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自分の信じている神こそがほんとうの神であり唯一の神である。

たいていそーゆうふうに洗脳しているよね。
それ聞いた他の宗教の人にしてみれば、「なに、うちの神さまはニセモノだというのか?」ってなるよね。
「本物の神はひとつしかない」、「そして、それは我々の神である」
そう言ったとたんにケンカを売ってることになるよね。
たとえ口に出さなくてもそうゆうことだよね。
なんでそんなアホなことしてるかね?
古今東西、宗教がらみの戦争って多いけど、その原因が一神教にあることはまちがいないよね。
世界から一掃しないといつまでも紛争の絶えることはないよね。

教えて!goo グレード

A 回答 (25件中1~10件)

仏教なのか神道なのか、はたまたその両方なのかは明確な分析不足ではございますが、日本の安土桃山時代に神さまとか仏さまとか、それぞれの何かをたてて、殺し合いが続いていたようです。

一神教に限ったことではないということになります。
 ご質問に関しまして、一つの考え方としてお読みいただけましたらと、記述させていただきました。
 他の思想を完全排除しようとする思想は、他の人にとりましては受け入れ難い思想なのだと思います。その意味で一神教はそういう要素を強く持っていると思います。そしてあなたの一神教に対する思想もまた同じ様な、固定された一神教的な価値思想に感じました。
 飢えて、苦しくて、悲しくて、病もあり、生きるのも難しくて、現実(この世)はあまりにも苦しく厳しい。そこから何とかならないものかと、何とかしてくれるものはないかと求め、思いは湧き上がって対象を求めてきたのではないかと考えております。どうにもならないところから、そんなことを解決できるような強い力を求める。そんな強い力に思いすがる。そんなところから信仰は始まってきたのかもしれないと推測しております。
 勉強不足なのかもしれませんが、今まで知った宗教におきましては、どの宗教におきましても弱く、無力で効果のない信仰はございませんでした。神様にいたしましても、指導者にいたしましても、教義にいたしましても、強い力、優れた能力、崇高な教えが設定されているようです。そう、「信仰対象は偉大だ」ということになっております。弱いもの、役に立たないものは誰も信仰はしないようです。お金の神様の信仰もまた同様のようです。
 このように信仰の対象を問題にされるのとは別に、信仰する人の求めのこころへ向かってみると、また違ったものが見えてくるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

そうだよね。
宗教が心の麻薬といわれるゆえんだよね。
実効的な癒しはなくても、ひょっとしたら助けがあるかもしれない。
そんな、おぼれる者ワラをもつかむ心理につけ込んでいるよね。
誰でも心が折れることはある。
このわしだって何度も挫折を経験した。
生きることの苦しさを身をもって感じたものです。
しかし、一度も宗教に身をまかせることはありませんでした。
宗教の本質を知っているからです。
日本における仏教界の堕落と無節操ぶり。
ゼニを稼ぐことにのみお布施の意味づけをし。
贅沢な生活をすることに仏法を利用し。
おためごかしな説教で人心を取り込めると勘違いし。
ただただ欲望の権化と化したのが僧侶の姿です。
もしそうでないと自信をもって主張できる坊主がいるなら、それは天然記念物並みの希少価値がある。
仏教界だけではない。
知るかぎり、キリスト経を自称するものもやはり同じです。
自我を持たないひ弱な精神の者に甘い言葉をささやいて。
なんとかして信徒として囲い込みをしたい。
自身が身を置く体制内での地位向上のために。
分厚い聖書をかざす者はすべて詐欺師である。
と、言うと言い過ぎに聞こえるかもしれないが現実はほぼそのとおり。
反論があれば聞く。

お礼日時:2016/07/06 22:36

No.23へのあなたのお礼文中の以下の疑問に、先回りしてお答えすることにしましょう。


Q. もし、他の「神」をキリスト教の「神」と同等かそれ以上の存在であると認めるならば、あなたはキリスト教徒であることに固執する理由がないのでは?

A. そうですね。それが、私の回答(特にNo.24)を読んで感じる自然な反応・疑問かもしれませんね。
まあ、私もそんなに真剣に突き詰めて考えてから、洗礼を受けた訳ではないので、以下の回答は多分に後付けの面があると思いますが、一応回答にトライしてみます。

① 私は、カトリック系の幼稚園・小学校を卒業し、親戚にもカトリック信者が多かったので、自然とカトリックの教えに親しみを持ち、高校3年の時に洗礼を受けました。その後は、教会の青年会に所属し、そのグループの結束は強く、今日まで小中高大のクラス会以上に集まりを持っています。

② カトリックは、昔は近寄りがたく、敷居の高い宗教だったようですが、1960年代に開催された第二バチカン公会議以降、社会や他宗教との対話を進めており、すんなり入って行くことが出来ました。

