プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

自分は生まれてもの心つかないうちに、創価学会に強制入会されていました。それは両親が創価学会員だったからです。
自分は親離れする年齢になって聖書を読み、創造主は存在するのではないかと思うようになりました。それで自分の意思でキリスト教を信じるようになりました。
ですが教会の牧師の聖書観と自分の聖書観は違っていました。自分は牧師が聖書を商売の道具にしていることに気づきました。その後、自分は牧師等とトラブルを起こし教会から去りました。
聖書によって人々をマインド・コントロールし、商売に利用できることを知り、聖書そのものに問題を感じるようになりました。
イエス・キリストの言葉に「敵を愛し迫害する者の為に祈れ」とあります。敵とは悪魔のことだとも言えます。これは神と悪魔の区別をなくすようにと言っていることでもあります。この言葉に自分は感銘を受けています。
イエス・キリストは尊敬できるのですが、自分はキリスト教会にもどる気にはなりません。今自分は創価学会の人からもどるように誘いを受けてますが、どうしたらいいでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

人間に宗教が必要か?如何か?と言う問題に関して言うなら、必要な人もいるし、必要な時もあるし、或いは必要ではない人もいると思います。



必要ではないとする場合には『その人には悩みや疑問がない人。』という言い方が合っていると思います。人間に、悩みや疑問が生じない場合には宗教が必要ないという意味は、その人は正に生きている人と言う意味があります。

では悩みや疑問がある場合に必要と言う意味は、心の矛盾を、悩みや疑問と感じているからです。では『悩みや疑問が如何して心の矛盾であるのかを書いてみます。』

悩みや疑問を深く追求した場合では、その中に二つの事柄が入っているからです。悩みには相反する二つの考えが争っていると言う意味がありますし、疑問にも相反する意識が絡んでいるからです。

人間は悩みや疑問を苦しみとして受取っているからです。人間が子供時代には悩みや疑問を深い意味で感じない事を、聖書では天国に一番近い存在と書いています。そうして知恵が付いて人間は『天国から追放された』とあります。その意味は心が二つに分かれて相争う事になる、と言う意味です。

つまり心に矛盾を感じている事が悩みや,疑問になっているという意味です。悩みとは『相反する世界が二つ存在していて、そのどちらかの世界を好ましく思っていながら、その好ましくない世界に住まざるを得ないと言う意味です。

そうして感じている疑問とは、相反する事柄(世界)があって、理想とする世界は手に入る筈が無くて、自分の住んでいる世界は、その理想とは反対になっているという意味です。或いは自分は知っている筈なのに、考えてみたら分らなくなった事柄の事です。

具体的な問題として考えた方が分かり易いですので、その疑問を書いてみます。人間は何の為に生きているのだろうか?或いは人生とは何なのだろうか?という疑問です。

或いは生きる事や、死んでゆく事に、知恵が付いたために理解しようとし始めます。是が悩みです、生きる事に疑問を感じているという意味は、その裏に『死の恐怖、或いは生に対する不安』が見え隠れしています。

この人生に対する疑問と言う言い方でも、悩みと言う言い方でもつまるところは同じになってゆきます。『生病老死』を『一切皆苦』と感じた場合に、人間には、或いは魂には救いが必要になってきます。この必要性が宗教文化の発展の後押しをしています。

つまり人生とはなんだろう?、と言う疑問の解消方法です。或いは、死にゆくこの身に救いはないだろうか?と言う疑問に対する答えです。

この問題を解いてその解消方法を説いた人達が、釈迦でありその弟子達、或いはキリスト自身でありその弟子達という言い方になります。

或いは時代が過ぎて、日本では弘法大師や日蓮や或いは道元と言う宗教家達と言う事になります。

宗教が必要な人は、『自分が何者であるのか?』と言う疑問を感じている人達意であり、宗教が必要ではない人達とは『自分が何者であるのか?』と言う疑問を抱かない人達という言い方も可能と思います。


