人類が出現して以来、あらゆる場所で発生した「自然解釈方法」です。

私の書き方が悪かったですね。「アニミズムという考え方自体、キリスト教的観点から日本宗教を無理やり形容したものです」というのは、「アミニズムは日本宗教を解釈するときに発生した概念だ」と言っているのではありません。
私が言っているのは、「西洋側が日本の宗教を解釈する際に、日本宗教をそのままの形で受け止められなかったので、もともとキリスト教にある考え方の一つであるアニミズムを当てはめた」ということです。

お礼日時:2024/03/13 12:46

日本人の多くはお盆やお彼岸、クリスマスといった宗教行事に参加します。


このことを背景に日本人は無宗教とはいいつつも、無意識的な信仰心があると言われています。
 ↑
そんなことを背景にしなくても
人間である以上誰にでも
無意識的な信仰心はあるとおもいます。

肉親の遺体を生ゴミとして
扱える民族などいないでしょう。



一方で「日本の自然崇拝、西洋のアニミズム: 宗教と文明/非西洋的な宗教理解への誘い (保坂,新評論,2003)」では次のように述べられています。
「ましてや、一般の人は、自分が宗教に関わっている意識すらありません。お彼岸やお盆で田舎に帰ってお墓参りをする。しかしこれは、昔からの習慣的行事だから、そうするのであって、特に宗教的な信心があってのことではありません。(中略)学園祭のイヴェントにでも参加しているような気持ちです。」
 ↑
日本独自の宗教は神道です。
神道は自然発生したモノで、本来の神道には
教義も経典もありません。
あるのは、自然と先祖崇拝だけで、
信者という意識すら要求されません。

宗教というと、教祖が広めた人工的な
創唱宗教を念頭に置くので、日本の宗教を
奇異に感じるのです。




皆さんはこうした宗教行事に参加する際に、形だけの参加なのか、
信仰心をもって臨んでいるのか、どちらでしょうか。
 ↑
カタチだけです。
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根本的に間違っているのは「信仰心」を一神教的な価値観で判断していることです。



たとえば「信仰心があるなら、戒律に従って〇〇を行う」というようなことを一神教の戒律は要求していますので、それに従うなら「お盆やお彼岸と言っても、別に行かなくてもいいものだな」と《信仰心は無い→信仰心に従ってやらなければならない宗教行事は無い》と考えているわけです。

でもその基準で日本の宗教観念を見ること自体が間違いなのです。
実際、質問者様が提示している本の帯には
《キリスト教文明圏の単一的宗教観を対比軸に自然性原理に基づいた日本特有の統一的宗教性に迫る》
と書かれています。単一宗教観からみれば、確かに「日本人には宗教的な新人は無い」となりますが、それを基準に判断してはいけないのです。

日本人の宗教心、というか「日本の宗教」というのは多神教であり《どこにでも神様がいらっしゃる》というものが基礎になっています。

だから「トイレの神様」もいるし、神社などに入るときは手を洗うなど「清め」をしてから境内にはいるのです。

これは「慣習」ではありません。宗教的行為です。宗教=道徳なら、道徳的行為でもあります。もし日本人が「無宗教」なら「トイレに神様なんかいない」「神社に入るときに清めなんて必要ない」ということになるし、それは結局道徳的なモラルも失うということになります。

日本人は間違いなく「なにかよくわからない人知を超えた存在」を信じていて「悪いことをすると罰が当たる・神様は常に人を見ている」と考えていますから、そういう道徳心・自制心自体が「宗教心」なのです。

>皆さんはこうした宗教行事に参加する際に、形だけの参加なのか、信仰心をもって臨んでいるのか、どちらでしょうか。

上記のような解釈を日本人は忘れています。ほとんどの日本人は「単一宗教的な基準」によって、日本人の宗教心を判断していますので、そうなれば「信仰心をもっている」と答えるのはよほど特殊な人たち、ということになります。

それを意識しない、意識できないような戦後教育なので「無意識の信仰心」になってしまうのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>根本的に間違っているのは「信仰心」を一神教的な価値観で判断していることです。

質問文で信仰心やら宗教といった言葉の定義をしなかった私が悪いのですが、私の言う「信仰心」はおっしゃるようなキリスト教的信仰心だけではなく、民族宗教ならではのアニミズム的な信仰心も含んだ意味で使っています。
そういったアニミズム的な信仰心が現代日本人に備わっているのかという質問です。

>だから「トイレの神様」もいるし、神社などに入るときは手を洗うなど「清め」をしてから境内にはいるのです
つまり回答者様はトレイの神様を信仰しているということですね。ありがとうございます。

お礼日時:2024/03/13 10:47

宗教、信仰ではないです。



お盆の墓参り、葬式、法事なども、仏教徒としてではなく、日本の形式に従っているだけです。
とはいえ、形だけではないです。
亡くなった身内を思い、偲んで行うのであって「心」を込めています。

人類はいわゆる「宗教」発生以前に、アミニズム、祖先崇拝の心情を持っています。
多神教の基礎はアミニズムです。
日本の神道、仏教も、万物に神が宿るという素朴な信仰です。
現代日本の正月や仏事は宗教信仰というより、原始から続く素朴なアミニズム的な心によるものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>宗教、信仰ではないです。
>日本の神道、仏教も、万物に神が宿るという素朴な信仰です。
どちらでしょうか。

お礼日時:2024/03/13 10:48

信仰とは違うでしょうね。


いわゆる神や霊に対する畏敬の念があってのことだと思います。

人間の息を越えた力を持つものへの畏れ、畏まる思い、敬意を持っていることでの行動といえます
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
信仰という言葉の定義を私がしなかったのが悪いのですが、ここでいう信仰とは霊魂や神を信じるということです。
皆さんはアニミズム的に物体に何らかの霊魂といった精神性を見出しているのかどうかという質問です。

お礼日時:2024/03/13 10:50

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