③ カトリックの世界に接することによって、私自身得るものが多く、多くのメリットがあったことは事実です。一方、あなたが指摘されるように、自己矛盾を抱えているのも事実ですが、そうした矛盾を抱えつつも尚、カトリックに留まっている方がメリットが大きいと判断しているのが現状です。
⇒(私の過去回答)クリスチャンの方に伺いたいのですが、http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7163727.html  (回答No. 2)

④ カトリックに留まっている最大の意味は、やはり、カトリックにつながっていることを通して、人間として、神様や他の人間との関係をより良いものとしようとする、モチベーションを刺激しているからだと思います。イエス・キリストは、間違いなく「隣人愛」を社会に普及させ、人々の良心を刺激されました。そうした教義をまっとうに評価し、人間として向上することは、「神や宗教とは何ぞや」等と難しく考える以前に重要なことだと思います。

⑤ 又、カトリック教徒であることによって、私は、宗教全般とつながっている自分を感じます。カトリック信仰と並行して、仏教や神道の世界にも出入りし、宗教にこだわらず多くの宗教書を読み、関心を持ち続けること、学ぶこと、実践することは、私の人生の基本と考えています。
⑥ そこには、「カトリックが最も優越していて、他の宗教や神は一段劣ったもの」などという偏見は一切ないことを断言します。そうした偏見は、再三申し上げている通り、私の最も激しく憎む考え方です。

⑦ 万一、こうした私の考えが間違っており、「おまえはカトリック信徒として失格だ」と言われれば、私は直ちに「棄教」しても結構だという覚悟を持っています。けれども、幸いなことに、教会はこのような私を今の所温存して下さっているようです。

あなたが指摘される通り、確かに「一神教」は、自分の神や宗教を正当化するあまり、他の神や宗教を否定・排除し、多くの軋轢を生んできた歴史は否定できないと思います。

又、多神教なら良いかと言うと、決してそうばかりとは言えず、一神教・多神教を問わず、「宗教的不寛容」と言う面は、どんな宗教にも少なからず存在します。

ただ、日本人の持つ穏やかで緩い「信仰」というものは、人間の先祖や動植物や自然・宇宙の中に偏在する「八百万の神」や先祖や自然に手を合わせ、一体となることを有難く思う、という心情に基づくものであり、仏教もそうした精神風土に合わせ、日本人の心に根付いてきました。
神仏や宗教に対する考え方やアプローチは、キリスト教などの一神教とは全く異なるものであり、私は、そういう東洋的な世界にも、時に(坐禅の機会などを通し)浸り、心の平安を得ています。

「どちらの神仏や宗教が優れているか?」などということは全く無意味な議論であり、私はこれからも両方の世界に足を踏み入れ、学んでいきたいと思っています。
私のひとつの目標は、異なる宗教の人々が同じ空間を共有して、各々が信仰する神仏に祈りを捧げることです。

(私の過去回答をもうひとつ)
宗教者は他の宗教の存在を許せますか?
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8773177.html (回答No.13, 19, 22)
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この回答へのお礼

空想的思い込みの極みだね。

お礼日時:2016/07/30 20:20

私の再回答を待って下さって有難うございました。


あなたは私の書いていることを全く理解せず、自分の都合の良いように勝手に解釈しています!
本当に不愉快です! 「それは違う!」と即答したかったのですが、ずっと旅行中だったので、回答が遅くなりました。

私の回答を、等身大(書かれたまま)に正しく読んで、正しく反応してほしいです! 唯、あなたがこれまで理解できなかったことの原因の半分は、私の文章が長文で、分かりにくかったことにもあると思いますので、その点は反省し、もう一度わかりやすさを心がけて書いてみます。
(唯、長文になることを避けられないことをお許し下さい。⇒長いからと言って、都合のいいところだけ拾って、攻撃することは止めて下さい!)

これまでにも書いたように、
1.私は、偶々縁があってカトリックの洗礼を受けた者ですが、仏教や神道などの他宗教(のイベント)にも足を踏み入れ、カトリックに対してと「同等に」帰依し、そうした信仰態度に対して、何の矛盾も感じていません。
⇒(私の過去回答)複数の宗教を同時に信仰してる人っているのでしょうか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7473548.html (回答No.12, 13, 14)

2.私の信仰の根底には、夫々の「神」(的存在)や「宗教」の間には優劣がなく、夫々の宗教(的伝統)は同等に尊重されるべき、という私の祖母の教えが、「信念」として存在しており、私の信仰の対象は、究極的にそうした各宗教を超えた「神」です。
⇒(私の過去質問)「普通名詞としての神」に祈ること
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html