こういう疑問や悩みが生じてくる科学的なデータを載せてみます。ウイキペデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

貴方の場合でも脳梁を切断した場合には、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』を持っています。このデータを裏付ける科学者の動画がありますので、載せてみます。

URL:

この動画から読み取って欲しい事は、左脳に存在する自我意識は、右脳の意識から貰う情報によって全ての判断をしている事です。

更に言うなら、右脳の意識は『命そのものを働かせている意識』と云う事になります。桜の花ならその櫻の種としての情報を全て持っている(花の色から形から咲く時期までも含む全て)と言う意味です。

人間なら『生命として芽生えた瞬間から、細胞分裂をしながら成長して、無事に生まれて来て、その人らしく生きる情報全てを伝えている)意識と云う事になります。

右脳の意識は『仏教的な言い方をするなら仏性』と云う事になります。或いはキリスト教的な言い方をするなら『神』です。

人間の頭の中で言い争う場合では『左脳の意識と右脳の意識が』戦っている事を意味します。この戦いを『心の矛盾や、分裂や、対立』と言っています。

宗教の目的とは『心の矛盾の解消』と云う事になります。相反する意識が戦うという場合の最大のものは、人間の死に対する恐怖と云う事になります。

右脳の意識は、永遠で出来ています。或は宗教で出来ています。左脳の機能は言葉を持つ事によって『有限となっています。』言葉を理解する行為は物事を割り切って行く考え方をするという意味です。そういう意味からも『自我意識には永遠や無限』と言うものを理解する機能が備わってい無い事を意味します。

つまり言葉として理解する機能は、割り切れる事のみの理解しか出来ない事になります。割り切れない事は『無限や永遠、或は矛盾』と云う事になるからです。

人間の悩みは究極的に『有限』VS『永遠』と云う事になります。この構図がそのまま、脳の機能からの悩みや、疑問になっています。

此処に宗教の存在価値が在ることになります。

その究極的な人生に対する『救い』が仏教においては、自分の性を見る事=見性と言う現象を生み出す事になります。『内なる永遠の存在に気が付く事によって、生死の問題が解決する』と言う現象です。

キリスト教においては『神と和解する事、そうして神の僕となる』そういう生き方です。

この二つの表現方法は違って見えますが、心的な内容は同じです。

心の矛盾が解消した事によって、二つの心は『相争う事がなくなる』と言う意味です。心的な表現をするなら『心に静けさが戻ってくる』と言う意味です。

そうして自我意識は『内的な存在=右脳の意識』の後から従うと言う意味です。

自らの『命そのものの働き』に従って生きる事によって、死を迎えた場合でも『肉体的な生死』には意味がない事を実感として知っている事によって『笑いながら、喜んで死を迎える事』になります。

或は肉体から解き放たれる事に、喜びさえ感じる事を意味します。この実感を『悟りの功徳』と呼んでも良いと感じます。

苦しみの果てに、大いなる安楽があります。それが『魂の救い』です。人間の頭の半分は『宗教』で出来ています。この事が分るまで、宗教家に近い人には『苦難の道が待っています。』
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/13 20:14

おそらく宗教や信仰等に対しては、一般的には明確な依拠するための根拠がないままやっていることが多いかと思われますが、それはたとえば、親がやっているからとか、流行っているからとか、何となく成り行きでとか、いろいろあるかと思われますが、結局は漠然としていて取りとめも無くやっているのが実状かと思われます。



しかしながら宗教とは本来、我々にある基本的というか、根幹となる重要なもの、つまり、人間として絶対に知っておくべき貴重な情報を教えようとしているのですが、それは誰もがその自身の内にすばらしい特性を持っていて、それを発揮させることによって、あらゆる所願は満足し、あるいは、いかなる困難をも克服していくことが出来るというもので、つまりは、早い話が我々にとって『鬼に金棒』たるべし自身の宝の存在を教えようとしているものなのです。