3.このように、各宗教を水平に捉える考え方を「宗教多元主義」と呼び、キリスト教信者であるジョン・ヒック等により提唱され、キリスト教会の中でも次第に広がりつつあります。
キリスト教の伝統的考えである「教会の他に救いなし」とする「宗教的排他主義」や現在の主流的考えである「宗教的包括主義」もありますが、私の採る考えではありません。
私の信仰の基本は、「他の宗教を認めない宗教のことを認めない」と言うものです。
⇒(参考図書)ジョン・ヒック『宗教多元主義』(2008年 法蔵館)等
この本は、カトリック作家遠藤周作に衝撃を与え、彼の長編小説『深い河』の構想の元になりました。

4.「宗教」とは、あくまで「神」(的存在)に至る手段に過ぎませんが、夫々の宗教には、夫々尊重すべき尊い伝統文化や様式が存在していますので、どこが一番と言うことではなく、同等に尊重されるべきです。
 唯、偶々その人が生まれ落ちた地域や環境の下で、自分に縁のある宗教を一番だと考えるのは自然な成り行きであり、批難は出来ないと思います。問題は、各自が自分の宗教を信じている内はいいのですが、それを他人に押し付けたり、自分の宗教を旗印にして、異なる宗教的伝統を持つ人々のことを侵略したり戦争したりすることです。

5.私の考えがキリスト教の教義に反している、とご心配頂いていますが、上記のような考えを日頃神父様や他の信徒に吐露しても、今の所、その考えが間違っているとは言われずに、許容されています。前にも書きました通り、カトリック教会には第二バチカン公会議以降、他宗教を否定することは誤りだと主張し、どんな考えも包容する度量があります。

6.「一神教」は自分の信じる神だけが正しいと考え、他宗教信徒が信じる神を認めない、というあなたの論法ですが、次のように考え直すことは可能でしょうか?

①仮に「神は一つ」だとしても、その神は諸宗教に共通な「神」であり、単に呼び方が違うのであれば、そこは争点になりませんね。(現に、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の神は同じ神で、呼び方が違うだけです。)⇒問題は、同じ神を崇敬していても、夫々の宗教が異なる宗教的伝統を保持しているため、争いが起きるということです。

②キリスト教・ユダヤ教・イスラム教以外の神仏も、上記の唯一神と実質同一で、違う現れ方だという考えもあると思います。仮に別の神だとしても、どれかだけが真の神であり、他は偽物だと断定する必要もないと思います。夫々が皆正しい(本当の所は「神のみぞ知る」)と鷹揚に許容すればいいではありませんか?⇒「白か黒か」と二者択一の選択を迫る(あなたの論法もそのようですね)のは、正に西欧的・一神教的考えですが、ここは、日本人らしく「多元論」で行きましょうよ。

③一神教だから排他的で、多神教だから寛容・・・という一面的な捉え方には、異論もあります。
⇒Wikipedia「多神教優位論」及び
http://www.jinruiaizenkai.jp/NPO/kolumno/kolumno …
を見て下さい。

④あなたが一神教は排他的だから嫌いと考えるのは別に自由ですが、キリスト教は西欧文化の基盤であり、好き嫌いにかかわらず、世界のことを理解し、西欧人と付き合うには、キリスト教文化の勉強は避けて通れないと思います。同時に、仏教はじめ日本やアジアの文化・伝統を学ぶことも重要と思います。
⇒短絡的な決めつけをする前に、内村鑑三、新渡戸稲造、鈴木大拙、井上洋治、遠藤周作、若松英輔などの本も読んで、もっと勉強してから、私にかかって来て下さい!

最後に、
「人間」を主体に考え、人間以外の動植物や自然や宇宙・天体など全ての「被造物」を神や人間の下に置く一神教に対して、これら全ての被造物も「生きとし生けるもの」として崇敬するアニミズムの考え方は、環境を重んじる日本人の考えに合致し、それはそれで良い考えだと思います。⇒安田喜憲『一神教の闇~アニミズムの復権~』(ちくま新書)参照

最後まで読んで頂き、有難うございました。
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この回答へのお礼

で、あなたの信じる「神」はどこにいるの?
見たことあるの?
仲間で見たことある人いるの?
いろいろ好き勝手に名前つけて呼んでるけど、まずそこんところどう考えてるの?
たぶん、いると信じてるんだろうけど。
その根拠って何なの?

お礼日時:2016/07/30 20:19

前回答から又一週間が過ぎようとしていますね。


ここまでであなたのうっぷんは晴れましたか?
一神教の宗教は危険思想だ、という確証は取れましたか?

これまでの私の回答では、私を主語にして、私が一神教であるキリスト教及び、多神教の面が見られる他の宗教にどのように対応してきたかを中心に述べました。
本当は、私のような特殊な存在ではなく、もっと一神教と多神教の本質に分け入る必要があるのかと思いますが、まだ準備が整わないので、もう一度同じ視点で述べさせてください。

あなたが一神教を嫌いなのは一向に構いません。
私自身、キリスト教徒でありながら、一神教の「優越思考」的な所が大嫌いで、それでも信仰していることに自己矛盾を抱えています。

No.22冒頭で「あなたの思惑に対して挑戦を挑んだ」と書きましたが、これは言い過ぎで、No.21の文章を読み進めれば、私が、あなたや多くの日本人と似通った精神風土を持っていることが容易にわかると思います。

あなたの心の中には、
キリスト教やイスラム教 = 一神教 = 悪
仏教や神道や日本人の先祖/自然崇拝 = 多神教 = まだまし
という単純な図式があるのかもしれませんが、ことはそんなに単純なものではないと思います。
個々の信仰者のレベルでは、決して一枚岩ではない。否、人間の数だけ「宗教」や「信仰」がある、と考えることも出来る。・・・ということに気づいてほしいのです。

No.21へのお礼では、最初の部分だけを引用して反論が書いてありますが、その後の部分には、他の神や宗教に対して寛容な人々のことが書いてあります。これらを読んでどう感じましたか?

①キリスト教など一神教のサイドにも、私みたいに、他宗教に足を踏み入れても何の矛盾を感じない人は一杯います。遠藤周作の『沈黙」や『死海のほとり』等も読んで頂けるとわかると思います。
一方、
②他宗教の聖人でも、宗教を超えて、全ての宗教や神をも抱合した「普遍宗教」の立場を唱えた、ラーマ・クリシュナやヴィヴェーカーナンダ(No.21 6参照)のような存在も忘れてはなりませんし、
③勿論、多神教については、宇宙や山川草木といった大自然や動植物も含めた「生きとし生けるもの」全てを崇拝し、感謝や祈りを捧げる対象とする「アニミズム」の素晴らしさ(No.21 11参照)は肯定して良いと思います。

尚、もし、もう少しこのスレッドをオープンにしておいて頂けるようでしたら、次回の回答で、本当に一神教は危ないのか? どう対応するか、出来るだけ具体的に分け入って参りたいと思います。
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この回答へのお礼

>キリスト教やイスラム教 = 一神教 = 悪

そんなことは言ってません。
善か悪かは人それぞれの判断基準によるものですから普遍的な価値観を求めることは誤りです。
一神教の独善主義に起因する排他性を否定しているのです。

キリスト教徒を自認しているあなたに伺いますが、キリスト教徒にとって他のすべての宗教を自分の神と同等以上だと言えますか?
「同等以上」の意味はお分かりですよね?
自分の心の中に「同等未満」だという見下した偏見はありませんか?
ないのならあなたは敬虔なキリスト教徒ではありません。
キリスト教の教義に反しているからです。
もし、他の「神」をキリスト教の「神」と同等かそれ以上の存在であると認めるならば、あなたはキリスト教徒であることに固執する理由がないのです。

No20の回答であなたは「他の宗教の信者、或いは宗教を信じない人々も、キリスト教の神を通じて、最終的には救われる余地はある(宗教的包括主義)(宗教的包括主義)」という言葉を引用されています。
おそらくはあなた自身もそう考えているのでしょう。

「キリスト教の神を通じて、最終的には救われる余地はある」

驚くほどに思い上がった考えですね。
この言葉に象徴されている「優越思想」こそが一神教の一神教たる所以であります。
たぶん、気づかないのでしょうが。

お礼日時:2016/07/25 22:07

No.20, 21です。


何が何でも一神教を戦争などの原因にしたかった質問者様の思惑に対して、挑戦を挑んだ私の先の回答には、はぐらかされた、或いは、困惑されたのではないかと推察します。

まあ、確かに、私の、「全ての宗教を優劣なく受け入れたい」という考えは、キリスト教徒の中でも「進歩的」(?)な考え方であり、一般的には、やはり一神教である以上は、そうおいそれとは、他の宗教のことを認めるなどとは考えられない、そんなはずがない、もし本当にそうなら、むしろそんな奴はキリスト教の風上にも置けない、いい加減な奴だ、と感じられたかもしれません。

しかし、半世紀近くカトリックの信徒生活を続けてきて感じる信徒仲間の状況を見ても、少なくても私の周囲には、そんなにコチコチに、キリスト教でなければダメだ、と主張している人間は少ないように感じられますし、カトリック教徒である以前に、良き市民、人間であろうとしている、普通のバランスのとれた人が多いように思うのです(身びいきかもしれませんが)。或いは、どなたかが言われたように、日本の場合は、どんな宗教に入っていても、まずそれ以前に「日本教徒」なのかもしれません。(特定の神を戴く「日本教」という宗教があるわけではありませんが、日本人の特性である「和の精神」のような価値観も「神」の代替と考えられ、ある意味、ひとつの宗教と考えられなくもありません。新渡戸稲造の唱えた「武士道」なども同様ですね。以前、私は「初恋教」というのを聞いたことがあります。初恋がうまくいくか否かで、その人の人生が決定するというものです。