そして、この自身の宝とも言うべき特性に自ら気付き体現したのが釈迦であり、そのことを他の人々にも知らしめようと始めたのが仏教であり、その真髄が説かれているものが『法華経』なのですが、それは今から2800年程前のことであり、それ以後のユダヤ教やキリスト教、イスラム教はそれぞれが『神』というものを説いて、それに依拠することを人々に強いていますが、これでは自分の幸福を自分以外のものにゆだねることになり、云わば他力本願の御すがり信仰でしかなく、本来、内在する宝に気付くこともなく、結局、自身の宝が発揮されずじまいで宝の持ち腐れとなってしまうことになるのです。

ですから、本来、信仰とは、自らが持つすばらしい宝の存在を覚知して、それを発揮させてその人生に自在に活用するためにあるのであって、決して単なる精神修養とか気休め、あるいは盆、正月の儀式のためのものではないのです。この点さえハッキリと認識できれば、霧中のような漠然としていたものが晴れて、宗教や信仰等に対しての明瞭な視点を持つことができるかと思われます。

つまり、宗教や信仰とは『宝の持ち腐れ』状態の自身の宝を活用できるようにするためのもの、との明確な目的や意志が持てれば、誰だって欲がありますから、せっかく持っているものなら発揮させないともったいないと思って、宗教や信仰に自発能動的になるのではないでしょうか。

ともかく、「何かに幸せにしてもらう」のではなく「自力で幸せになる」ことができる能力を誰もが持っていることを教えることこそが真の宗教の役割かと思われます。それで学会は法華経を宣揚する宗教団体なので、もし自身に内在する宝を発揮させたいと思うのであれば、一度戻ってみて以上の点が果たしてどうなのかを自分の目と耳で検証されればよいかと思われます。

ところで、釈迦が仏と言われるのは、それがサンスクリット語の『ブッダ』から来ていて、その意味は『目覚めた者、覚者』ということであり、それで、釈迦はその本意である法華経を説いて人々にも自らの持つすばらしい特性に目覚めさせようとしたのです。ですから、仏と云うと何か特別なかけ離れた存在のように思っている人も多いかとは思われますが、本来、万人誰もが仏(目覚めた人)になる可能性を秘めていて、法華経を以ってして、自身の宝に目覚めさえすればよいのです。なお、発明王エジソンの言葉に『あらゆるものには輝くダイヤが隠されている。だから磨けば光る』というものがありますが、これは人によっては長年の経験則から秘められた宝の存在を覚知して、仏教に近い考えを持つこともある例かと思われます。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/14 21:48

孤独とは,理性を失った状態である.


理性が備わっていれば,コミュニティやカテゴリの外に居たと
しても,それは孤独ではない.少なくとも理性をもった人は,
あなた以外にも,同じ地上に居るのですから.ましてや神は,
いつもあなたに触れておられるのですから.

神が人に触れているということ.
それは,自律性という形で表れているはずです.
服を着ること,に始まり,安全な場所で寝むること.
そしてものごとを判断すること.目的を為すこと.
これらは神の為せるわざです.

では,神が人から離れてしまった場合には,どうなるのか.
人は自律を失い,服を着ず,眠らず,判断せず,目的がない.
ちょっとはずかしい様子になります.

質問者様が,感銘を受けたとおっしゃる言葉
『しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者
のために祈りなさい。』
ですが,
日本にも同じ意味の言葉がありますね.
『罪を憎んで人を憎まず』

また,次の言葉とも繋がりがありますね.

さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、
みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、
つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、
食事までいっしょにする。」そこでイエスは、彼らにこのような
たとえを話された。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人
がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原
に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょ
うか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、
友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけま
したから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あな
たがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改
めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜
びが天にあるのです。

(ルカの福音書15章1~7節)

この言葉も,日本の伝統的な,仲間意識.ないしは村イズム.に
通じるものがありましょうか.