一方、翻って、世界の状況を見ると、「貧困」と「格差」、そして、やはり「宗教的不寛容」が、民族間の対立や戦争の原因になっているのは事実です。そしてその「宗教的不寛容」の「宗教」と言えば、やはり、キリスト教やイスラム教と言った一神教が主であることは否めないと思います。どうして、人々の心を浄化すべき宗教が、逆に人々の心の中に争いを起こさせるのか、誠に不可解としか言いようがありません。温和で、逆に言うとそこまで自分の宗教に執拗にこだわらない(こだわれない)日本人(含・日本教徒でもあるキリスト教徒)にとって、理解しようがないことです。

私もこれにはまだ答が出せません。
ただ一つ言えることは、バチカンはじめカトリック内部では、前の回答に書いた通り、確かに着実に他宗教との融和、対話の努力を続けていることです。
欧米の思想家も宗教的不寛容を何とかするために努力してきたと思います。
例えばルソーは『エミール』の中で「宗教論」を展開し、異なった宗教を認めない人々の不寛容に反対した結果、一時この本は発禁処分になりました。
⇒NHK「100分de名著:エミール」http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/55_emile/
イスラムの現状はわかりません。なぜイスラムの一部の原理主義者が、あのようなテロを起こすのか?

なお、No.21に明らかな誤記がありました。
7の後半、遠藤周作の師は井上洋治神父ではなく、吉満義彦など、井上洋治神父は、現在活躍する若松英輔氏の師。
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この回答へのお礼

>バチカンはじめカトリック内部では、前の回答に書いた通り、確かに着実に他宗教との融和、対話の努力を続けていることです。

だから、それがうわべだけの偽善行為なんだって。

>ルソーは『エミール』の中で「宗教論」を展開し、異なった宗教を認めない人々の不寛容に反対した結果、一時この本は発禁処分になりました。

それは今も同じ。

お礼日時:2016/07/19 00:29

No.20です。

よほど「一神教」に恨みがおありのようですね。(笑)

先ず、この問題を考える時、以下のポイントを指摘したいと思います。

1.質問者様の論点の中に、「一神教は排他的」という大前提があるようですが、過去はともかく、今でも全面的にそうでしょうか?

2.問題は、夫々の宗教が一神教か多神教かと言うよりも、他の宗教や神に対して、どう接しているかということではないでしょうか?

私は、キリスト教徒である以前に、以下のような考えを持った普通の日本人であり、その点では、あなたと考え方に大差はないと考えます。

1)どの神仏や宗教を信じるかは、その人が生きた時代、地域、環境によって左右されることであり、どの宗教でなければ救われない、ということはない※1。(前回挙げた「宗教多元主義」の考え方)
※1カトリック内部での支配的な考え方は、現在でも、前回挙げた「宗教的包括主義」であるが、ジョン・ヒックスに代表される「宗教多元主義」の思想も今日有力である。

2)私は、偶々ご縁があったので。カトリックの洗礼を受けているが、前にも書いたように、仏教や神道といった他宗教にも共感し、お寺や神社にも普通に参詣して、そのご本尊やご神体に頭を下げ、坐禅や読経などのイベントに、(儀礼的にではなく)当事者として参加している※2。異なった宗教に足を踏み入れていることについて、別に無節操だとも思わないし、何の矛盾も感じない。
※2他宗教の主催する葬儀・法要や坐禅や読経などのイベントに「儀礼的に」参列するのは自由だが、心から他宗教の神仏に祈ることは推奨されていない。しかし、私は公然とこれに違和感を覚え、一生涯他宗教の神仏に対してでも同等に祈りを捧げたい。

3)自分の宗教を絶対と信じる余り、他宗教を排除する考えに、激しい憤りを感じる。(昔の排他的なままのカトリックだったら、私は今信者になっていない)

私の場合、数年前には、以下のようなこともあった。
法事以外で寺にお経を上げてもらったことありますか?(私の質問)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6969735.html

4)家には、祖父母以前の位牌が収められている仏壇と、父が信徒となったカトリックの祭壇が両方あり、私は、毎朝晩、両方に順繰りに手を合わせる。お墓は、公共の墓地内にあり、墓石の後ろには、祖父母の戒名と父の洗礼名が併記されている。私は、自分の宗教に拘らず、先祖はその人が信じた宗教で祭祀を行うべきと考えており、祖父母は禅寺で、父は教会で「法要」を営んでいる。

5)カルトは別として、おおよそ真っ当な宗教と言うものには、それなりに合理性と存在意義があると考えており、夫々の宗教並びにそれらを信じる人々の信仰を尊重すべきと考えている。
間違っても、他宗教を下に見るとか、自分の信じる宗教を他の人に押し付けるといったことは、人としてやってはいけないと思う。

マザー・テレサは、決してキリスト教が多数を占めていないインドの地で、「死を待つ人々の家」というホスピスを開設して、行き倒れの人々を介護し、彼らの宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった人に対しては、その人の宗教で看取っていた。

6)インドの大聖人、ラーマ・クリシュナ(1836-1886)とその弟子ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)は、全ての宗教を夫々尊重する立場を貫き、私や(前回答に出てきた)祖母の最も尊敬する聖人の一人です。
 ヴィヴェーカーナンダの言葉を抜粋を引用します。
「霊性の世界では世界の人々を統一する唯一の教えなど生まれようがない。・・・人が思考する限り、宗派は増え続ける。ならば大いに増えるべきだ。活動を生み出すには2つ以上の力の衝突が必要である。多様は生命の第一の原理であり、全てが同一というのは静止した死の世界だ。問題となるのは自分だけが正しいと思い込み、他の教えを抹殺しようとすることだ。彼は「相手の教えを壊すな」、「低いと思われる教えは引き上げよ」という。彼によれば宗教の教義上の違いは矛盾ではなく、1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。
真理とは狭量なものではなく、ひたすら広い。それは仏教もキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も全てを含む、彩り豊かな全体としての神の啓示である。」・・・これが彼の「普遍宗教」という考え方です。

7)日本でも、明治以来、多くの知識人や宗教家が、宗教の違いを超えて、「真理」を追究し、「霊性」を磨き、切磋琢磨してきました。そしてその研究の過程で、自分の宗教だけでなく、他の宗教から多くを学びました。『代表的日本人』を書いた内村鑑三、「武士道」を書いた新渡戸稲造、『茶の本』を書いた岡倉天心、『日本的霊性』を書いた鈴木大拙、『善の研究』を書いた西田幾多郎・・・皆そうした知性です。宗教をクロスオーバーして研究する姿勢は、カトリック作家遠藤周作やその師である井上洋治神父、或いは禅宗の高僧に教えを受けた奥村一郎、門脇佳吉両神父らに引き継がれています。

8)私の理想は、「異なった宗教の信者が、一同に会して、(夫々の信じる神仏に対してでよいから)祈りを捧げること」です。夫々の信じる宗教は、そのままお互いに尊重すればよいだけと考えます。
現に、諸宗教が一堂に会して、世界平和等のために祈りを行っている例は複数あります。

9)第二バチカン公会議以降、カトリックは、他宗教や一般社会に対して門戸を広げ、少なくても対話の姿勢を顕著にしています。今では、表立って他宗教を非難したりすることは「してはならないこと」と考えられています。
 欧米人が良く聞いてくる質問」に「あなたの宗教は何ですか?」というのがありますが、「無宗教です」などとあいまいな回答をするからいけないのです。
「仏教徒です」とか「特定の宗教には所属していないが、神を崇敬する気持ちはある」としっかり答えればよいのです。要は、彼らは何も信仰しない人間を信頼できない人間と考えているだけなのですから。別にキリスト教を信じていなくても良いのです。

10)一神教の「絶対神」とは、キリスト教にも、その前身のユダヤ教にも、或いはイスラム教にも共通の神です。あなたは否定されていますが、これは歴史的事実です。キリスト教では、古くは「エホバ」とか「ヤハウェ」或いは「デウス」と呼ばれました。(今は、教会内では単に「主」と呼ばれるのが一般的です。)イスラム教では「アラー」と呼ばれます。しかし、これは単なる呼び方であり、実態は同じです。そればかりか、聖書とコーランには共通の記述も多く、イエスキリストはイスラムでは預言者の一人とされているほどです。

ひょっとすると、太陽神とイメージされる仏教の「大日如来」或いは、神道の「天照皇大神」も、そうした絶対神の他の表現(或いは呼び名)かもしれません。(ブッダの母摩耶夫人は、キリストの母マリアの化身と言う説もあるほどです。)
これで、前回申し上げた通り、確かに神は一つだけれど、そこに至る道(宗教)として色々ある、と私が言った意味がおわかりかと思います。

11)最後に、お待たせしました!
それでもやっぱり「一神教」はやばい。「多神教」的価値観も見直すべき、と言う例を挙げます。
多神教と言うと、宇宙や山川草木といった大自然や動植物も含めた「生きとし生けるもの」全てを崇拝し、感謝や祈りを捧げる対象とする、という「アニミズム」の考えがあります。日本人の先祖崇拝もこれに近いものがあります。
こうしたアニミズムの考えと正反対なのが、まさに一神教の考えであり、絶対神が、大自然や動植物も全て創造されたのだから、こうした大自然や動植物などの「被造物」を拝むことは「偶像崇拝」であり、排除されるべき、という厳しい立場を取っています。しかし、なぜアニミズムがそんなに悪いことなのか、私はじめ多くの日本人には、正直ピンとこないのではないでしょうか?