つまり,ボクが思うには,信仰が必要なのであり,宗教という
カテゴリー分けが不要なのではないでしょうか.
すべての神が,実は形を変えただけの,ひとつの神であるとす
るならば,なおさらでもあります.
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/12 21:32

あなた、よくぞ気づきましたね。



私は宗教というものはどうも好きではありません。
なぜかというと、やはり"商売"にしているからです。

いい教え、人に広めたい教えがあるならば…そういったものは無償でやるべきでしょうに。
間違っても、金銭の道具につかってはいけない。

だいたい、キレイな教えがなぜ私利私欲や汚れの塊="お金"絡みになるのか。
純粋に教えを全うする者であれば、そこは本来あるべき姿や筋というものがわかるはずです。
それに、誇り高きところであるなら勧誘など恥知らずなことはしませんよね。

キリスト教を信じるのはいいと思いますが、会に戻る必要はないかと思います。
いい言葉や教えというのは、独学や検索をすればわかりますからね。

それに、ご自身がやりたくないものをムリしてやる必要もないのです。
ご自身の判断で決めるのが一番だと思います。

今回の場合は、すでに答えが出ていますね。
意思が固まっているのですからあとはもう一息です。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 14:31

>この言葉に自分は感銘を受けています。


広く超越的な愛の心は素晴らしいものだと思いますが
現実はまた違ったものではないでしょうか。
ごく普通の愛は紙一重で憎しみに変わり易い感じがします。
信仰の分かれ目にいらっしゃるのであれば
今一度、愛や慈悲といった心を見つめ直されてはいかがでしょうか。

昔、大石さんという尼さんが、自分の両腕を切り落した相手に
一生感謝の念を忘れなかった、という話がありました。
そうした憎しみを超えた心を尋ねてみるのも良いのではないでしょうか。

キリスト教や創価学会に対しては、すでにご自身が疑問をもっていらっしゃるようですので
結論を急がずに、自分にあった宗教を時間をかけて見つけてください。
最後は良師を求めることになるのでしょうが、その見極めにも時間が必要と思います。
諦めずに求めていけば、いつかはご自身にあった宗教や人に必ず出会えると思います。
ご精進ください。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 03:45

具体的な身の振り方としては、キリスト教になじめなかったようなので


創価学会に戻るのが良いのではないでしょうか。

聖書が好きだけど教会が嫌いってのは、
本から入る日本人によくあるパターンです。
(内村鑑三の無教会主義など)
聖書は聖書で置いておくのが良いかと思います。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 03:46

宗教は心の拠りどころとなるものです。


何を信じても構わないというのが、信教の自由です。
あなたが信じれるものを信じてください。
創価学会が信じれるのであれば、戻るほうが良いでしょう。
キリストを尊敬するというのであれば、神学を学ぶのも良いでしょう。

ただ、聖書を使ってマインド・コントロールすることと、聖書自体についてをイコールで考えていては、どんな宗教であろうと、同じ側面がありますから、同じ落胆を味わうことになります。どんな教義であろうとも、それを利用する人によっては、信仰の対象にも詐欺の道具にもなります。
まず、あなた自身が信念を持つ必要があると思いますよ。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 03:46

1,宗教は国家や社会にとって有益なものです。



どういう有益性か、というと秩序を作り、維持
するために、宗教は有益なのです。

新渡戸稲造の「武士道」にあります。

「お国では宗教教育をしていないと聞きましたが
 ホントですか」
「ホントです」
「おー、それでは子供たちにどうやって道徳を教える
 ことが出来るのでしょう?」

つまり、宗教を利用して、道徳を教え、社会の秩序を
作り保つのです。
現代人なら、神など持ち出さなくても、道徳教育ぐらい
できるだろう、と思うヒトもいるでしょうが、教育よりも
宗教を利用した方が効率的なのです。