確かに、キリスト教は、神であるイエス・キリストが救い主として人間社会にお生まれになり、隣人愛の精神を普及させ、「神の前に、全ての人間が平等である」という西欧民主主義の礎になりました。
しかし、一方、人間以外の動植物や大自然に対しては、アニミズムに比べて著しく冷淡であり、神の似姿として作られた人間が、全権を以て自然に対して挑戦し、森林を伐採して都市を作り、公害を巻きちらし、科学振興の名のもとに自然環境を破壊しつくしてきました。
しかし、自然や先祖や動植物に対して崇拝と感謝の気持ちの豊かな日本人は、自然に対する畏敬の念が強く、他者の命に対しての慈悲の心を持ち、現世的秩序を重視する「美と慈悲の文明」の伝統を強く持っており、世界の宗教的バランスからも中立なので、これからの世界秩序構築の中での中和剤になれる存在なのです。
絶対神の名のもとにジハードと称してテロを起こしたりする精神風土になく、自然の猛威である大地震や津波などの天災にもじっと耐え、決して取り乱さない日本人の落ち着きに世界中が感嘆していますが、こうした日本人の態度の根本に、アニミズムや先祖崇拝の心があることはご承知の通りです。
(安田喜憲『一神教の闇ーアニミズムの復権』参照)

私共日本人は、これからも、色んな価値観を、白黒つけずに尊重しながら、アニミズムと先祖崇拝の伝統も大切にしていったらよいと考えます。 

以上、長々とお付き合いいただき、有難うございました。

まだまだ書きたいことはありますが、よろしかったら何でも質問して下さい。答えられる範囲でお答えします。
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この回答へのお礼

>よほど「一神教」に恨みがおありのようですね。

別に恨みはありませんが嫌いですね。

>「一神教は排他的」という大前提があるようですが、過去はともかく、今でも全面的にそうでしょうか

「排他的」の意味が「優越思想」であるとすればまちがいなく一神教は排他的です。
過去も現在もすべて。

>問題は、夫々の宗教が一神教か多神教かと言うよりも、他の宗教や神に対して、どう接しているかということではないでしょうか?

うわべだけは対等の関係であるがのごとくふるまいます。
しかし、自分の信じる神よりも他の宗教の「神」を同等以上と認める一神教はありません。
それは教義の否定につながる自己矛盾だからです。
仲良くしようなと言いながら、大将はオレなと言っているのです。
一神教の教義において他の神を自らの神よりも上位に置くことは決してありません。

お礼日時:2016/07/18 23:58

最後の回答があってから1週間後には、自動的にクローズされることになり、明朝の8時頃がそれに当たりますが、時々その前にフライングで閉じられることがあり、私も長文の回答を用意していたのに、直前でシャットアウトされたことがあるので、文章作成中ですが、ひとまず寄稿します。



私は、17歳でカトリックの洗礼を受けた現在60代の男性ですが、仏教や神道はじめ他の宗教や宗教全般にも深い関心を持っており、坐禅や読経などの経験も沢山あります。

私は、元々一神教だからと言う訳でキリスト教に惹かれた訳ではなく、神様や宗教そのものに憧れ、結果的に、ご縁のあったキリスト教カトリックに所属しただけです。カトリックの信者になったのは、ミッションスクールに通ったことが大きいですが、それ以前に、信仰の厚かった祖母から、「頂点である神様は一つかもしれないが(その意味では「一神教」的な考え)、そこに至る登山口(宗教)は沢山あり、どの宗教も尊重されるべき」という考えを聞かされており、この考えが、現在の私の信仰の基本となっています。いかなるカトリックの教えよりも、私は上記の考えを優先させ、一生涯譲る気持ちはありません。

確かに、キリスト教やイスラム教は一神教の代表とされ、西欧社会の世界制覇のために使われましたし、戦争の理由にもなったのは否定できないと思います。その点に関し、2000年、時の教皇(ローマ法王)ヨハネ・パウロ二世は公に謝罪されています。↓
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/untiku/itan.html

一神教の基本は、おっしゃるように、その宗教でなければ正当ではなく、救われない(宗教的排他主義)というものであり、今でもその考えは堅持されているようですが、少なくても、
1.他の宗教の信者、或いは宗教を信じない人々も、キリスト教の神を通じて、最終的には救われる余地はある(宗教的包括主義)とか
2.いや、キリスト教以外の宗教を通じても救われる余地はある(宗教多元主義)
という考えも近年では台頭しており、カトリックでも、その流れを受けて1960年代に第二バチカン公会議を開催し、一般社会や他宗教との対話を発展させるという基本方針を確認しました。
その後、歴代の教皇が率先して、他宗教との対話や共調を推し進めています。