中国では、道徳教育が盛んですが、彼らの道徳レベルは
かなり低いです。
それは中国には、そういう宗教が無いからです。

又、人間には天敵が存在しませんから、傲慢になります。
人間を謙虚にする存在として神が必要になります。
後、死に対する恐怖を弱める、などの効用もあります。

2,以上は、社会や国家について必要か、ということです。
個人レベルの話になれば、必要でないヒトも、必要なヒトも
いる、という答えになります。

まして、キリスト教とか創価学会とかは、個人が決めればよい
ことです。
必要だと判断するヒトは入信すればよいでしょう。

キリスト教が尊敬できる、というのですから迷うことは無いでしょう。
教会に通う必要は無いのではないですか。
宗教団体てのは大きくなればなるほど、商売に精を出す
ようになります。

自分で勉強して、信仰を続けていれば良いのではないですか。
そうやって、レベルが上がれば、本物と偽物を見分ける
眼も造られるでしょう。
教会に通うのはそれからで十分でしょう。
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回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 03:47

>宗教は必要か?



人間には宗教が必要かというご質問ですが、イエスキリストを知る者としては、宗教の必要性は全く感じません。教義とかしきたりとか、ましてや宗教行事などには全く興味はございません。

プロテスタントのクリスチャンでモルモン教、エホバの証人、統一教会とは何ら関係はございません。私どもプロテスタントのクリスチャンは聖書で語られているイエスに目を向けます。極論すればイエスにのみ目を向けると述べたほうが良いかもしれません。

聖書は「重要なことは多くない。むしろただひとつのことが重要だ」と述べています。つまりイエス以外重要なものはないと言っても良いかもしれません。従いまして私どもはイエスキリストを知ることが宗教だと思っておりません。しかし部外の方々はキリスト教という宗教だと考えているのも重々承知しております。

つまりキリスト教にまつわる儀式や格言のような教えを宗教と考えておられるのであれば、そのような宗教は必要ないと思います。

しかしながらイエスキリストを知るというのはなにか学問的な理解を得るとか、どなたかを知識と知っているということと、異なります。イエスキリストをキリストが望む程度に知ることになりますと、即座にその瞬間からあなたの内面が変わります。またご自分でも変わったという瞬間がわかります。つまりイエスキリストがこの地上におられた時から、十字架に架かって、彼を殺そうとするものに対して、イエスは十字架の上から次のように述べられました。聖書では以下のように書かれています。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。ルカの福音書23章:33-34

このイエスを知ることにより、人生向きが180度向変わります。すると教えを守ろうとかよいこでいましょう的な束縛から開放され、あるがままの自分が受け入れられていることがわかります。イエスは自分を殺そうとするものも赦し受け入れましたので、真面目なご質問者さんを受け入れるのはたやすいことと思います。

>自分はキリスト教会にもどる気にはなりません。今自分は創価学会の人からもどるように誘いを受けてますが、どうしたらいいでしょうか?

仏教になんら造形がございませんので、お答えできませんが、心の底を静かに見つめていただいて、ご自分が真に欲する生き方はどいう言うものかご検討されてみてはいかがでしょうか。イエスは求めなさい、しからば与えられるであろうと述べられました。祈って求めて見てください。答えてくれるはずです。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 03:48

宗教は必要だからあるのではありません。

自然発生的に存在するだけです。
また宗教は必ずしも神を拝むものだけではありません。
だから社会主義や共産主義でも信仰を持つ人は消えないのです。

ネット内で検索すると
「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象であり・・」宗教学者、岸本英夫
とあります。つまり主義もある意味、宗教と呼べることになります。共産主義に人間生活の究極的意義を見出せば共産主義も立派な宗教です。

また多くの人が宗教に対し、ある程度の依存性、根拠を正さず、妄信的信用を向けていることを考えれば、たいした根拠もなく科学を妄信すればそれはやはり、科学教信者だということができます。

信仰や宗教の発生は、あくまでも自然発生的なものであって、必要は否かで判断できるものではないのです。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます<(_ _)>

お礼日時:2012/02/11 03:49

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