(次の回答で続きを書きます。)
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この回答へのお礼

>信仰の厚かった祖母から、「頂点である神様は一つかもしれないが(その意味では「一神教」的な考え)、そこに至る登山口(宗教)は沢山あり、どの宗教も尊重されるべき」

たくさんある宗教を踏み台とすることはあっても、最終的な「頂点」はカトリックキリスト教であるとおっしゃられていると理解しましたがまちがいないですか?
昔のように「邪宗」とののしることは勘弁してやるが、「頂点」に立つのは俺たちだから忘れるなよと釘をさしているんですね。
この「頂点」論こそが一神教の一神教たるゆえんです。
おそらくはご自身にも自覚がないままに他宗教をさげすんでいるのですよ。

>他の宗教の信者、或いは宗教を信じない人々も、キリスト教の神を通じて、最終的には救われる余地はある

これなども思い上がりがはなはだしいですね。
「キリスト教の神を通じて」でないと救われないのですか?

>いや、キリスト教以外の宗教を通じても救われる余地はある

じゃ、キリスト教でなくてもいいじゃん。

>いかなるカトリックの教えよりも、私は上記の考えを優先させ、一生涯譲る気持ちはありません。

ではお尋ねする。
あなたはキリスト教が一番すぐれた宗教と考えておられるのかどうか?
おそらくはその信念で信仰しているものと思いますが、その根拠とは?

お礼日時:2016/07/15 23:11

「異なる一神教同士はそれだけでけんかになる。


 究極の拠り所が矛盾してしまうから。

 でもそれを一段大きなスタンスから見るとどうだろう。
 色即是空の色の部分として
 つまり大きな空の異なる現れとして
 それぞれの神が表象されていると解釈できないだろうか?

 そしてその空の部分が大きなスタンスから見た
 統一された神もしくはそれに類する存在
 と見ていいのではないだろうか?

 そのように考えていいとすれば表象として
 それによって争いになるような複数の個々の神が存在するのはなぜか。
 
 それは
 人類の進歩の過程として
 それぞれの自分中心のわがまま合戦から
 多様でいい範囲内の異質な存在を認め合うことの大切さ
 という普遍性に到達するまでの未熟な時期の
 教訓的犠牲という尊いきっかけを生み出してきた存在
 と言っていいのではないだろうか。」

というわけで
少なくとも現代までの経緯としては
複数の一神教が存在してきたことは
歴史の中でそういう普遍的な進歩の流れを引き起こすための必然
という位置づけをするのが妥当なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

それは一神教の幼稚さを認めることになりますね。
そのような教訓的犠牲を経験しなければ愚かさに気づかないとは。
一方で、多神教と呼ばれる考え方もあります。
いろんな「神」が仲良く共存していて、すべてを崇める対象と考えています。
不協和音としての争いはありません。

「神」=「思想の中に存在する空想的思い込み」と定義するなら、
極論すれば人間の数だけ「神」は存在します。
八百万どころじゃないですね。
はじめから「神」はいっぱいあるんだと認識すれば「未熟な時期の教訓的犠牲」は必要ないことが分かります。
これなんかお互いの信仰する「神」で人々が争わないようにとの人類の知恵ではないかと思っています。
どうせ想像上の虚像なんですから。

お礼日時:2016/07/09 10:06

創造主の神ですから、現実を創造した成果は、機械化文明、ライン生産恩恵を受けています。

仏様は、現実を理解する人間ですね。創意工夫で創り出します。現実を理解するから生きていかれるのでしょう。
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この回答へのお礼

何を言っているのか分からん。

お礼日時:2016/07/15 23:14

宗教的に無色な日本人が殺されるのは、理にかなわないですね。

今回のバングラデシュの前には、アルジェリアで日揮の方が犠牲になりました。あの時も、不思議に思いました。

テロリズムの犠牲になっていない国民は、というと、イランとロシア、そして、中国があがるように思います。私が知らないだけかもしれませんが。

中東には、中世以前から、ハッシッシを使って、洗脳を行い、殺し屋を養成する伝統がありました。

そんなことをつらつら考えますと、テロリズムを、テロリズムたらしめているのは、私は、”お金”であるように考えます。宗教は、単なる隠れ蓑になります。

十字軍を行ったキリスト教徒たちも、”神の教えを広めるために”敢行したわけではありませんからね。肝心の、教えを広める対象になる人間を殺してしまったら、お話にならないです。

今回のバングラデシュの事件では、日本が進出するのを面白く思っていない国が、お金の出どころだと思うのが、理屈にかなうように考えます。
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この回答へのお礼

そうゆうことでしょうね。
テロの多くは宗教やイデオロギーを隠れ蓑に使っていることが多いですね。
資金集めや仲間を募るには都合がいいですからね。
「聖書」や「コーラン」に罪はないですね。
「聖書」や「コーラン」を戦争の道具に使うことが問題なんですね。

お礼日時:2016/07/08 12:58

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